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日蓮大聖人・池田大作

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人類の生存と世界宗教  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

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1  池田 時代はいよいよ二十一世紀の開幕を迎えようとしています。二十世紀は戦争と革命の世紀だったと言われますが、新しい世紀がどのような時代になるか――平和と調和の世紀となるか、二十世紀以上に過酷な時代となるか、ということに人類の命運がかかっていると言っても過言ではないでしょう。二十一世紀は、人類史の大きな分岐点になると思われるからです。そこで、この新しい世紀のために宗教は何をなすべきか、どのようにあるべきか、という問題について語りあっていきたいと思います。
 ジュロヴァ 二十世紀には、非人間化、すなわち人間性の抹殺が見られました。こうしたことから、当然のことながら、新たな“世界哲学”を構築しようとの試みが浮上してきました。しかし、最近、「新たな世界秩序」という曖昧さの残るパラメーター(媒介変数)が優勢になっています。一極的世界というモデルを押しつけようとするこのような試みは、新たな地球規模の全体主義的な支配を推し進めるでしょう。
 もう一つ、私が同意できないものは、私たち東欧人を「他者」として客観的にとらえるという、不適切な見解です。たとえば、W・クラウスは「東欧にとって、現実から切り離された理想主義は、西欧のプラグマティズム(実用主義)よりも有害なものである。それは、さまざまな欠陥の上に、さらに、もっとも不備な欠陥を現実化するという試みを選択するのである」(『ヨーロッパの未来兊)としています。
 西欧社会が持つ実際的で現実的なモデルは、新しい社会についての東欧社会の考え方を、つねに満足させるわけではありません。なぜなら、西欧的なモデルは、人間的価値や道徳規範の多くを排除しているからです。そしてさらに、ヒューマニズムが守るべき境界線を、完全に抹消してきたからです。
 西欧キリスト教のベネディクト派と、後にはプロテスタンティズムおよびカルヴィニズムのエートス(倫理)が、市場経済や科学技術の発展を伴う西欧民主主義の基盤となったことには、私も同意いたします。それらは確かに、西欧文明に、非常に貴重な地上の富、快楽や社会的な安寧を生みだしました。しかし他方では、生命が持つ価値や特質を置き去りにし、この文明の幸福にとって必要のない余分なものとしてしまったのです。これらの価値や特質は、ロシア正教会においては、いまだ生き生きと維持されています。
 こうした点を考えると、ローマ・クラブや貴創価学会が行っておられる、来るべき世紀のために何としても「道徳的価値」が持つ威信を保持し、破壊されてしまった人間と自然の“絆”を回復しよう、との尽力を、私は高く評価するとともに、支持するものです。
 言いかえれば、そうした努力は、人間が自然を破壊するのではなく、自然の中で平和裡に生きることをめざすものでしょう。
 しかし、そのためには、「新たな世界秩序」の前提とされている、経済的要請を最優先する考え方は、変更されなければなりません。
2  池田 私はローマ・クラブの創始者であるアウレリオ・ペッチェイ氏とは何回も対談し、対談集も出版いたしました。また、現会長であるホフライトネル氏(=一九九九年当時)とも交流を重ねています。ローマ・クラブの「名誉会員」にもさせていただいていますので、ローマ・クラブの方々の意見はよく理解しているつもりです。
 ローマ・クラブにかぎらず、未来に調和のとれた世界を実現しようとする団体が、共通して道徳・倫理に代表される人間の精神性に力点を置いていることは、正しい態度です。精神性の裏づけのない科学技術、あるいは政治・経済上の行動は、調和よりもむしろ破壊と混乱をもたらすだけだからです。
 人間が他の動物と違って人間である所以は、言うまでもなく“精神を持つ”ところにあります。ゆえに人間の未来を決める鍵も、「人間精神」にあります。精神の領域にこそ、人類の希望と可能性を見いだせるのです。宗教は、人間精神のあり方、倫理性に影響をあたえる力として、重要な役割を持っております。
 ジュロヴァ 今や、科学技術と精神性が並行して進歩・発展をとげるという理想は、夢にすぎないことが分かりました。トインビーは、先生との対談の中で明快に述べています。「科学や技術の累積的進歩に相当するものは、倫理の領域には存在しません」と。
 ノーベル賞受賞者のデニス・テイボーが編さんしたローマ・クラブのレポートの中に、次のような指摘がありました。
 「文明の勝利」をめざすやり方は、従来、人間の意志や欲求という観点からのみ、地上での生活を変えようとしたり、人間と自然の間の“絆”を断ち切ろうとするものであった。しかし、そうしたやり方は、「浪費的な習慣の時代をこえて」人間を導く方法にとってかわられなければならないという指摘です。
 この新しい提案が意味するものは、人類の生存という大目的のもとに、伝統的な諸宗教や信念を統合するような“世界哲学”の誕生、新しい“道徳体系”の発展であります。しかしながら、私の考えでは、これは不可能と言えるほどむずかしいことなのです。
3  池田 今日の世界で“世界哲学”とも言うべき普遍的な精神的・思想的原理を模索する動きが顕著になっていることは、たいへんに重要なことです。というのも、人類が直面する問題として、核や生物、化学兵器をはじめとする大量破壊兵器、自然生態系の破綻、経済のグローバル化が引き起こす貧富格差の拡大、難民や飢饉等、まさに生存にかかわる切実な問題があるからです。その克服のためには、これからの科学技術革新をも支えゆく「精神革命」が要請されております。
 ソ連邦の崩壊と東欧諸国の民主革命を経た今日、イデオロギー対立の時代は過去のものとなりました。経済的には「市場原理」がグローバル化していますが、一方では経済的価値が至上のものとされる風潮が蔓延した結果、精神的な空白を招くことになったのです。
 要するに、エゴイスティックな拝金主義が世界的に広がったために、「どのように生きるべきか」という人生の基準が不明確になってしまったのです。
 言わば「哲学の不在」です。さらに言えば、「精神の死」に向かっている状況と言えるかもしれません。
 そのことは、現代世界のあらゆる領域に、“倫理性の危機”として表れています。日本でも、ここ数年にかぎっても、明るみに出た政治家企業幹部などの腐敗には驚くべきものがあります。彼らは、発覚しなければ何をしてもよいという感覚で私腹を肥やし、また不正を隠蔽し続けたのです。
 一方では、未来を担うべき青少年の状況にもまことに憂うべきものがあります。覚醒剤などの薬物が蔓延し、犯罪も増加しています。その結果、日本では、少年犯罪を抑止しようとして、少年に対する刑罰を重くすべきであるという議論が出ているほどです。「人間として、してはならない」という心のブレーキが、大人にも子どもにもしだいに利かなくなっているのです。
 十九世紀の後半、日本が世界との交流を再開したころ、日本を訪れた欧米人は日本の町がどこも清掃が行き届き、清潔に保たれているのを見て、一様に日本人の勤勉さ、礼儀正しさ、自制心の強さを称賛しています。二十一世紀を迎える今日、物質的豊かさや生活の便利さという点では、百数十年間に目を見はるばかりの発展をとげましたが、人々の倫理的水準ということでは、むしろ低下しているのではないかと思われます。このような傾向は、日本にかぎらず、先進国にも共通に見られるものではないでしょうか。
 ジュロヴァ 人類は今や十字路に立っています。フランスの作家アンドレ・マルローは、伝記的な著作『アンチ・メモワール』の中で、「神は死んだが、悪魔は生きている」と述べています。文化や技術の進歩は、信仰にとってかわることはできませんでした。現在にあって、「倫理の領域」を包含するにふさわしい分野は、いったい何なのでしょうか。
 今こそ、ヨーロッパにおける強制収容所、および第二次世界大戦時の極東の終幕について思い起こすべき時である、と私は思います。第二次世界大戦中、人間はまさに悪魔のために働いたのです。このことは、人類史において最大の精神的危機を引き起こしました。と言うのも、その危機の根本原因は、善いと思われてきたもの、すなわち人類の進歩の成果が、人類を害することに使用されたことだったからです。そこで、理性の正当性の危機までが叫ばれたのです。
 こうした観点からすると、現在の信仰の危機は、人類の全体的な精神的危機の結果であって原因ではありません。今や人類は、さらに大きな全体的な“信仰の危機”という難局に直面していることに気づきました。ただ一つだけのモデルを強いることは、こうした危機的な状況をさらに深刻なものにするだけでしょう。
4  池田 博士はじつに重要な問題を示されました。人間の理性は、科学技術の巨大な発展をもたらしました。しかし、それは人間生命にひそむ悪魔性に対しては無力であることを、第二次世界大戦の歴史は教えています。強制収容所にしても、核兵器にしても、もっとも高度な知性をそなえた人間が、同じ人間に対して、もっとも残虐な行為をなし得るという実例を示したのです。
 その意味で、「新しい倫理」を打ち立てるためには、たんなる道徳や倫理の領域だけでは不十分です。今や私たちは、人間生命にひそむ悪魔性に対抗し、それを克服していくだけの力を持たなければなりません。
 ジュロヴァ ドイツの哲学者シュペングラーと同じく、トインビーは、二十世紀における人類の非人間化について語るなかで、近代文明の没落を予言しました。これとの関係で、キリスト教の道徳・倫理体系をめぐる多くの基本的な問題が、論争の的となってきました。カルタゴの神学者であったテルトゥリアヌスが述べた、「不合理のゆえに我信ず」との信条を復活させることは、現今の状況下では不都合なことでしょう。デカルトの「我思う、故に我在り」との命題が、キリスト教の公理にとってかわった後では、人間精神の本質的な要素としての“信仰”の問題を解決する方法は、以前にも増して複雑なものとなりました。
 現代は、自由な消費によって、何でも自由に手に入り、何でも食べつくすような時代となりました。そうしたなかで、キリスト教は、いっそう攻撃を受けやすくなってきており、あらゆる陣営から問いをつきつけられています。しかし、キリスト教側の回答は、もはやテルトゥリアヌス的な立場からのものではありません。キリスト教およびその道徳体系にかわるものは、いまだ存在していないのです。
 カトリックにはかなり柔軟なところがあり、一九六二年の「第二バチカン公会議」や、教皇ヨハネ・パウロ二世の多くの回勅(世界または一国の全司教にあてた教皇の文書)といった手段で、教義を何度か改革しようとしてきました。一方、東方正教会は、いつものことながら、現在もあまり動きを起こさず攻撃の的になっていますが、むしろ、そうすることが東方正教会の意図かもしれません。
5  池田 キリスト教の歴史において信仰と理性の衝突がきわめて深刻な問題になったことは、博士が指摘されたとおりですね。
 ジュロヴァ プロテスタントの宗教改革の歴史については、すでに述べました。プロテスタントの教義は、神への信仰を否定することなく、カトリックの教義を修正したものです。理性をゆがめるカトリックの試みに対して、果敢に異議を申し立てたのです。プロテスタントの教義は、台頭しつつあるブルジョワジーのための神学を提供しました。この教義は、理性の正当性と信仰の問題をきわめて激烈な形で再提示したのです。
 キリスト教は、「不合理のゆえに我信ず」という基本的前提を受け入れたために、人間の領域である「理性」にはほとんど信を置きませんでした。しかし結局、理性の領域では、宗教の仮面がはぎ取られたのです。人間は長い間、「この世の知恵は神にとっては愚かさである」と信じてきました。神への信仰は人間の感情に訴え、理性には訴えなかったのです。
 理性の人は自問します。神と人間は、なぜ、平等ではないのだろうか。また、私たちがこれまで信じていた神は、はたして本物なのだろうか、と。しかし、理性と情熱の弁証法的な融合、すなわち“理性を伴う信仰”の可能性はないのでしょうか。私たちは、「理性」と「信仰」の対立を解消する道を探求しなければなりません。これこそ、新しい世紀に新しい宗教が解決しようとしている課題なのではないでしょうか。
6  池田 私もまったく同意見です。“理性ある信仰”こそ、世界宗教の必須の条件です。理性と信仰の問題はキリスト教にかぎらず、仏教においても重要な問題と言えます。仏教の説くところによれば、絶対の真理、すなわち“仏の覚り”は、理性の力では完全に把握できるものではありませんが、理性のおよぶ範囲では理性と矛盾せず、合理的に説明できるものとされています。
 日蓮大聖人は、宗教を選択する基準の一つとして、理性の証拠・根拠を挙げています。また、「仏法とは道理である」とも述べています。理性こそ、文化や人種・民族をこえた人類の共通の基盤です。この共通の基盤を重視していかなければ、人間相互の対話も人類全体の調和もあり得ません。宗教者は、信仰の領域に閉じこもるのではなく、その教義をできるかぎり理性的に説明していく「開かれた態度」を持つべきでしょう。私は、日蓮仏法は、博士の言われた“理性ある信仰”の条件を基本的にはそなえているものと考えています。
 ジュロヴァ 私はここで、著名なブルガリアの作家パヴェル・ヴェツィの最後の小説、『てんびん』から引用をしたいと思います。
 「人間がまだ十分に気がついていない致命的な危機が、人間存在の上におおいかぶさっている。その危機が増大するにつれて、理性は生命をまったく無感覚にし、生命の存在をも否定するようになる。そして、この否定が癌となり、それ自体の存在という名のもとに、生命の存在の唯一可能な基盤を破壊するのである」
 先生は、理性と信仰との融和である“理性ある信仰”が、未解決の問いに答えをあたえ、それによって人間のくずれた精神的平衡を回復すると思われますか。
 すべての人は信念を持っていますが、それは必ずしも宗教的な信念というわけではありませんね。私は、自然および自然の最高の創造物である人間を信じています。くわしく言えば、私は人間の理性と信仰、たんなる生存よりも深く広い信仰、もっとも強力な力である「生命そのものへの信仰」を信じているのです。
7  池田 そうです。「生命そのものへの信仰」こそ、肝要です。仏教も、生命そのものを洞察したところに創始された宗教です。
 ジュロヴァ また私は、歴史が持つ記憶を強く信じています。人類が一極的世界に住むのは、これが初めてではありません。歴史の教訓を思い起こせば、「新たな世界秩序」がもたらす一極的システムは、偉大な調和尊厳をめざすヒューマニティーへの旅の途上で、早いうちに、不調和と不十分さを露呈することでしょう。そして、次に、より高い「精神革命」という段階が示されるのです。これは、人類がすでに遂行してきたことであり、また、先生が主張されていることでもありますね。
 池田 そうです。「精神革命」です。そのための「宗教」です。ところで、先ほど博士が取り上げられたブルガリアの作家の視点は、博士の見解とも一致しますね。
 第二次世界大戦の例を挙げるまでもなく、確かに、理性は生命の存在をも否定することがあるのです。ですから、幸福と平和への道を開くためには、理性を強調するだけでは決定的に不十分です。理性の上で善悪の判断をしたとしても、実際の行動は理性がさし示すとおりにはならないことも多いものです。理性的には、悪であることを十分に承知していながら、平然と悪を犯すこともあるのです。仏教では、人間存在の中の“悪”を指摘しています。生命にひそむ悪魔性です。理性の力だけではこの悪に対抗できないと説いています。
 これまでの論議を要約しますと、理性を最高至上のものとする態度も、また理性を否定して信仰の世界に閉じこもる態度も、いずれも人類の未来を開くことはできないということではないでしょうか。
 仏教、なかんずく日蓮仏法がさし示すのは、そのどちらでもない第三の道です。仏法は、第一章で「善悪不二」の法理として考察したように、人間生命の中に「善」と「悪」があることを認識し、「善」を強め、現すことによって、「悪」を克服すること、しかもそれを理論上だけでなく、実際の上に実現することを説いたのです。
 ジュロヴァ 現実に実現するのですね。
 池田 そうです。言葉で説くだけではなく、仕事や家庭といった実際の生活、社会、人生に現すのです。日蓮大聖人は、この現実上の証拠(現証)を、宗教の選択・批判のさいにもっとも重視しました。
 大乗仏教の精髄を説く『法華経』が示すメッセージは、“すべての生命の中に仏性――仏の生命がある”というものです。すべての生命は、本来、他者への慈悲につらぬかれた尊極な存在であるということが『法華経』の生命観、人間観です。『法華経』が示しているのは、博士が言われた「生命そのものへの信仰」ではないかと思うのです。
 ジュロヴァ さらに、宗教を論ずる上では、もっとも重要な側面が見過ごされてはなりませんね。それは、宗教が権力と権威を求める闘争に利用されてしまう危険性です。
 一神教は本来、「権威のための宗教」におちいってしまう可能性を秘めています。しかし、一神教だけでなく、存在するすべての宗教と信仰は、しばしば、暴力を伴うことを歴史が教えているのです。一神教と仏教の究極的な目標であり、もっとも優先されるものは普遍性、すなわち普遍的な覇権ですが、その目標は、布教という考えに導くものであり、いつしか権威の宗教に変わってしまう必要条件をそなえているのです。
8  池田 この点もまた、これからの宗教のあり方を考える上で、まことに重要な指摘です。
 私は、宗教は人間存在の本質に根ざしていると考えています。と言うのは、地球上の生物のなかで、おそらく人間だけが自身が有限の存在であることを自覚しているからです。“有限性への自覚”、とりわけ「死の自覚」こそ人間が他の動物と一線を画する本質であり、そこに人間だけが宗教を持つ理由があると思うのです。
 物質文明の進歩とともに宗教の力は後退してきたかのように見えましたが、精神的危機がいよいよ深まるにつれて、宗教性への動向がふたたび注目される状況が生まれているようです。ソ連解体後のロシアなどの動向を見ても、「宗教復権」への動きは世界的にも顕著になっているようにも思えます。
 ハーバード大学のサミュエル・ハンチントン教授の『文明の衝突』が雄弁に語っているように、宗教を無視して世界の政治も経済も論じられません。問題は、二十一世紀に宗教はどのようなものでなければならないか、ということです。新しい時代においては、宗教も変わっていかなければならないからです。
 現在のところ、遺憾ながら世界の宗教は人類の幸福のためにプラスにだけ働いているとは言えません。むしろ、異なる宗教が人々を分断し、紛争を引き起こす要因になっているケースがしばしば見られます。このような事態は、それぞれの宗教にとっても不本意かつ不幸なことと言わざるを得ません。これからの宗教は、人々を分断するのでなく、人々を結びつける役割を求められるでしょう。
 もちろん、宗教それ自体が、博士の言われる「権力の宗教」に転落するという、過去の歴史において繰り返された誤りは回避されなければなりません。宗教は、権威・権力のもとに人々を奉仕させるのではなく、逆に宗教が人々に奉仕していくべきものなのです。「宗教のために人間がある」のではなく、あくまでも「人間のために宗教がある」のです。
 したがって、平和や人権、地球環境などの人類的課題を克服するためには、諸宗教は教義の相違をこえて、「人間」という共通の次元に立って対話を重ね、協力していくことが必要です。「人間」共通の次元に立つことが、「権威の宗教」へと転落することを回避する道ではないでしょうか。宗教はまさに「人間の意識の進歩」に寄与していかなければならないのです。
9  ジュロヴァ 賛同いたします。すべての宗教のなかでも、とりわけキリスト教が、その二千年の歴史においてもっとも重大な試練に直面していると思われます。この試練は、「際限なく問う可能性」によって、つまり、信徒がいくらでも疑問を持つことが許されたために、さらに、深刻になりました。
 さて、先生は、ハンチントンの『文明の衝突』を紹介されましたが、現在、個々の文明間の闘争が、全世界的な闘争の基本形態となっています。
 それをもっともよく示すのは、旧ソ連とバルカン諸国であります。現在行われている闘争は、さまざまな民族共同体の宗教的境界線を厳密にたどったところに起こっているのです。すなわち、私たちは、伝統宗教の危機と、その逆のプロセスである宗教的ファンダメンタリズム(根本主義)の浸透という現象も目撃しているのです。宗教的ファンダメンタリズムは、本来、人の行うべき正しい道に反しているにもかかわらず、「人道主義的な行動」であると吹聴して、いっそう強められ、支持されます。正義と非暴力という動機づけを無視して、“平和”を押しつけるような行動が行われるのです。
 アルビン・トフラーは、『第三の波』において、次のように述べています。「……西洋文明は、中身を世界中にあけて空になった残飯おけにほかならないことが判明した」と。だいたいにおいて、西欧の民主的自由主義も、これとほとんど同様であることが分かったのです。そして、宗教的ファンダメンタリズムは、西欧文明が普遍的であるという命題に賛同しない人々が、人種的精神的アイデンティティーの生存を求めて起こしている反応なのです。
 旧ソ連のイデオロギーが持っていた基本的な欠点は、プロレタリアートの国際主義がナショナリズムよりも強いものだと仮定したことでした。それと同じことが、“世界哲学”にも起こるということはないでしょうか。私たちが目撃しているように、ナショナリズムは、ロシアやバルカン諸国に対してと同じく、統一ヨーロッパに対しても難題を生みだしているのです。
 歴史的に見れば国の大小や規模は問題になりますが、文化の分野では小国も大国もないと私は考えます。
10  池田 たいへんに共感できる見解です。文化は規模や力の大小で判断されるべきものではありません。その点は宗教においても同様であると私は考えます。すなわち、世界各地の文化が多様であっても、それぞれの存在が尊重されるべきであるのと同様に、宗教も、社会的な害悪をもたらすものでないかぎり、その存在は尊重されていくべきです。
 他者の信仰を尊重しあうという「宗教的寛容」は、人類の共存と平和のために重要な要点となっています。
 深刻な現実世界のなかで、きわめてむずかしい課題でありながら、博士の言われる「人類を道徳的・倫理的に団結させようとする試み」の成功の可能性が高まっているように思われます。このような文脈での“世界哲学”は今や、しだいに具体的な姿を現しつつあるように思われます。すなわち、それぞれの文化、宗教が多様性を発揮し、独自性を保ちながらも、人権と平和の確立、環境との調和、貧困の絶滅という共通の目標に向かって、人類の倫理性、道徳性を高めるために協力しようという見解が、広範な同意を集めつつあるのです。
 したがって今日、諸宗教に対してあたえられている課題は、このような意味での“世界哲学”創出のためにどのように貢献していけるか、ということではないでしょうか。
 創価学会の牧口常三郎初代会長は、人類史を大観して、人間の歴史は軍事的競争から経済的競争へ、そして最後は人道的競争の時代にいたると洞察しました。普遍的な「人道」の前進・向上のためにどれだけ寄与しているか、ということが問われる時代がくると言うのです。
 私は世界の諸宗教も、もはや「人道的競争」の段階に入っていると思います。みずからの教義の世界に閉じこもって、人類が直面している課題に応えようとしない宗教は、人々から支持されなくなるでしょう。また、教義自体にしても、一般の人々に理解できない特殊な表現に終始していたのでは、やはり、人々の共感を得ることはできないでしょう。要するに、教義にしても運動にしても、世界に対して開かれた態度を持てるかどうかということが問われているのです。
11  ジュロヴァ 私は、寛容という言葉を開放性として理解いたします。つまり、さまざまな道徳や倫理が共存し、人類の生存という基盤の上に統合され、たんなる消費モデルをこえるのです。このことは、すべての民族文化が正当性を持つということでもあります。
 ところで、創価学会は、二つの大戦を経験した二十世紀の民衆に課せられた至高の義務は、二十一世紀を人類に至高の価値を置く「生命の世紀」にしていくことである、と宣言しています。こうした主張は、どのようなお考えから出たものなのでしょうか。
 池田 私が二十一世紀を「生命の世紀」とすることを提唱したのは、二十一世紀を、すべての人間が画一化のもたらす差別と迫害から解放されて生命の尊厳性を輝かせる世紀、すべての民族文化が豊かな生命の可能性を多彩に実現していく世紀、また、人間と他の生物、大自然が調和して共存していける世紀にしていかなければならない、との決意によるものです。そうでなければ、人類の生存権自体が崩壊してしまいます。さらに、「理性」と「信仰」ということで言えば、人間存在について、理性や意識を十分に尊重しつつも、この次元をこえて、生命の次元にまで洞察の光を差しこむべきである、という主張も含んでいます。
 時代の潮流は、大局的に見て、まさに「生命の世紀」を志向しているように思われます。創価学会は、日蓮仏法の立場から、「生命の世紀」のために貢献していきたいと考えています。
 ジュロヴァ そうですね。全面的に賛成です。世界はその多様性のゆえに豊かなのです。そして、生命は、それを抑圧し、画一化させようとするいかなる力よりも、つねに強靭なものなのです。

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