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日蓮大聖人・池田大作

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“シルクロード”と文化交流の意義  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

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2  ジュロヴァ ブルガリアの読者のために、その典型的な例を少し示していただければ、分かりやすいと思われますが……。
 池田 あまりにも多すぎるので一つ挙げるのはたいへんですが、あえて取り上げるとすれば、「漢字かな混じり文」という独特の日本語表記法などは端的な例と言えるでしょう。
 漢字は中国から朝鮮半島を経由して日本に伝わりました。中国で誕生したこの文字は、一つ一つの文字が固有の意味を持つ表意文字です。ところが、日本人は表意文字として漢字を用いながら、並行して、自分たちの言語の発音を示す表音文字としても漢字を活用するようになりました。これは漢字本来の用法としては例外的な使用法です。そして、表音文字として用いるようになった漢字の一部を取り出し、あるいは極端に簡略な形につくり変えて、「かな」と呼ばれる表音文字をつくり出したのです。
 千年以上にわたって、日本語の表記は、漢字と漢字から生まれた「かな」が混合しているという日本独自の形で行われています。
 ジュロヴァ 日本人は、漢字という中国文化の成果を取り入れながら、その使用方法については独自の判断を持っていたのですね。他の文化を受け入れつつ、それをもとに独自の文化を築いていくところに日本人のたくましさを感じます。
3  池田 文化交流による文化の創造については、貴国の歴史も日本におとらず見事な実例を残しています。この点について博士のご見解をうかがいたいと思います。
 ジュロヴァ おっしゃるとおり、ブルガリアの文化も貴国と同様に、多様な文化が混合した重層的な文化です。ブルガリアの文化はヨーロッパの十字路で生き残り、日本の文化はアジア大陸の周辺で生き残りました。島国である日本は外国から侵略を受けることは比較的に少なかったのですが、それは日本にとって非常に好都合でした。つまり日本は、外国からの侵略におびやかされることなく、自国の伝統を維持することができたのです。
 一方、ブルガリアはバルカン半島に位置しているため、ヨーロッパとユーラシア大陸の草原地帯を結ぶ「橋」の役割を果たしました。さまざまな民族の移住を通して、多様な文化が融合し、ブルガリアに多彩な文化をもたらしたのです。
 池田 日本の場合、今日では東アジアと欧米の文化が混合していると見ることができますが、ブルガリアの文化について、博士はどのようにとらえておられますか。
 ジュロヴァ ブルガリアの文化はきわめて重層的ですが、だいたいにおいて二つの文化から成り立っています。一つは、私たちの文化の原型、すなわちセム族の民族文化圏と容易に共存したインド・ヨーロッパ文化であり、もう一つはバルカン半島の住民の文化です。これらに加えて、ビザンチン文化も流入しました。
 著名な女流詩人エリザベート・バクリャーナは、ブルガリアを「東洋と西洋の分水嶺」「戦争と大災害の舞台」と名づけ、ブルガリア人の血を「スラブ系的な自己省察という白い原子と、素朴なタタール族の赤い原子との結合」であると表現しました。アジア出身のタタール族を素朴だと述べることが適切かどうかは分かりませんが、この女流詩人はブルガリア国家が建設され、生き延びてきた地域で、諸国民や諸文化が混じりあってきたことを正しく指摘しています。
 ブルガリアの文化が重層的であるために、フォークロアの神話を研究するさいは言うにおよばず、美術のただ一つのモチーフを調べるさいにも、時には、クレタ島のクノッソスのミノス王の迷宮にまで遡ってしまうことがあるほどです。そのために、途方にくれてしまうことさえあります。
 池田 日本が、島国であるという地理的条件のために、貴国に比べて外敵の侵略を受けることが少なかったのは、そのとおりでしょう。たび重なる侵略と戦乱の試練に耐えて、多彩な文化を取り入れながら独自の文化的伝統を築いてきた貴国の生命力には、深い敬意をはらいたいと思います。
 文化と文化の出あいは、第三の新しい文化を生みだします。文化交流による創造の例が、貴国と日本の歴史に見いだせると思うのです。
4  ジュロヴァ 先に私は、ブルガリアがヨーロッパとユーラシアを結ぶ「橋」の役割を果たしたと申しましたが、ここで私は、二つの大陸の交流によって生じた問題について述べたいと思います。
 「ガラスの道」「ぶどう酒の道」としても知られるシルクロードは、民族が移動した道であり、仏教やキリスト教、イスラム教などの宗教が伝播した道でもありました。原ブルガリア人が、アルタイ山脈に近い故郷からササン朝イランを通り、現在のブルガリアの地にいたるまでにたどった道程は、シルクロードに沿ったものでした。
 シルクロードは、中国からアンティオキアにいたるまで、また地中海を横切ってオスティアにいたるまで、延々と延びていました。アラブ民族が出現するまでは、仏教とキリスト教は中央アジアおよび北西イランで共存していて、この二つの文化の交流は中世期を通して活発に行われていました。
 たとえばロシアでは、小説の形をとったブッダの伝記である『バルラームとヨサファトの物語』の写本は約四百冊に達し、ビザンチウム地域外で創作された物語『アレキサンドリア』も同様でした。
 パンチャタントラ、ヒトーパデーシャ、ブッダ伝説、マケドニアのアレキサンダー王の物語などは、ペルシャ、中央アジア、ビザンチウムを経由して、スラブ民族の文学の中へ広まっていきました。パンチャタントラの物語は、古いブルガリア文学の中では『ステファニットとインヒラットの伝説』として知られていました。イランの原典は、『イザヤの夢』などのよく知られた聖書外典の中に、シリアのものは、『イエスの幼年時代』に見いだすことができます。
5  池田 仏教の思想がシルクロードを通して西方世界に伝えられ、その影響がキリスト教にも及んでいることは周知の事実です。仏教経典と『聖書』の間には共通の伝説や譬喩が見られます。
 『法華経』に説かれる「長者窮子の譬え」は『聖書』の「放蕩息子の譬え」ときわめて類似していますし、「井戸の中のサマリア人の女の譬喩」も同様であると言われています。マタイ伝では使徒ペテロが水の上を歩いたと説いていますが、この伝説は仏典から取り入れたものであることを多くの学者が論証しているようです。
 もちろん、仏教がキリスト教の影響を受けたこともあります。『ミリンダ王への問い』は、ギリシャ人のミリンダ王が仏教に帰依したことを説いたものですが、現存する形のものには『聖書』の影響が見られると主張する学者もおります。
 七世紀前半には、シルクロードを経由してキリスト教の一派であるネストリウス派(景教)が中国に伝わり、唐の都には寺院まであったことはよく知られています。日本にキリスト教が伝わったのは公式には十六世紀ですが、その数百年も前に、日本から中国に渡った留学僧などが長安の都でキリスト教にふれていた可能性も否定できません。
 このような事実から、シルクロードを舞台にして東西の文化が活発に興隆し、融合していたことがよく分かります。交通や通信の手段が、現代とは比較にならないほど未発達であった時代においても、他の文化を求める人間の欲求は抑止できませんでした。より優れた文化を探求しようとすることは、人間の基本的欲求であると言えるでしょう。
6  ジュロヴァ 私は、日本を初めて訪問した日に、ラジオで日本民謡を聴きましたが、日本の楽器やメロディーがバルカン半島のものと似ていることに、とても驚きました。ギリシャの音楽かと錯覚してしまったほどです。貴国の音楽には山や海に関するものが多くありますが、そのために似ているように感じたのでしょう。
 池田 そのように指摘する日本の民族音楽研究者たちもおります。
 一九八一年、私が貴国を訪問したさいに、文化委員会のジフコワ議長は、原ブルガリア人のブルガール族は中央アジアのチベットから出ているとの説を紹介されていました。
 そこには、日本―チベット―バルカンを結ぶ一本の糸が見えてくるようにさえ感じられるのです。シルクロードが結んだ糸かも知れませんね。
 ジュロヴァ 私も、ネパール、ブータン、日本とブルガリアの民衆音楽が似ていることに気づいております。
 池田 先生が、民主音楽協会という日本最大の音楽団体の創立者として、シルクロードの民族音楽を日本に広く紹介され、音楽における文化交流の多大な功績を残されたことは、世界的に知られています。これは先生が、世界の人々の心を結ぶ力として文化を重要視されていることを物語るものです。
 池田 シルクロードの音楽芸術の紹介は、非常に大きな反響をもたらしました。
 また、同じ舞台に出演された広いユーラシア大陸の両端の人々が、双方の音楽や舞踊、楽器にふれ、そのつながりを確認し、共通性に驚嘆していたのが印象的でした。
 ジュロヴァ 私は、鎌倉で太鼓の音に合わせて舞う儀式的な舞踏を見て、ギリシャの「ホロ(輪舞)」を思い起こしました。
 また、ブルガリアの「ネスティナルストヴォ(残り火の上で裸足で踊るダンス)」、民族衣装、そしてとくに、音楽と楽器は、タイ、カンボジア、ネパール、ミャンマー(ビルマ)、スリランカ、ベトナムの伝統を彷彿とさせます。
 池田 陸のシルクロードだけではなく、海のシルクロードでのつながりもあるのかもしれませんね。
 ジュロヴァ 私は、貴国にも、情熱にかられた人々が舞う「ホロ」のような舞踏や、それに似たような舞踏があるかどうかは存じません。また、古代東洋のシャーマンの舞踏のような、ブルガリアの火の踊りと似た舞踏があるかどうかも知りません。
 しかし私は、日本にもブルガリアにも、一つの動作だけを強調する舞踏があると考えます。その一つの動作は、単調なリズムの動きと伴奏によって強められ、精神的な高揚に達するために考えだされたのです。
 池田 繰り返しのリズムによって、常態をこえた精神の高揚を図るのは、アジアとヨーロッパだけではなく、アフリカの伝統にも見られます。
 ジュロヴァ このような類似性は古代から見られますが、そこには、人間が行ってきたさまざまな試みがうかがわれます。人間と自然を意味づけたり、支配したり、反対に自然に征服されたり、あるいは、自己にとらわれず世界のあらゆる人々に内在する固有の能力を直視していこうとしたりする試みです。
7  池田 反復のリズムは、人間が宇宙と交感するための鍵となっているのでしょうか。音楽は、人間としての本質に深くかかわり、それを明らかにする手がかりだと感じております。
 ジュロヴァ 過ぎ去った昔の“秘密”を調査し、研究する必要があります。とくに現在、情報もふえ、不可解だと思われてきたものがますます解明されつつあります。
 近年、インド・ヨーロッパ語族の神々について、多くのことが言われたり書かれたりしています。たとえば、スラブの神ペルーン、バルチックの神ペルキンスはヒマラヤ山脈で生まれました。早晩、バルカン半島、インド、スリランカの文化の源がもっと明らかになるでしょう。
 しかし、そのためには、民族大移動のルート、シルクロード沿いに起こった商業的、文化的、精神的交流についてさらに解明することや、東洋の古代の十字路の一つである「カシミール」を調査することが必要です。
 池田 カシミールは、大乗仏教の形成の地でもあります。インド文明と西方の諸文明が出あい、美術、芸術をはじめ、大乗仏教を基盤にした文明の華が咲き誇ったところです。そのような意味からも、今後の「カシミールの調査」の重要性については強調しすぎることはありません。
8  ジュロヴァ シルクロードは、宗教的、文化的、芸術的モチーフやスタイルが相互浸透するのを容易にした、大陸横断的なリンクでした。七世紀から十世紀にかけて、シルクロードの隊商が結びつけたビザンチン、イラン、中央アジア、および中国の美術は、相互にきわめて強く影響しあったのです。当時の特徴として、各国の芸術が非常に多様性に富んでいたことがありました。
 他方、ビザンチウムの力が頂点に達した十一世紀から十二世紀にかけて、ビザンチン帝国内の芸術は画一化されてしまいました。また、スラブの地でも同じようなことが起こりました。スラブでは、初期には、芸術のテーマやモチーフ、スタイルなどはきわめて多様であり、同質性が欠けていたために、学者たちはそれらを折衷主義と特徴づけていたのですが。
 シルクロードはまた、中央アジアを起源とするネストリウス派や、ボゴミールの章で論じたような、異端の拡大をも容易にしました。
 東アジアと西アジアが接するメソポタミアでは、シルクロード沿いに大商業都市が発達しました。これらの都市は、あらゆる芸術的要素を普及させました。それらの要素のなかには、たがいにまったく関連のない文化を起源とするものもあったのです。
 池田 シルクロードは、一面では軍隊が移動する道となり、多くの戦乱の舞台になりました。しかし、一時的な戦乱はあったとしても、戦争は人々の文化交流の流れを断ち切ることはできなかったと思われますが、いかがでしょうか。
 ジュロヴァ そのとおりです。七世紀には、キリスト教徒とイスラム教徒の間でしばしば戦争が勃発しましたが、東西の絆を断ち切ることはありませんでした。西方教会は東方正教会とは違って、一枚岩的にまとまっていましたが、それでも、シリア、パレスチナ、エジプトからのキリスト教徒を受け入れるのにやぶさかではありませんでした。こうした人々が大寺院を建立し、当時(ガリア、アイルランドなどに)存在していた修道院を改築したのです。
 ビザンチウムおよび中央アジアの芸術は、絶えず西洋に伝えられました。また、西洋においては、キリスト教が東洋から伝わったという事実も忘れられたことはありませんでした。
 池田 東西の戦争として忘れてならないものに十字軍の遠征があります。もちろん、この企ては西側からすれば軍事的には完全な失敗に終わり、多くの惨事をもたらしました。しかし反面では、東西の文化交流が進むことによって、西欧人の精神に重大な変化が生じました。
 すなわち、それまでは異教徒に対して観念的な理解しかなかったのが、実際に宗教を異にする人々と接触することによって、西欧人の視野が地球的な規模に広がり、異教徒との平和的共存が意識されるようになったと言われるのです。
 十字軍の事例は、戦争でさえも人々の心を閉ざすことはできないという事実を示す、一つの典型ではないかと思われます。
 ジュロヴァ おっしゃるとおりです。十字軍の遠征の結果、西洋は十一世紀末に中東文明圏のなかに巻きこまれました。十二世紀の西洋芸術、とくに、ロマネスク芸術に消えることのない痕跡を残したのは東方である、ということを忘れてはなりません。スペインのムーア芸術もまた、イスラムの全般的な文化的影響とは切り離すことはできないのではないでしょうか。
 実際、コンスタンチノープルを東西の「金の橋」であるとする表現は、ヨーロッパ、アジア、およびアフリカが接触する、ビザンチン帝国にも当てはまります。ビザンチウムは、これら三つの大陸の分水嶺でもあります。
 その多民族国家では、同地に存在する多くの文化層に対応し、また個々の文化の創造に対応して、統合と選択のプロセスが展開されました。たとえば、ギリシャ・東欧地域はギリシャ風になりましたが、それは表面的な現象にすぎません。ビザンチウムとアルメニア、ササン朝イラン、および後にはアラブとの密接な結びつきが、急激な変化ではないにしてもビザンチン文化に影響をあたえたのです。
 ビザンチウムは、インドおよび中国からピレネー山脈にいたるまで、活発な商取引を行いました。その交易路は、陸路も海路もシルクロードを通り、さまざまな思想と文化の交流を促進しました。そのために、ビザンチウムは多様な文化を持つ帝国となりましたが、ビザンチウム独自の特徴を失うことはありませんでした。
9  池田 ブルガリアの文化も、ビザンチン文化と同様、多彩な文化を取り入れながらも独自性を保ち続けていますね。
 ジュロヴァ そうです。ブルガリアの文化は、オスマン・トルコ支配下で強制的に閉鎖させられていた時代を除けば、つねに開かれた文化でした。しかし、開放的であることは決してわが国の特色を失わせるものではなかったと、私は考えます。
 文化というものは、接触なしに芽生えたり、発展したりするものではありません。そして、多くの文化の層が存在することが、文化的伝統を積み重ねていく上での必須条件であります。その文化の層は、文化の記憶から成り、また高められた選択能力から成り立っています。
 池田 まさにそのとおりです。人間個人について考えても、どのような可能性があっても、他からの刺激がなければその可能性が開花することはありません。
 その外からの刺激を仏教では「縁」と言いますが、よりよい「縁」を求めていく開かれた態度が、個人の可能性を顕現するポイントになります。今までの自分に安住し、閉じこもっていたならば、新しい発展はありません。
 一国の文化においても同様のことが言えるでしょう。外に対して自身を開いていく積極性、勇気が文化の発展のためにも必要であると思います。
 ジュロヴァ その顕著な例として、シルクロードを舞台とした文化交流の成果を、私は奈良ではっきりと見ることができました。私は奈良には二度、訪問したことがあります。奈良が、文字どおり、複合的な史跡が集まった地であると断言するのは私一人ではないでしょう。
 東大寺の寺院建築はギリシャ宮殿の柱廊を彷彿とさせ、法隆寺の壁画はインドのアジャンターの石窟を彷彿とさせました。もし、美術史家が、奈良でキャベツヤシのモチーフを見れば、その発祥地や、エジプト、アッシリア、ギリシャ、中近東からはるばる日本へと移入された道程を、生涯をかけて調査・研究したいと思うことでしょう。
 伝統と影響の融合が、発展期にある日本という若い国家に、文化的「折衷主義」を生みだしました。しかし、この「折衷主義」は、すでに、新しい文化の独創性を示すような、偉大な内実と、多くの特徴をそなえていたのです。
 池田 東大寺の境内にある正倉院は、八世紀の宝物が保存されていることで世界的に有名です。その宝物は調度品、文房具、楽器、仏具、服飾類、香薬類など多様ですが、素材、意匠には明らかにトルコ、イランやアフガニスタンなど西域に由来すると見られるものが多数あります。
 それらの写真をながめるだけでも、ユーラシア大陸全体にわたる歴史のロマンに思いをはせることができます。確かに、日本がシルクロードの「東」の到達点だったのです。
10  ジュロヴァ ところで、先生が企画されているシルクロードに関するご計画について、音楽文化以外にも何かありましたならば、ぜひおうかがいしたいと思います。
 「対話の道」とも名づけられるこのプロジェクトは、とても興味深いものです。と言うのも、近代主義は、普遍的な理想やモデルを再発見したいということ、つまり、価値基準を画一化し、一つの観点から世界を取り込みたいという野心を持つものですが、このプロジェクトは、その野心をこえるだけでなく、近代主義が持つもう一つの野心――西洋中心主義と、今ではアメリカ中心主義――の限界性をも、こえゆくものとなるからです。
 そしておそらく、このプロジェクトは、膨大な異質な諸文化が、かつては相互に対話をし、協力しあっていたことを、明らかにするでしょう。そうした対話や協力の結果として、諸文明が発生し、繁栄し、衰退していったのです。このプロジェクトは、私たちが現在、大いに必要としている、真実の異文化交流が持つ価値を実証することでしょう。
 池田 シルクロードに関する事業としましては、すでに第三章の「写本」の項で紹介し、論じてありますが、一九九八年にロシア科学アカデミー東洋学研究所(サンクトペテルブルク支部)の支援により「法華経とシルクロード」展をSGI(創価学会インタナショナル)の会館で開催しております。この展示会には、写本以外にソグド語の文献、八世紀のものと推定される皮革文書、木簡文書も出品されており、関心を呼びました。
 同研究所と私が創立した東洋哲学研究所では、数年前から学術交流が活発に進められており、サンクトペテルブルク支部の建物には東洋哲学研究所のロシア・センターが開設されています。
 学術機関との交流としては、中国の敦煌研究院やトルファン博物館、新●ウイグル自治区博物館などとの交流も進んでいます。また創価大学では、ウズベキスタン共和国との共同事業としてカラ・テパ遺跡の発掘を行い、ストゥーパ(塔)を発見するなどの実績を上げています。音楽はもちろん、これらの文化・学術交流を、これからもさらに幅広く進めていきたいと念願しております。
 博士は、ブルガリアの文化が開放的であるとともにみずからの特色を保っていたことを強調されましたが、この点は文化を考える上でたいへんに重要であると思われます。まさに、他の文化に対して開かれていることと、みずからの独自性を尊重していくことが、これからの人類文化を豊かなものにしていくための要諦であると考えるからです。
 他に対して開かれているということは、他の文化を尊重していくことです。それぞれの文化には、たとえ素朴なものであったとしても、それを育んできた歴史と風土があり、人々が懸命に生きてきた生の積み重ねがあります。その生体験に敬意をはらう心こそが、文化交流をより豊かなものにしていくためには不可欠です。自分たちの文化こそすべての面にわたって最高であるという「傲慢」は、結局、みずからを貧しいものにしてしまうからです。
 また、反面では、みずからの文化的独自性を失っていくことも正しいあり方とは思えません。それぞれの文化は、人間がそれぞれ異なるように、すべて独自のものです。世界中のどの国の人も、各自の文化に誇りと自信を持つべきです。他の文化から学びつつ、みずからの土壌の上にそれぞれの文化を生みだそうとする主体性が求められるのです。

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