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日蓮大聖人・池田大作

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教育の使命  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

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1  ジュロヴァ 創価大学を訪問した折のことですが(一九八二年、九〇年、九七年)、学生や教員の方々と対話したなかで、学生と教員との間に、生き生きとした絆を築こうとの努力がなされているという印象を受けました。
 池田 創価大学は一九七一年に開学し、今年(一九九九年)で二十八年になります。まだ歴史の浅い若い大学ですが、世界に貢献する大学をめざしています。次への飛躍を期して、この五月に三十周年の記念事業の一環として、新本部棟が完成したばかりです。
 ジュロヴァ さらに、貴大学の創立三十周年を称揚する、もう一つの画期的なことがあります。それは、貴大学が、インターネット情報社会という現実を考慮に入れた上で、世界のグローバル化と貴国の独自の文化の保持とのバランスを探求しながら、カリキュラムを展開されようとしているご努力です。
 また、貴大学のカリキュラムに、世界平和をめざすプログラムが組み入れられていることです。こうしたプログラムは、人類の将来の発展にとってきわめて重要なものです。
 これらを通して、私は、創価大学創立の意義、経緯などについて興味を持ちました。この点についてお話しいただければと存じます。
2  池田 「民衆のためにつくす人材」を輩出する大学をつくりたかったのです。建学の精神は、「人間教育の最高学府たれ」「新しき大文化建設の揺籃たれ」「人類の平和を守るフォートレス(要塞)たれ」です。
 創価学会の牧口初代会長は、私の恩師戸田第二代会長に、「将来、私が研究している創価教育学の学校を必ずつくろう。私の代に創立できない時は、戸田君の代でつくるのだ。小学校から大学まで、私の構想する創価教育の学校ができるのだ」と託されたのです。
 戸田先生が私に創価大学の設立構想を語られたのは、一九五〇年の晩秋、ある大学の食堂でのことでした。「大作、創価大学をつくろうな。私の健在なうちにできればいいが、だめかもしれない。その時は大作、頼むよ。世界第一の大学にしようではないか」と。
 現在は幼稚園から小学校、中学校、高校、そして大学まで整えることができました。
 ジュロヴァ 私は、一九八二年に札幌の創価幼稚園を訪問しました。そこで私は、幼い子どもたちが明るく、元気に行動している姿に深い感銘を受けました。
 池田 創価大学の正門と新本部棟の正面には、牧口先生の直筆で「創價大學」の文字がありますが、この文字は牧口先生が残されていた手稿を戸田先生が保管されていたもので、それを私が大切に保存し、かかげたのです。
 創立記念日は、戸田先生の祥月命日の意義をこめて四月二日としました。ともかく、「民衆のためにつくす人になってほしい」「民衆の苦しみを忘れないでほしい」と念願しています。
 ジュロヴァ 歴代の会長の精神、魂がとどめられている、創価大学の理念、目的については、よく分かりました。たいへんにすばらしいことだ、と感動いたしました。
 さて、私は、現代科学技術が進歩し、社会も日々刻々と変化する状況下で、いかにしたら、すべての人間に内在する創造性を発展させていけるのかと、懸念しております。
 九七年の訪日の折、私は民主音楽協会(民音)を訪問しました。そこで私は、同協会が、青少年の育成に技術的に取り組み、そして、創造的な能力の開花のために尽力されていることを確認でき、大いに希望が持てました。
 先生が、民音の文化センターで行っていらっしゃる方法は、私たちにとって非常に参考になるものです。たとえばそこでは、現代の科学技術によって古典音楽が演奏されていました。そのため、古典音楽という文化がきわめて魅力的なものとなっていたのです。文化をたやすく入手できるという点では、インターネットの情報に匹敵するものでしょう。
 こうしたやり方は、文化を忘れずに保持するための一つの方法である、と私は考えます。古典音楽という文化を、現代のダイナミックな時代に組み込ませ、未来に手渡すということです。
3  池田 今度は博士に質問しますが、博士が教鞭をとられているソフィア大学のモットーは何ですか。また、「スラブ・ビザンチン研究所」の理念についてもお話しください。
 ジュロヴァ 九世紀末から十世紀初頭にかけて生きた、学識の人・聖クリメントは、「汝の精神の門と、歩みゆく道を、勤勉をもって開け。書物が汝に、力強い腕を与えることだろう」と記しています。これが、ソフィア大学のモットーの源泉になっています。
 また、私の師匠であるイヴァン・ドゥイチェフ教授の名前を冠した、「スラブ・ビザンチン研究所」の活動については、名称がその活動の範囲を示していると言えます。すなわち、ブルガリアの精神的遺産――東方正教のスラブ・ビザンチン共同体――について調査、研究し、それを保存していくということです。
 人間にそなわった多様な知恵、道徳的純粋性、見解などは、もっとも大きな富と言えます。同研究所で働く私たちは、世界のこうした富、すなわち多様性を失いたくないと望んでいます。そのような理由から、私たちは研究所の仕事を通じて、「国境なき世界」という未来の構築をめざしているのです。
 「国境なき世界」とは、決して伝統的な文化を抹消することを意味するものではありません。私たちは、文化的遺産をそうした世界モデルに組み込むことをめざして、努力しているのです。
 池田 ソフィア大学のモットーといい、「スラブ・ビザンチン研究所」の活動といい、ブルガリアの精神的遺産を基盤にしながら、人類のための尊い貢献をされていることが、よく分かりました。
 ジュロヴァ わが国では第二次世界大戦後、ルネサンス期のように知識を求めて、高等教育や大学教育に対するかつてない関心が高まりました。そのさい、わが国の教育システムが直面した問題は、次のようなものでした。
 一方では産業化の結果、学校レベルでの教育システムの変更が要請されたことであり、他方では新しい教育システムの導入により、十分に訓練された教員が必要とされたことです。
 最近では、すべての人が大学の学位を得たいと思うようになったために、新たな問題が生じています。ご存じのように、ブルガリアでは大学の授業料は無料で、あらゆる人が大学に挑戦し、入学する資格を持っています。
 そのため、入学試験は非常に困難なものになっており、生徒たちにとって肉体的、精神的に大きな試練となっています。受験のために、カリキュラムに大きな負担がかかり、子どもの心身の調和的発達を促進するような、体育や道徳といった教科が見捨てられているのです。
4  池田 日本にあっても、教育は国家や社会の発展の大きな原動力となってきました。明治以降の日本の近代化を支えたものは、何と言っても教育ですし、その普及は、江戸末期にさかんに開設された私塾、また藩校や寺子屋といった、広範な土壌を抜きにしては考えられません。その後も、日本の教育水準は高く、現在、義務教育の普及率はほぼ一〇〇パーセントに達しております。識字率の高さも、世界で屈指であろうと思います。
 日本が近代化の階段をあれほど急速にかけ登ってきた事実、戦後、インドの故ネルー首相をして「信じられない」と言わしめた目覚ましい経済復興、そして、その後の高度経済成長――これらの背景には、高い教育という支えがあったのです。
 ジュロヴァ 近代日本の発展の原動力が教育にあったことは、よく知られています。
 池田 しかし、明治以降の日本の近代教育のあり方は、手放しでは自賛できません。第二次世界大戦以前の軍事優先、戦後の経済優先といった形で、そこには、重大な偏向がありました。学歴主義が進んだ日本の社会には、そのひずみが出てきていることも事実です。
5  ジュロヴァ どのようなひずみが出ているのでしょうか。
 池田 一つには、過当競争化した受験競争による、“知識偏重”の教育があります。最近では、若干、改善されてきてはおりますが、それでもまだ、一流とされてきた大学や、有名校への進学にのみ力点が置かれています。そのため、教育の最大の目的、つまり一人一人の幸福ということがともすれば見逃され、受験技術のみが強調され、自立心、公共心、協調性がなおざりにされがちです。
 それが青少年の心を荒廃させる一因ともなっており、学校生活に楽しみや喜びが見いだせず、授業についていくことができない子どもも少なくありません。日本では、今、不登校の生徒が増加しております。そして、自身のエネルギーを燃やすべき対象を失った子どもたちのはけ口が、ゆがんだ形となって表れ、暴力や束の間の快楽、スリルを求め、非行化していくというケースもふえています。
 かつて、青少年の非行や犯罪と言えば、その要因は、大半が貧しさからのものでした。しかし、現在の青少年の非行の多くは、物質的には恵まれたなかでの精神の癒し、生命の充実を求めているという特徴があると思われます。貴国の青少年の現状はいかがですか。
 ジュロヴァ ブルガリアでは、第二次世界大戦までは、家父長制が大きく機能していました。それは、大戦終了後も田舎の地方では、あるていど、長い間維持されていました。
 大都会においてすら、現代社会の課題が感じとられるようになったのは、ずっと後になってからでした。その主な原因は、科学技術がさほど発展しなかったことや、家族の役割がかなり重視されていたことです。
 事実、私たちは現代の病理に対して、まったく準備をしていなかったことに気づきました。現代の病理とは、一九八九年以降に押し寄せた疎外感、暴力、ドラッグの濫用といった現象です。
 いかなる教育システムも、人間の価値が高く評価される社会の構築を、究極的な目的とすべきでありましょう。世紀の転換期である現在、道徳的価値、知的価値、なかんずく情緒的価値が生き残ることは、きわめてむずかしいことなのです。
 しかし私は、学生たちがこうした倫理的基準の必要性を感じていることを知り、また時には、倫理観を重要視することを知って、とてもうれしく思っております。
6  池田 こうした現象を思うにつけ、教育にまず求められるのは、“何のために学ぶのか”という目的や生き方でありましょう。すなわち、行動に根源的な意味をあたえる「教育理念」の確立であります。残念なことではありますが、“何のために学ぶのか”“何のために生きるのか”という根源的な問いかけに対して、明確な答えを持つ教師も少なく、教育もなされていない、というのが日本の現状であります。
 ゆえに私は、創価大学の創立にあたって、大学構内のブロンズ像の一方に、「英知を磨くは何のため君よそれを忘るるな」としたためました。
 ジュロヴァ 教育にあたっては、“何のため”という目的観をしっかりと基軸にすることが大切ですね。
 数世紀にわたり、この答えを探求するプロセスのなかで、いかに多くの知識と苦労が費やされてきたことでしょうか。答えを見つけだすことよりも、質問をするという、まさに、その行為のなかにこそ、その意味は存在するのではないでしょうか。
 池田 そのとおりです。“何のため”と問い続ける、その真摯な姿勢こそ重要なのです。私が対談している、モントリオール大学のギー・ブルジョ教授は、“教育の三つのモデル”という深い見識を示されました。
 その第一は「受け身型」と言うか、その基本的なスタンスが“知識はあたえられるもの”というものです。第二は「学習者中心」の教育モデルで、本人の“自己実現”ということを大切にする教育のあり方です。これは、その人の体験をもって表現できるように訓練していくものですが、教授は、「やりすぎる場合には、不健全で、限度を超えた“自己中心性”という側面が強くなる」と指摘されています。第三は「連帯型教育」「交流型教育」を挙げています。教師と学生が共同作業で、また相互作用のなかで「知識」をつちかっていくというものです。(『健康と人生』、本全集107巻収録)
 ジュロヴァ 今、挙げられた三つのモデルのうちで、私がもっとも誠実なものだと考えるのは、最後のモデルです。第一と第二のモデルは、学生あるいは教師の側に、自己中心的な要素をかくし持っているからです。
7  池田 私も、対談のなかで博士と同じ意見を述べました。教育とは、教師と学生が共同で、“人間の全的な開花”をめざすことです。人間が人間として生きぬくために、秘められた可能性を最大限に発揮していく。そのためには知育、徳育、体育などのバランスのとれた教育が必要であり、また、人間の豊かな感性、創造性を育む情操教育にも、力を注いでいかなければならないと痛感しております。
 ジュロヴァ そうですね。人間の円満な発展が、情操教育の究極の目標であり、それが現代ブルガリアの教育思想の核心と言えます。
 一九七五年に、当時、文化委員会の議長であった故リュドミラ・ジフコワの指導のもとに、国家的規模の情操教育のプログラムが承認されました。そのプログラムは、芸術的価値に基づき、全国民の全般的な情操教育のために考案されたものです。芸術的価値を基盤として、公的機関を通して(基本的な役割は学校に割り当てられた)、人間と環境(社会環境と自然環境)とのバランスをとることがめざされたのです。
 このプログラムはまた、復興期のブルガリアにおいて、学校と教育の役割を定義するものでした。一九八九年以前のブルガリアの教育システムにおいて、学校は不可欠の役割を演じてきました。そして現在も、ブルガリアで主要な役割を演じているのは学校なのです。
 幼稚園のころから、ゲームや活動を、音楽、絵画、言語、演劇に関連づけることによって、子どもたちに情操的な意味があたえられます。また、高校レベルでは、文学、絵画、音楽は必須科目で、演劇と映画は選択科目です。労働、公的活動、人間関係等も、すべて情操的な意味合いがあります。
 これらのすべてが、生徒たちの人格の情緒的な面と合理的な面を調和させながら、彼らの世界観を形成するのです。
 池田 日本のプログラムにも、小学校では音楽、体育、図工などの授業があります。中学校になると音楽、美術などが必須科目ですが、高校のレベルでは、それらは選択科目になります。それは、先に述べたように受験競争が背景にあるからです。
 近年では、何かに秀でた才能や特技などを重視する受験制度もありますが、競争だけの世界では、敗れた者は底知れぬ「無力感」に襲われ、勝った者は次なる「重圧感」に苦しまなければなりません。
 ジュロヴァ 一九八〇年に出版された『ブルガリア教員憲章』は、教師の役割を、「人格の調和的な発達に基づき、現在を構築し、次世代の人々を未来へ、自己改革へ、人間性の自己完成へと導くこと」としています。
 しかし、このプログラムは、思いどおりに十分に実行されてはいませんし、すべてのブルガリアの学校に適用されたわけでもありません。ブルガリアの学校には、いまだ、こうした高尚な責任ある目的を実現するのに十分な数の、きちんと訓練された教師がいないのです。それとともに、教師の地位と訓練、カリキュラム、技術的設備、生徒の負担などに関する問題も、いまだ解決されていないのです。
 現在、ブルガリアでは、新しい教育改革をめぐる作業が行われています。何点かは徐々に実行に移されており、情操教育のためのプログラムも導入されつつあります。
 池田 日本でも、今日まで学校教育の体制がほとんど変わらず、画一化された教室で、子どもたちへ一方通行の対応が続いてきたのは否めません。しかし、時代は多様化し、社会も多彩な才能を求め始めています。
8  ジュロヴァ そのとおりですね。お話のなかから、そうした人間を育成するのが創価大学の目的の一つであることが分かりました。
 そこで、もう少し根本的なこと、すなわち、大学や学園をつくられたさいの根本理念である「創価教育」について、語っていただければと思います。
 池田 「創価」とは、価値を創造するという意味です。「価値」――それは人間のみが正しく認識し、実感できる課題です。牧口先生の教育は「人格価値」をめざしております。つまり、創価教育の根幹は、「人格の価値」をいかに高めていくかにあります。
 牧口先生は『創価教育学体系』の中で、「高い人格価値の人間」とは、「居ることを一般から希望される人」「常に社会の結合的勢力として存在する者」と論じております。(第二巻第三編「価値論」、聖教文庫)
 ジュロヴァ 価値体系を発展させ、教師たちがそれを受け入れられるようにするためには、十分に発展した社会の価値体系が存在していなくてはなりません。しかし、現段階では、そうした価値体系は少しばかり欠如していると思われます。
 池田 日本の社会では、残念ながら、その価値体系が崩壊していっている、と言わざるを得ません。
 ジュロヴァ ブルガリアでは、今世紀に起きたいくつかの戦争の間に、私たちは、最重要な将来的な問題――青少年の教育の問題――を軽視してきてしまい、それが、価値体系の欠如につながってしまいました。
 私たちは、新しい千年紀に入っていくさいには、新たな教育綱領をたずさえなければなりません。その綱領は、新たな原理を創出するとともに、伝統を継承する現在の教育システムの成果も維持するものであるべきでしょう。
 創造的に仕事のできる人材が、輩出されなければなりません。未来への大きな責任を担うことができるのは、道徳的に高潔な人物だけだからです。言いかえれば、知識の獲得や高い意識と、創造的、生産的な仕事を遂行する能力とが、ともに育成されるべきなのです。
 文化は画一的なものではなく、あらゆる人間に内在する個々人の特性の上に繁栄するものです。個々人が自由に、精神的にも生活の上でも、選択ができる教育システムが必要でしょう。
 このような問題を解くためには、先生が提唱し、実践しておられる世界の識者たちとの「対話」は、きわめて意義のあることだと私は考えております。
 池田 「対話」の重要性については、インド最高裁判所の元判事であるモハン博士も語っておりました。博士は、教育に当てはめて、「教育とは、教師による生徒の“支配”であってはなりません。教育とは、あなたと生徒の間の一対一の“対話”なのです。“一方通行”ではいけません」と、述べていました。
 ジュロヴァ 教師と学生の間の豊かな「対話」が大切だということには、私もまったく同感です。これは、先ほどご指摘された、ブルジョ教授の示す第三のモデル、つまり「連帯型教育」ということですね。
9  池田 そのとおりです。教師と生徒の交流のなかで、客観的な「知識」が生かされ、第一のモデルの「知識」つめこみ型と、第二の「自己中心性」も克服されていくのではないでしょうか。
 『法華経』(方便品第二)には、「我が如く等しくして異なること無からしめん」(法華経一三〇㌻)とあります。つまり、すべての人々を仏と同じ境界にしたいとの、仏の崇高な願いが示されております。教師にも、生徒をわが子以上に大切に慈しんでいく。そして、自分をこえる人材に育てよう、という情熱が大切だと思います。
 マハトマ・ガンジーの指導力の秘訣について、ガンジーの孫のアルン・ガンジー氏は語っていました。「(それは)“みずから実践”し、“みずから苦労”し、“模範を示”したことです」と。教師は、みずから模範を示して初めて、人々を導くことができます。まさに、教育においては「模範を示す」ことが肝要なのです。
 ジュロヴァ 同感です。しかし、ブルガリアの教育システムは、まだ科学技術の進歩に追いついていないと思います。コンピューター時代にそなえて、創造的な人材を訓練するという点においても、おくれをとっています。
 現在、若い学生たちは非常に自由な考え方をしており、私はそれを奨励すべきだと思っています。彼らは語学について訓練され、どの講義でもかぎりなく自由に選択できます。それが悪いとは言いません。問題は、教師がその講義のなかで、学生たちの関心を維持できるかどうかです。言いかえれば、教師がいかに学生たちの知的興奮を呼びおこすことができるかにかかっているのです。
10  池田 牧口先生の考え方は、教師が、毎日を新しい出発ととらえ、「自己教育」をおこたらず、つねに教育の第一線で活躍することでした。どこまでも教師自身が「人間革命」していくしかない、というのが牧口先生の教育観の一つの結論でした。
 ジュロヴァ 「ジェネレーション・ギャップ」は、教師と学生の間に距離をつくってしまいます。たとえば、私と学生たちの年齢には、およそ二十年の開きがあります。
 また彼らの知識は、主としてマス・メディアから得たものです。彼らは、多くの情報を持っていますが、時には深みに欠けています。一方、私自身の世代は、もっぱら書物から知識を得るしかありませんでした。それ以外の方法はなかったのです。
 今や若者たちは、情報をしばしば浪費しています。一方、もっと自立的な精神を持つ若者は、批判的な感覚をそなえています。しかし、残りの若者たちはだまされやすく、情報をそのまま鵜呑みにしてしまうのです。すなわち、「情報」は必ずしも「知識」と同じものではない、という私の見解を強調しておきたいと思います。
 池田 博士の見解に全面的に賛成です。今日、情報化社会はますます世界を包みこんでいます。インターネットを駆使すれば、いながらにして、世界の「情報」を入手でき、遠く離れた世界の人たちとも日常的に“対話”ができます。
 しかし、若者が「情報」を「知識」として活用するためには、これまで以上に「独創性」「創造力」を発揮していかなければなりません。そのための「教育」です。
 ジュロヴァ 確かに私たちは、二十一世紀にそなえて、おこたらず準備をしなければなりません。教育システムを根本的に変えなくてはならないのです。教育は、未来の人間を訓練し、必要なものを授けるものだからです。
 私はインターネットについて、個人的には次のように考えています。つまり、主として参考にするための情報源として用い、過信しないということです。「情報」の渦の中に入りこんでしまった人間が誤りを犯すことは、容易に想像できます。
11  池田 中国の浙江大学の潘雲鶴学長は、“ミスター・コンピューター”と呼ばれている専門家ですが、次のように語っていました。
 「専門分野でだれにも負けない“知識”を持つのは当然だが、これからは幅広い教養も身につけなければならない」と。幅広い教養がなければ、「情報」の渦の中に巻きこまれてしまう、と言うのです。
 ジュロヴァ それゆえに、さまざまな基本的知識や、真の教養を教えることのできる教師が求められるということですね。基本的な知識が欠けていれば、インターネットは危険なものになりかねないのです。
 かつてアメリカのニュー・ヘーブン大学で教えたさい、知識の量という点では、アメリカの大学生よりもブルガリアの高校生、中学生の方が、多くを持っているという感じがしました。私は、大学院生を相手にビザンチンの芸術についての授業をしました。地図から始めてゼロから教えたのですが、その院生たちは一カ月後には、私があたえたもののなかからものすごい知識を引き出していました。授業を終えるにあたり、私は院生たちに非常に満足感をおぼえたものです。
 彼らが用いる方法や手段は、非常に優れたものでした。アメリカの学生たちは、持っている知識の量は少ないかもしれませんが、その知識を取り入れ、活用していく能力にとても長けていたのです。
 池田 興味深い体験です。戸田先生も牧口先生も、ともに教育者でしたが、「知識を知恵と錯覚しているのが、現代人の最大の迷妄である」と喝破しておりました。当然、「知識」を学ぶことも重要ですが、問題なのは、その「知識」をどのように生かして活用していくか、という能力の養成ですね。つまり、「知識」を生かす「知恵」が、どうしても必要である、ということです。その「知恵」とは、まさに価値を創造する力なのです。
 ジュロヴァ 私たちブルガリアの教育制度も、改革を必要としていると思います。しかし、残念ながら、その改革はまだなされていません。なぜなら、二つの傾向が相争っているからです。
 一つは、教育とは知識をあたえる百科事典的なものであるという考え方、もう一つは、人間は伝統を抜きにしても、前進し人生を築くことができるという考え方です。こうした二つの考え方がうまく調整されなければ、非常に困難な状態におちいってしまうでしょう。「伝統抜きで未来というものはない」からです。
12  池田 東洋の古典の『論語』に、次のような一節があります。「子の曰わく、故きを温めて新しきを知る、以て師と為るべし」(「為政」金谷治訳注、岩波文庫)と。子とは儒教の祖である孔子です。その孔子が言うには、過去の歴史や古典、哲学、文化に習熟していく、その上で現代の出来事を知っていく、このような人物にして、師匠となることができるというのです。
 博士の主張と、まったく同じですね。過去の伝統に学ぶことなく、現代の情報のみにふりまわされていては、現在の出来事の真実を見抜くこともできず、したがって、未来創造の知恵もわいてこないでしょう。
 ジュロヴァ インターネットは、確かに便利で有効なものではありますが、同時に非常に危険なものでもあります。なぜかと言うと、ある一定の時間以降の情報しか入っていないからです。私たちが生まれる前の歴史は、どこに行ってしまったのでしょうか。しかも、情報に一つでも間違いがあれば、それは何千倍、何億倍にも拡大してしまいます。
 池田 そのとおりです。歴史と伝統の喪失に関して、私は、本年(一九九九年)の一・二六「SGIの日」記念提言で、“アイデンティティー・クライシス”として論じました。
 その中で、ヨースタイン・ゴルデルの『ソフィーの世界』(須田朗監修、池田香代子訳、日本放送出版協会)から、「あなたはだれ?世界はどこからきた?」という“自分探し”のキャッチ・コピーを紹介しました。また、リチャード・バックの『僕たちの冒険』(北代晋一訳、TBSブリタニカ)からは、「私はどこから来て、どこへ行くのか。そして、なぜここにいるのか」との問いを取り上げました。
 現代人は、世界の諸民族が豊かにつちかってきた文化に内包された、「コスモロジー(世界観)」を喪失しております。博士の指摘される民族の起源と伝統、そこで育まれた「コスモロジー」に基づく「人生観」を失っているがゆえに、「どうして今ここにいるのか」にとまどい、魂の病としての「アイデンティティー・クライシス」におちいっているのです。
 私は、この提言において、それぞれの民族的伝統のなかから知恵をくみ取り、それぞれの「コスモロジー」を再興する必要性を訴えました。「コスモロジー」に基礎を置く「ヒューマニズム」――そこに、現代における「人間革命」が可能になるのです。
 ジュロヴァ 「人間革命」は、インターネットを通して行われるのでしょうか。そうではありませんね。コンピューターは、「人間革命」を手助けすることはできますが、それをなしとげることはないのです。
13  池田 コンピューターに対する認識の仕方が、今日の情報化社会の“ポイント”です。
 ジュロヴァ 現在、あらゆる領域で、アンバランスな状態が見られると思います。教育の分野で言えば、百科事典的、基礎的な知識を元にして、それを用いる力をどのように養っていくかが、大事になると思います。「教育の未来」を一言で言うとすれば、「知識」と「能力」のバランスであると思います。バランスがとれれば、自己完成のために自分が何ができるかということを、自分で選択することができます。
 池田 私は、「知識」を活用する能力、つまり、「知恵」の源泉となるものこそ、人間の目的観や価値観であり、これらを育む「人間教育」に、今一度、焦点を当てるべきだと思っています。最近、日本のある国立大学で、「教育学部」を「教育人間科学部」に改組した例もあります。
 ジュロヴァ ソフィア大学では、つねに基本的な主題についての人文科学が優勢でした。一九八九年以前も、また現在も、ブルガリアでは先進的な科学技術が不足していることが痛感されてきました。そのために、科学技術の成果に対する関心が非常に大きいのです。しかし私は、間もなく、この要求が十分に満足させられることを期待しております。
 池田 私も、貴国における科学技術教育の充実を希望しております。これまで、さまざまな苦難を乗り越えて、新しい文化を形成してきた貴国だからこそ、「科学技術」と「精神性」のバランスをとり、科学技術を活用していける人材を数多く輩出されることを念願しております。
 ジュロヴァ 現在、暴力や欲望がはびこっている社会のなかで、教育システムの主な目的は、人間、文化、精神を創造することです。適切な教育システムを
 展開していくのは、きわめてむずかしいことですが、東欧には周期的に非常に困難な時期があり、その時期にこそ、みずからの精神と歴史を、さらにいっそう深く強靭なものとしてきた経験があります。ゆえに、私は今、伝統文化や経験と、未来世界が提供するものとの間で、正しい選択がなされるにちがいない、と期待しているのです。

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