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日蓮大聖人・池田大作

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伝統と近代化について  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

前後
1  池田 ブルガリアの古都プロブディフを訪れた時の印象は、きわめて鮮烈でした。まことに“古城の都”と言うにふさわしく、歴史のなかに都市がある、あるいは都市のなかに歴史がある――このような思いを深く味わったものです。
 私は、ある古城の中のレストランで一時を過ごしました。現代のなかで、なお静かに呼吸する生活の確かな場として、その古城はありました。
 プロブディフは、オスマン帝国時代には軍事、商業上の拠点として栄えました。当然、そこにはオスマン当時の名残も多く刻まれていました。そればかりではなく、そこにはマケドニア時代、ローマ時代、ビザンチン時代の城壁、道路その他の遺跡も数多く残っていました。
 と同時に、この情緒豊かな古都が、現代ブルガリア第二の大都会であり、屈指の工業都市であることも、よく知られている事実です。毎年九月には国際見本市も開かれています。東欧貿易にたずさわる外国人にも、馴染み深い都市であると聞いております。日本の岡山市とも姉妹都市の関係にあり、それにちなみ、岡山県の創価学会のメンバーとの友好交流も実現しています。
 このようなプロブディフのたたずまいに接して、私の脳裏によみがえったのは、近代化の推進と伝統の保持という問題でした。そこで、おたずねしたいのですが、ブルガリアではどのように歴史的景観の保全を図っていますか。
 ジュロヴァ 一九六〇年代以降、わが国の制度では、古都プロブディフの復興と保存について、国が実質的に計画を立てたり、規制したりすることができることになっています。
 しかし、すべてがスムーズにいっているとは言えません。また、諸都市の過去の歴史と近代化の間のバランスがうまくとれている、とも言えないのです。ルセ、ソフィア、プレヴェン、ヴィディン、サモコフといった各都市の都市計画にはいくつかの失策があり、またそれより規模は小さいのですが、バルナとタルノヴォでも同様の失策がありました。
 それらについて、今日まで、私は深刻に悩んでまいりました。そうした失策により、これらの町から古風な雰囲気が奪われ、絵のような建物が取りはらわれてしまったのです。
2  池田 日本は明治維新(一八六八年)以来、ほぼ一貫して西欧的な近代化の路線を走ってきました。多少の紆余曲折はあったにしても、軍事、産業、都市構造といった面においては、この路線は首尾一貫して直線的発展をたどってきたのです。第二次世界大戦後も、この事情は何ら変わることなく、とくに一九六〇年代には、高度経済成長が国家レベルの至上の価値とすらされてきたのです。
 ところが、一九七〇年代に入って、日本は、いわば明治維新以来の西欧近代化路線の“ツケ”ともいうべき事態に次々に見舞われることになりました。
 その一つは、当時の“公害問題”であります。水俣病の発生、四日市の大気汚染など、数え上げれば枚挙にいとまがありません。今日では、企業を含めて、一般市民も深くかかわる環境問題へと拡大しています。
 他方は、管理化社会の問題です。管理された日常の業務のなかで、人々は仕事への意欲と誇りを失いつつあり、神経症、さらには、生きがいの喪失といった深刻な事態をも惹起しています。このような事態は、現在ではいちだんと深刻さを増しています。
 そこで、日本でも、ここ数年、近代化路線を見直す機運が高まってきました。私は、近代化そのものは必ずしも悪くはないと思っています。根本的なことは、その風土の特性、および伝統とのバランスの問題です。その兼ね合いの上に、近代化は慎重に進められていかねばならないと思うのです。
3  ジュロヴァ 私は、日本ではそうした問題は、もう解決されたと思っておりました。このような場合には、楽観的に考える方がよいでしょう。先生はプロブディフ訪問のさいに、“過去”を旅されましたが、そこでは、過去と現代が調和していました。
 今まで、科学技術の進歩と社会の進歩の統合について、また、各民族、文明、文化について語りあってまいりましたが、現在、それらはますます「画一化」されています。食物、衣服、輸送、休日、文化的欲求など、生活のあらゆる領域で、画一的な様式がはびこっているように思われます。
 その傾向は、マス・メディアや文化産業の影響のもとで、ますます強まっています。先生は、こうしたことを懸念されているのですね。
 池田 おっしゃるとおりです。文化が画一化され、独自の多様性を失うことを、懸念しているのです。
 ジュロヴァ 先生は、古都プロブディフを訪れて、ブルガリアの伝統文化を称賛されました。一方、私は、日本が高度に洗練された日常生活を保ちつつも、生活のなかに伝統的な技術を取り入れていることに驚いております。
 先生は、日本はかつての洗練された日常生活が、高度な科学技術によって消し去られている面もあると指摘されました。それは、科学文明と伝統の問題について、非常に深く考察しておられるからでしょう。
 私も、ブルガリアが伝統を保持してきたと称賛してくださったお言葉について、若干、別の考えを持っているのです。
 私は、ブルガリアの農村の女性たちのある習慣が失われてしまったことを、残念に思っています。彼女たちは、数十年前にはまだ既製服を着ず、平日と休日のために、また喜びの日と悲しみの日のために、ドレス用の布地の色をみずから選んだものでした。
4  池田 それは、日本でもまったく同じです。
 ジュロヴァ A・マーター・ムボウ氏が、大規模なユネスコのプログラムの一つである、未来の資源の実施踏査について次のように語っています。
 「もっぱら一つのモデルだけに基づいた世界的規模の普遍化の結果である、増大しつつある『画一化』は、未知の新たな脅威に対処するための手段と方法を人類から奪うことだろう。伝統的社会の遺物の下に深く埋もれている所与の文化や遺伝的な特質が、いつの日か、人間と分離し得ない財産であったり、未来の人類の進歩にとって不可欠の特質であったりすることが判明するかも知れないのである」と。
 ポスト産業社会は、人間文化を保存し、回復しなければなりません。
 池田 そのとおりです。驚くべきスピードで文化の「画一化」が進んでいます。しかし、それぞれの文化の多様性を維持するだけでは十分ではありません。異なる文化が出あい、新たな多様性を生みだすことが必須です。
 ジュロヴァ 今ふたたび、進歩の前提条件として、“創造性”が求められているのでしょうね。それは、たんに旧来の価値を回復することによってではなく、その価値を未来に向けての責任の名のもとに“再活性化”することによってなされるのです。
 伝統は、人間の進歩の源泉の一つです。旧来の事物は、新しい事物が芽を出す土壌だからです。
 池田 「根っこ」のない文化は、やがて立ち枯れるでしょう。もちろん、伝統のみをことさら強調するのは、行きすぎです。現代に生きる人間として、現代的課題に真っ正面から取り組んでいくなかに、伝統の知恵が生かされるのです。もちろん、画一的文化が伝統を露骨に破壊する時には、伝統を強く意識することが必要になります。
5  ジュロヴァ ここで私は、この問題について例を挙げて説明したいと思います。例はたくさんあるので、もっとも明確なものを挙げましょう。それは、二つの世界大戦間のブルガリア芸術の発展です。
 ブルガリアの多くの芸術・美学グループによって表現された二つの基本的な動向が、二つの世界大戦間におけるブルガリア芸術の性格を決定づけました。その一つのグループは、一九一九年に創設された「ネイティブ・アート」で、これは民衆の生活と運命の描写や、ブルガリアの郡部で起こった社会の変質を強調しました。
 もう一つのグループは、一九三一年に創設された「新芸術家協会」で、芸術を新しい都市の階級とそのイデオロギー的成熟の問題と結びつけ、また出現しつつある産業の中心地の都市化と結びつけました。
 池田 具体的にその二つの潮流がどのようなものであったか、どのように固有の伝統と、流入する新しい文化の問題に対応したのかを、ぜひ、おうかがいしたいと思います。
 ジュロヴァ 「ネイティブ・アート」の「ロイド・イブストヴォ」グループの画家たちは、ブルガリアのすべてのものを独特に理想化しました。つまり様式、形態、リズム、色彩、国民心理といった点で、真にブルガリア的な特徴を求めたのです。
 全体的にブルガリア芸術は、ブルガリアの精神と伝統に忠実であり続けると同時に、現代ヨーロッパに追いつくための形式を発展させました。「ネイティブ・アート」グループの画家たちは、中世ブルガリアの芸術や民族芸術から、アイデアや形式を借用し、しばしばそれらを、現代的な主題に移しかえました。
6  池田 基本的に、ブルガリア芸術は、伝統という大地を離れなかったのですね。
 ジュロヴァ ブルガリアの画家ゲオルギ・パパゾフは、一般的に民俗的な要素とはもっとも離れていると考えられる、フランスのシュールレアリスム(超現実主義)の堅実な第一人者でした。第二次世界大戦以前には、彼の展覧会はブルガリアでは決して評判はよくなかったのです。
 池田 それほど、伝統の力が強かったということですね。
 ジュロヴァ 彼が自国でようやく認められたのは、第二次世界大戦末期以降のことでした。
 池田 民俗的、土着的なブルガリア芸術の傾向について、今、思い出したことがあります。大きな建築物や自然の造形を布で包むという前衛的なプロジェクトで有名なクリストは、ブルガリア出身です。一見、抽象のきわみのような彼の作品――「作品」という概念すら拒絶する彼の作品ですが、そこにも私は非常に人間的な感情を感じます。ユーモアとか崇高さとか、ブルガリア的な特徴がそこにもあるように思えます。
 次に、この潮流のうちのもう一つである「新芸術家協会」の動向についてうかがいたいと思います。
 ジュロヴァ 前衛的な画家たちを集めた「新芸術家協会」は、ブルガリア芸術の現在と将来の発展に計り知れない影響をあたえました。彼らは、意気軒昂にも日常の現実の生活を反映する「生きた芸術」を創造しようと、アカデミズムや擬古典主義、自然主義に異議を唱えたのです。
 「新しい画家たち」の大胆さが、現代ヨーロッパ芸術の発展に影響されたのは当然のことです。しかし彼らは、そうした動向を静かに国民精神を表しながら、受け入れたのです。
 一九三〇年代のブルガリア絵画は、全体的に見て、アカデミックな厳格さや不毛さから解放され、自由なリアリズムといったものを打ち立てました。
 池田 先ほど、クリストの例を挙げましたが、やはり、ブルガリアには庶民性と言うか、日常の生活の視点を大切にする国民性があるように思われます。
 ジュロヴァ 一九七〇年代に、わが国では彫刻への熱が急激に盛り上がりました。そのなかで、七〇年代と八〇年代の間に指導的だった傾向の一つは、明らかに現代アメリカ芸術の影響を受けたものでした。シュールレアリスム、すなわちフォト・リアリズムとスーパー・リアリズムでした。この傾向は、三〇年代の「新しい画家たち」の伝統と密接に関連していました。
7  池田 私なりに推測するのですが、今のところブルガリアの美術は、伝統と近代化のバランスをよく保っていますね。一方で伝統的な国民性がありつつも、そこに、しばしば、“新しい風”が吹くのですね。
 ジュロヴァ はい。日本でも何世紀もの間、国民はその精神的、文化的、政治的安定、そして最近ではいちじるしい経済的安定を維持してきました。私はそれを目にしてきました。私の考えでは、外国から流入するものは、若い世代の精神構造のなかに入っていきます。現在、世界の諸文化は相互に浸透しあっています。
 そこで必要なのは、「バランス感覚」でしょう。と言うのも、文化的ナショナリズムも、文化的コスモポリタニズムも、過度になってしまっては同じように危険だからです。私は、現今の文化間の影響のあり方は、変則的で一方的なもののように思えます。バランスはいまだ取れていないのです。これは、正常な文化交流にとっては有害なことです。
 人間の発展の基盤を形成するのは敵意ではなく、情報、思想、物資、文化の相互交流なのです。先生は、将来におけるこうした相互交流について、どのようにお考えでしょうか。それは、双方向のプロセスになるとお思いでしょうか。
 池田 その点で、一九九八年のノーベル経済学賞を受賞したアマーティア・セン博士の指摘に注目したいと思います。
 セン博士は、インドの詩聖タゴールの思想に造詣が深い方ですが、その基盤に立って、経済における“倫理性”を主張しております。
 博士は、アダム・スミスは市場経済原理だけを述べたのではなく、シンパシー(共感)という原理も主張しているととらえるのです。そして、他者の苦のために自分の利益を犠牲にするコミットメント(関与)の原理を主張します。このシンパシーとコミットメントの原理は、利潤優先の市場原理とはまったく異なった原理と言えるでしょう。
 シンパシーとコミットメント、仏教で言う慈悲の原理を導入することによって、さまざまな民族の風土、文化を生かし、その発展に貢献し得る経済のあり方がつくり出されるのではないでしょうか。“倫理性”を導入した経済は、特色ある各文化の相互交流、啓発をうながしていくことでしょう。そのような意味においても、ブルガリアや日本文化の土壌を大切にし、その精神性、倫理性をともに高めあっていきたいのです。
 ジュロヴァ よく理解できます。ところで、世界的な巨大都市の一つである東京の都市化が引き起こす多くの困難を、貴国はどのように克服しておられるのでしょうか。また、そのなかで、日本の伝統的な環境は保持されてきたのでしょうか。
8  池田 たとえば、世界的に活躍する日本の建築家の作品には、モダンやポストモダンの意匠のなかに、日本の伝統的な香りを残しているものが数多くあります。自国の文化的伝統を自覚している芸術家、建築家は多くいます。そういう人々の作品においては、モダンやポストモダンと、古典は調和しています。さまざまな公共的建築物では、モダンと古典の調和が図られ、その試みはかなり成功していると言ってもいいでしょう。
 むしろ、問題は民衆の日常生活における古典、伝統の破壊です。日本の芸術の特徴は、博士も指摘されているように、日常品にたくみな意匠がこらされていることです。湯飲みだとか、弁当箱、小物入れなどに、すばらしいデザインと細工がこらされています。
 建築も同じで、日本建築は非日常的な宮殿のようなものより、庶民のふつうの建築に、見るべきものがあるようです。ところが、現代の都市化の波が、この日常の芸術を真っ正面から襲ったのです。規格化された住宅やビルが次々と建ち、郊外の田園風景も、アメリカの郊外に建つショッピングセンターにとってかわられました。
 このようなことから、日本の伝統的環境は、今、非常な危機にあります。特別な建物は保護されているのですが、先ほど述べたように、日常のなかに高い芸術性をこめるという日本の伝統に対しては、大衆消費社会は破壊的な力を持っているのです。
9  ジュロヴァ 現代世界は、産業化によって機能的かつ一面的に構造づけられており、“美”も純粋に機能的な言葉で解釈されています。そのなかにあって、破壊された自然の叫びが、深刻な生態系の危機を知らせていますね。過去数年間に、人間性にあふれた場をつくり上げる試みや、人間と建物の間に精神的な絆を打ち立てる試みがなされてきました。
 叙情性と都市化を組み合わせようとの試みの一つは、ポスト前衛主義をもたらしました。コンクリートは、鏡のような表面を持った金属やガラスに道をゆずり、一風変わった“現代の怪物”が出現したのです。それらの建物は、古代のピラミッドやジグラット(古代バビロニアやアッシリアのピラミッド形の神殿)、ゴシックやルネサンスの大聖堂、より近くはビクトリア朝の建物に似ています。
 それらは、前世紀末における建築や都市計画上の問題を思い起こさせます。それらは、「教会的な」様式へのノスタルジーを表現したものであり、建築は世界を救うことができるという理念に沿った、フランクライトやル・コルビュジエのような建築家のイメージを喚起させるのです。
 幾人かの現代の建築家たちがいだく希望に満ちた楽観主義は、前世紀末と今世紀初めの建築家たちに見られた情熱と似ています。彼らは、自国の市民というよりは世界市民でした。彼らの青写真は、自国でも外国でも同じように成功したからです。私は、丹下健三氏の「ポート・アイランド」、リチャード・フラーの「カンザス市の地下都市」、パオロ・ソレリーの「アリゾナのサン・シティ」を思い浮かべています。
 先生は、彼らの青写真に対して、どのような未来を予想されるでしょうか。また、未来の巨大都市における生活について、アーノルド・トインビーは、どのように予想していたのでしょうか。
 池田 トインビー博士は、行きすぎた都市化を憂慮されていました。現代的な高層建築に住む人々が、人間的接触を失うことを指摘されていました。そして、むしろ、未来の安定した状態に達するためには、発展途上国の方が困難が少ないであろう、との人類史の逆転も示唆されていました。(『二十一世紀への対話』、本全集第3巻収録)
 丹下健三氏やル・コルビュジエの偉大な才能には、尊敬の念を持っております。それと同時に私は、彼らのような整然とした合理的な建築の流れとともに、たとえば、著名な社会学者のクリフォード・ギアーツらがその有効性を指摘している、たくさんの家々が一見、無造作にひしめき合っているイスラムのスーク(バザール)都市のような構造も、今後、試みられるべきだと思います。
 スークのような都市は、たくさんの細胞から成り立つ生体組織とよく似ています。長い時間を費やして、自然発生的に、さまざまな諸要求や利便性を調整しながら、もっとも生活しやすいようになっていった町並みです。そこには生身の人間同士の出会いがあります。現代人は、そのような出会いを避ける傾向がありますが、その結果、孤立した個人を多く生みだしてしまいました。それゆえに、都市計画のなかにも、人間と人間とが出会う空間をもっとつくるべきです。
10  ジュロヴァ なるほど。一つお聞きしたいことがあります。黒川紀章氏の建築的・都市計画的作品の基盤にある哲学についてです。それは、今日の世界において支配的になっている“機能的な建物”から失われてしまったヒューマニズムを復権させるのでしょうか。黒川氏の意欲的で創造的な考え方は、非常に魅力的です。なぜなら、氏は、みずから名づけた「文化間主義」の現代にあって、人間と自然、人間と科学技術、人間と歴史の間をふたたび結びつけたいと望んでいるからです。
 池田 黒川紀章氏の国際的な活躍には目を見張るものがあります。最近の例では、一九九三年に建てられたパリのラ・デファンスのパシフィック・タワーが有名ですね。氏の建築はつねに挑戦的であり、そのつど、時代的課題にも果敢に取り組んでおられます。建築だけではなく、書物やさまざまなメディアでも、積極的に発言されています。
 氏は、その活躍の最初期に、メタボリズムという考え方で、さまざまな提案や作品を発表しています。メタボリズムとは「新陳代謝」の意味です。この言葉から連想されるように、生体のイメージが意識されています。そこに、東洋的な生物と無生物の「共生のモチーフ」を見ることもできるでしょう。ただ、このメタボリズムの運動は、日本が経済成長の上り坂を高速で上昇していた時に全盛を迎えたゆえに、テクノロジーに対する信頼が強く意識されたものである、との指摘もしばしばなされるところです。
 メタボリズムに対して、それは、あまりにテクノロジーの未来に楽観的すぎる、と批判する動きが、イタリアの建築家たちから生まれました。たとえば、一九七〇年代終わりのレンゾ・ピアノ氏のポンピドーセンターですが、一見、メタボリズムとよく似て、テクノロジーを全面に押し出した形をとりますが、全面的に押し出したがゆえに、テクノロジーの限界を予見させるようなものに仕上がっています。
 ピアノ氏の作品は、その後、構造も、素材も、非常に軽やかなものに変わっています。鳥の羽根を模した関西国際空港のターミナルビル、自然を模したIBM巡回パビリオンなど、自然からの影響を受け、それによって自分の立脚点である建築の概念をも変えていこう、という意欲が見受けられます。
 いずれにしろ、今後の建築は、伝統と革新、自然と人工、民族的要素と国際的要素などの調和を図ることが必要です。そのためには、二元論的対立をこえゆく仏教の「空」の立場が大きな意味を持ってくると思います。
 ジュロヴァ 「レトロ(古風なもの)、伝統的なもの」の流行と、「未来学」への高まる関心――一見、矛盾する現代の二つの流れは、人々の失われた調和へのノスタルジーと、未来へ逃れたいとの願いを裏づけるものです。現代人が、苦闘しつつも根気強く、新しい文化を模索しているのは、おそらく、何とかして、この二つの調和を図ろうとしているからでしょう。

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