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日蓮大聖人・池田大作

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芸術のあり方  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

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2  池田 「現実」の概念がどのように変化したのですか。
 ジュロヴァ 「現実」は、人間の歴史的発展の結果であり、科学、技術、社会的諸関係の結果であり、あるいは、全般的な人間活動の結果である、とますます見なされるようになりました。芸術作品は、もはや、不変の外的・内的世界を映しだす「鏡」とは考えられず、人間と世界の関係の「モデル」(科学技術の分野から借用された用語)と考えられたのです。人間と世界の関係は、歴史的な時代状況や社会的構造に従ってさまざまでした。それに応じて、芸術作品も変化するととらえられるようになったのです。
 つまり、近代以降の芸術は、不変世界をそのまま映しだす“模倣”の行為ではなく、人間と世界との新たな関係に応じてつくり出す“創造”の行為となったのです。
 ゲーテは『ディドロの絵画に関する随筆への批判』の中でこう述べています。「自然と芸術の混合は、我々の時代の病である……芸術家は、自然のただ中でみずからの王国を見つけなければならない……それから発して、芸術家は第二の自然を創造しなければならないのだ」と。
 また、ドラクロアは、「芸術は模倣ではない。芸術は創造である。芸術は魂を培養しなければならず、芸術に教義を詰めこんではならないのだ」と書いています。
 ボードレールは、ゲーテやドラクロアが主張した“芸術とは「第二の自然」”から出発し、芸術作品は各々の時代に「モデル」を提供してきたと主張することによって、近代美学の基礎を打ち立てました。すなわち、芸術が、変転する自身と外的世界との関係を映しだすものであるならば、芸術によって、外的世界を創造し、変革することもできるのだと考えられるようになったのです。
3  池田 芸術をたんなる自然の写実ではなく、社会と人間との変化する関係でとらえる、歴史性のなかでとらえるということですね。
 ところで、ヨーロッパ芸術史のなかで、貴国ブルガリア芸術の位置はどのようなところにあるのでしょうか。
 ジュロヴァ ブルガリア美術は、ヨーロッパ美術の影響を受けました。ヨーロッパでおこったロマン主義が中世と東洋に、新古典主義が古代世界に目を向けたように、リアリズムはセンチメンタリズムと「芸術のための芸術」を否定し、その主題として現代の労働者たちを選んだのです。絵画のテクニックについては、リアリズムはあまり新しいものを寄与しませんでした(たとえば、ドラクロアやターナー)。それは、カラバッジョやオランダの芸術家たちが達成したものをしのいでいないからです。それにもかかわらず、リアリズムは一つの重要な問いを生じさせました。すなわち、芸術家の社会的使命の問題であり、ブルガリアの画家たちは情熱を持ってこれを支持したのです。
 ロマン主義とリアリズムの後に現れた印象主義は、芸術に第三の革命をもたらしました。印象主義は、リアリズムを受け入れる一方で、芸術の社会的機能は否定しました。
 新たな世紀の始まりとともに、ヨーロッパ各国の芸術学校で、社会の矛盾に対する社会変革への取り組みが行われました。ロシアのブーテマス・プロジェクト、ドイツのバウハウス(ワイマールの建築工芸大学)などでのプロジェクトです。ところが、これらのプロジェクトは、ファシズムによってその目的をさまたげられてしまいました。
 ポスト印象主義者は、社会矛盾の克服という先達たちが描いたユートピアを否定し、ふたたび、芸術の主題と形態のみに注目しました。
4  池田 ブルガリア芸術の展開はどうだったのですか。
 ジュロヴァ ブルガリア芸術は、芸術におけるこうした三つの革命(ロマン主義、リアリズム、印象主義)の後に、ポーランド人、チェコ人、ロシア人の助力によってヨーロッパの水準に達しました。
 ブルガリア芸術の発展は、多くの国民学派芸術家の交流によっておこったのです。巨匠ディミトロフ、イヴァン・ミレフ、および、「ロドノ・イズコウストヴォ(祖国芸術)」のサークルは、民族的な装飾様式を継承したブルガリアの画家たちが初めて統一的な努力をなした結果でした。これらの巨匠たちの作品は、すべて、肉体的、精神的完成を求める人間本来の戦いと結びついた、新しいタイプのヒューマニズムを映しだすものでした。三〇年代には、社会の矛盾の克服をめざす理念が、「新画家協会」によって受け入れられ、第二次世界大戦後の現代ブルガリア芸術の基盤を形成し続けていったのです。
 今度は、私から先生にお聞きしたいと思います。日本の美術とその精神的基盤についてうかがいたいのですが。
 池田 日本の伝統的な芸術には、必ずと言ってよいほど、宗教儀式や宗教的意味づけがつきまとっています。たとえば、能や舞踊は、本来、神前にささげられたもので、神道の影響を受けています。絵画で言えば、水墨画は禅の教えと結びついており、その画風は禅の境精神によって説明されています。
 もちろん、平安時代の絵巻には、宗教とは無関係の王朝の華やかさを表現したものが多いですし、江戸庶民の芸術にも、宗教とは必ずしも関係のないものも少なくありません。それでも、概して、西洋と同じく日本でも、芸術はその起源において、宗教的な情感の表現法の一つであったと思います。
5  ジュロヴァ ヨーロッパ人は、ヨーロッパの個人主義と合理主義にとらわれて、東洋人の創造と個性の感覚をしばしば見誤ってしまいます。おそらく私たちは、貴国のような強固に発展した集団意識、つまり、仲間に対する態度や、企業や会社の幹部に対して自己を抑制して集団に従う態度のことに目を奪われて、本質を見誤っているのです。私たちは、日本庭園や漢字のような謎めいたもののなかに、個人主義を破壊せず、尊敬を涵養し、責任と義務の感覚を維持してきた古来からの伝統があることを認識できないでいるのです。
 池田 古来、日本では自然が豊かなために、それを愛する心が発達し、川や森といった自然に“神性”を感じる精神風土がありました。日本仏教に、「草木成仏」という言葉があるのも、こうした精神風土が背景にあるのです。
 住居についても、床の間には生花や盆栽を置き、欄間にも多くの花鳥を刻み、襖にも多くは簡素な花鳥を描き、庭にも山水を築いたのです。
 日本庭園も、そうした自然に神性を見るところから生まれました。
 とくに、浄土宗では、極楽浄土を模して庭園がつくられました。平安時代につくられた平等院鳳凰堂が有名です。こうした庭園では、庭に流れる川を、彼岸(来世)と此岸(今世)の間に流れる川に置きかえて、家屋を極楽浄土の世界ととらえたのです。
6  ジュロヴァ 漢字はどうですか。
 池田 中国発祥の漢字は、まさしく、デッサンから始まっています。たとえば、山を表す文字は、三つの山が重なっている絵がもとになっています。さらに、「思う」「考える」などの抽象的な概念も、具象の事物を組み合わせてつくられたのです。
 日本では古来から、上手な字を書くことが教養の要件とされ、字を美しく書くこと自体が、書道という芸術となっております。そこでは、字とはたんなる意味や言葉以外に、その字を書いた書家の澄みわたった心にふれ、自分の心に平穏と清澄を得るという意味合いまで持つにいたっているのです。
 私は、こうした慣習の基底にあるのは、文字の力に対する一種の信仰とも言うべきものであると考えます。つまり、文字は人間がつくり出し、人間が使う一つの手段ではなく、本来、神的なものによって生みだされる神秘的な存在であり、現実の人間が生まれては死んでいく無常な存在であるのに対して、文字は不変の存在であるという畏敬の念があるのです。
 こうした文字に畏敬の念を生じさせたのは、中国、日本で用いられている文字が表音文字ではなく、象形文字に起源を持っているからではないかと思います。
7  ジュロヴァ なるほど。民族の精神性が、文字というコミュニケーションに表れていることを知り、東洋と西洋の違いを認識することができました。
 ところで、光と影のニュアンスに満ちた「墨絵」の絶妙な線は、まさに剣の一振りのようですが、ここで墨絵について説明していただけますでしょうか。
 池田 墨絵には、仏教の修行の一つである“禅定”の影響が色こく反映しております。墨絵は、“禅定”の修行を通して、意識の内面にある心象を凝視し煮詰めていき、一つの形象に託して、図画として表現したものです。つまり、精神的境地を具現化したのが、水墨画なのです。
 そこで描かれる図画にも、仏教の世界観が反映されています。たとえば、禅宗では基本的にはマンダラを使いませんから、このような図画を通して、その背後にある広大な世界を観じようとするのです。比較的多く描かれている山水は偈頌、花鳥は小宇宙を表しています。また、多色を使わずに、単色の墨を使うのにも意味を持たせているようです。それは、単色の墨でも、水にとかすことによってさまざまな微妙な色合いを持たせ、「一法から万法を生じる」という法理を表している、とすることもあるようです。そのため、墨絵などにも、微妙な線のタッチにいたるまで、神聖なものを表現しようとして、あのような光と影の芸術が生まれたのではないでしょうか。
 室町時代に発達した水墨画は、やがて雪舟が出てその作画技術を集大成し、禅画の制約を乗り越えて、日本的な水墨画様式を創造しました。
8  ジュロヴァ 私は、貴国の芸術が、何かを声高に宣言するようなものではないことに感銘を受けました。繊細なものに対する日本人の態度は、ほんのわずかなもののなかにも、世界全体を見いだしています。
 たとえば、「墨絵」の一筆は、自然全体と強く関係づけられているのです。
 芭蕉は、「絵の中に精神が存在すれば、すべてのことが語られたことになる」と記しました。
 日本の芸術の影響を少なからず受けたマチスは、次のような結論に達しました。「木を描く時には、木が育つのを感じなくてはならない」と。そうした感情を持つことができるのは、主体を客体から引き離さず、事物を精神から引き離さず、また、合理的なものを感情的なものから引き離さない時だけですが、これは、ヨーロッパ人にとってはほとんど不可能なことです。「二元論」を持つヨーロッパ人は、だいたいにおいて、分極的な考え方をするからです。
9  池田 博士が指摘された「ほんのわずかなもののなかにも世界全体を見る」という芸術のあり方は、たとえば、仏教の華厳哲学で説く「一即一切」、「一切即一」という法理に通じるものです。また、日本仏教に決定的な影響をあたえた中国の天台宗は、「一色一香無非中道」と述べております。道ばたに咲く一輪の花の中に、「中道」としての大宇宙が顕現していると見るのです。万物は、すべて大宇宙の働きの顕現であり、人間を含めたすべての存在は宇宙と一体です。
 私は、現代の人間がおちいっているさまざまな問題は、自然と人間、物質と精神などをあまりにも分離させる「二元論」と、深くかかわっていると考えています。自然破壊は人間と環境の分離であり、人間の疎外感は外部の環境と自身との分離がその奥底にあります。“疎外”の問題を克服するためにも、「一部分に世界全体を見る」という東洋の世界観が注目されることは重要なことだと思います。
10  ジュロヴァ 日本人にとって、自然は生命に満ちたものです。ヨーロッパ人にとっては、自然は死と生に分けられています。印象主義者たちだけが日本美術の影響のもとに、無常で変化しやすいもの……飛び過ぎゆく瞬間と、はかなさの美を称賛しながら、未完のもの、語られないもの、見えないものの魅力を感じ、それに魅惑されて信条を変えたのです。
 ヨーロッパ人にとって、日本家屋にある「空間」、生花の非対称性、能における動きの停止、茶会での平穏な親密さ、墨絵の白い空間、日本石庭の寂寥と「空間」は、魅力的であると同時に奇妙なものでもあります。私は、個人的には、ヨーロッパの豪華な花束よりは、生花の一本の花の方が好きですが。
 池田 日本家屋や茶会での平穏さ、石庭の空間などに見られる“空虚さ”についてですが、日本人の家屋には、いまだに床の間というような一見無駄に見えるスペースが和室にしつらえてあります。これも日本の宗教風土がかかわっていると言えましょう。
 近代合理主義では、「有」と「無」の二元論を主張しますが、仏教には「空」という概念があります。この「空」とは決して、何も存在しないという意味ではありません。「有」とか「無」とかいう概念は、人間の意識作用がつくり上げたもので、そのような、つくり上げられた概念にとらわれることなく、つねに、事物をありのままに見ようとするのが「空」です。
 そうした「空」という視座から、何もない「空間」にも意味を見いだし、その背景にある世界を感じようとします。それゆえに、人工的構造である家屋の中に、あえて、少ない数の花で構成された“生花”などの自然を入れこむのです。本来ならば豪華であるはずの将軍などの邸宅も、あえて小さく簡素につくります。
 こうして二元論的対立を超えようとするのです。
 また、日本人が自然を愛好する特徴をそなえるようになったのには、精神的な基盤があったこともさることながら、日本の気候が温暖で、風光がうるわしく、草木が人間にとって威圧的なものではなく、親和感をあたえたという一面を無視することはできません。
 日本人の自然愛好の態度は、いまだに残っています。ある調査によると、西洋の庭と日本の庭では、日本の庭を好きだという人が約八割もいるそうです。日本の伝統がどんどん滅んでいくのに、こうした伝統は消失していません。
11  ジュロヴァ 日本建築の伝統についてお話しになりましたが、私は、日本に滞在した時、京都と奈良を訪れたことがあります。貴国の方たちが、木が持つ力と質を尊んでいることの理由を理解するためには、京都と奈良の木造寺院を見る必要があります。しかし、私はそこで、ヨーロッパ人が初めて日本の家屋に入った時に感じる、空虚さといったものにとらわれました。そのまばらな内装は、存在するものとしないものとの間の、占有された空間と空いた空間との間の、実現されたものとされていないものとの間の、そして、おそらく肯定的なものと否定的なものとの間の、そしてついには、話されたものと話されていないものとの間の、信じられないほどのバランスを示唆していたのです。
 次の言葉が思い起こされます。
 「三十の輻は一轂を共にす。其の無に当りて車の用有り。埴を挺(かた)めて以て器を為る。其の無に当りて器の用有り。戸牖(こゆう)を鑿ちて以て室を為る。其の無に当りて室の用有り。故に有の以て利を為すは、無の以て用を為せばなり。
 ――輻は一つの轂の空虚な部分に集中している。その轂の空間部が軸を通しているからこそ始めて車輪はその働きをなすことが出来るのである。粘土をまるめて器を作る。その器は中の空間部があればこそ物を容れるという器の働きが果たされるのである。また戸や窓をあけて室を作るが、室というものは人を容れる空間部があればこそ室としての働きをなすことが出来るのである。このような訳であるから、有すなわち存在するものが人々に利をもたらすのは、無すなわち存在しないもの隠れたるものが働きをなすからである」(前掲『老子』)と。
 近代科学の進歩は、人々に、目に見えるものが即現実世界の反映であるとするのは幻想にすぎないことを教えてくれました。
 池田 その最大のものの一つは、フロイトによる「無意識」の発見ですね。「理性」の背後に、「潜在意識」という不可視的なものがひそんでいる。「意識」の底にある広大な「深層意識」の領域が、近代の心理学者によって洞察されていますね。
 ジュロヴァ ルネサンス以来の伝統であった人間中心主義的な美術は、再評価にさらされました。“感覚的”、“理性的”なものとは何かということが問われ始めたのです。パウル・クレーの言葉を借りれば、「見えざるものを見ゆるものにする」ことです。
 ヨーロッパの人々は、物質科学の飛躍的発展が文明をますます客観的で抽象的、機械的にしていくのを見て、不安におちいりました。彼らは、内面生活、感受性、想像力の生き生きとした源泉を守るために、東洋に広大な源泉を見いだそうと考えたのです。
 池田 その延長上で、西洋の芸術家たちは、中国や日本の芸術を発見したのですね。それは、一八六七年のパリ万国博覧会で百枚の日本の浮世絵が展示されたのと、時を同じくしていました。マネ、ドガ、モネ、ゴーギャン、ゴッホらは浮世絵に圧倒されました。絵筆の一筆が、あらゆるものを表現できるように思われました。後に、アンドレ・マルローは、日本の風景画を「無からなる風景画」と呼ぶようになります。
 日本美術は、ゴーギャンなどの画家たちの芸術的な言語やモチーフに影響をあたえたのと同じく、彼らの構図の原理にも影響をあたえました。日本美術は、彼らのカンバスの構成を変え、画家たちの視野を広げたのですね。
12  ジュロヴァ 西洋美術が日本にあたえた影響は、どうですか。
 池田 近代以降の日本の美術も、なかには、もっぱら、日本古来の伝統的画法を守り続ける流派もありました。その一方で、日本の伝統的なものを無視して、もっぱら、西洋美術を吸収し、模倣することをもって事足りるとする人々もいました。
 しかし、それらの中間にあって、日本古来の精神的なものと、西洋の写実的な画法との融合により、新しい境地を開拓した人々がいます。近代日本の画家のなかでは、私が尊敬する一人である横山大観は、西洋の画法を取り入れ、そこから学びながら、日本人の心を力強く表現しようとした人です。
 また、最近亡くなられた東山魁夷画伯は、東洋と西洋との融合を実現していますが、横山大観が日本的なものを非常に力強く表現したのに対して、静寂さ、清澄さのなかにそれを見事に表現しています。
 しかし、西洋と東洋がたがいのよい点を学びあい、吸収しあってきた歴史のなかで、まだまだたがいの文化の背景となったものに対する理解が足りず、“外物”だけが行き交い、その中身の精神性の理解が抜け落ちることが多いのは、まことに残念なことです。
 日本の美術が、西洋の宗教的土壌を理解することなしに、たんなる美の外形だけの輸入にとらわれることもありました。その一方で、日本人の宗教性が歴史のなかであたえた影響性が深く考慮されることなく、日本の美への礼賛が偏頗な東洋礼賛につながることも危険なことです。
 そのために、私は、この両方の芸術圏がさらなる理解のために、その背景となる精神性を深く理解すべきだと思います。
13  ジュロヴァ 私の知るかぎり、仏教芸術は、自発的で創造的なほとばしりによって、内向的な啓示をもたらします。日本の芸術は、静かで抽象的な瞑想に限定されてはいません。おそらく、日本の芸術は、少なくとも第二次世界大戦前には、ヨーロッパ的な創造的な活動性を示していたのではないでしょうか。
 私の考えでは、世界的レベルでの日本の芸術のきわめて重大な貢献は、その“実際性”であると思います。美に対する卓絶した“絶妙さ”と、鋭い感覚が、現代の日常生活のなかにも明らかに見受けられます。貴国にとって、美は、つねに具体的なものなのです。そして、こうした理由から、貴国の芸術は、第二次世界大戦末期からヨーロッパとアメリカの芸術に刻印された反美学的な動向には従わなかったのです。
 池田 『法華経』が日本の文化、とくに、芸術にあたえた精神的影響については、第二章で紹介しましたが、『法華経』には、「治生産業、皆、実相と違背せず」とあります。現実の生活のすべてが仏教なのだと説いています。仏教は、日常生活、社会生活のなかに反映すべきであることを訴えています。日本の芸術についても、生活のなかに芸術が積極的に取り入れられているのは、そうした仏教が教える精神基盤に通じるものだと思います。
 ジュロヴァ 世紀の転換期にあって、文化に対しては二つの顕著な傾向が見られました。一つは文化を統合するものであり、もう一つは自国の文化の特徴を保持するものです。ブルガリア国民学校が創設されたのは、まさに、後者の観点からでした。
 「自己のもの」と「自己以外のもの」との区別は、昔からよく知られたものでしたが、それが、「ナショナル」か「インターナショナル」かのジレンマとして表れました。自分自身の伝統の内部での発展を追求するのか、あるいは「私たちのでないもの」を浸透させるために門を開くのかということです。十九世紀末に、ヨーロッパのナショナリズムの真っただ中で、典型的なスラブ的な感情を失うおそれから、ロシアの作家の幾人かは、「ロシア的であること」を強めたのです。
 しかし、自己の革新がなされるならば、つまり、新しい動向が各国の伝統のなかに吸収されるならば、いかなる発展も可能です。一九〇〇年代に、伝統的なものと前衛的なものとの“絆”をつくったのは、革新だったのです。
14  池田 そのとおりです。「ナショナルなもの」と「インターナショナルなもの」を創造的に超克していく試みのなかに、独自性を保ちながらも、世界性、普遍性を包含した作品ができ上がっていくのだと思います。
 ジュロヴァ 二十世紀末の現在、ものごとは大きく変化してきましたが、芸術が本来持っている役割が、別のものにとってかわられたとは思えません。現在、現代社会における“神経組織”は、経済市場や情報システムによって構成され、権力もまた市場によってもたらされ得るようになっています。そのような時にあたり、芸術は、愛情の心をもって合理的な理性を統一することを訴える義務を負っています。個人的な貪欲を克服し、忘れてしまった知恵を回復し、精神的覚醒を訴えることによって、それは達成されるでしょう。
 私は、芸術が、精神的完成への手段としての役割を持っていることを信じています。それこそ、芸術本来の役割であり、芸術は、“善”の名において、人々を結びつける努力に貢献しなければならないのです。

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