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日蓮大聖人・池田大作

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民族と言葉  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

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1  池田 一九八一年、貴国を訪問したさい、五月二十四日の「文化の日」の華麗なパレードを見学しました。その日は、スラブ文字の創始者であるキュリロスとメトディオスの兄弟を記念して設けられた祝日とされています。
 ジュロヴァ キュリロスとメトディオスの兄弟はブルガリアの誇りです。彼らによる文字の創案は、ブルガリアはもちろんスラブ民族の文化の曙です。
 池田 彼らが最初のスラブ文字、すなわちグラゴール文字を創案したことは、よく知られております。またソフィア大学は「クリメント・オフリツキー記念ソフィア大学」と名づけられていました。
 このオフリド(現在はマケドニアの一都市)のクリメント(クリメント・オフリツキー)は、キュリロス・メトディオス兄弟の弟子で、グラゴール文字に続いてつくられたキリル文字の普及に大きく貢献しました。
 私は、この二つの事例を通して、ブルガリアの人々が、文化、なかでも母国語というものをいかに大切にし、誇りとしておられるかを痛感したものです。
2  ジュロヴァ キュリロスとメトディオスの弟子の生涯と、彼らを取りまく伝説が今も残っています。
 池田 クリメントの作とも言われる二人の伝記が、『コンスタンチノス(キュリロス)一代記』と『メトディオス一代記』ですね。
 ジュロヴァ キュリロスは、キリスト教の教義に精通した優れた神学者であり、詩人でもあり、また世俗的な知識の称賛者でもありました。兄のメトディオスは、ビザンチン帝国内のスラブ地域の統治者として、また小アジアのビタニアのポリクロン修道院の大修道院長として、ビザンチウム(コンスタンチノープル)に拠点をかまえていました。
 池田 兄弟が活躍した九世紀ごろには、ポーランドやハンガリー、オーストリアにまで広がる大モラビア国がありましたね。モラビア(モラバ)は、現在では、チェコ東部の地域の呼び名です。
 ジュロヴァ その王ロスチスラフが、ビザンチン教会に主教の派遣を求めたのに対して、送った使節がキュリロスとメトディオスの兄弟だったのです。
 池田 王は要請にさいし、自分たちスラブ民族の言葉で布教できる人を求めていた。しかし、スラブ語を表記する文字がなかった。そこで、キュリロスらは文字をつくるという大きな課題を担いました。
 ジュロヴァ この二人の兄弟の並はずれた才能と博識は、まったく新しい文字の創案という形で表現されたのです。この創案は、「書体」の歴史においては、ほとんど並ぶもののない偉業でした。
 池田 キュリロスとその協力者たちがつくったグラゴール文字は、ごく少数の例外はありますが、当時のスラブ語の一音に一文字を当てた表音文字ですね。じつによく音声的特徴をとらえたものだと評価されています。
 ジュロヴァ グラゴール文字は、ブルガリアの話し言葉の音を、スラブ語の古い西南地域、テッサロニキ周辺の方言で伝えています。その文字体系はきわめて精密なものです。
 池田 テッサロニキは兄弟の出身地ですね。
 ジュロヴァ はい。テッサロニキの多くの市民と同じく、彼らは、ギリシャ語とスラブ語に精通していたのです。
 グラゴール文字は、きわめて独創的なものです。おそらく、ギリシャ文字、ラテン文字をはじめ、コプト文字、ヘブライ文字など、さまざまな文字から示唆を受けたと思われます。
 エミル・ゲオルギエフ教授と、フィンランド人の学者ヴァレンティン・キパルスキーは、文字の創造は個人的な霊感による行為であり、スラブ文化の自律性を示すものであると指摘しました。また、ゲオルグ・チェルノーヴォストフは、キュリロスとメトディオスの布教という観点から、次のことを指摘しました。
 それは、個人的霊感によって創案された彼らの文字の基礎は、キリスト教信仰の三つの基本的なシンボル、すなわち、十字架(キリストのシンボル)、三角形(三位一体のシンボル)、輪(父なる神の無限性と全能のシンボル)を含んでいるということです。
 池田 興味深い指摘です。その仮説が正しいとすれば、新しい文字には創案者の深い信仰がこめられていたと言えるでしょう。
 ジュロヴァ グラゴール文字に、ヘブライ文字やラテン文字、ギリシャ文字などとは異なる音を導入することは、複雑に入り組んだ難問でした。
 私が感銘を受けたのは、よく知られたヘブライ文字、ラテン文字、ギリシャ文字をしのぐ書の体系を創造しようとし、その体系に、スラブからキリスト教への急激な改宗のさいに用いるのにふさわしい、複雑な「意味論」と「形象」をあたえようとしたキュリロスの試みです。
3  池田 学者らしい深い洞察です。当時すでに、キリスト教の聖典に用いられていたヘブライ文字、ギリシャ文字、ラテン文字におとらぬ優れた文字を生みだし、スラブ民族に信仰を伝えようとしたのですね。
 ジュロヴァ 彼らの残りの人生は、スラブ文字とスラブ文化の正当性を、ヨーロッパに打ち立てるための絶え間のない闘争に費やされました。
 池田 既成勢力であった(カール大帝の)フランク教会などの妨害があったのですね。当時のフランク教会はアルプス以北に大きく広がり、ローマ・カトリック教会にも肩を並べる勢力でした。しかし民衆は、自分たちの言葉、スラブ語での典礼を支持していた。
 ジュロヴァ 二人は、グラゴール文字を創案した後、弟子の助けを借りて基本的な典礼書の翻訳を行いました。
 池田 ところが、キュリロスは、ローマ教皇の招きに応じて訪れていたローマで亡くなります。兄のメトディオスは、種々の迫害を受けても屈せず、弟子たちとともに宣教を続け、翻訳事業を進めました。兄弟の死後、迫害が強まり、弟子たちはモラビアを追放され、ブルガリアへと逃れます。そして、王ボリス一世の保護を受け、首都プリスカに迎えられました。クリメントは、ボリス一世の子シメオン王の時、新たに首都となったブルガリア東部シュメン近くのプレスラフと、現在ではオフリドを中心とするクトミチェヴィツァ地方で事業を続行しました。
 この時代に、新しい文字がつくられ、これに師のキュリロスの名を冠して「キリル文字」としたとの伝承は有名です。この文字がスラブ民族に広く用いられていきました。このことから、ブルガリアが「スラブ語の故地」とされます。クリメントはオフリドに派遣され、ブルガリア人聖職者の育成を任されました。そこから、「オフリドのクリメント」と呼ばれるようになりますね。
 ジュロヴァ 八九三年に、プレスラフで、シメオン王によって「全キリスト教宗教会議」が開催された折、キリル文字が正式に承認されました。
 池田 同年、クリメントは、最初のブルガリア主教となってプレスラフへ移り、プレスラフ派がブルガリア文学の「黄金時代」をつくり上げました。
 ジュロヴァ キリル文字は、グラゴール文字を非常に厳格に変換したものです。大半の文字は、ギリシャ語の大文字のウンキアリス(アンシャル)体から借用されています。そして、ブルガリアの音の表記に適合させた残りの八文字は、グラゴール文字の様式を変えたものです。
 池田 すでに慣れ親しんでいたギリシャ文字を基調として、馴染みやすくしたのですね。
 弟子たちは、この文字をもって聖典、典礼書を相次いで翻訳するとともに、創作活動も活発に行いました。
 ジュロヴァ グラゴール文字に置きかわったキリル文字は、王室の勅令で用いられたギリシャ文字とラテン文字に近いものでした。そして新たな文字は、聖職者によって、また王室の文書室の中で急速に採用されたのです。
 池田 実用的だったのですね。ちなみに、その後、グラゴール文字はどうなったのですか。
 ジュロヴァ グラゴール文字の生命は短いものでした。グラゴール文字は、南スラブ人が住む地域ではキリル文字に、また西スラブ人が住む地域ではラテン文字に、たちまちとってかわられたのです。
 グラゴール文字は、バルカン半島の西の一部のボスニアとヘルツェゴビナだけで、今日まで維持されてきました。主としてダルマツィアのアドリア海沿岸です。そこではグラゴール文字は、ラテン文字の影響下で大きく変形しています。
 池田 ダルマツィアとは、現在のクロアチア共和国の南東部ですね。ところでスラブ文字の歴史を見ると、民族の独立性と言語が密接にかかわっていることを深く実感します。
 ジュロヴァ 現在、スラブ語は、すべてのスラブ民族を統一するために中世に現れた、スラブ各民族を超越する国際的な言語と考えられています。そこで古代ブルガリアの文学は、「パラダイムの文学」と考えられます。
 池田 スラブ文字の誕生が、スラブの各民族に、同じ一つのスラブ民族としての自覚と誇りをもたらしたのでしょう。それはまた、ブルガリアで勃興したスラブ語による文学が、スラブ人にとっては当時の既成勢力だったビザンチンとラテンの両文学から抜け出し、それらと並ぶものとなったということですね。
 それまでは、スラブの地の文化は、ビザンチンとラテンの二大文化に追随するものでした。ブルガリアでは、どのような経緯をたどっていますか。
 ジュロヴァ 影響力のおよぶ範囲をめぐる、ローマ・カトリック教会とコンスタンチノープル(ビザンチウム)の正教会の闘争は激化し、九世紀半ばには、最初のカトリックの宣教師たちがブルガリアにやって来ました。ブルガリアは、ローマ教会かコンスタンチノープル教会か、どちらかを選ばなくてはなりませんでした。
4  池田 二大勢力の狭間にあって、ボリス一世がたいへんな苦労をされたことは、第一章の「ブルガリアにおけるキリスト教の受容」のところでお聞きしました。たいへん重要なところですので、要約の形でもう一度、語っていただけますか。
 ジュロヴァ ボリス王は、八六〇年代の初めに、ゲルマンの取り次ぎによって、キリスト教をローマ教会から受容する用意があると表明したことが知られています。この動きはビザンチンの軍事介入を招き、ビザンチンの聖職者たちはブルガリアの支配者たちに、八六五年にキリスト教に公式に改宗することに同意するよう強いました。
 ボリスはまた、新たに創設される教会はコンスタンチノープルの総主教に従属することにも同意しました。しかし八六六年、そのわずか二、三カ月後に、ボリスは教皇ニコラウス一世に使節を送り、ローマ教会との絆を結びましたが、これは十年以上、続きました。
 池田 ブルガリア国民にとって、いちばんよい方向を、と真剣に模索している苦労が伝わってきます。
 ジュロヴァ ボリスは、ローマ教会が普遍的な覇権を望んでいることを利用して、ブルガリア教会の自治を勝ち取ることに成功し、またキュリロスとメトディオスの弟子を受け入れ歓迎することによって、ブルガリアを「スラブ文化の揺籃」「スラブ文化の故郷」に変えたのです。
 ブルガリアでは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語に加わった第四の「聖なる」言語は、キュリロスとメトディオスの弟子たちによって、九世紀と十世紀に完全に確立されました。その弟子とは、クリメント、ナウム、アンジェラリー、サヴァ、ゴラズドでした。これを最後に、ブルガリアの教会では、ラテン語とギリシャ語による二重の支配が廃止されたのです。
5  池田 文字の発明によるスラブ語の確立が、ギリシャ語のビザンチンにも、ラテン語のローマにも服従しない“第三の道”“自由の道”をひらいたのですね。
 ジュロヴァ ボリスとシメオン治下での国家とその文化は、東方正教会を擁護するという決定を下しました。彼らの目的は国家のアイデンティティーを失うことなく、ビザンチンの高度な文明に順応することでした。こうして彼らは、きわめて重要なものを達成しました――言語と信仰の相互関係を基盤とした、国家の精神的統合を達成したのです。
 池田 その意義は、たんにブルガリア一国の問題ではありませんね。スラブ民族全体に当てはまるものです。
 ジュロヴァ そのとおりです。ブルガリア文学は、ビザンチン世界とスラブ世界の仲介者にすぎない、と考えるのでは不十分です。ブルガリア文学は、スラブ世界全体の文学のための「新たなモデル」でもあったのです。
 池田 スラブ民族ならではの文化の枠組みをつくったのが、ブルガリアの人々であった――。文字をつくったことを記念し、今も「文化の日」としている意味がよく分かりました。
 言葉こそ武器です。精神を隷属から解放する武器です。内面からわき上がる言葉があれば、たとえ身は従えられても心は自在です。貴国の、いわゆる“ブルガリア・ルネサンス”から“四月蜂起”にいたる過程での民族意識の高揚にも、同じような言葉への渇望があったように思われます。
 ディミートル・ターレフの小説『鉄の燈台』は、母国語への渇望をリアルに描きだしております。その中に、ギリシャかぶれの裕福な商人アヴラムと、愛国青年ラザルとの、こんな会話が出てきます。
 「わたしたちはわたしたちの言葉をちゃんと持っています。なんで他国の言葉を使わねばならないのです?」
 「わしらのはがさつな言葉だ……ギリシア語はちがう」
 (中略)
 「だれでも自分の母語は大事にしなければいけないのですよ、アヴラムおじさん、たとえそれがどんなものであろうとも。それにわたしたちの言葉はがさつでないし、わたしたちにとってはそれなりにきれいなのです」(松永緑彌訳、恒文社)
 このやりとりは、やがて教会で、学校で、読書室で、誇らかにブルガリア語で語り論じあうであろう民衆の姿を彷彿とさせております。
 本来、母国語とは、子守歌のようにいつも身近に響いているものです。それを自由に使えない苦痛がどれほど大きいか、また、どれほど使える自由を求めていたことか、よく分かります。
 ジュロヴァ 私たちブルガリア人に関するかぎり、すでに議論してきたような歴史的状況のために、言語と民衆の関係は非常に強固でした。また、トルコ支配の間には、言語と国民意識の関係、および言語と教会の関係も、実際、非常に強固なものでした。おそらく、こうした関係のために、私たちは母国語を軽視することがなかったのでしょう。
6  池田 旧ソ連を中心とした東欧の体制がくずれ、ブルガリアも民主化し、西欧をはじめ世界各国との交流が活発になっていることと思います。そのなかで、言葉をはじめとするブルガリアの純粋な文化を伝承するには、いろいろと努力が必要ではないでしょうか。
 ジュロヴァ 確かにそうです。たとえば、具体的には、ブルガリアで大学に入学するさいには、ブルガリア語の試験が行われます。また、ラジオ、テレビ、新聞や定期刊行物などのマス・メディアは、ブルガリア語にも適当な言葉があるのに外国語を不必要に受け入れていないかどうかをチェックするために、定期的に言語の純粋性について議論しています。
 池田 日本では、新聞やテレビなど影響力の大きいマス・メディアが、率先して、外国語の音だけ写したままカタカナ言葉を用いています。明治初期には、すでにある要素で新しい言葉をつくる力がありました。たとえば「哲学」「人権」「電話」などの新しい言葉がつくられました。しかし現在では、そのような力が落ちているように感じます。また、すでに適切な訳語となる日本語があっても、主として商業主義的な理由から、あえてカタカナ言葉を用いる傾向もあるように感じます。
 ジュロヴァ そうなのですか。言語の純粋性を守ろうとする姿勢は、ブルガリア人の基礎的な特性であり、過度の国際化のプロセスから自分たちを守りたい、という先祖返り的な本能に近いものです。とは言え、このような戦いをいつまで続けられるかは別問題です。
 これと関連して、ブルガリアの学校、大学、科学アカデミーの言語部門でも、多くの改革が計画されています。
 専門的な学校が創設されていますが、そこにはラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語などの他の古典的な言語と並んで、古代ブルガリア語を研究する高等学校も含まれています。
7  池田 ブルガリアの歴史は、言葉というものが、いかに人間そのものに深く結びついているものであるか、言葉を奪われることは精神の死にも等しいことであるか、を物語っています。日本でも、古来、“言霊信仰”ということが言われてきました。言葉には霊が宿り、その言葉を口にする人の意志を実現する霊力がそなわっている、というのです。そこには、かなり呪術めいたものも入りこんでいるのですが、反面、一口に未開の産物と片づけられない面もあります。言葉というものが、人間が生きていくうえでいかに不可欠のものであるかを、示してもいるのです。
 ジュロヴァ 言葉のなかに宿る霊魂は、奇跡を起こす作用をします。一方、言葉がないということは、霊魂の死を意味します。「読み書きのできない魂は死んだ魂である」と、キュリロスは言いました。
 古代ギリシャ的な「ロゴス(言葉)」は、しっかりと固定した「存在」を表しますが、キリスト教の言葉は、「存在」をダイナミックな「実在」に置きかえました。その「実在」は、メシア(キリスト)の降臨によってみずからを顕現したのです。
8  池田 元来、自然の内にそなわる「法」である「ロゴス」が、「いのち」ある「人」となって、生き生きと「現実」にかかわってきたのですね。仏教でも、「法」は常住であるが、それを覚知した「人」すなわち「仏」によって説き示されて、人々と社会にとって価値あるものとなる、と考えます。
 日蓮大聖人は「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」と説きます。真理は、それを体現する人があればこそ価値を生みます。
 ジュロヴァ 中世キリスト教の人生観においては、「ロゴス」は、世界が現実であるのと同じく現実であったのです。この理念は「ヨハネによる福音書」の冒頭に表現されています。「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」と。
9  池田 仏教の視点から見ても、普遍的真理(不変真如の理)と、それを覚知し、この世の現象世界へと表される智慧(随縁真如の智)は、真理(真如)として不可分です。哲学的表現としてよく理解できます。
 ジュロヴァ 東洋では、言葉は真理を表現することはできないと言われていますね。なぜなら、世界は運動(道)だからです。「ブッダの言葉は沈黙である」と言いますね。一つの言葉、同じ言葉が、同じように響くことは二度とないからです。
 池田 仏の言葉の多くは、おっしゃるように、語りかける相手(対告衆)の理解能力(機根)に応じた教えであり、その瞬間にもっとも適切な表現をとったものです。いわゆる「対機説法」です。また人々の苦悩を「病」に、そして仏の説法を「薬」にたとえれば、「応病与薬」とも言います。しかし、その基礎には、覚りの真実(真如)の裏づけがあるのです。
 個々の言葉の奥底に横たわる普遍的真理は、全体的、総合的なものです。それゆえに分析的な表現ではとらえきれません。そこで「言語道断」と言われるのです。しかし、「普遍的真理」そのものも、何らかの表現方法で説き示されなければ、人々に伝えることができません。
 そこで、「直観知」でとらえた「真理の全体」を余すところなく納めた「表象(シンボル)的言語」によって、説き示されるのです。
 ジュロヴァ 東洋の哲学者たちによる「イメージ」の使用は、言葉への態度を決定づけ、象形文字を出現させることになりました。象形文字においては、言葉の意味よりも事物の本質の方が重要なのですね。
10  池田 興味深い見方です。とはいえ、象形文字に由来する漢字の意味する内容は、絵記号、絵文字とは異なり明確です。漢字は、一定のまとまった概念を総合的に示すものと言えるかもしれません。漢字のこの微妙な機能は、おそらく東洋哲学の土壌とかかわりがあるものでしょう。
 ジュロヴァ この関連で私が指摘したいのは、歴史的な見地が大事だということです。とくに、中世においては、人間の生を解釈する枠組みの中で、言葉はきわめて重要な意味を持っていました。
 ところが、ヨーロッパの啓蒙期に、言葉は、「神の創造という根本的な行為」から変質したのです。言葉へのこうした傾向がブルガリアで生じたのはかなり遅く、ようやく十九世紀後半になってからでした。先生が、ブルガリアの民族復興期から引用された例のなかで、母国語がいまだ聖なるものと考えられているのは、こうした理由からです。
 池田 文字は言葉の表記であり、言葉は内面の心の表出です。キュリロス、メトディオスらに関連して、もう一つ私が注目するのは、文字が生まれ、文学の台頭をもたらした精神的支柱として、宣教という目的に結ばれた師と弟子という人間の絆があったことであります。“師弟の絆”は、人間のつながりのなかでもっとも尊く、強いものであると考えられております。
 ジュロヴァ 師弟の関係は、ブルガリアがキリスト教に改宗した後の最初の数十年間は神聖なものでした。この絆は、キュリロスとメトディオスとその弟子たちの間にはっきりとうかがわれます。彼らは、師匠が生涯をかけた仕事を完成し、その宣教活動を続けたのです。
11  池田 師匠が手がけた大事業を継承し、聖典のスラブ語への翻訳を完成し、スラブ語による宣教を広げていったのですね。
 ジュロヴァ またキュリロスとメトディオスの弟子たちは、自分たちの伝記を『最初の使徒』という形で作成し、その仕事をさらに進め、完全なものにしたのです。こうした関係は、次の世紀にも見られます。十四世紀には、総主教エフィティミーの弟子であるグリゴリイ・ツァンブラクと、十五世紀初めにモスクワの府主教になったキプリアンが、彼らの師匠の伝記を作成し、その活動と英雄的な死について書き記しました。
 池田 師の優れた業績を記し、その偉大さを永遠にとどめようとしたのですね。
 ジュロヴァ 他方、十六世紀には、教皇ペヨとマティ・グラマティクが、彼らの弟子ゲオルギ・ノギとニコラ・ノヴィの伝記を作成しました。ノギは東方正教会の信仰を弁護したために火あぶりの刑になり、ノヴィは石で打たれて死んだのです。このような師による弟子の宣揚は、師弟の絆にはヒエラルキー的なドグマが存在しないことを明確に示すものです。
12  池田 優れた弟子について、師匠が記録を残した例ですね。師匠は本物の弟子には、じつに厳しいものです。同時に、じつに温かいものです。師弟とは“全人格的なかかわり”です。それゆえに一点の妥協もなく厳格であり、それゆえに一点の迷いもなく深い信頼で包まれています。最高の人間関係です。
 ジュロヴァ 師匠を持つ人は幸福であり、自分は彼の弟子だと言える人はもっと幸福です。しかし、もっとも幸福なことは、師匠から弟子と呼ばれることです。
 池田 本当にそのとおりです。師匠として、真の弟子に出会えることほど幸せなことはありません。弟子にとって、その師匠の弟子として、その師の教えを実践できることほど、うれしいことはありません。そして、敬服する師匠に弟子としての実践を認められることに勝る喜びはありません。
 ジュロヴァ すべての人が師匠にめぐり会えるわけではありませんね。“師弟の絆”は、血縁と同じように強いものです。
 池田 そのとおりです。仏法では、“師弟の絆”は三世永遠にわたるものだと説きます。
 ジュロヴァ 私は、教師については非常に幸運に恵まれたと思います。古代ブルガリア文学とフォークロアの分野でもっとも優れた専門家であるペーテル・ディネコフ教授は、私を、すでに三十人以上いた彼の弟子たちのサークルに参加させてくれました。
 また、旧ソ連におけるビザンチン芸術の傑出した専門家である、モスクワ大学のヴィクトル・ニキティチ・ラザレフ教授からは、仕事の仕方を教えていただきました。また、ブルガリアのみならず、世界的に名高い歴史家でありビザンチン学者であるイヴァン・ドゥイチェフ教授からは、私は、芸術史の研究は重要なものであること、そして文化史の研究は、感情を交えずに行われるべきだということを教えていただいたのです。こうして、最初の教師たちがあたえてくれた教訓は、のちのちにまで、私の研究生活のなかで役立ちました。
 一方、ヴィクトル・ニキティチ・ラザレフ教授は、非常に早く、七六年に亡くなりました。亡くなる前、私は幸運にも、彼と長い時間話をする機会を持てました。のちに、同じく幸運にも、イタリアで出版された著作『ビザンチン絵画』の中のブルガリア写本に関連する訂正を見ることができたのです。
13  池田 博士は、師の恩に報いるために、今も尊い努力を重ねられている。尊いお心です。私も、恩師戸田城聖先生のお心を体して今日まで歩み続けてまいりました。
 ジュロヴァ 教師は、たんに知識をあたえる人ではありません。知識ならあらゆる方法で得ることができます。教師は方法を提供するのです。そして、それを習得し、さらに発展させる人がいれば、その人は彼の弟子になるのです。
 池田 まったく同感です。師匠の精神を継承し、新しい時代にあわせてその精神を生き生きと表現していくのが弟子の役目です。師匠の開いた道をさらに広げ、整備し、万人が安心して歩めるものにしていく。また、師匠が示した方向へさらに新しい道を切りひらいていく――それでこそ、真の弟子です。
 ジュロヴァ この意味において、“師弟の絆”の特性は、知識に関するものというよりは、むしろ精神的なものなのです。そして、人間自身の人生観に結びついているものです。
 池田 “師弟の道”こそ、人生を歩む羅針盤であり人生の基盤です。師弟の道でこそ、人間はきたえられ、みがかれます。深い人生観、人間観、世界観も構築できるのです。
 ジュロヴァ こうした観点から言えば、身近にだけではなく、遠くに師匠を持つこともできます。それで、私は、マルクス、エンゲルス、レーニン、ディミタル・ブラゴエフ(ブルガリア共産党の創始者)、ゲオルギ・ディミトロフの弟子であり信奉者なのです。
 池田 遠くの師匠と言えば、私は仏法者としては、釈尊や日蓮大聖人の弟子であり信奉者です。近くで言えば、創価学会の初代会長牧口先生、第二代戸田先生は、私の永遠の師匠です。師匠が示した永遠の真理に生きぬく道こそ、弟子の道です。師弟の心からの叫びは“獅子吼”です。獅子の雄叫びが百獣に響くがごとく、人々の心を動かし、時代を開きゆくのです。
 師匠の言葉は、“永遠の真理”です。まさに「ロゴス」です。それは、すべてを開く原始の言葉です。その原点を持つ人は、不動の境地に立つ人です。無限に開けゆく人です。

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