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日蓮大聖人・池田大作

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『法華経』とブルガリア写本  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

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1  池田 昨秋(一九九八年十一月)、東洋哲学研究所では、『法華経』のサンスクリット語(梵語)原典写本などシルクロードの貴重な文献を紹介する、「法華経とシルクロード」展を開催しました。世界的な学術機関・ロシア科学アカデミー東洋学研究所(サンクトペテルブルク支部)のご協力を得て実現しました。
 同研究所が所蔵する写本・木版本コレクションのうち、ペトロフスキー本など、とりわけ貴重な四十七件が展示されました。ペトロフスキー本は、カシュガルで入手されたものなので、カシュガル本とも言います。『法華経』研究の重要な資料であり、訪れた多くの仏教学者のなかには“生きていてよかった”との感想を述べた人もおりました。
 ジュロヴァ それは、すばらしいですね。私は拝見できずに非常に残念です。
 帝政時代のロシアは、シルクロードの調査を世界に先駆けて実施しました。同研究所は、その伝統を受け継ぎ、数多くの文物を収集・所蔵し、大きな研究成果をあげています。所蔵文献は、質量ともに大英博物館、パリの国立図書館と並び称されるものです。
 池田 博士は写本研究においても、世界的に有名な方です。本当にご覧いただきたかった。私は数々の人類の知的遺産を目の当たりにして、深い感動をおぼえました。
 ジュロヴァ 書物は尊い宝です。人間の魂です。中世ブルガリア文学は、書物一般への賛辞をもって始まりました。スラブ文字を創案したキュリロスは、「一冊の書物も持たない人は、皆、裸である」と述べています。また『福音の宣言』には、「読み書きのできない魂は死んだ魂である」とあります。
2  池田 吉田兼好は『徒然草』で、書物を「見ぬ世の友」と位置づけています。この呼び名は、さまざまな書物の写本の断簡をつづって、書道の手本にした書の題にもなっています。「書かれたもの」は、時を超えて心を伝え、心をつなぐものであるからでしょう。
 また、中国の哲人は「知己を百年の後に待つ」として、先駆的な自身の思想が、たとえ同時代の人に受け入れられることがなくても、後世の人に自身の真価が認められることを信じて、書物を著しています。書物は、永遠とつながる扉であり、無数の友情を結ぶ絆です。今回の展示品のほとんどが国外初公開のものでした。まさに「見ぬ世の友」との出あいでした。
 ジュロヴァ 写本は貴重なものですし、また保存・管理がむずかしいものです。卓越した旧ソ連の学者、D・S・リハチョフは、「写本は人間のようなものだ。それらは、書写され読まれる必要があり、愛される必要がある」と書いています。写本が生き続けている理由はこれです。
3  池田 この展示会にご尽力くださった写本室主事のマルガリータ・I・ヴォロビヨヴァ博士からも、写本を愛する思いの深さ、守るための労苦の大きさをうかがいました。なかでも、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツから、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)が九百日に及ぶ猛攻を受けた折の労苦には、胸がしめつけられる思いでした。
 博士はこう述懐していました。
 「包囲されていた九百日の間、二人の男女が、わが研究所の写本類を守ることに全力をあげていました。地下室にあった文書が破損しないように、時々、箱を開けて風を通したりして懸命に保護しました。『法華経』の写本が現存するのは、二人のおかげなのです」と。
 温度、湿度の管理などたいへんな労苦です。ましてや激しく砲弾が飛ぶ戦火の下、どれほどの苦労があったことか。守り手の労苦は今も続いています。近年のロシア経済の混乱時には、所長や博士たちはご自身の給与が出なくても、写本を守るために出費をおしまなかったという話もうかがいました。
 ジュロヴァ それほどまでして守ってきた貴重な財産を出展するということは、深い信頼と理解があればこそです。先生とロシアの方々の長年の友情の賜物であると感じます。
 池田 冷戦のさなかの一九七四年、初訪ソの折に同研究所と友情を結んで以来の友好です。一粒まいた種が大きく枝葉を広げています。人間の心が無限に可能性を開きます。私は、数世紀の時を経て、戦乱や火災や弾圧など数々の苦難を乗り越えて、現代まで伝えてくれた方々の労苦を考えると、今もなお胸が熱くなります。
 私は、写本を前にして、こう語りました。「経典が喜んでいます。光っています。笑っています。経文は文字であるけれども『魂』です。宇宙の根源で『渦』を巻き、『波』うっている大生命力のリズムを写しとった表現です」――と。
4  ジュロヴァ 『法華経』の実践者である池田先生にそのように言っていただいて、経典もきっと幸せだったにちがいありません。ブルガリア写本の歴史においても、書物を敬慕し保護した人に対して、絶大な敬意が示されています。
 たとえば、ブルガリアの黄金期を築いた皇帝シメオンはこう称えられています。
 「皇帝のなかでもっとも偉大なシメオンは、全能の支配者であり、荘厳な書物の深みから隠された思想をあらわにすることを、熱烈に望んだ。(中略)彼はまるでハチの巣に蜜を集めるように、その偉大で賢明な心に思想を集めた。貴族たちの精神を啓こうと、彼らの前で、みずからの唇から思想を蜂蜜のように注ぐために。(中略)彼は大いに尊敬された。彼は神聖な書物を収集し、彼の宮殿を書物で満たしたからである。こうして彼は、永遠の記憶を残すことになったのだ」(『皇帝シメオンへの賛美』)
 シメオンは、書物の保護者として、書物を取り寄せて読み、「永遠の記憶」と「永遠の生命」を確かなものにしたのです。写本展を開催し、『法華経』写本シリーズを発刊されている池田先生もまた、「永遠の記憶」と「永遠の生命」を確かにされている方だと思います。
5  池田 ありがとうございます。ヴォロビヨヴァ博士も「写本が喜んでいるのは、池田先生の大いなる人格に包まれているからでしょう。私たちも、この写本とふれあって、生命力をもらうことができます」とおっしゃってくださいました。私へのおほめの言葉は過分で恐縮ですが、写本にみなぎる、“何としても後世に伝えたい”
 との力強い思いはひしひしと感じました。
 ジュロヴァ 「法華経とシルクロード」展という題のとおり、シルクロード各地の写本が展観されたようですね。
 池田 はい。十四の言語、十三種の文字にわたる多彩なものでした。
 言語は、サンスクリット語をはじめ、中国語、西夏語、ソグド語、古ウイグル語などです。文字は、ブラーフミー文字、カローシュティー文字、漢字、満州文字、モンゴル文字、ハングルなどです。また、時代も、紀元一世紀から四世紀と推定されるものから十八世紀にまでいたります。民族と時代を超えた、仏教文化の壮大な広がりを感じさせるものでした。
6  ジュロヴァ 『法華経』がそれほどまでに、多くの時代、多くの地域で書写され、また後には印刷されたのはなぜでしょうか。
 池田 結論して言えば、そこに説かれる「人間の尊厳と平等」の思想が、時空を超えて、普遍的な価値を持っているからだと信じます。“あらゆる人を幸福に”との経典が発するメッセージを、人々が受けとめ、信奉してきたからではないでしょうか。その上で、より具体的なことをあげれば、『法華経』自体が積極的に書写を勧めていることです。
 ジュロヴァ すでに私は、ブルガリア写本が国家の一つのシンボルとなったことに言及しましたが、そうなった理由も同じです。写本に対する民衆の態度には、いちじるしい特徴がありました。生命を象徴する写本は、教養ある人々の、“不滅性”と同等視され、“信仰”と同等視され、また、ブルガリア国民のアイデンティティーの保持と同等視されたのです。
 このような、多義的で強固なシンボル体系は、「書かれた言葉」に対する中世の写本書写者たちの伝統的な態度――死すべき人間よりも長く残る、神の言葉であるとする態度――を説明するだけではありません。この体系はまた、ブルガリア人たちがいだいていた、自分たちの土地で生きぬいていきたい、との生存本能と直接的に結びついていたのです。
 池田 『法華経』では、「経文を書き写すこと」(書写)は、「教法・経文を受持すること」(受持)、「経文を見ながら読むこと」(読)、「暗誦すること」(誦)、「人に対して仏の経々を伝え説くこと」(解説)と並んで、五つの大切な修行の一つとして定めております。
 これは、書き写すことによって未来に経文をとどめることだけではなく、教えを血肉化していくという意味からきたものと思います。
 ジュロヴァ 日本では、早くから印刷技術が中国から朝鮮半島を経て伝わり、経典の印刷に使われていましたね。
7  池田 確か、奈良時代に称徳天皇(在位七六四年―七〇年)が、国家的事業として、陀羅尼(『無垢浄光大陀羅尼経』)を印刷し、百万基もの小さな塔に入れて各地に納めたのが、現存最古とされています。
 ジュロヴァ 私が日本に滞在していた時に驚いたことは、私たち西洋人よりもずっと以前に紙と印刷術を知ったにもかかわらず、書写という伝統を長い間保ってきたことです。日本人は、仏教の呪文である「陀羅尼」のために印刷術を用いる一方、仏教の「経典」や日本と中国の古典は、筆と墨で手書きしてきたのですね。
 池田 その理由の一つとして、文字が読め、内容を理解できる素養ある人がまだまだ少なく、短期間で大量に複製する必要がなかったことが挙げられるでしょう。平安時代末期、貴族社会から武家社会へと移行する動乱のなかで、長年かけて書写されてきた多くの経典が焼失しました。鎌倉幕府の政治が安定し混乱が落ち着いたころ、それを補うために、大量の経典が印刷されたのです。
 日蓮大聖人が所持し、種々の注釈書の要文を書き入れていた『法華経』(「註法華経」)は、このころに印刷された春日版のうち学僧・心性が開版したものとされます。現在、国の重要文化財に指定されています。
 この時代は、仏教信仰の形態が、貴族中心の特権的信仰から、武家、さらには民衆を中心とした信仰へと大きく転換した時代です。時間と費用がかかる書写から、大量に比較的安価で生産できる印刷へと移行したことは、仏教信仰の質の転換とも連動していたにちがいありません。西洋で、グーテンベルクがみずからの印刷術で『聖書』を印刷し、ほぼ同時代に宗教改革が起こったように――。
 とは言え、長らく書写が続いた理由としては、精神的理由も大きいのではないかと思います。印刷と異なり、一文字一文字を丹念に書き写していく作業は、膨大な時間と労苦とを伴います。しかし、書写することは、目と手を使い、体で覚えこむことであり、その言々句々は生命に刻まれ、血肉化されていきます。
 ジュロヴァ グーテンベルクの発明によって、人間は、肉筆の生き生きとした筆致を失うことになりました。それ以来、書き手と読み手の間に、印刷された文字が立ちふさがったのです。
 池田 経済の名のもとでの標準化がこの現象を説明します。現在、だれも読み切れないほどの本が出版されていますが、読者たちは、かつてのように読書に深く熱中することもなくなっているのです。
8  ジュロヴァ 非人間化が進みつつあります。このまま続けば、言葉やすべての情報を支配しているコンピューターが、人間そのものを標準化する前に、各言語の多様性を失わせ、すべての人間の言語を標準化してしまうでしょう。
 池田 確かに英語がインターネットの標準言語になりつつありますね。
 ジュロヴァ 私たちブルガリア人の間には、「書かれた言葉」との生き生きとしたふれあいが見られます。現在でも、ブルガリア文学は「手書き」だと言ってよいでしょう。ほぼ千年間、ブルガリア文学は、書写だけによって存在してきたのです。
 池田 肉筆によって書かれたものには、人間の生命の脈動があります。グーテンベルクもそうした写本の雰囲気を大切にし、現在の活字とは異なり、文字がある位置などによって、数種類の異なる字体を用意していたようです。効率第一で考えれば不合理なことですが……。
 一通の手紙に置きかえて考えてみても、印刷であれば、いかに整ってはいても、どこか味気ないものです。しかし、肉筆からは、何かほのぼのとした真心の温もりが伝わります。これは、合理性では割り切ることのできない手書きの効用と言えるでしょう。先人が書いた肉筆の書を、次々と書き写していった書写過程は、そのまま思想と精神の伝承過程であったと感じられてなりません。
 ジュロヴァ 人間には心があり、長い文化の伝統があります。文化の豊かな多様性は、人間の心を豊かにするものです。
9  池田 そのとおりです。貴国をはじめ、一度は社会主義一色でおおわれてしまったかに見えた東欧諸国で、豊かな民族文化の多様性がふたたび開いています。
 ジュロヴァ 確かに、印刷された言葉は人間の手の脈動を表現できません。一方、人間の手自体は、はかなく無常であっても、永遠の価値を生みだすことができます。写本書写者たちは、苦難の時代には、写本に対して祈りをささげさえしました。
 「われらが信仰篤い皇帝を強きものとせよ、われらの信仰を堅固なものとせよ、民衆を和らげ、世界を平和にせよ……」(『リラ・コレクション』)と。
 池田 まったく同感です。仏教の伝統では、声は心の表れであり、その声を永遠ならしめるのが文字です。仏が入滅した後も、仏の心をとどめた経典は人々を導く功力があります。
 日蓮大聖人は「滅せる梵音声ぼんのんじょうかへつて形をあらはして文字と成つて衆生を利益するなり」と述べています。全人類を救おうとの慈悲心にみなぎった仏の声を文字にとどめた経典には、永遠に人々を救済する力があるのです。
 ジュロヴァ ブルガリア写本にも同様の思想が見られます。十三世紀の『ドブレイショ』の福音書を書写した一人は、「罪人ブルチョよ、書きたまえ、そして書写したまえ。手は腐敗するが、主の言葉は永遠につづくのだから」と書き記しています。
 池田 仏教では、写経そのものが仏を敬う行動であり、修行とされてきました。それゆえ、古代日本では、写経に臨む人は、身を清め、一切の服を改めたと言います。造東大寺司の写経所など、官営の写経所の作品は、字体も凛として厳格で、峻厳な雰囲気が今なお伝わってきます。
 その姿勢は西洋でも同じだったのでしょう。フランスはトゥールの、サン・マルタン修道院の写本室にかかげられた注意書には、「ここに坐る者は、聖なる掟の言葉と聖教父の神聖な教えを書き写す者であるべし。うっかり手をすべらせて、これらの言葉に軽薄な言葉を紛れこませることのないよう、心がけるべし。校訂の行き届いた本を入手し、羽ペンが正しき道をたどるようにするべし。詩脚や句切れに注意して章句の意味を正確に読みとり、句読点を正しい位置に置いて、教会内で敬虔な兄弟たちを前にこれを読む者が読み間違いをしたり、突然読むのを止めたりすることのないようにするべし」(ジャック・スティエノン『中世の古文書学』、ブリュノ・ブラセル『本の歴史』〈荒俣宏監修、木村恵一訳〉所収、創元社)とあると聞きました。
10  ジュロヴァ ブルガリアでも、写本書写者たちは、写本に膨大な挿入句を残しています。それは、教訓的文章や賛辞の文章、永遠の生命を求める祈りと哀願、罪の免除、病気からの解放、歴史的事件についての情報などです。それらを読むと、当時の民衆の日常生活や、写本書写者たちが遭遇した困難がしのばれます。
 池田 そのようですね。フランスのモンミッシェル大修道院蔵のある写本には、写字生が「視力を弱め、背中をたわめ、腹部をつかれさせる」作業だと記しているようです。ブルガリア写本には、どのようなものがありますか。
 ジュロヴァ 十二世紀から十三世紀のいわゆる『ビトリア・トリオディオン』という写本には、こうあります。
 「親愛なる仲間たちよ、私を忘れないでくれ。私の両手は凍えている。炉辺に火はなく、私はここで書き、ここで食べ、ここに横たわる……。二月五日、私は一日中恐ろしい寒さに苦しんでいる……。わが魂よ、汝はこの小さな書物の終わりを見たいと心から願っている。まるで船乗りが海の果てを見たいと願うように、病の人が健康を、貧しい人が食物と衣を見たいと願うように。私を忘れないでくれ。そして、神が汝を忘れないように……」
 池田 日本よりもいちだんと厳しい寒さの北国の冬――。暖房もない中での労苦がしのばれます。書写は、このように身も心もつくしての作業です。仏教では、それゆえ、その功徳は大きいと考えられていました。「現世安穏。後生善処」という『法華経』の文が奥書に記されている写経があります。写経の功徳が、今世だけではなく、永遠に続くことを願っています。
 さらに、「願はくは此の功徳を以て、普く一切に及ぼし、我等と衆生とは、皆共に仏道を成ぜん」との経文が書かれているものがあります。写経の功徳で人々が幸福になるようにと願っているのです。
 ジュロヴァ その願いは、ブルガリアでも同じです。一六〇〇年の『祈祷書』には、書写した人が「愛のために読み、書写する……、それを修正し、補正する」と記しています。写本は、書写者、民衆の歴史、民衆の熱望と希望、民衆の試練と喜びが表現された生きた書物です。
11  池田 ブルガリアの文字の歴史は、キリスト教とともに始まりました。それゆえ、写本は神の教えをとどめる“救済の書”であり、尊厳なるものとして取りあつかわれてきました。
 写本には、さまざまな芸術的意匠をこらした紋様が描かれています。司祭等の典礼時の目印という実利的な面もあったでしょうが、“神の書”である写本をどこまでも大切にし、荘厳しようという心の表れではないでしょうか。その帰結として、写本は芸術的価値を高めていったというのが私の見方です。
 ジュロヴァ ご指摘のように、装飾はテキストの意味によって決定されるだけではなく、飾りとしての美学的な目的にも役立ちました。とは言え、装飾は、ブルガリア写本の間にも相違があります。また、ブルガリア写本と、それらをもとに作られたロシアやセルビアの写本との相違もあります。
 池田 それは、どのような違いですか。
 ジュロヴァ ブルガリア写本のデザインは、初期には非常にひかえめなものでした。装飾は、実用的なもので、頭文字とヘッドピースに花飾りが付けられただけでした。
 池田 絵画と文章が補いあう、日本の物語絵巻とは、まったく異なりますね。日本の『法華経』など仏教経典の写本とも違います。経典には、冒頭や末尾に、その巻にかかわる絵がしばしば描かれています。
 ジュロヴァ これに対して、豪華に装飾された古写本は、主として君主や大司教に依頼されて製作されたものです。また、ビザンチウムの場合のように、富裕なブルガリアの封建領主が使うために製作されたものもありました。
 池田 なるほど。豪華な装飾は、宗教的あるいは世俗的な権威・権力のためのものという側面があったのですね。日本でも華麗な装飾を誇る経典(装飾経)は、主に平安時代の貴族たちが自身の功徳を積んだり、親族を追善供養するために製作したものが多いのです。
 ジュロヴァ 私たちスラブの諸国家は、歴史的な事情もあり、教会での説教のためだけに書物をつくってきました。
 書物は魂を救うものであり、飾りが目的ではなかったのです。
12  池田 よく分かります。「法華経とシルクロード」展でも、そのことを実感しました。ペトロフスキー本をはじめサンスクリット語の写本は、仏の言葉である文字が中心です。絵や模様などの装飾はほとんどありません。西域や漢訳の写本も、早い時期のものはそうです。
 それに比して、日本では、最初は仏教の哲理を伝え広めるための写経であったのが、平安時代の貴族文化のなかで、まさに、贅をつくし美をこらした装飾経を生みだしました。写経という性質上、信仰の裏づけはありました。しかし、宮廷サロンでは、種々の質や色の料紙を用い、金銀などで字を書き、宝石類まで用いた絵をさし入れるなど、主に美術的要素に心をくだいていました。信仰の深さよりも、美的センスを競いあうものとなっていたのです。
 ジュロヴァ 五世紀から七世紀の間、スラブの書物が手本としたビザンチン写本に見られる装飾は、さほどこったものではありませんでした。装飾を用いたのは、主に、文章や段落の最初の文字に注意を引き付けるためでした。最初の文字は、本文の他の文字よりも少し大きく、主文の濃茶色と区別するために、別の色――朱色――で書かれたのです。
 池田 簡素な、「用の美」が光るものですね。
 ジュロヴァ 七世紀には、頭文字に動物や花の文様が現れました。
 池田 花文字、飾り頭文字ですね。
 ジュロヴァ それぞれの章は、花、幾何学、そしてそれらが織り混ざった(リボンの)文様の長方形の枠で区別されました。
 池田 いわゆる「ヘッドピース」ですね。
 ジュロヴァ それらは、主文で用いられた色のインクか朱色で描かれ、後には緑、青や黄色などで描かれました。
 その後の数世紀には、頭文字はかなり飾り立てられました。時代の経過とともに、挿絵と装飾は複雑なものになり、華麗な王室の挿絵法が完成されました。ビザンチンの装飾文様は、九世紀からギリシャ写本に、十一世紀からはスラブ写本に見られます。
13  池田 写本装飾の発展史が、よく分かりました。美術的要素は、権威・権力に奉仕するところから始まった面はあるものの、現実に字を写し絵を描いた写本製作者に、敬虔な信仰の裏づけがないと、優れた芸術への高まりはなかったでしょう。歴史を追えば、写本は貴国において、文化・芸術の発達をもたらした基幹であることが明白です。
 一九九七年秋(十一月十九日から十二月七日)には、東京・板橋にある日本書道美術館で、「九世紀~十九世紀バルカン古典文字展」が行われました。そこでは、博士が所長をしておられる「スラブ・ビザンチン研究所」所蔵の写本が展示されていました。
 これは、二十年ほど前(一九八一年)、ブルガリア建国千三百年を記念して、同じく日本書道美術館で開かれた「ブルガリア古典文字展」に続いて、二度目のスラブ写本の紹介ですね。
 ジュロヴァ 私は、日本で初めて、東京都と足利市の書道美術館で開催した、十世紀から十八世紀にかけてのブルガリア写本の展覧会を訪れた人々の驚きを、いまだに覚えています。参観者たちは、ブルガリア写本の非常に小さな文字や、書物の装飾や、それが書かれている素材やインクに驚いていました。
 池田 書かれている素材は主に羊や子牛などの皮ですね。「法華経」展でも、シルクロードの通商で用いられていた、ソグド語で皮の上に書かれた賃貸契約書が展示されていました。同展では、インドを中心に用いられたヤシの一種の葉である貝葉や、中国から広がった紙のものが多数、展観されました。また、インド西北部のガンダーラ語で書かれた経典は樺の木の皮でした。
 ジュロヴァ 中世から十四世紀まで、ビザンチウムとスラブで用いられた主要な素材は羊皮紙でしたが、これは後に紙にとってかわられました。紙はイタリアのベニスやジェノバから輸入されました。ブルガリアで知られていた主な素材は、羊皮紙でした。最初期のブルガリア写本は、羊、子羊、山羊、野うさぎ、豚の皮を加工した皮紙に書かれました。
 それらの皮は、なめされ、石灰をしみこまされた後に、枠組みの上でのばされ、その後、骨や石でなめらかにされました。
 羊皮紙の入手は困難だったにちがいありません。というのも、写本書写者たちが、フォリオ(二つ折り)の羊皮紙に感謝をささげているのにしばしば出くわすからです。一匹の羊から、フォリオの紙は二枚しか取れませんでした。一冊の『ロンドン福音書』――もっとも洗練された図版入りのブルガリアの規範書――を作るのに二百匹の羊の皮が使われています。
14  池田 皮紙は、貴重な上、たいへんに手間がかかるものだったのですね。紙の大量生産と印刷術が相まって今日の活字文化があります。
 インクはどのようなものでしたか。中国を中心とする東アジアは墨です。古代エジプトでは、油煙に水とアラビアゴムを加えたメランというものや、没食子(木の葉にハチの一種が作った虫こぶ)と緑色硫酸と水で作ったインクでパピルス紙に書いていたということですが。
 ジュロヴァ インクと染料は、有機物で耐久性のあるものでした。それらの新鮮さは、今日まで保たれています。ブルガリアには「エルメニジィ」という本があります。これは、各々の場面がどのように描かれるべきか、また、どのような染料が用意されるべきかを教示する本です。たとえば、本文の主要な句や節を目立たせるために、「カシワ没食子」のインクと「辰砂(水銀の原鉱)」の鮮赤色を使うといった具合です。
 それにもかかわらず、どの染料を用意するかは、現代的に言えば、個々の書家の個人的な「特許」だったのです。一九七九年、ブルガリア民族復興の中心地の一つであるサモコフで、作品の修復作業が行われた時に、画家のニコラ・オブラゾピソフの家の秘密の壁に囲まれたへこみから、写本とイコンを描くための道具を入れた箱が見つかっています。
 池田 一九八一年と九七年に日本で開催された写本展のカタログで拝見したのですが、九、十世紀のブルガリアでは、二種類の文字が用いられていたということですね。一つは、キュリロスが創案したグラゴール文字であり、もう一つはキリル文字です。
 キュリロスとメトディオスの弟子たちは、グラゴール文字の代わりにキリル文字を用いました。それは、キリル文字の方が使いやすかったからであり、また、キリル文字が、アンシャル文字と呼ばれたビザンチンの大文字を転用したものであるからです。
 しかし、その後、キリル文字はどうなったのでしょうか。それを知ることは重要なことです。私は、貴国の民衆がたどられた感動的な歴史を、よく存じあげております。
 ジュロヴァ くわしくご覧いただいて光栄です。ブルガリア人たちが、ほぼ五百年の間、決して支配者のオスマン・トルコの文字であるアラブ文字を使わなかったことは注目すべきことです。
 一方、ギリシャ文字に対しては、まったく別の態度をとりました。ギリシャ文字は東方正教会のものだったので、教養あるブルガリア人たちは自由に使ったのです。トルコ人たちはキリル文字を使いましたが、ブルガリア人は決してアラブ文字には頼りませんでした。
15  池田 民族の誇りに心打たれます。キリル文字の淵源の地としての気概を感じます。私は、ブルガリアにおいて、写本は、いわば“民族の精神の証”であると思います。
 ジュロヴァ ブルガリア文学は、千百年以上も前に、先にもふれましたが、「読み書きのできない魂は死んだ魂である!」との叫びとともに打ち立てられました。実際、それ以来写本は、歴史的な状況や国家の発展の遅滞のために、民衆の歴史、民衆の道徳規律、不信心者(異教徒)からの民衆の保護を表現してきました。写本は祈りであり、希望であり、忠誠の誓いでした。
 一言で言えば、写本は、精神を強めるすべてのものだったのです。ブルガリア写本は国家全体のシンボルなのです。
 池田 最初はキリスト教の聖典が中心でしたが、やがて、民話や歴史の写本もつくられていきますね。それによって写本は、民族の宗教と言葉とともに、歴史と文化をとどめる、民族の魂の刻印書となっていったと言えましょう。
 ジュロヴァ セィブリエヴォ近郊のバトシェヴォ村の教会の写本に、次のような挿入句が書かれています。
 「一八七六年五月六日のブルガリア蜂起の日、チェルケス人とトルコ人は教会を焼き討ちした。彼らは軍旗をはためかせ、聖杯、銀の肖像のついたランプ、式服などをぬすみ出した。そして、彼らは、教会の墓地の草むらの中でこの書物に出くわした。彼らはこの書物を、あたかもブルガリア人の反逆者であるかのように切り刻み、痛めつけた……」と。
 池田 そして、貴重な魂の書をそのような破壊から守るために壁の中に埋めた――。山地の修道院の壁の中に、写本が大切に保存されてきたのですね。
 ジュロヴァ ブルガリアの写本は、オスマン帝国に支配されている間、聖なるものと考えられていました。それで、写本は、不信心者たちに破壊されないよう、熱心に保護されたのです。
 池田 他国の支配下で、言語さえ奪われた状況下にあっては、写本こそが民族の自覚をうながす唯一のあかしであったことでしょう。
 ジュロヴァ 一三九六年、ブルガリアがオスマン帝国の支配下に置かれた最初の年に、不思議な事件が起こりました。ブルガリア国家がトルコ人に侵略されるやいなや、銀の皿や貴石で豊富に飾られた福音書が、新しい教会や修道院に現れ始めた、と言うのです。
 教会が、まわりの建物、とくに、イスラム教の建物よりも高くそびえないように低くつくられたような時代に、製本業は栄えました。その後の数世紀に、福音書、祈祷書、詩篇集などが、挿絵とともに描かれたのです。
16  池田 逆境のなかであればこそ、民族の魂を記した写本を残そうと製作にはげんだのですね。現に、パイシーの『スラブ・ブルガリア史』の写本が四十九も現存しているという事実があります。
 ジュロヴァ 文学の中心地では、文学活動だけでなく、民族の特性を保ったさまざまな書道学校が発展しました。奴隷化されたブルガリア人は、その精神的なはけ口を、みずからの美の感覚を保持し、それをかつて知られていないほど発展させることに見いだしたのです。
 池田 オスマン帝国の弾圧下で他国への亡命を余儀なくされた識者、聖職者が、写本をたずさえて故国を後にした。しかし、この亡命によって、ブルガリア写本は数多く国外に流出してしまうわけですが……。
 ジュロヴァ ブルガリア以外で保存されているブルガリア写本の数は、数千冊と言われます。これに対して、スラブ写本の故郷であるブルガリアには一千冊弱しか保存されていません。じつに驚くべきことです。破壊されなかったブルガリア写本は、あたかも地上をさまよう「放浪者」となったのです。
 これは歴史の運命であり、それらの写本の役目は、スラブ写本を他のスラブ民族の間に広めることだったのでしょう。
17  池田 確かに、ブルガリア写本とそれを支えたスラブ民族の伝統は、放浪する運命となりました。そのような困難にもかかわらず、ブルガリアが保持してきた伝統が、ロシアに伝わり、新たな展開を見せた事実がありますね。
 ジュロヴァ ブルガリア写本の長い伝統は、ある人たちにとっては保守的なものと思われるかもしれません。しかしこれは、国民としてのアイデンティティーを外国に侵食されることに対する、民衆救済のための錨だったのです。
 池田 ブルガリア写本と同様、仏教徒も経典写本を伝えようと、命がけで奮闘しております。そのなかでも、世界的に有名なのは、敦煌の莫高窟の第十七窟「蔵経洞」の逸話でしょう。井上靖氏の小説『敦煌』では、西夏が侵入してきた混乱時に、数万点にものぼるという経典、文書を後世に伝えようとしたと描かれています。
 今回の「法華経」展にも、ロシアのオルデンブルク探検隊が敦煌で入手した、竺法護訳『正法華経』や鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』などの写本が展観されていました。敦煌と言えば、思い出すのが、第二章でもふれましたが、故・常書鴻先生です。中華人民共和国誕生のさいの内戦、文化大革命の折の芸術弾圧などをすべて乗り越えた“敦煌の守り人”です。
 仏典にせよ、ブルガリア写本にせよ、深い信仰、民族の誇りから、それぞれの時代に、種々の苦難を乗り越えた人々がいればこそ、貴重な文献を後世に伝えられた――これは、峻厳な事実です。
 そして、ブルガリア写本は、その逆境をもバネとして、さらに芸術性を高めていきました。敦煌も多数の文物の流出、たび重なる破壊にもかかわらず、常書鴻先生はじめ敦煌文物研究所の人々が、すばらしい復元を行っています。そのたくましさに、心から敬意をはらいます。

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