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日蓮大聖人・池田大作

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音楽と民俗  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

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2  池田 恐縮です。ブルガリアの民衆は、抑圧下にあってもなお、このような歌を口ずさみ、みずからの勇気と覚悟を奮い立たせていたのですね。
 ジュロヴァ それらのなかでは、つねに超自然的な力を帯びた高貴な英雄が、悪の力を克服することになっています。とくに広まっているのは、ブルガリアがオスマン帝国の支配に下る前の最後のブルガリア皇帝、イヴァン・シシマンについての歌です。また、ストラヒー、マヌーシュ、チャフダール、インデュエなどの伝説的反乱をうたった歌もあります。
 池田 不屈の闘志が綿々と伝えられていったのですね。
 ジュロヴァ また、民衆は、食卓や饗宴の間などにうたわれる歌を、非常に多くつくりだしてきました。それらの歌は、ふつうはゆっくりとしたメロディーを持つレチタティーヴォ(叙唱)です。
 池田 日本の追分節やモンゴルのオルチンドーに似ていると指摘される、ゆったりとした、のびやかな曲ですね。
 ジュロヴァ 民衆は、こうしたタイプの歌を「本物の民謡」と呼びます。それらの歌のほとんどが、おそれを知らない民衆の英雄たちやハイドゥクたちをうたったものだからです。
 池田 ロシアの文豪ツルゲーネフは『その前夜』で、ブルガリアの亡命大学生インサーロフに、「ブルガリアの民謡はすてきですよ!セルビアに負けないくらいです」(米川正夫訳、『ロシア文学全集』3所収、修道社)と語らせています。インサーロフは自国の民謡を翻訳して、誇らし気にロシアの友人に聴かせるのです。
 声は命です。民謡は、民衆の生活のなかから生まれ、民衆に歌い継がれていくものです。それゆえ、“民衆の魂”をありありと映しだしている、と言っていいでしょう。
 ジュロヴァ そうです。歌は、民衆の魂を鏡のように映しだします。ブルガリアでもっとも著名な画家であり教師である、イリヤ・ベショコフは、次のように述べています。
 「民謡から耳と顔をそむけることができるのは、恩知らずの薄情な人間だけである。民謡は、民衆の音楽感覚を完全に表現するだけでなく、民衆の道徳的統合と栄光を表現するからだ」と。
3  池田 貴国では、民謡は、民族全体のアイデンティティーを支える重要な役割も果たしてきました。このことは、クリミア戦争後、民族復興運動が高まっていた一八六一年に、民族の一体性を示すための努力として、ミラディノフ兄弟がブルガリア各地の民謡を収集し出版した事実からもうかがえます。
 ジュロヴァ よくご存じですね。彼らは六百六十五曲もの歌を収集しています。まさしく私たちの民謡は、民衆の運命に深く根を下ろしています。ブルガリア民謡に楽しいものも悲しいものもあるのは、こうした理由からです。私たちブルガリア人は、バルカン半島で“もっとも悲しい歌”と“もっとも速い「ホロ」”(ホロは輪舞と呼ばれ、集団で行う舞踊の一種で、テンポの速い独特なリズムを持つ)を持っている、と言われています。
 近代ブルガリア文学におけるもっとも傑出した作家の一人であるペンチョ・スラヴェイコフは、次のように書いています。
 「一般に、ブルガリア民謡は明確な特性を持たない。
 ブルガリア民謡が共通して持つのは、苦しみの息づかいだけである。運命の侮辱行為によって苦悩する、病んだ魂の息づかいだけなのである」と。
4  池田 民族の深い悲しみと苦悩を代弁する言葉です。しかし、ブルガリアの民俗文化には、その悲哀をこえて“永遠なるもの”へと昇華していく契機があることも、厳然たる事実です。
 ジュロヴァ ブルガリア民族の心理に永続的な刻印を残してきた、こうした国家の運命の有為転変の間、ずっとブルガリア民族は危険を警戒し、悲しみや貧困に抑圧されながら、家族や村という社会の内部で生きてきました。こうした状況のなかで、民謡をはじめ、民俗芸術と民俗儀礼は、超時間性という要素を持つようになったのです。
 池田 家族や村で民族の栄光と誇りが、歴史の有為転変をこえて永遠なる民族の魂へと昇華したのですね。
 一九九四年に来日公演された、ピリン国立民族合唱舞踊団の創作信条にはこうあります。
 「フォークロアはわが民族におけるかけがえのない精神的遺産であり、それは今もなお現代芸術のなかに組織的な方法を用いて再生することができる。この遺産と知識、愛、そして才能によって、フォークロアは不滅なるものを創出する。そしてそれは気高いブルガリア人の魂、すなわちブルガリア精神と私たちブルガリア人の善良さである」と。
 ジュロヴァ この合唱舞踊団の公演は、日本におけるブルガリア文化フェスティバルの一環として行われたものです。また、民主音楽協会(民音)創立三十周年を記念してのものでもありました。全国で、大きな反響を広げたことを喜んでおります。
 池田 その演目は、ブルガリア全土、とくに多くの民謡が残っている南西部のピリン地方のフォークロアを調査、採譜し、それに創造的編曲を加えたものが主軸でした。伝統を現代に生かす姿勢にも、「永遠なるもの」「不滅なるもの」をフォークロアにこめて伝えようとする心がうかがえます。
 ジュロヴァ 人々の精神的、個人的な関心と要求は、着実にフォークロアに焦点を定めました。逆に、フォークロアは、人々の着実な発展、とくに、その儀礼と歌における発展の原因となりました。そうした儀礼や歌は、公の文学に世俗的なジャンルが欠けていたなかで、精神文化や創造性を求める民衆の欲求に合致したのです。
5  池田 政治の舞台である王宮や、宗教的権威である教会が、歴史の表舞台から退いた後、民族の伝統文化が、民衆の生活の場で継承され、また新たな形で発展をとげたのですね。
 ジュロヴァ 十四世紀以降、芸術や文化が繁栄していた基盤が、多かれ少なかれ消滅しました。このことは、この国の文化的発展に非常に大きな危機をもたらしました。文学はその指導的役割と代表的な機能を失い始め、十五世紀以降には、その機能をフォークロアが担うようになったのです。当時のフォークロアにおいては、英雄叙事詩、歴史的な歌、ハイドゥクの歌などの重要なジャンルが栄えました。
 池田 華やかな権威・権力は、栄枯盛衰をまぬかれません。しかし、その基盤となる民衆は、永遠です。
 ジュロヴァ 数世紀の間に、フォークロアはブルガリア民衆の国語、日常生活、歴史、精神性と哲学の発展に反映したのです。一般に、ブルガリアの民謡と民俗音楽は、古代からの音楽様式を保ってきたことが知られています。それらの特徴は、きわめて多様なリズムと形式です。
 池田 十九世紀のブルガリアの文化復興の高まりは、幾世紀ものオスマン支配の間に、肥沃となった民衆の大地があったればこそです。ブルガリアの民謡の持つ力強さは、その響きにも表れているように感じます。たとえば、長二度(ドとレのように、全音一つ分、高さが離れた関係)のハーモニー(和声)が、独特の力強さを生みだしていると指摘する音楽評論家もいますね。
 ジュロヴァ ブルガリアの音楽は、他のバルカン諸国の音楽や、東スラブの民謡と、多くの共通性を持っています。リズムやメロディーのパターンに共通性が見られ、また、音自体や、音楽演奏の仕方、音楽のジャンルにも、共通性が見られるのです。
 とは言っても、ブルガリアの民俗音楽は、ブルガリア的な特徴も多く持っています。とりわけ、それは、ダイアフォニー(二音のハーモニー)とリズムに表れています。
6  池田 また、東欧の民族音楽を探究し、みずからの作曲に生かしたベラ・バルトークが、「ブルガリア・リズム」と名づけた複雑なリズムも、注目に値しますね(2/4、3/4、4/4拍子のほかに、5/8、7/8、9/8、11/8、さらに速い5/16、7/16、9/16、11/16など付加的リズムがある。輪舞のホロや、コサック舞踊に似るというルチェニツァなど、舞踊の音楽に用いられている)。
 ジュロヴァ この独創的な不規則なリズムも、ブルガリアの民族音楽の代表的な特徴です。バルトークのピアノ曲「小宇宙」は、そのようなリズムで作曲されました。
 池田 近代の音楽の枠をこえて、魂に響く力強さと懐かしさがあります。
 ジュロヴァ ブルガリアの研究者のなかには、ブルガリアの不規則な拍子に「古代ギリシャの詩的、音楽的韻律」との関連を見いだす人もいます。それはさらに、ブルガリアの民族音楽と古代世界との関連を前提とするものです。
 バルカン半島にスラブ族とブルガール族が到着した後、新たな異種族の歌――それは今日まで保持されていますが――と、ウクライナ人とロシア人、とくにユーゴスラビア人の音楽芸術とが強いつながりを持つようになります。それらはまた、トルコ人の侵略者の影響も多少受けました。
 ブルガリアの音楽と、バルカン半島の他の諸国(および東スラブのフォークロア)の音楽には、多くの共通性があります。リズムとメロディーに共通の様式があり、また、楽器の演奏、ジャンルにも、明らかに類似性が見られるのです。
7  池田 文明の十字路として経験した、種々の民族の興亡の歴史が、音楽にも深く刻まれているのですね。
 歴史のなかでは、支配者・被支配者、侵略者・被侵略者という厳しい現実がありました。しかし、その厳しい歴史のただ中で、ブルガリアが新たな“豊かさ”を生みだしてきたことを強調したいのです。
 ジュロヴァ 中世の芸術や文学の役割を過小評価するわけではありませんが、ブルガリアの国民意識を生き生きと保つうえで助けになったのはフォークロアであった、と言わなければなりません。フォークロア文化とフォークロア以外の文化は、その時は相対するものではありませんでした。当時、オスマン帝国の支配下で、両者はたがいの発展をさまたげることなく、ブルガリア文化のすべてのパターンを展開したのです。
 池田 融合が生みだした豊かさの一例を挙げれば、オスマン・トルコの圧政に対するうらみ節のような曲が少なからずありますが、その内実は、たんなるうらみではなく、未来への警告となっている――そう指摘する民族音楽研究者がいます。
 ジュロヴァ ブルガリアでは、民謡は、農業に関連した特定の儀礼、すなわち年中行事と結びついていました。民俗儀礼や芸術には演劇の要素が広く見られましたが、そこでは女性が優先的にあつかわれました。女性たちがブルガリアのフォークロアをつくり出した、と言われるのは偶然ではありません。民謡は、主として女性によって歌われたのです。
 一方、楽器演奏は伝統的に男性の領域でした。また、英雄の歌やハイドゥクの歌は、男性しか歌えなかったのも、興味深いことです。
8  池田 伝統文化の大地をつくり支えたのが、女性であるというのは示唆的です。永遠の母なる大地の上に、多彩な文化の華が開いたのですね。
 ジュロヴァ もっとも古い民謡は、クリスマス、聖ラザロの日、夏至などの祝祭日に関連した年中行事の歌で、それらのほとんどはキリスト教以前の民族信仰を反映しています。クリスマスはもっとも大きな祝祭日の一つでした。クリスマスには、ふつう、若者たちが祝祭日の一、二カ月前から集まって練習をした後に、先祖から伝わる歌を演奏しました。
 池田 現在のクリスマスの行事は、太陽がふたたび力を増す冬至の祭りが起源の一つとされますね。大宇宙が生命を育むエネルギーの復活を喜ぶお祭りです。生命力の蘇生は、人間にとって、もっとも根源の喜びです。
 ジュロヴァ このほか、儀礼の歌としては、結婚の祝宴での歌、雨乞いの儀式での歌などもあります。
 また、収穫期や(麦などの)刈り取り期、蜂蜜の採取のさいなどに歌われる仕事歌にも、古来の歌が見られます。
 池田 ブドウ摘みの歌、タバコ干しの歌、羊飼いの歌など、多様な歌が伝えられているようですね。日本でも、田植え歌、茶摘み歌などの農作業の歌、馬子歌など、労働・作業に伴う民謡が伝えられています。
 ジュロヴァ 中世に、ブルガリアを通り過ぎた旅行者たちは、ブルガリア人は祝祭日だけでなく平日にも歌っていたと記しています。いちばん多く歌われたのは、もっとも重い労働の一つである収穫時に歌われる歌です。
9  池田 歌に包まれた大地ですね。
 ジュロヴァ 収穫の歌は非常に悲しいものです。と言うのも、それらの歌はかなり骨の折れる仕事に結びついており、また「アンガリヤ(賦役)」、すなわち他人の農場や畑での無給の強制労働と結びついているからです。
 池田 オスマン・トルコの支配下では、農民の土地所有の権利は奪われていたようですね。ロシアなどの農奴とは違うものの、使用権だけを持ち、土地から離れることはできず、重い税金を払うとともに、賦役などの義務を課されていた――たいへん過酷な状況です。その憤懣を歌に変えて作業にいそしんでいた――。
 ジュロヴァ このほか、人々の「恐怖」やさまざまな病をいやすために唱えられる、「悪の目」を撃退する呪文は、歌と語りの中間形態のフォークロアで、「死者のための哀歌」(葬送の哀歌)に似ています。
 この「死者のための哀歌」は、ふつう即興で演奏され、時には二、三時間も続きます。「泣き悲しむ人」(通常は女性)は、大きな損失をいたみ、奪われた者の悲しみを表現し、旅立ちゆく人が「来世」から言葉を送ってくれるよう懇願し、さらに死者に対して、亡くなった先祖を探すことを教えます。
10  池田 中国、韓国、日本にも、古代から、葬礼で死者をいたむために泣き悲しむことを事とする女性、泣女の習俗がありました。中国や韓国の野辺送りの葬列は、いくつかの楽器の伴奏を持つものもあったようです。死のように、情緒の大きな変動がある時、その自然な表現として、歌や詩が生まれでてくるものです。
 ジュロヴァ 収穫期や蜜の採取時の哀悼の歌は、こうした哀歌に由来します。とは言え、収穫の歌のモチーフは、ハイドゥクの歌、歴史の歌、日常生活の歌、愛の歌など、きわめてさまざまです。一日のうちの時間帯(朝、昼、黄昏時)や、それが歌われるさいの労働の種類によって、歌われる歌は異なります。たとえば、蜂蜜の採取の歌は、それが冬か秋かによって異なるのです。
 池田 大自然のリズムに合わせて音楽も変わる。日本の雅楽の伝統でも、春は双調、夏は黄鐘調、秋は平調、冬は盤渉調といった季節にふさわしい旋法があると考えられています。
 ジュロヴァ たとえば、蜂のところに最初に到着した若い少女たちが、後から来る少女や若者たちに一緒に加わるように勧めながら、歌い始めます。皆が集まると、仕事が始まります。しばしば、「カヴァル」「ガドゥルカ」「ザファラ」などの民族楽器が伴奏をします。とくに、興味深いのは、若者たちが歌う「からかい」を繰り返す歌です。
11  池田 九四年のピリン国立民族合唱舞踊団の来日公演でも、いくつかを紹介してくださいました。かけ合いで歌う歌は、軽快なリズムで、本当に生き生きとした歌ですね。
 また、ブルガリアの各地方の多彩な伝統衣装は、音楽の多様性とともに、豊かな文化の広がりを感じさせるものでした。使われている楽器も多様でした。古代ギリシャの絵画に登場するものも見受けられました。シルクロードへとつながっている楽器もいくつか見かけました。
 ジュロヴァ もっとも古い楽器の一つは、古来のスラブの楽器である「ガドゥルカ」(レベック)です。これは、叙事詩の歌の伴奏に用いられます(バイオリンより小型で、洋梨型の胴で短い頚があり、膝に立ててチェロのように弓で弦をこすって演奏する楽器)。「グスラ」(プサルテリウム=多くの弦を平らな台の上に張った楽器)は、しばしば中世の美術に描かれたもう一つの古代の楽器で、ダビデ王が演奏している光景も描かれていますが、これは弦楽器のグループに属します。
 私の知るかぎり、この楽器と同じようにペルシャのモデルから展開した日本版の楽器は、「琵琶」と呼ばれていますね。「グスラ」の起源は東洋にあります。
12  池田 日本の琵琶と兄弟の楽器とは驚きです。シルクロードの東西の両端を結ぶものですね。
 ジュロヴァ 十世紀のアラブの作家イヴァン・ルストは、その著『財宝の本』の中で、「スラブにはあらゆる種類のリュート、グスラ、羊飼いの笛がある」と書いています。
 弦楽器は、その前史においては、シャーマンの儀礼と結びついていました。そして、アルタイ・モンゴル族に由来する楽器との関係についての正確な解答が得られたのは、ようやく遊牧民族の音楽についての体系的な研究が始まってからでした。
 池田 日本でも、『万葉集』などにもうたわれる梓弓は、シャーマン(巫女)の儀礼の楽器として用いられていたようです。(漢字学者の白川静氏によれば、「楽」という字は、「木の柄のある手鈴の形」を写したものと言う。この鈴はシャーマンの呪具としてもっとも愛用されたようだ)(『白川静著作集』2、平凡社、参照)
 ジュロヴァ ブルガリアでもっとも古い管楽器の一つは「カヴァル」(長さ七十センチから九十センチで、六、七穴の指孔がある尺八に似た縦笛)で、とくに、音色に富んでいます。これは羊飼いの笛の一種であり、ふつう独奏されます。
 西ロドピ山脈の伝統では、羊飼いは、ふつう、音の高低が同じ二本の「カヴァル」を持ち歩き、たまたまもう一人の羊飼いに会うことがあると、一本の「カヴァル」を渡し、二人で演奏を始めます。「カヴァル」は、現在の民族楽団のなかで、主要な役割を演じています。
13  池田 音は心の響きです。出会ってすぐ即興でハーモニーができるということは、心と心が通いあい、響きあうということです。羊飼いたちが、開かれた心を持ち、たがいによさを引き出しあう心根を持っていると感じます。
 ジュロヴァ もう一つの古代からの楽器「ズルナ」(先が朝顔型に開いた木管楽器。大小あり、いずれも大きな音が出るので野外でよく用いられる)は、おそらく東洋を起源とします。
 この楽器の構造はオーボエ群と関連があり、もっとも顕著な特徴は、その引きさくような甲高い音色です。
 池田 トルコでは祭りや結婚式では欠かせないようです。
 また軍楽隊でも用いられていますね。ウイグル族は「スルナイ」と呼んで、やはり祭りや結婚式の行列に用いています。
 中国に入ってからは、「哨吶(スオナ)」と呼ばれ、劇の伴奏にしばしば用いられます。日本では、古く伝わったものでは篳篥、近世に入って伝わったチャルメラが仲間です。
 ジュロヴァ これは、今日の「カラカチャニ族」に普及しており、ピリン山脈とロドピ山脈で広く用いられています。「ズルナ」は、他のさまざまな楽器とともに演奏され、またしばしば、ブルガリアでとても人気のある楽器である太鼓とともに演奏されます。太鼓は、他の楽器とともに、ブルガリアの伝統的なダンスである「ホロ」には不可欠の伴奏楽器です。また、いくつかの村では、太鼓を独奏楽器として用いています。
14  池田 ところで、私は、一九八一年に貴国の古都プロディエフを訪れた時に歓迎してくれた少年たちのすんだ歌声が、今でも忘れられません。ブルガリア語で二曲、日本語とロシア語でそれぞれ一曲、計四曲にのぼるじつに見事な美しい合唱は、今も、私の胸の中に忘れられない思い出として響いております。
 ジュロヴァ ブルガリアは、少年合唱団を持つことで世界的に有名です。ブルガリアの少年合唱団の輝かしい歴史が始まったのは、一九三五年のことでした。その年、ポリクライシュテ村出身の教師であるボンチョ・ボンチェフが、当時の有名な西ヨーロッパの合唱団――ウィーン、ライプチヒ、ドレスデンの少年合唱団――のような少年合唱団をつくろうと決心したのです。彼がつくった「ソフィア・ナイチンゲール合唱団」の最初のコンサートは、一九三九年に開催されました。
 池田 世界恐慌の後、ファシズムが席巻した第二次世界大戦へと向かう動乱のなかでの誕生だったのですね。
 ジュロヴァ 「ソフィア・ナイチンゲール」は、一九四四年のゲオルギ・ディミトロフとの出会いの後に、新たに創設された少年機構「セプテムブリッヒェ」の代表的な少年合唱団へと発展しました。一九五一年に「パイオニアの殿堂」が落成された後、この合唱団は「ボドゥラ・スミャーナ(新世代)」と改称されました。
 池田 王制から人民共和国への移行の最中でも、少年たちの音楽教育は継続されていったのですね。
 ジュロヴァ ボンチョ・ボンチェフは、子どもたちの歌い方を改革しました。つまり彼は、子どもの声の音域によって起こるむずかしい諸問題を克服し、たんなる子どもの歌ではない、よりシリアスな音楽に取り組むように訓練したのです。次の段階は、きわめて大胆なものでした。親しみやすい子どもの歌をこえた、多くのレパートリーが導入されたのです。
 そのために、多くの優れたブルガリアの作曲家たちが、子どもの歌を創作し、とくに、「ボドゥラ・スミャーナ」のために音楽を作曲するようになりました。
 池田 それで、ブルガリアの少年合唱団が、幅広い曲目をものにしているのですね。ブルガリアの合唱団は、私どもの民主音楽協会の招聘等で何度か来日公演されています。そのたびに日本の聴衆は、その清冽なハーモニーに深く魅了されました。
 ジュロヴァ ブルガリアには約三千六百の合唱団があり、そのうちの二千四百は少年合唱団と高等学校の合唱団です。
 「ラジオ少年合唱団」「フィルハーモニックオーケストラ」は、国境を越えて有名になりました。
15  池田 また、フィリップ・クーテフ氏の尽力も有名ですね。民族音楽の伝統をふまえつつ、西洋的な音楽に親しんできた人々にも馴染める曲に洗練させた熱意と技に、敬意をいだきます。
 ジュロヴァ ブルガリアのフォークロアのもっとも大きい特徴は、有機的な統一性です。それは前世紀に、初めてヨーロッパ民謡を記録しようとしたすべての人々に感銘をあたえました。とは言え、民衆の生活の場から、伝統文化はしだいに消えつつあります。
 池田 西洋の近代物質文明の荒波が、伝統的な生活にも押し寄せ、文化の基盤を変えていったのですね。
 ジュロヴァ 長い伝統に育まれてきた民謡は、一年の季節の自然の繰り返しにしたがって、毎年繰り返されてきたものです。
 池田 わが国にも、古くから数多くの民謡があります。生活の安全や農作物の豊穣を祈願、祝福する歌、共同の仕事のリズムと統一を図るための歌などです。しかし、日本では、外敵の侵入のおそれがそれほどなかったためか、民族のアイデンティティーを広く支える歌はなかった、と言えるように思われます。個々の農村共同体を支える歌はありましたが――。
 ジュロヴァ ある儀式や儀礼が行われなくなると、まず儀礼の歌が消滅し、田畑での作業に変化が起こると、労働の歌が姿を消します。そのなかにあって、十八世紀から十九世紀に大いに発展した愛の歌や、歴史的な歌、叙事的な歌は、今日まで生き残っています。
16  池田 日本では、明治以降、急速に近代化が進むにつれて、種々の民俗文化が、急速に崩壊してきました。民謡も失われつつあるものの一つです。とりわけ、一九六〇年代、七〇年代に、国土全体を近代化する動きが進み、その結果、牧歌的な田舎の風景が失われ、各地域の特色ある民謡を支えた従来の農村共同体もくずれていきました。
 ジュロヴァ 西洋における「レトロ(懐古的)」の流行は、古い様式を復活させました。
 ブルガリアでは、一九八〇年代に、それらは民俗的な様式と融合しました。というのも、「レトロ」の流行は、いまだに民族衣装でいっぱいの祖母の衣装箱を持つ私たちを不意におそったからです。若い世代は、古風なポット、皿、容器や衣装を求めて殺到することによって、物質的なフォークロアを、ふたたび体験しているように思われました。
 一方、都市化をおそれた地方の住民たちは、都市的な趣のインテリアを古風なものによって改装しました。この動きは、フォークロアの博物館への関心、民族史学博物館の創設、また歌や舞踏や楽器などの民俗伝統の鼓舞と歩調を合わせていたのです。
 池田 日本でも、すでに大正時代末期に、民衆に伝えられた「無名の美」を見直す動きが起こっています。柳宗悦らによる「民芸運動」です。近代工業の大量生産品でもなく、特定の芸術家の作品でもなく、生活に密着した民衆の手づくりの工芸品が持つ「用の美」に注目したのです。
 ジュロヴァ ブルガリアで開催される大きなフォークロア祭りや歌合戦にもかかわらず、フォークロアの社会的境界は縮小してきました。そして、本物のフォークロアは、年配者の世代の間だけに今も生きています。
17  池田 日本の、第二次世界大戦後の高度経済成長は、近代化の代償として、民芸の基盤である民衆の生活を大きく変化させました。生活に根ざしたものであった民芸品も、旅行者向けの土産物へと移っていきました。
 また、ラジオやテレビのマス・メディアの普及が、標準語を広げてお国言葉の豊かさをそぎ落としていき、さらには、全国に画一的な流行歌を蔓延させました。このような時代の潮流のなかで、地方独特の民謡はだんだんと影がうすくなっていきました。
 ジュロヴァ 若者たちは、様式化されたフォークロアを、儀礼や本物の体験としてではなく、むしろ、見せ物と考えます。様式化されたフォークロアは、「チャルガ」と呼ばれていますが、マス・メディアもそれを支持しています。
 池田 民謡の衰退をうれい、保存していこうとの動きも各地に現れました。と言っても、民衆から遊離してしまったかつての民謡を、そのように記録的に保存しても、それは民謡のたたえていた本来の生命の回復までにはいたらない、といった指摘もあります。
 ジュロヴァ 私たちの両親は、いまだに精神的にフォークロアと結びついているので、近年のレトロの傾向は、若者を自然環境から切り離し、都市の壁に囲むことであると考えました。また、私たちは、自分たちの子どもたちが伝統を保ってきたという「幻想」をいだいていました。しかし、若者たちの伝統的なものへの関心は、むしろ都市生活のなかの人間の「エコロジカルな」叫びだったのです。
 かつては、オリジナルな文化であるフォークロアを通して、国民はたがいに意思を伝達し、みずからと他者を区別してきたのです。しかし、前世紀以来フォークロアは病弱になっており、科学技術の進歩や近代的なマス・メディアに抵抗できないでいました。
18  池田 しかし、民衆の大地に深く根ざしているものは、いったんは駆逐されたかのように見えても、たくましく雑草のように、ふたたび新たな芽を出してくるものです。
 ジュロヴァ 社会・文化システムとしての古典的なブルガリアのフォークロアは、今世紀に分解しました。しかし、近代ブルガリア文化の枠組みの中でフォークロアに新しい意味をあたえようとの創造的努力が、強力に行われ始めました。言いかえれば、それを現代的なものにするために可能なすべてのことが行われたのです。
 目下、若者たちの間で、民俗音楽に対する関心が高まっています。また、古くから歌われてきた歌を現代風にアレンジした歌も、多く見られます。また、伝統的な民謡と現代音楽が、融合している状況も見られます。そのすばらしい例は、著名な作曲家、ゴラン・ブレゴビッチの手による、コストゥリザの映画のサウンド・トラック版です。
 フォークロアによるコミュニケーションは、文字によらない有効な方法として、再解釈されつつあります。フォークロア以外の文化、すなわち「高踏的な文化」も、コミュニケーションの最高のシステムとしてのフォークロアに注目しております。
 池田 帰るべき大地は、民衆です。民衆が生みだした文化であるフォークロアこそ源泉でしょう。
 ジュロヴァ 現代がフォークロアに関心を持つのは、死にゆくものの「痙攣(発作)」としてだけなのでしょうか、あるいは、フォークロアが持つ直接的なコミュニケーションという無限の可能性を、現代の芸術に吸収しようとする試みなのでしょうか。
19  池田 伝統に対する哀惜だけでは、それを守ることさえできないでしょう。しかし、現代の生き方を伝統文化から切り離して構築すれば、それは底の浅い、根無し草の不安定なものになることも、明らかです。
 ジュロヴァ ここで私が重視しているのは、「伝統へ向けて」というロマンチックなモットーの復活ではなく、二十一世紀に各々の国家が、みずからの伝統を見いださなくてはならないという点なのです。
 池田 非常に大事な点です。私もその点に注目して、民衆に根ざした「第三文明」の構築を訴えました。
 先人の知恵、民衆の知恵の豊かな土壌に根ざしてこそ、現代を生きぬく新たな価値の創造が可能になるのです。
 ジュロヴァ 私は、ブルガリアのフォークロアが持つ諸要素が、現代の科学技術文明のなかで生き残れるかどうかについては、楽観的に考えています。
 池田 私もまったく同意見です。現代人のかわいた魂をいやす重要な要素となるでしょう。

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