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日蓮大聖人・池田大作

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鎌倉仏教と日蓮大聖人  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

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3  ジュロヴァ 私は、日蓮大聖人は一人の人間に徹して焦点をあてたと理解していますが、正しいでしょうか。
 池田 ご賢察のとおりと思います。先ほどふれましたように、日蓮大聖人の特色とは、『法華経』を根本とすることの徹底であった、と言えるでしょう。
 古代から中世への転換期に求められている「個人の救済」、および、それを支える平等の思想は、『法華経』に基づくものです。
 日蓮大聖人は、当時の諸宗派が前提として持っているはずの、人間にもともとそなわっている尊厳とそれを開花させる力への尊敬の念を、「仏(釈尊はじめ諸仏)の心」「法華経の心」であるとし、これを根本とすべきことを示したのです。
 一般的に、日蓮大聖人が同時代の諸宗派に対し、非寛容であるかのように誤解されがちですが、日蓮大聖人は、諸宗派が前提にしているはずの「法華経の心」を見失っている状態を鋭く指摘し、前提との矛盾点をえぐり出しただけなのです。
 それは、諸宗派の根源にかかわる問題であったために、諸宗派は大きな問題としてさわぎ立てたのではないでしょうか。
 日蓮大聖人は、この「法華経の心」がみずからの生命にそなわっていることを覚知し、このことを、『法華経』の忍難弘通によって、身をもって示し表しました。
 日蓮大聖人が内なる覚り(内証)として得ていた法が、あらゆる仏たちに共通の根源の覚り、「法華経の心」であることを証明したのです。
 日蓮大聖人にとっては、「法華経の心」である「妙法」を説き広めることは、『法華経』を通して示された釈尊の心を引き継ぎ、また、『法華経』を重んじた天台大師智、伝教大師最澄の心にも相応するものでした。
 日蓮大聖人は、みずから「法華経の行者」と名乗っているように、仏教の精髄を秘めた『法華経』を根本とする「法華宗」の正統との自覚に立って行動したのです。
 私は、この日蓮大聖人の行動を「すべての人々の幸福のために」と誓った釈尊の心のルネサンス、仏教精神のルネサンスである、ととらえています。
 「法をよりどころとし、自らをよりどころとせよ」と釈尊は亡くなる直前に説きました。私はこの教えを、一個の人間に内在する普遍的な価値を説き示したものと見たいのです。まさに、日蓮大聖人において仏教は、「個の自覚の宗教」として、民衆の生命変革の法理として躍動した、と言えましょう。
 鎌倉新仏教の諸宗派のリーダーたちは、確かに、多くの人々を幸せにしたいとの動機に立って、時代を呼吸し、その要請に応える努力をした、と言えるでしょう。
 しかしながら、その後代の弟子たちを見ると、現実変革よりも死後の冥福を強調したり、現実社会から遊離してしか実現できない修行を強調したりするようになっています。
 その主張の根底には、人間への信頼の不完全さを感ぜざるを得ないのです。
 人間をどこまでも信じ、その可能性をあくまで信じるならば、いかなる現状であろうとも、「今、ここ」に立って、その場を転換して幸福を切りひらいていけるのではないでしょうか。
 先に挙げた釈尊の遺言は、そのような深い人間への信頼の言葉であり、人間主義の復興の宣言であると考えるのです。
 そして日蓮大聖人は、釈尊がめざした「人間の尊厳の復興」という大人権闘争を、鎌倉時代の日本から、万人に開かれた新たな形で、未来に向けて開始した仏教者でありました。
 また、日蓮大聖人は大衆のなかで行動するとともに、為政者(王)への働きかけをも行っています。
 当時の最高実力者である北条時頼に対して、「立正安国論」という論文を送っています。日蓮大聖人にとっては、日本の為政者を「わづかの小島のぬしら主等と呼ぶように、仏法のもとには大衆も為政者も平等です。むしろ、為政者を「民を親」として仕えるべき、いわば、公僕としてとらえていました。そして、為政者はその役割をまっとうするために、「正法」に基づき、「安国」を実現する責務を負っていると考えていたのです。
 為政者を含め、各個人が仏法の理想である「法華経の心」を身に体して現実社会で行動する時、社会の変革も、理想社会の実現もあると説き示しています。
 一人の「人間革命」を前提として、社会の変革、理想社会の建設をめざすのが、「立正安国」の思想です。したがって、「安国」の“国”とは、日本国をも含んで「地球社会」をさし示し、人類の恒久平和、永遠なる繁栄を意味しております。
 地球人類の安穏なる共生をめざす「立正安国」という社会的条件の整備は、近年ようやく重視され始めた平和の権利、環境の権利等の「第三世代の人権」の確立に相当するもの、と言えるのではないでしょうか。
 人間の尊厳を基調とした「地球社会」の構築は、私たちが生きるこの現実のなかで、すべての人々が自己実現するための保証として必然的に求められるものであるからです。

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