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日蓮大聖人・池田大作

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聖徳太子と大乗仏教  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

前後
2  ジュロヴァ それはどのような形ででしょうか。
 池田 たとえば、「和を以て貴しとなす」という「十七条憲法」の理念は、江戸時代、明治昭和時代という日本の近世、近代の国家統治理念形成の大きな支柱となりました。しかし、この理念は、社会的安定には役立ちましたが、ともすれば、徹底した論争を避ける“対立の回避”というような政治的目標として利用されてきたことも事実です。
 ここで、太子の統治理念に関して、もう少し述べたいと思います。非常に厳密な研究者は、太子の作とされるほとんどの資料に疑念をはさんでいますが、その人たちの多くも認める言葉がいくつかあります。太子が自身の子の山背大兄王にあたえた遺言という「諸悪莫作、諸善奉行(諸々の悪は行ってはいけない。諸々の善を行うべきである)」がそのうちの一つです(『日本書紀』)。これは「七仏通誡偈」と呼ばれ、仏教で伝えられる「七仏」が共通して説いたもの――仏教の根本精神を示すもの――とされています。
 また、太子の死後、太子の妃である橘大郎女が織らせたという「天寿国繍帳」には、「世間は仮の事象であり、唯仏だけが真実である」という、“太子の口癖”と言われるものが記されています。このことから、太子が仏教に深い造詣を持っていたことは確かなようです。
 さて、日本に仏教が伝わってきたのは、前節でも述べましたように、六世紀のこととされています。もちろん、この仏教とは、いわゆる北伝大乗仏教であり、東南アジアに伝わった上座部仏教ではありません。
 当時は、朝鮮半島から多くの技術者たちが渡来し、黎明期の日本の建設に、大きく貢献していました。その後に、百済の聖明王から日本の欽明天皇へ仏教は公伝されることになりました。紀元五三八年、紀元五五二年の両説があります。
 日本に仏教が伝わった意義については、さまざまな研究がありますが、政治的・外交的事情から見た聖徳太子による仏教受容の意義を取り上げたいと思います。もちろん、歴史的に見て本当に聖徳太子の手になったのかどうかは、つねに疑問の余地があります。
 仏教の公伝以前、日本、当時の呼び名で言えば“倭国”は、中国との間に「冊封関係」を結んでいました。「冊封関係」というのは、東アジアの巨大国家・中国に対し、周辺国家の王が朝貢し、その国の統治を「認めてもらう」ことです。中国では、儒教等の影響から、その領土および領民を、皇帝を頂点とした「天下」と呼びました。天の命令は、中国皇帝を中心とした社会システムによって天下全域におよぶというわけです。
 仏教の世界観は、この中国皇帝を中心とした「天下」の思想にまっこうから対抗するものでした。仏教の世界観によれば、中国の皇帝も結局、生死流転にさまよう、迷える衆生にしかすぎないのです。仏教は、日本の支配者たちに、中国からの独立をうながす思想的基盤をあたえたのです。
3  ジュロヴァ よく分かります。私が知るかぎりでは、日本という名称が最初に記載されたのは、聖徳太子がみずからを“日出ずる処(中国語でリーベン、日本語でニホンあるいはニッポン)の天子”と言い“日没する処(あるいは中国)の天子”に国書を送った六〇七年でした。
 池田 「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云云」(『新訂魏志倭人伝他三編』石原道博編訳、岩波文庫)の文ですね。
 聖徳太子が隋に外交使節を送ったことは、よく知られていますが、その外交使節に託された親書にそのようにしたためられていました。「日出ずる処の天子」とは日本の天皇、「日没する処の天子」とは隋の煬帝のことをさしています。天子が二人いるということは、先に述べた中国の「天」の思想からはあり得ないことでした。このため、煬帝は激怒したと言います。まさしく、この親書の「宣言」の背後には、仏教の思想があったのではないでしょうか。
4  ジュロヴァ 日本の国旗の赤い太陽は、この国名と結びついているのでしょうが、いったい、いつ、日本の国の正式の印として使われるようになったのでしょうか。
 池田 この問題に関しては、まだ研究者のなかで意見がさまざまなのですが、「日本」という言葉自体ではなく「太陽が昇るところ」という意味ならば、この隋への親書が歴史上の文献に現れる最初とされています。
 「日本」という言葉自体が国号としていつ採用されたかは明らかではありませんが、七世紀半ばから八世紀にかけてとされています。
 「日の丸」と「日本」との直接的関係も明らかではありません。「日の丸」の始まりの詳細も明らかではありませんが、十二世紀、源氏と平氏という武士一族が日本を二つに分けて抗争していた時、武士たちが太陽のシンボルとして、扇の飾りに使っていたことが知られています。
 その後、武士の軍旗の図柄として多用され、江戸時代には幕府や大名の船の旗として用いられるようになりました。幕末に、外国船の来航にさいして、日本側の船印として用いられたころから、公に使われ始めたとされています。
5  ジュロヴァ なるほど。よく分かりました。では聖徳太子の話に戻りますが、日本の人々は、中国の文化の拡大に対してどのように対処したのでしょうか。国家が形成された後、数世紀にわたり、日本では、地方の状況に即応させるため修正を加えながら、中国の政治機構を手本として採用した、と聞いています。具体的にはどのようになされたのか、お教えください。
 池田 前にも述べましたが、仏教公伝の前に、渡来人によって民間レベルでの伝来はありました。『日本書紀』を見ると、当時の日本人たちは仏のことを「外神」「西蕃の神」などと呼んでいたことがうかがえます。当時の日本は「氏族社会」というシステムをとっており、この「神」の一種として、仏が採用されたのです。
 このように、かなり、誤解された形で仏教は渡来したのです。しかし、それぞれの氏族が自分たちの「神」を捨て、あるていど自発的に仏教を選んだことの積極的意義も忘れてはならないと思います。
 仏教の公伝以降、当時の支配階級が形成しようとしていたのは「国家仏教」でした。国家によって教理的にもきちんと統一性を持ち、保護される国家体制維持のためのイデオロギーとしての仏教です。それは国内においては、思想的な統一性をあたえるものであり、国外においては、当時の東アジア文化圏に共通した文化基盤だったのです。これが、太子が仏教を興隆しようとした大きな目的であり、博士の質問にある十七条憲法に「三宝(仏・法・僧)」崇拝の一項目が入った理由と考えられます。
 そして、これがご質問にある「中国文化の拡大に対する対処法」でした。つまり、当時、東アジア全体に広がる共通の文化基盤である仏教を受け入れ、国際化を図るとともに、同じ仏教国として、中国に対して自立・独立した態度をとろうとしたのです。
 さて、当時の最強の氏族であり、日本の代表的支配階級に位置していた蘇我氏は「西蕃の諸国、一に皆礼ふ。豊秋日本、豈独り背かむや」(『日本書紀』坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)と言って、仏教の国教化を図ろうとしました。この蘇我氏とともに聖徳太子は、寺院の建立をはじめとする仏教興隆のための諸施策を積極的に行っていったのです。
 種々の聖徳太子伝の記述にしたがいますと、聖徳太子は、しばしば『法華経』『勝鬘経』などの大乗の諸経典を講義したと言われています。『法華経』は、「諸経の王」と言われ、私どもにとっても大事な経典ですが、『勝鬘経』は非常に「在家主義」の強い経典として知られています。
 この『勝鬘経』では、シュリーマーラー――勝鬘と音写されますが――という王妃が、仏に対して誓いをたてる場面が、クライマックスとなっています。すなわち彼女は誓います。
 「私は身よりのない人、弱者のために全力をつくします」「財をためることは、よくないことですが、弱者のために使う財ならば、私はどんどんためましょう」(大正十二巻二一七㌻、参照)と。
 ここには、社会からはなれた厭世主義ではなく、大胆に社会のなかに飛びこみながらも、社会に埋没するのではなく、社会の矛盾と切り結んでいこうという積極主義があります。もちろん彼女は在家です。そして、もちろん、聖徳太子自身も在家でした。
 大乗仏教の一つの特徴として、「在家、出家の平等」、さらには「在家重視主義」が挙げられますが、聖徳太子の仏教受容は、それをさらに強調したものだったと言えるのではないでしょうか。
 太子の作とされる『法華経義疏』の安楽行品の注釈個所には、山中で座禅ばかりしている修行者は小乗の者で、大乗の菩薩は近づいてはいけないと述べられています。
6  ジュロヴァ 明確に在家中心、現実重視の思考が表れていますね。
 池田 聖徳太子は、『法華経』『勝鬘経』とともに、これも非常に在家主義の強い経典である『維摩経』に対し、注釈を書いたと言われています。この三経は共通して、現実社会を離れたところにパラダイスがあるというのではなく、現実社会をパラダイスへと変革していくという「此土仏国思想」を説いています。それは、共通の先祖を祭る祭式儀礼によって、集団の安寧と繁栄を祈願するという、当時の“呪術的信仰”からは大きく離れた、画期的なものと言えるでしょう。
 ただし、この三経に対する注釈(『三経義疏』)の著者の問題に関しては、さまざまな意見があります。
7  ジュロヴァ 聖徳太子の作であるかどうか、意見が分かれているのですね。
 池田 聖徳太子の著作とする奈良時代の史料が存在することや、中国の学者と異なった意見がかなり理論的に整った形で出ていることなどを根拠に、太子の真筆とする説。(花山信勝『聖徳太子御製法華義疏の研究』東洋文庫)
 敦煌の莫高窟第十七窟から発見された敦煌文書に、『三経義疏』のうち、『勝鬘経義疏』に類似のものが発見されたことを根拠に、中国でつくられたものが、太子によって派遣された遣隋使によって日本にもたらされたとする説。(藤枝晃「解説勝鬘経義疏」、家永三郎早島鏡正・築島裕校注『聖徳太子集』〈日本思想大系〉2、岩波書店)
 『上宮聖徳法王帝説』に、高句麗の僧侶、慧慈が聖徳太子の師として『三経義疏』の述作に加わったことが書かれていることなどから、太子と朝鮮系渡来人学問集団の共同作業とする説。(速水侑、小栗純子編著『歴史に見る日本人と仏教』放送大学教育振興会)
 ――このような説がありますが、いずれにしても聖徳太子自身が『三経義疏』に深くかかわっていたことは否定できません。二番目の説にしても、遣隋使を派遣した中心者は太子でした。
 聖徳太子がその後の日本仏教にあたえた影響は、いくつか考えられますが、とくに『法華経』に関することは特筆されるでしょう。
 現存する最古の太子の伝記(『七代記』。七七一年に著されたとされる)には、太子が唐から『法華経』を将来したとあります。太子が『法華経』を実際に将来したかどうかは疑問視されていますが、太子が何らかの形でかかわっていたであろう『三経義疏』の中心は『法華経』の注釈書です。太子と『法華経』が強くつながっていたことは事実です。
 太子が生きた次の時代、日本では奈良時代と呼ばれていますが、その時代の日本仏教はインドの竜樹(ナーガールジュナ)、世親などが著した「論書」を中心とした教理研究が仏教の中心でした。これに対して、次の平安時代の仏教は、経典に対する信仰が宣揚された時代です。とりわけ、平安時代を代表する僧侶である最澄は、東アジアで「諸経の王」と称された『法華経』によって日本天台宗を立てたのです。
 当然、最澄は『法華経』を日本に将来したとされる聖徳太子を、尊敬と言うより、ほとんど信仰と言えるような次元で、追慕したのです。
 最澄の立てた日本天台宗(比叡山)は、その後の日本仏教をリードしました。日蓮大聖人をはじめとして、法然、道元らの鎌倉時代の代表的仏教者は、ほとんどが日本天台宗で学んでいます。
 以上のような理由から分かるように、日本において聖徳太子が後代に影響をあたえたのは、『法華経』重視の姿勢でした。逆に、太子後の日本における『法華経』信仰の隆盛が、日本に初めて『法華経』を伝えたとされる太子を重視する流れをつくっていったとも言えるでしょう。
8  ジュロヴァ ここで、大乗仏教の根本理念をなす「空」についておうかがいしたいと思います。理解することがむずかしい概念ですので少し、教えていただきたいと思います。
 キリスト教の二元論的構造は、あらゆるものに適用されます。たとえば、世界の創造は光と影との闘争の結果とされるのです。それに対し、仏教においては、世界は基本元素から神のような超越的存在なしに発展し、「光と影は分離できない」と説きます。
 キリスト教は、すべてのものに対立を見いだします。しかし、仏教では、「あらゆる対立は私たちの無知の結果である」と説きます。
 池田 「空」とは、「縁起」とも言われます。私たちが固定的に見ているさまざまな事象には固定的実体はない、という思想です。言語を使ったり、言語でものを考えたりする時、私たちは、言語的慣習の枠に入れて、判断してしまうのです。
 たとえば、ここに一人の人がいる。この人は他にかわる人がない絶対的個性があるにもかかわらず、私たちは「アメリカ人」とか「中国人」とか「プエルトリコ人」とか、「背が高い」とか「背が低い」とか、「ツチ族」とか「フツ族」などという枠にはめて考えてしまうのです。
 仏教では、そのような「枠」はつくり出されたものととらえ、もともとは「空」であり、実体はないとするのです。
 通常、私たちは言語的慣習にしばられて、事物をつくられた「枠」に入れ、そのような枠を実体視し、固定化してしまうのです。このような実体視が、「無知」「無明」と言うものです。それに対して、仏は事物をその個性において、また変化の相において見ることができます。これを仏の智慧、仏智と言います。
9  ジュロヴァ よく分かります。孔子は、「やりすぎは、やらないことよりも価値があるわけではない」と語っていますが、文字どおりにとれば、この文章をヨーロッパ人は、不活動を主張しているものととるでしょう。しかし、この引用した格言の意味は、不活動を絶対視するものではありません。
 ただ、中庸を主張しているのです。むしろ、孔子は、「君子は言に訥にして、行ないに敏ならんことを欲す(りっぱな人は、発言は口ごもっていても、行動はすばやくありたいと思う)」(『論語』)と述べるのです。
 孔子の「無為」の概念の意味は、「不活動」という意味ではありません。ロシアでは「無為」と訳すときには、その注釈を付けています。
 ここで私は『老子』を引用したいと思います。「之を歙めんと将欲せば、必ず固らく之を張る。之を弱めんと将欲せば、必ず固らく之を強くす。之を廃せんと将欲せば、必ず固らく之を興す。之を奪はんと将欲せば、必ず固らく之に与ふ。是を微明と謂ふ。柔弱は剛強に勝つ(道は万物を縮めようとする時には、必ずその前にしばらくこれを膨張させる。これを弱めようとする時には、必ずその前にしばらくこれを強める。これを廃れさせようとする時には、必ずその前にしばらくこれを興す。これを奪おうとする時には、必ずその前にしばらくこれに与える。こういうやり方は実に微妙でしかもその効果が著明であるので、これを微明という。こういう微妙な道理が働くから、一見負けそうに見える柔弱なものが、一見勝ちそうに見える剛強なものに勝つのである)」(前掲『老子』)
 この独特な引用文は、よく国家統治の引き合いに出されます。国家統治の方法は、自然な手段によって望ましい結果へ向かうのを促進することです。私は、ここで老子が示しているものは、「無為」と「不活動」の違いであると思います。
10  池田 博士の洞察のとおりと私も考えます。今、言われたように、その一節はある意味で、現実主義的な統治の技術のように解釈される場合がありました。
 事実、荘子は、この一節を総括した「国の利器は、以て人に示す可からず」(同前)という個所の「国の利器」を、「国を治める明知」と解釈しています。韓非は「君主の賞罰の権」とします。
 確かに、「之を廃せんと将欲せば、必ず固らく之を興す。之を奪はんと将欲せば、必ず固らく之に与ふ」との一節は、独裁者の卑怯な策略のようにもとれます。
 しかし、この言葉は政治学の教科書で述べられたのではないのです。自然の法則――道――を述べるところで、語られる言葉なのです。ひたすら我執を捨て、しかもぎりぎりのところで、主体として行動する時に発せられる「叫び」として認識されなければならないでしょう。あえて他者の立場に身を置く、あえて異なる立場を想像することの必要性を説いているものと、私は思います。
 それが「無為」なのです。だから、「無為」は「道」とも言われるのです。「無為」が「不活動」ならば、「道」というアクティブなニュアンスを持つ言葉と同義語として用いられるはずがありません。ゆえに、博士のご意見に私も賛成です。
11  ジュロヴァ 老子においては、「無為」とは、「道」という一般的な法則に統御された行為の基礎にある原理なのですね。そこには意図的努力も外的なやりとりもありません。
 その「無為」は「不活動」とは違うという逆説は、「之を損し又損し、以て無為に至る(知識を減らしに減らした結果、人は無為の境地に達する。無為の境地に達したなら、今度はもう為し得ないものは何もなくなる)」(同前)との言葉によく表れています。
 それにふさわしい行動の公式としては、次のようにあります。
 「無為を為せば、則ち治まらざる無し(相対・差別を超克した無為の政治を施すならば、天下は安らかに治まらないということはない)」(同前)
 「無為を為し、無事を事とし(人目につく働きをせず無為をなし、殊更の施策を行なわず無事を事とし)」(同前)
 すなわち、ここで言う行為のあり方は、客体との関係においてではなく、永遠に動くものとの不動の関係の状態にありながら、客観的な発展法則を侵害することなく、永遠に動くものなのです。
 老子の著は、次の格言で終わっています。「聖人の道は、為して争はず(聖人の道はすべての人々のためにし、しかもその功名を人と争おうとしない)」(同前)と。
 仏教的な「空」の概念については、この老子の概念と『バガヴァッドギーター』(インドの叙事詩『マハーヴァーラタ』の一部、インドの思想・文化に大きな影響をあたえた)や竜樹の文献と見比べて考えていかなければなりません。それらによれば、「行為は不活動よりも崇高」であり、「行為の断念はやはり誤り」であるのです。
 「空」の問題については、私たちも似たような事例を持っています。ここでアインシュタインの言葉を思い起こすことは適切なことでしょう。「私が本当に考えるとき、言葉はまったく心から消えている」と。
12  池田 そのとおりです。『ギーター』においては、「カルマ・ヨーガ」すなわち、「為すべきことを為すこと」、「義務」の重要性が強調されます。まず「為すべきこと」への洞察、反省があるべきなのです。みずからの行為が、社会に創造的価値を付与し得るのか、それとも、いっそうの混沌をあたえるのか――それを見抜くエゴイズムをこえた“知恵の目”が必要なのです。
 竜樹の主張も同じでしょう。彼の主張する「空の論理」も、エゴイズムをこえた利他の行動の可能な一点への洞察であったのです。彼がある国王をいさめた手紙が残っていますが、「空」が決して厭世主義ではなかったことが、それを見れば分かります。
 仏教が中国に入った時、「空」はたんなる否定である「無」と解釈されました。そして、それは「有」と対立する概念とされたのです。「無」と「有」などという分断的な認識こそ「空」である、と見ることの重要性を仏教は説いていたはずなのですが、「空」はそのような分断的な認識の一項になってしまったのです。そして、老子の「無為」の通俗的解釈と同一化され、ニヒリスティックで逃避的な原理とされていったのです。
 「空」と「無為」は、博士が洞察されているように、また先ほどから述べているように、すべての先入観や作為をこえた利他の行動を支えるものであり、それらは深いところで類似したことを示唆していたのです。それが、まったく逆に、皮相的なところで、類似の概念であると思われるにいたったのです。
 とくに、日本では、「無為」や「空」が、厭世主義と受け取られてしまった歴史がありました。情緒的な隠遁主義におちいってしまったのです。第二次大戦中に、多くの日本の仏教教団が、“翼賛体制”に迎合していったという、まことに残念な歴史にも、その情緒的な隠遁主義の影が見てとれます。
 本来は、「無為」や「空の論理」は、利他への強靭な精神の営みであったのですが、その根本精神をまったく喪失した多くの仏教教団は、東洋の諸民族への侵略に加担していったのです。
13  ジュロヴァ よく分かりました。それでは、先ほど出てきました「律令制度」に戻りたいと思います。
 七世紀から九世紀までの間、日本の政治機構は、刑法である「律」、および行政法である「令」に基づいた、いわゆる律令によって統治されました。この政治機構は興味深いものですので、くわしく聞かせていただければ幸いです。
 池田 東アジアでは、隋に続き、六世紀に強大な唐がおこりました。これが東アジア全域に大きな脅威となったのです。朝鮮半島では新羅、百済、高句麗の三国がたがいに覇権を争いながら、統一のうねりが大きくなってきました。
 聖徳太子は、中国の中央集権的な文化、および東アジアの共通の文化基盤であった仏教をとり入れ、日本においても中央集権的な国家をつくり上げようとしました。
 さまざまな混乱を経て、七世紀末の天武、持統両帝の時に、太子の悲願は実現し、唐の「律令制」を導入した中央集権的な国家が成立したのです。
 「律」とは刑法にあたり、「令」はそれ以外の法規です。日本の天皇制は当時、唐の皇帝ほどの専制的権力を持っていませんでした。簡単に言えば、唐の律令制は強大な権力を持つ皇帝がつくったのに対し、日本の律令制は、天皇の権力をより確実なものとするためにつくられた、と言ってもよいかもしれません。
 権力の中枢は、天皇およびその親族や有力豪族から構成されていました。支配者たちは私有地、私有民を手放しましたが、そのかわり天皇の権威、中央集権的国家機構を背景に、国家官僚として土地と民を支配しました。
 地方には、国司、郡司、里長が置かれました。完璧な中央集権的国家体制ならば、本来、この順に権力が弱くなるはずですが、中央機構から派遣された国司と地方豪族が任命された郡司が並んでいたのが実情です。
14  ジュロヴァ よく分かりました。次に、大乗仏教はたいへん普遍的な性格を持っていますので、“異教”を生む原因となる、“正統”と“逸脱”の区別はなかったと理解していますが、これは正しいでしょうか。もし正しいとするならば“異端”あるいは“異教”がないことが、かえって、仏教が改革を行う機会を失ってしまうことにもならないでしょうか。
 池田 ご質問の大乗仏教と“異端”との関係について述べてみたいと思います。
 七九四年、チベットのサムエという寺院で大法論が行われました。法論の主人公の一方は、仏教史上その名をとどろかせる大論師・竜樹直流のカマラシーラ、もう一方は中国の南頓禅の摩訶衍という僧侶でした。
 摩訶衍は、何も考えず何も思わない座禅の修行によって一人覚りを得ることが、仏教の目的であって、他人を救う利他の実践を行う必要はないと主張しました。それに対して、カマラシーラは、利他行の実践によって慈悲と知恵を得ることこそ、仏教の目的であると主張したのです。勝敗は明らかでした。とは言っても、摩訶衍派が異端として皆殺しにされたり、追放されたのではありません。むしろ、逆恨みした摩訶衍一派が、さまざまな陰謀を画策したと言われています。
 仏教の歴史のなかで、さまざまな論争はつねに行われてきました。竜樹やその弟子たちも、対論相手から「すべてを否定するもの」と呼ばれたくらい、歯に衣着せない論陣をはったのです。しかし、彼は世俗的権力に訴えて、他学派を弾圧することはありませんでした。
 仏教では、釈尊以来、あくまで「対話」を通じて「法」を広めてきました。仏教内部での対決も他の宗教との対決も、つねに「対話」による「法論」によって正邪――仏教の本義に適うか否か――を決しようとしてきたのです。そして、「法論」に敗れた方が、みずからの主張を捨てて、勝った方の弟子となることが求められてきました。しかし、現実には、敗れた側が、怨念をいだいたり、策謀をめぐらすこともありました。
 仏教の歴史を見ると不思議なことが分かります。“釈尊の教義”と照らしあわせると、教義の面での改ざんが多く、釈尊の精神から外れ「異端」的に見える人々の方が権力に結びつき、「正統」と思われる人々を弾圧したという例が多いのです。こういうところに、仏教の教義そのものが広く民衆側に開かれたものであることが表れているように思われます。
 博士は「異端のないことが改革の機会を失うのではないか」との疑問を提示されていますが、これまで述べてきたように、仏教の改革は、つねに「対話」(法論)を通じて行われてきております。
 「対話」には、“開かれた心”による相互の交流があり、「法論」に勝った側も、相手の主張に耳をかたむけ、自己反省を行い、とり入れるものはとり入れ、仏教の本義にあわせて判断しております。このようにして仏教の改革は、「法論」を通じて行われてきた、と言えましょう。

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