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日蓮大聖人・池田大作

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日本における仏教の受容  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

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1  ジュロヴァ 日本の神話的な先史時代について、少々知りたいと思います。外国人が貴国を侵略したことはありませんが、激しい国内的な諸事情が大きな試練になったことがあったにちがいありません。それらは、日本人の性格に、どのような影響をあたえたでしょうか。
 池田 まず、日本の歴史的な状況が、日本人にどのように影響しているかについて、考えてみたいと思います。
 今、おっしゃったように、日本は外国から侵略を受けた経験はほとんどありません。蒙古からの襲来といった一時的なものは除いて、近代にいたるまでは、日本は島国であるために外国から侵略を受けた経験もなく、大陸の国々に比べて大量の民族の交流も見られませんでした。そのため、日本人の性格を形成した大きな要因として、まず第一に、「同質性」が挙げられています。
 日本という国土にあっては、人々はほぼ同じ言語、価値観、文化を持ち、他者とはあまり緊張感を伴わずにコミュニケーションをとることができたのです。
 逆に、こうした「同質性」の意識が、異質な世界との接触において、「日本は他の国々と比べて特別な国である」という意識を生み、それがひいては過度の優越感や劣等感につながっていきました。実際、日本には、アイヌ民族などの先住少数民族がいるにもかかわらず、「同質性」の意識から、彼らをあえて無視し、排除するような対応をとってきた悲劇的な歴史があります。
 第二に、豊かな自然に育まれたための情緒豊かな性格です。“山紫水明”の美しい自然の存在の中で、日本人は、自然と対立するというよりも、自分たちを守り、育んでくれた自然に“畏敬の念”で接してきました。自然を詩歌に託して歌いあげていくようなところは、まさに自然美の生んだ気質と言えましょう。
 第三には、農耕社会が生んだ「共同体」意識を挙げることができます。先ほど、日本の「同質性」について述べましたが、同質の日本社会を維持してきたのは、稲作農業を中心とするために、「共同体」の社会が発達し、それぞれが独自の社会をつくっていったからです。稲作には、村人たちの共同作業が不可欠です。このことが、上下の人間関係を重視する「タテ社会」の意識や、個人より共同体の価値を優先する「共同体意識」を形成していく基盤となったのです。
2  ジュロヴァ 宗教は、それぞれが独自の神話や超自然的な作用をそなえているために、キリスト教も、往々にして土着の宗教と対立しました。それでも、九世紀から十世紀にかけて、ブルガリアでは、キリスト教はしだいに土着の信仰と混じりあっていきました。民間信仰の自然崇拝の儀式が、キリスト教の中に混入したのです。
 日本では、哲学的な難解さを持つ仏教は、初めから一哲学として受け入れられたのでしょうか。それとも、日本土着の神道が持つ内容の範囲で理解されるという、素朴な受け入れられ方をした時期があったのでしょうか。
 池田 仏教や・儒教といった大陸からの精神文化が移入される以前の日本は、北アジアの他の地域と同じく、特定の人間が特殊な霊力を担い、精霊との交渉を持つと考えられた「シャーマニズム」が大きな力を持っていました。後に、この「シャーマニズム」は、自然に対する素朴な信仰、祖先崇拝など、古代からあった民俗的宗教と混合して、日本の民族宗教である神道へと発達していったとされています。
 ただ一つ気をつけなければならないのは、「神道」という統一的形態は存在しなかったということです。それらのシャーマニズムは、地域によって異なった形式を持っていました。「神道」という統一的な形でその教えが整理されたのは、近世、近代になってからのことです。
 「神道」という言葉自体は、『日本書紀』という書物に「天皇は仏法を信じ、神道を尊ぶ」という言葉があるように、仏教や儒教が大陸から伝来した後に出てきたものです。
 「神道」自体が一つの体系的な宗教だったのではなく、仏教や儒教といった大陸から伝来した思想、宗教に対して、日本古来の土着の宗教の全体をさして漠然と「神道」と称したのです。
 仏教は、もともと、このようなシャーマニズム的なものを排除していました。インドにおいて、原始仏教は、祭祀をつかさどるバラモン階級の特別な能力を否定し、また呪術、魔法、占いなどの類を禁じました。
 しかしながら、仏教のこのような性格は、日本の一般民衆のすみずみにまでは浸透しませんでした。
 日本に仏教が伝来してきた時も――日本に伝来した仏教は北伝仏教ですが――、それぞれの共同体が独自のシャーマニズム的な宗教様式に従っていたために、そのシャーマニズム的宗教の延長上で受容されたのです。
 このように、仏教は、固有信仰との融通性をもって概して平穏に受容されました。たとえば、古代天皇に関する書物に出てくる「蕃神」「仏神」「他神」「他国神」という言葉に象徴されるように、「仏」が外の世界からきた「神」というように考えられ、排仏派にしても、他国からきた「神」なので、たたりをおそれ、丁重にもてなして送り返すという発想があったようです。
 いずれにしても、日本の仏教の受容は、「仏」を「神」として受容するところから始まっております。このことは、今日の日本の民衆が持っている仏教観にまで引き継がれています。また、仏教の方でも、在来の日本の「神」を排斥するのではなく、仏を守護する存在などとして、融和してきました。
 歴史的に見ますと、日本に仏教が伝えられたのは、公式的には五三八年とも五五二年ともされていますが、それは、いわば政治、外交的事情に基づいた伝来でありました。
3  ジュロヴァ 日本で七、八世紀につくられた、巨大な仏像を安置した奈良の東大寺などの大伽藍は、七世紀から十世紀にかけてブルガリアの首都であったプリスカおよび、プレスラフに建造されたバシリカ聖堂や教会と同じように、宗教が信仰というより、むしろ政治的であった状況を表すものであると考えますが、いかがでしょうか。
 池田 おっしゃるとおりだと思います。仏教受容が朝廷や貴族中心であったことは、日本だけに見られた現象ではありません。東アジア諸国においても、宮廷貴族との接触が仏教伝来の端緒となっており、日本が直接、仏教の伝来の影響を受けた朝鮮においても、同じ傾向が見られます。
 病気平癒の祈願から私的に仏教帰依をしていた用明天皇を除いて、仏教が伝来してきた当初は、天皇は仏への崇拝を認めず、中立的立場にありました。やがて、仏教の力が国家の繁栄をもたらすことを期待して、朝廷や貴族の保護と財力のもとに、堂宇・仏像の造営や、仏事・法会の執行を中心に、“鎮護国家としての仏教”、いわゆる「国家仏教」が形成されていったのです。
 その間、歴史的には、天皇をはじめ有力な族長たちは、新しい思想・文化としての国家統一のイデオロギーを期待する崇仏派である「蘇我氏系」と、身近な生活の問題として日本在来の神々からのたたりをおそれる排仏派である「物部氏系」に分かれて対立します。こうした対立の根底には、当時の有力な豪族による権力闘争があり、また、当時の朝鮮半島にあった国々のうち、「百済」と組むか「新羅」と組むかといった、対朝鮮外交の政策の相違をも反映していました。
 蘇我氏と物部氏との対立は武力衝突にいたりますが、その結果、仏教を積極的に受容することとなりました。これには、当時の日本における「社会体制の変革」が大きくかかわっていました。それまでの地方分権的な豪族が支配する社会から、中央集権的な「律令国家体制」への移行です。それまで、氏族が住む土地の神霊を祭る産土神や、直系の祖先を祭る祖先神は、氏族の結合紐帯として機能してきたのですが、そのような氏族の閉鎖性を打破するためにも、世界性・普遍性を持った仏教を国家統一の精神的支柱として採用し、王権を高め、貴族・官人の統一を図ろうとしたのです。
 このような受容当初の事情と、出発点における最初の形態は、日本仏教を根本的に方向づけ、その後の性格を長きにわたって規定しました。それは、日本の歴史を通じて、仏教が“民衆のための宗教”であるよりも、“国家のための宗教”であったという事実によっても示されております。
 僧侶は高級官僚であり、数がきわめて制限されていました。また、日本は四方を海で囲まれています。朝鮮半島や中国に、直接仏教の経典や教理を学びに渡ることのできる者の数も、きわめて厳密に定まっていました。志ある人が仏教を学び、それが民衆に広まるとか、異文化との接触によって、自然のうちに仏教が日本に定着したということではなかったのです。
 博士が挙げられた奈良・東大寺の大仏像を安置した大伽藍などを含めて、全国に建設された国分寺は、日本の仏教受容が政治的なものであった状況を表すものです。
4  ジュロヴァ よく分かりました。
 池田 しかしながら、仏教の伝来が、国家のためのものであったとは言え、仏教が以後の思想・哲学レベルで日本の民衆の精神風土に大きな影響をあたえたことも確かです。
 たとえば、当時の人々が「穢れ」としていみきらってきた死後の世界に、仏教から「浄土」の概念が持ち込まれ、前向きに死後の世界をも視界におさめるようになったことが挙げられます。後に、日本古来の
 死穢観念を転換させた仏教は、さらにやがて、葬祭儀礼を利用して民衆の間に仏教を定着させていくことになりました。もともと仏教は、ことさら葬儀執行の重要性を説いてはいなかったのですが、葬儀という儀式は、民衆に仏教を定着させる役割を果たしました。その反面、死後の世界にばかり目を向け、現実社会、日常生活の内面からの改革という、仏教本来の使命を歪曲させることにもなったのです。
 仏教伝来の後にも、天皇の権力による排仏もありましたが、それほど大きな規模とはならず、それが、わが国における仏教受容の最大の特色ともされております。
 ジュロヴァ それでは、仏教が日本に受容されていくどの段階で、仏教が日本人にとって「個人的な宗教」となったのでしょうか。
 池田 平安時代に最澄や空海が、中国から天台宗や真言宗を導入した時点も、日本では仏教の大きな変革期にあたりますが、鎌倉時代の日蓮大聖人などをはじめとする、いわゆる「鎌倉仏教」において初めて、仏教が民衆の生命変革、個の確立の原理として働いたとされております。

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