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日蓮大聖人・池田大作

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ボゴミール運動の意義  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

前後
2  池田 「民衆のための宗教改革」が、農民の心をとらえたのですね。
 ジュロヴァ 事実はそうではありますが、この運動の歴史については、さらに二、三述べておく必要があるでしょう。
 ボゴミール運動は十世紀に出現しました。この時期はブルガリアの「黄金時代」であり、ブルガリア国家にとって非常に重要な期間でした。この時代には、全般にわたって文化が繁栄し、また、ブルガリア国家は、ビザンチン帝国に脅威をあたえるほど強力でした。
 ビザンチウムは、十世紀後半に、しだいに大きくなるブルガリアの野望を打ちくだくために、ブルガリアに反撃しました。そして、十一世紀初頭にブルガリアは鎮圧され、その後、一〇一八年から一一八五年にかけて百五十年間にわたり抑圧されたのです。
3  池田 ビザンチンが勢いを取り戻したことも、ブルガリアには不運でした。一方、シメオン(九世紀末から十世紀初めのブルガリアの皇帝)の死後、ブルガリアの勢いは
 かつてほどではなくなりました。マジャール人(ハンガリー人)の侵略もありました。
 そして、ブルガリアは世俗的にもビザンチンの支配を受け、宗教的にもブルガリア教会はコンスタンチノープルの支配下に入りました。一時、ブルガリア国内のオフリドに総主教の座が移されましたが、今、言われた一〇一八年に、「ブルガリア人殺し」の異名をとるビザンチンのバシレイオス二世によって、ビザンチンの支配下に入ったのです。しかし、ギリシャ語をはじめ、ビザンチン的な文化の強制にもかかわらず、ブルガリア文化の伝統は根強かったようですね。
 ジュロヴァ キリスト教は十世紀には制度化されていました。しかし、ブルガリアは、その時には、バルカン半島のほとんど全域を支配していました。最初のスラブ国家とスラブ文化はすでに創建されていたのです。スラブ国家が、それまでに達成してきたものを強化するために必要としていたのは、もはや精神運動ではなく、政治的統合でした。すでに指摘しましたように、ブルガリアがキリスト教に改宗した時でさえ、異教主義に復帰しようとの企てがありました。
 ブルガリアの国家形態もまた、異教徒の信仰が生き残るのを助けました。ブルガリア国家は、ビザンチンによる支配で自然な発展を中断されたため、厳密に中央集権的な権力――異教信仰やその他の異端的なあらゆる習慣を打ちこわす力を持った権力――を打ち立てることはできなかったのです。
 ボゴミール運動が出現した原因には、宗教的要因以外にも、部族の生活と土地再配分関係の変革があります。さらに、増大しつつあるビザンチン支配の脅威も付け加えられるべきでしょう。ビザンチンから公的に
 持ちこまれたキリスト教への憎悪があおられたのです。しかし、それがすべてではありませんでした。司祭コズマによれば、聖職者の堕落が、民衆を教会から引き離すことになったのです。
 ブルガリアでは、ボゴミール派の教義の基礎となった二元論は、ブルガリアの土地に定住したアルメニア人によって勢いづけられました。彼らのなかにはパウロ派、キリスト単性論者、マニ教徒、聖像破壊主義者などの「異端」とされていたキリスト教諸派などがあり、また、十一世紀以降は、同じく「異端」とみなされたペチェネグ派の到来が二元論的信仰を強化したのです。
4  池田 確か、ビザンチンのコンスタンティヌス大帝が、トラキア(バルカン半島の東側地域)にパウロ派を入植させたのでしたね。北方からの侵入者にそなえるためでしたが、逆に帝国内に“爆弾”をかかえるはめとなってしまいました。
 ジュロヴァ そうですね。東方正教会に正統教義と異端が共存していたため、キリスト教神話を種々に解釈する可能性が生じました。このことは、東欧と西欧のキリスト教の相違に関連しています。この相違は、東欧で異端が生じた原因でもあり、また、カトリック世界で、異端は東欧ほどさかんではなかったにもかかわらず、教義を破壊する異端反乱が勃発した原因を示しています。
 池田 カトリック世界では、もともと「異端」との共存がなかったため、少しの「異端」でも許さなかった、というわけですね。
 ジュロヴァ 確かに、カトリック教会と比べると、東方正教会には寛大さがありましたが、東方正教会の寛大さは、生活のあらゆる領域に浸透したわけではありませんでした。たとえば、神との霊的交わりをなしとげるための
 手段である儀礼やイコンに関連して、教会法――そこからの逸脱が異端と考えられるような――が、きわめて重要なものとされたのです。まさにこれが、ボゴミール派が攻撃した標的でした。西欧においては、聖職者たちは秘跡を通して霊的な交わりを行うとされるので、ルネサンス期に聖像を破棄することは、さほどむずかしくはありませんでした。それに対して、東方正教会の世界は、そうした聖像への帰依を長い間、保持してきたのです。
 ただし、東方正教会では、異端に対する闘争は異端審問所や火刑によってではなく、公開討論によって行われました。こうした論争は、教義理論や哲学を発展させ、東方正教会の立場を強化することになったのです。
 カトリック教会がとった厳しい手段は、反動を呼び起こしました。カトリック教会は凝集力を失い、そのことが宗教改革者たちの出現を導いたのです。一方、東方正教会における異端は、決して西欧のような反乱という形には発展しませんでした。
5  池田 ボゴミール運動が誕生する時の状況は、どのようなものだったのでしょうか。
 ジュロヴァ ボゴミール運動は早くも十世紀には、マニ教、パウロ派、マッサリアノイ派の諸要素が混じり合って形成されました。ここで思い起こされるのは、ブルガール族の異教と古代トルコ人の宗教がとくにマニ教に類似しており、その影響を受けやすかったことです。
 ブルガリアでは、ペトル皇帝の治下(九二七年―六九年)に、善悪二元論が外典の諸著作の中で公認されて以後、二元論が急速に普及しました。
 たとえば、「チャルノボグ(黒い神)」と「ビャロボグ(白い神)」は、それぞれ悪と善とを人格化したものでした。ボゴミール派は二人の創造者を正式に認めていました。一人は光と天使を創造し、もう一人は目に見える世界、人間と動物を創造したとされたのです。ボゴミール派の二元論は、マニ教、パウロ派、マッサリアノイ派とは異なったものでした。そして、十世紀中、ブルガリアでは、穏健な二元論と過激な二元論という二つの動向がはっきり見られました。
 過激な二元論派は、パウロ派とその教会――西欧の文書では「ドラヴィスタ・オーダー」として知られているドラヴィスタ教会――に類似していました。パウロ派はマケドニアとトラキアに広まっていました。ボゴミール派は穏健な二元論派ですが、ヨーロッパでは北ブルガリアから発した「ブルガリアン・オーダー」として知られています。
6  池田 いくつかの点で、ボゴミール派の柔軟な性格が指摘されていますね。たとえば、禁欲生活にしても、「完全者」と呼ばれる人は一切の生産活動にたずさわってはならない、とされていますが、「完全者」ではない人はそこまで厳密な規制はなかったとされています。また、厳密に言えば、教会に行き十字架に祈ることは、ボゴミール派では禁止されるべきことなのです。しかし、教会に行って十字架に向かって祈っていても、心が教会に信従していなければよいとした、とも聞いています。
 もちろん、教義上では、マニ教やパウロ派のように神と悪魔を完全に対立的に見るのではなく、「神」のもとに悪魔を置く教義を唱えるのですね。
 ジュロヴァ ボゴミール派は、基本的には、唯一の原理がつねに存在するという考えを否定しました。そして、神を第一原理として受け入れはしましたが、光と影、善と悪、神と悪魔といった二つの原理が並列的に存在しているという考えを正統と認めたのです。さらに、ボゴミール派の二元論は、サタナエル(サタン)が「父なる神」を非難してその敵対者となり、目に見える世界と人間の創造者になったという考えに表れています。
7  池田 つまり、ボゴミール派の二元論も一律に絶対的二元論、穏健的二元論のどちらかに属すると規定しない方がよいということですね。
 ジュロヴァ そうです。司祭ボゴミールは、公式のキリスト教には満足しませんでした。公式のキリスト教は、当初の簡素さから逸脱して、大げさな儀礼によって窒息したというのが彼の主張でした。それでボゴミール派は、民衆に苦しみをあたえるとして宗教組織と国家組織に非難をあびせたのです。
 司祭ボゴミールは、教会という余計な制度なしに、キリスト教の教義を説き、民衆の利益を守ることを決意しました。信仰の点で言えば、彼は、初期キリスト教のいくつかの側面、およびマニ教、パウロ派、マッサリアノイ派の教義に立ち戻りました。
 何人かのブルガリアの学者は、ボゴミール派の二元論はスラブの影響の結果ではないかと考えました。しかし、その仮説に対しては、スラブの宗教に二元論は見られないという証拠が示されました。
 もし、スラブの宗教に関係し得る何かがあるとすれば、それは、地上における人間の進歩には悪魔および悪の精神が伴うという信念です。そうした信仰は、マッサリアノイ派の教えとスラブ神話の特徴でもあり、それらがボゴミール派の教えのなかでいっそう明らかにされたのです。
 ボゴミール派の教義は、悪の起源についてのキリスト教の正統の解釈に近く、マニ教やパウロ派のものとは異なっていました。
 サタナエルに創造され、「父なる神」に命を吹きこまれた人間は、肉欲や悪魔的な原理の影響にさらされ、また、悪を行えとの誘惑にさらされました。しかし、同時に人間は、みずからの救済を求める闘争を行い、また、悪の力からみずからを守るような「自由意志」を持っているとされたのです。
 ここには、ボゴミール派を極端な二元論から区別する相違点、およびパウロ派とマッサリアノイ派のような東欧の宗教の決定論から区別する相違点を見ることができます。ボゴミール派は、非決定論(自由意志論)を主張したのです。
8  池田 教義的には、ボゴミール派は穏健な傾向を持っていましたが、社会的不正や堕落した聖職者に対しては、サタンの流類として批判しましたね。
 ジュロヴァ 人間の社会的状況に関するボゴミール派の主張は、ヒューマニストのそれと類似しており、堕落した聖職者や封建領主や王政に向けられたと同じく、社会的不正や誤った教会制度に対しても向けられました。
 西欧の宗教改革は、ボゴミール派の主張をさらに発展させ、それを一大反乱へと変化させました。一方、トルストイは、ボゴミール派の主張を、彼の社会正義という道徳規準にもりこみました。彼は、初期キリスト教のコミューン(平等な資格を持ったメンバーからなる共同体)の純粋性と魅力を強調したボゴミール派の教義のなかの、いくつかの要素を用いたのです。
9  池田 博士は今、コミューンについて話されました。ボゴミール派の日常生活について、もう少し話していただければと思います。
 ジュロヴァ 彼らはコミューンで生活していました。
 火曜日と木曜日には断食をし、日曜日に断食する者もいました。
 儀礼に関するかぎり、ボゴミール派は『新約聖書』と『旧約聖書』の基本的な規定を採用しました。たとえば、「しかし、いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない」(『使徒行伝』)とありますが、こうした理由から、彼らは悪魔のすみかであると考える教会では礼拝をしないのです。
10  池田 その言葉は象徴的です。預言者イザヤの警句を引きながら、ステパノ(イエス・キリストの弟子の一人)が語った言葉ですね。それゆえに、ステパノは「石打ち刑」に処せられました。彼の支持者たちも追放されています。
 ジュロヴァ ボゴミール派は、「わたしの家は、祈りの家ととなえられるべきである」(「マタイによる福音書」)との句を引き合いに出して、自分の家や野外、路上や十字路の上で祈りをささげました。彼らは修道院や修道士を持たず、その礼拝はきわめて簡素でした。「福音書」を読んで説明し、「主の祈り」を朗唱するだけです。その後に、食事を含めたすべての行動が開始されました。
 彼らは、日中に四度と夜に四度、腰をかがめて祈りました。新たなボゴミールの入会式や、「完全なるボゴミール」を選ぶ儀式のような荘厳な機会には、多くのろうそくに火をつけ、聖ヨハネの「初めにことばがあった」に従って「福音書」を読み、信者たちは別れのあいさつをしました。男性同士がたがいに接吻をしあい、女性同士も同じようにします。男性が女性に別れのあいさつをする時には、ひじをさわりました。
 ボゴミール教会は使徒教会の継承者と考えられ、三つの宗教的位階しか認めませんでした。それは助祭、長老、司教です。彼らはみずからを、初期キリスト教の兄弟愛と平等のコミューンの後継者と考えていましたが、このことは当時の社会的、精神的生活に対して彼らが敵意をいだいていたことを示しています。
11  池田 ボゴミール派の人々は、さまざまな式や祈りの場として、信者の家を用いていたようですね。このことも、『使徒行伝』に記された初期キリスト教会を思い起こさせます。
 ジュロヴァ ボゴミール派は、富める者、権威者や皇帝を悪の権化と考え、人々がそれらに従わないように、また彼らのために働かないように勧めたのです。しかし、必要となれば、彼らは国家を守りました。言いかえれば、国家に対する彼らの態度は二元性を持つもので、状況に応じて変化したのです。それにもかかわらず、彼らは絶えず教会を敵と見なし、東方正教会の聖職者たち、制度、秘跡、儀礼および崇拝の対象を徹底的に否定しました。教会評議会が、彼らを罰したり追放したりして迫害したのは、こうした理由からです。
 司祭ボゴミールは極端な二元論を批判しましたが、この点は、東方正教会に近いものでした。しかし他方、東方正教会の制度や位階制を否定した点は、プロテスタンティズムに近いものでした。
12  池田 そこで、博士にお聞きしたいのですが、このボゴミール運動は、どのような形で、西欧のプロテスタンティズムに結びついていったのでしょうか。
 ジュロヴァ たとえば、西欧におけるヴァルデス(ワルドー)派(十二世紀のリヨンの宗教改革者ペトルス・ヴァルデスにちなんで名づけられた)の支持者たちは、二元論者ではありませんでしたが、ローマ・カトリック教会の儀礼から解放された、初期の理想的なキリスト教の教義を説きました。
 ヴァルデス派はプロテスタンティズムの創始者と考えられ、また専門家たちは、彼らとボゴミール派の教えの関係を繰り返し強調しています。ヴァルデス派は『聖書』を自国語に翻訳しました。また、全員が伝道者になれました。彼らは、煉獄や免罪符についての教会の教えだけでなく、ミサ、儀礼、祈り、処女マリア崇拝とイコン崇拝も拒否しました。
 彼らは、アルビ派やボゴミール派と多くの共通点を持っており、その説教はフス派やカルヴァン派、ルター派に類似していました。そして、十六世紀の教会改革の後、彼らはプロテスタントに加わったのです。
 ボゴミール派を、教義や倫理といった点で評価するとすれば、次のことは強調されるべきでしょう。それは、キリスト教と比べて、またユダヤ教やイスラムといった他の唯一神的な宗教と比べて、ボゴミール主義は、第一の源泉である「神」と「道徳的純粋性」を強調したということです。
 ボゴミール派は、物質的な面よりも精神的な面を上位に置きました。彼らは、東方正教会における根本的な真正のキリスト教信仰を求める熱狂者でした。彼らが書いたものや語ったものは、ブルガリアを経て西欧にもたらされました。
 ここで私は、イヴァン・ヴァーゾフの詩「ペルシティツァの保護者」から例を引きたいと思います。この卓越したブルガリアの詩人は、この中で、一八七六年の四月蜂起のさいにペルシティツァの教会でオスマン・トルコ人が行った大虐殺を描いています。この詩人は、ブルガリア人たちがなぜ民族復興時代に保持していた信念を失ってしまったのかを、説得力をもって明らかにしました。
  「教会には、血の海に落ち、汚された
   花婿と花嫁の叫びが響いた。
   そして丸天井から、厚い煙を通して
   主はすべてを見下ろしていた。
   まったく静かに、平静に」
 これは、十七世紀に日本の幕府が九州で行った、キリスト教徒の大虐殺を思い起こさせます。
13  池田 私が、このボゴミール運動を知ったとき、すぐ思い浮かべたのは、晩年のトルストイが熱烈に支持していた、ウクライナの分離教徒ドゥホボールのことです。ドゥホボール教徒も、「神は自らの内にのみあり」、として教会、儀式、経典などを一切認めず、地上の権力に徹底して反抗し、兵役義務にも服そうともしませんでした。
 これは、ボゴミール運動と非常によく似ており、したがって、当時の皇帝から激しい迫害を受けました。しかし、彼らはこれに屈しようとせず、もてあました当局は、一万人近いドゥホボール教徒をカナダへ移住させることにより、事態の収拾を図ろうとしました。
 このドゥホボール教徒の立場は、晩年のトルストイの思想、いわゆる“トルストイズム”と、ほとんど軌を一にしております。したがってトルストイは、ドゥホボール教徒への援助をおしまず、彼らのカナダ移住にあたっては、すでに一切の著作権を放棄していたにもかかわらず、例外として『復活』の原稿料を受け取り、移住の費用に充てたことはよく知られております。
14  ジュロヴァ  先生は、ソフィア大学での講演の中で、私たち皆がよく知っているフリスト・ボテフの詩「わが祈り」を引用されました。
  「おお わたしの神よ 正しき神よ!
   それは 天の上に在す神ではなく
   わたしの中に在す神なのです
   わたしの心と魂の中の神なのです」
 (僘フリスト・ボテフ詩集兊真木三三子訳、恒文社)
 ボテフの場合もトルストイの場合も、神は「力の魔術からの解放」を助けるために呼ばれています。
 ところで、今日のもっとも緊急の課題は、人々の人間的なふれあい、失われてしまった人間愛、および道徳の問題でしょう。哲学への関心の高まりは、道徳的な問題が存在することの証拠であります。過去百五十年間に見られた科学技術的なユートピアは、しだいに道徳的なユートピアにとってかわられつつあります。
 真理や自由、愛といったものが認識論的あるいは道徳的に、どのように考えられるのかという問題についての関心が高まっています。また、ロシアのトルストイやドストエフスキーの道徳哲学への関心も高まっています。
 両者によれば、民衆という“道徳的絶対者”の再確認や、同胞に対する人間の愛および人間的な思いやりは、すべてキリスト教がもたらしたものです。
 たとえば、ドストエフスキーが絶対者と考えるものは、ヘーゲルの場合のように論理に属するものではなく、倫理に属するものであり、それらは本来、道徳的なものであり、人間相互の愛の基盤として作用するものです。
 その“絶対者”とは、ドストエフスキーによれば、「馬上の世界精神」――ヘーゲルによればナポレオン――ではなく、個々の道徳的な問題のまさに中心に立つキリストであり、キリストの使命は、善悪に中立的な「世界精神」とは異なり、「善の使命」と同等視されるのです。
 こうした「善の使命」を果たすことができるのは、ロシアの人々だけであり、ヨーロッパはそれを必要としませんでした。これが、有名な『大審問官』の場面の意味であり、そこではキリストは、宗教裁判長に接吻をして歩み去るのです。
 道徳はすべてを包含するものであり部分的なものではあり得ません。これが、この二人の偉大なロシアの作家――トルストイとドストエフスキー――の接点でした。その目標を達成するために彼らが提示した道は、各々、異なってはいました。つまり、トルストイは、一人の人間が民衆から離れた時には、その生活は無意味であることに気づくことによって、また、ドストエフスキーは、人間を罪と罰の道へと押し出す“絶望的なニヒリズム”によって、それが達成されるとしたのです。
15  池田 もちろん、その意味はニヒリズムに堕するのではなく、ニヒリズムを生きぬく、耐えぬくことによってですね。
 ジュロヴァ そうです。民衆が労働によって持ってきた道徳への回帰は、悲哀およびニヒリズムと戦う道でした。トルストイは、道徳的、倫理的態度をとりながら、神が人間の子であることを深く確信し、福音を神秘的にとらえることなく素朴に受け入れました。彼は、人間の虚飾という虚偽の背後に、真理と善を発見しようと試みたのです。
 実際、トルストイの道徳哲学は、ボゴミール派との接点を持っていたのです。しかし、ボゴミール派の社会的理念の方がいっそうはっきりしていました。ボゴミール派は、当時の社会構造を否定して、神と人間の仲介者としての教会制度を否定しました。すなわち、彼らは、中世的な「神―人」関係の考え方を修正し、画一的な善悪のカテゴリーに疑問を提示したのです。
 池田 ボゴミール運動を、その視点や教義、倫理といった点で評価するとすれば、次のことが強調されるべきでしょう。それは、ボゴミール派は、ボゴミール派が修正したもとのキリスト教や、ユダヤ教やイスラム教といった他の一神教と比較してみると、よりいっそう道徳的な純粋性や、根本的な源泉――「神」――を志向していたということです。ボゴミール派は、精神的なものを物質的なものの上にすえたのです。

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