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日蓮大聖人・池田大作

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ブルガリアにおけるキリスト教の受容  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

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2  池田 それは日本においても言えることかもしれません。日本に“公式”に仏教が伝来したのは五三八年(五五二年説も)とされています。しかし、それ以前に、朝鮮半島から日本に渡来していた人々によって、仏教は伝えられていたとされています。
 ジュロヴァ ブルガリアの土壌に、すでにキリスト教が非公式に存在しており、それがキリスト教と国民の信仰や風習を織りあわせるのに役立ったことは、強調されるべきでしょう。
 それにもかかわらず、キリスト教は人々の意識のなかに深く浸透することはできず、儀礼、祝祭日、慣習のなかには相変わらず異教が存在し続けたのです。
 ボリス一世は、悪法を導入し国家体制を破壊し、ブルガリア人に彼らの世俗的、文化的、精神的伝統に対抗するような生活様式を強制した、と非難されました。しかし、ボリスの改革はさらに進みました。
 彼は、国家とキリスト教とは別に、スラブ族と原ブルガリア人を統合する第三の要素を求めたのです。それは文字でした。キュリロスとメトディオスが、モラビアの西スラブ人を改宗させる宣教活動に失敗した後、ボリス一世は彼らの弟子たちを迎え入れました。ここから、文化の発展が開始されたのです。
 この文化は、ボリス一世の息子であり後継者であるシメオン皇帝(在位八九三年―九二七年)治下で急速にビザンチン化しましたが、同時に、スラブ文化の最初の特徴も形成されました。一世紀ほど後、他の東方正教諸国も、このスラブ国家、スラブ文化、スラブ文字の最初の例にならいました。
3  池田 それまでのギリシャ文字等に代わって、キリル文字が使われだしたということですね。
 ジュロヴァ その後、抵抗はありましたが、九―十世紀にかけて、キリスト教はブルガリアに公式に受容されました。日常生活や儀礼については異教的な様式や慣習が残ったものもありましたが、ともあれキリスト教が、ブルガリア人の文化的、精神的発展の鍵をにぎる基盤となったのです。
 キリスト教の受容は、たんにビザンチンの国家、文化、宗教制度をわが国に導入することではありませんでした。ブルガリアではとくに、(九―十世紀の)ボリスとシメオンの治下におけるキリスト教解釈は、コンスタンチノープル的と言うよりは、むしろ東欧的な特徴を帯びていたのです。
 ブルガリア民衆は、キリスト教を生活とは関係のない形でとり入れていたのです。
4  池田 ところが、オスマン・トルコの支配下(一三九六年―一八七八年)で、民族復興期の精神的支柱となったのは、シンボルとしては、すでに話しあった“獅子”でありますが、信仰としては、キリスト教でしたね。
 ジュロヴァ そのとおりです。ブルガリア人は、トルコ支配下の時期には、キリスト教を救済手段と考え、熱心なキリスト教徒に変わりました。当時は、ブルガリアの国民性がおびやかされていました。そのため、生き残りたいとの欲求が、自国の教会を信仰や国民性と同一視させることになり、教会の威信を高めたのです。九世紀に権力を暴力的に用いても十分になし得なかったキリスト教の民衆への浸透が、今や自然に行われたのです。
 それはまさに、ブルガリア史における唯一の「真に」宗教的な時代と言えるでしょう。と言うのも、当時、神への信仰が生き残りへの信念と同一視されたからです。キリスト教信仰を裏切らずに亡くなった殉教者たちは、聖人へと祭り上げられました。
 修道士たちの遺骨は、修道院の重要性を国民的精神の中心として高揚させるために、荘厳に移葬されました。たとえば、リラ修道院の聖イヴァン・リルスキーの遺骨のように。
 さらに、聖職者たちは、キュリロスとメトディオスの弟子以降は忘れられていた宣教の仕事を復活させ、ボリス皇帝は「ブルガリアにおけるキリスト教の使徒」であると宣言されました。ヨーロッパの人々が、啓蒙主義の名において、しだいに教会や「神」から離れていく時代にあって、ブルガリアでは、国家的な試練がキリスト教を発展させ、さらに、深めさせたのです。
 民族復興運動の最初の火花を点火した、ヒレンダール修道院の司祭であったパイシーの目に映ったのは、このような状況下の民衆とキリスト教でした。民族の理念の回復は、キリスト教会の旗を民族の旗へとかえさせました。再起した人々の精神力は、トルコの支配下で、ブルガリア教会に結集したのです。
5  池田 貴国の“文化の父”とたたえられるパイシーが、『スラブ・ブルガリア史』を書きつづっていたのは、西欧においてジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』が出版された一七六二年でしたね。
 もとより、『社会契約論』には、『スラブ・ブルガリア史』に見られるような民族意識、ナショナリズムの鼓吹はありませんが、都市に対する農村、文明に対する自然の優位など、多くの共通点が含まれております。それは両者に、しいたげられている人々への憐憫の情と、いまだ文明の悪に染まらない素朴な人民への共感とが、脈打っていたからにちがいありません。
 ジュロヴァ ルソーとパイシーの類似性をご指摘されたので、その時期のヨーロッパとブルガリアを比較してみましょう。つまり、パイシーがアトス山のヒレンダール修道院で『スラブ・ブルガリア史』を著した数年間と、それに続く期間です。
 パイシーは、一七二二年ごろにバンスコで生まれました。思想界の状況を見ると、そのころ、ヴォルテールは二十八歳で、モンテスキューは三十三歳でした。パイシーが一七六二年に『スラブ・ブルガリア史』を書いた時、ヨーロッパでは絶対主義にかわって専制政治が行われており、イエズス会士たちはフランスを追われていました。ゲーテは十三歳で、ヘルダーは十八歳、シラーは三歳でした。レッシングとカントは、パイシーとほぼ同じ年齢でした。
 政治の場面には、フリードリヒ大王、ヨーゼフ二世やエカテリーナ二世がいました。ロモノーソフとデルツァヴィンは、ピョートル大帝の治世の後に、ロシアで活曜していました。
 さて、ブルガリアの状況はどうだったのでしょうか。
 四世紀前、ヨーロッパの南東部で文明に変化が起こりました。オスマン・トルコのモデルが、東方ビザンチンのモデルにとってかわったのです。ブルガリアは、四世紀の間、国家もなく、公式の教会もなく、知識階級も貴族政治もなく、ヨーロッパの発展から孤立しました。東スラブと西スラブの絆は、ほとんど完全に絶たれたのです。ブルガリアが、ヨーロッパのルネサンスに立ちおくれたのは言うまでもありません。
 ブルガリア民衆は最大の悲劇を体験しました。イスラムへの改宗が始まり、ブルガリア人たちは分離されたのです。国家体制は重んじられず、異端は静まり、民衆は救いを求めて教会に頼りました。民衆は、信仰を国民性の保持と同一視したのです。
 これが、ヒレンダールのパイシーが、『スラブ・ブルガリア史』を著した当時のブルガリアの状況でした。
 十八世紀末以前には、ほとんどのブルガリア人は、オスマン帝国の地主のために働く農民でした。物質文化と精神文化の中心地である都市は、トルコ人の手ににぎられていたのです。パイシーが平凡な農民に呼びかけたのはそのためです。ご指摘のように、彼は「平凡な民衆」に共感していたのです。十八世紀になってようやく、ブルガリア人たちは都市に戻り始め、十九世紀にはその動きは勢いを増しました。
 パイシーの『スラブ・ブルガリア史』は、歴史的事実に関するかぎり、完全に正確というわけではありません。しかし彼が、民衆に歴史的事件や国家の威信、そしてスラブ民族としてのブルガリア人の誇りを思い起こさせることにより、自国の歴史に立ち戻らせたことと比べれば、さほど問題ではありません。彼は、こうすることが、この段階において民族意識を復興させ得る唯一の力となると考えたのです。
6  池田 読者のために、パイシーの『スラブ・ブルガリア史』の内容について、若干、紹介していただけますか。
 ジュロヴァ パイシーの『スラブ・ブルガリア史』は、「歴史の効用」という章で始まります。そこでは、みずからについて語り始めた民衆に対する彼の態度が明らかにされます。それは、啓蒙運動の精神に立つ、ある種の理性の弁明といったものです。
 「あらゆるスラブ民族のなかで、ブルガリア人がもっとも偉大な栄光を持っている。スラブ民族のなかで初めて皇帝を名乗り、最初にキリスト教に改宗し、もっとも広い地域を征服したのは、ブルガリア人であったのだ。
 そうして、あらゆるスラブ民族のなかで、ブルガリア人はもっとも強く、尊敬に値するものであり、私がこの歴史のなかに正しく書いたように、スラブ民族の最初の聖人はブルガリアとブルガリア語から輝き出たのだ。多くの歴史家が、ブルガリア人の行動について証言しているが、そのすべてが、ブルガリア人を正しいとしている。私がすでに指摘したとおりである。
 神が、純真で気立てのよい農夫や羊飼いをさらに多く愛することを見よ。そして、彼らこそ地上でもっとも最初に愛され、栄光をあたえられるものであったことを知れ。それなのに、ブルガリア人は、みずからが純真で正直であることを恥じ、農夫や羊飼いであることを恥じている。あなたがたは自国民と自国語を捨て、他国の言語を称賛し、他国の慣習に従っているのである」と。
 民衆に対するパイシーの訴えは、ルソーが『社会契約論』において、至高なる独立という理念とともに民衆にあたえた台座を思い起こさせます。ルソーは、貴族や聖職者などすべての人が無条件で従うべき至高なる存在こそ、民衆であるとしたのです。民主主義的な社会観と民衆の個性の宣揚――これらこそ、ルソーとパイシーの共通点なのです。
 ルソーとパイシーには、そのほかにも共通点があります。それはノスタルジー(郷愁)です。ルソーの場合は、彼が属する文明が経験した栄枯盛衰を熟知している人間としての立場から、そのノスタルジーは回想的なものです。一方、パイシーのノスタルジーは、「純真な農民」の理想化と結びついています。
7  池田 パイシーのノスタルジーは、一つにはトルストイと共通した庶民の日常を大切にしようとするものであり、もう一つは「未来」へと向かおうとする彼の態度そのものです。
 ジュロヴァ ブルガリアの著名な歴史家イヴァン・シシマノフ教授は、パイシーとルソーを比較した後に、ルネサンスの偉大な文人ペトラルカとパイシーにも、類似性があることを明らかにしました。二人の生きた時代と、イタリアとブルガリアで両者が示した共通性を検討し、二人が国民性と国家の問題を提起した点が似ている、としたのです。また、過去の栄光の歴史に光を当て、それを国家の歴史を開くための触媒として用いた点でも共通している、としています。
 ブルガリアでは、民族復興運動が加速されました。また、イタリアでは、人間性と文化が再生し、新たなタイプの世俗的文化に必要なすべてのものが存在しました。こうして、啓蒙運動と国家の市民革命は相互に補完しあい、国家的、政治的、文化的利害は融合したのです。
8  池田 まさしくルネサンスは、「人間の発見」です。
 ジュロヴァ ブルガリアは、建国時には、スラブ文化を持つ古典的な国であり、その後、引き続き抑圧されましたが、後に、加速的な発展の時代を迎えました。
 ブルガリアでは、啓蒙運動と精神的自立の時代が、国家の政治的利害にかかわっており、国家の解放の思想へと急激に移行していきました。
 しかし、ここには大きな問題がありました。それは、ブルガリア国家の解放のプロセスが始まったのは、この国がすでに十分に境界を定められた「国民国家」に囲まれており、また、ヨーロッパとバルカン半島における国家の競合闘争が、すでに進展していた時だったということでした。当時、影響力を及ぼす範囲を求める政策が、各国ですでに進行中であり、西洋と西洋文化が、東洋に向かって激しく拡大していたのです。
 こうした政策は、祖国と母国語に属したいとの民衆の強い思いと衝突しました。啓蒙運動以後の人間が、科学技術文明の時代を前にして、世界とのいっそう緊密な絆を打ち立てたのは、このような時代でした。このために、パイシーの『スラブ・ブルガリア史』は時にかなったものだったのです。
 ブルガリアにおいて、「復興」は、国家の過去――プレスラフ、オフリド、タルノヴォなどのかつて繁栄した都市への回帰という形で表れたのです。ブルガリアの民族復興運動は、中世に基礎を置いていました。そこでは、中世は政治的に解釈されました。つまり、中世は奴隷化された人々の闘争精神から生じたと考えられたのです。
 また、ブルガリアの古代の遺物も重要なものでした。と言うのも、それは民衆がみずからのアイデンティティーを見いだすのに役立ったからです。
 ブルガリアの民族復興運動においては、社会、経済的な要因が支配的で、「宗教」は政治的な道具として用いられました。
 卓越したブルガリアの作家リュベン・カラヴェロフは書いています。「自由はエグザルフ(総主教)を必要としない。必要なのはカラザータ(有名な革命家)だ」と。
 民族復興期におけるブルガリアの教会制度は、時には、信者の聖なる場と言うよりは、むしろ、国家の政治的思惑の手段であったということです。
 さらに、例として挙げられるのは、民族復興期に教会を教育、文化、芸術の発展のための基盤とするために、また、それらを大衆化するために、民族的な社会闘争の戦場として利用したことです。教会の建物は社会センターとして、人々が集まる場所として使用されました。
9  池田 ブルガリアにおける民族復興期にいたるまでの、東方正教会の受容の仕方についてうかがってきました。少し話は前に戻りますが、キリスト教以前からの民族信仰は、人々のアイデンティティーとして心の中に深く根ざしていたようですね。ブルガリア民族のなかで、異教信仰は、どのような形でキリスト教と共存してきたのでしょうか。
 ジュロヴァ つい最近まで、民衆は異教的なシンクレティズム(混淆主義)を保っていました。つまり、ヘーロース(半神)と聖ゲオルゲ、大母神と聖母マリアの関係を保持し、その部族の創始者や部族の守護者たちへの崇拝を保持していたのです。
 それは、ブルガリアで冬にそなえて秋にピクルス(西洋風の漬物)を漬ける準備をする習慣にも、明らかに表れています。その習慣は、キリスト教に公式に改宗する以前のブルガリア国家の、最初の二百年間にまで遡るものです。その二百年間に行われていた“異教”である原ブルガリア人とスラブ人の宗教は、多くの点でキリスト教の生活様式と共通するものがあり、土着の人々がそれらをキリスト教的な生活様式へと順応させたのです。
10  池田 つまり、異教的な宗教の土台の上に、政治的な手段としてキリスト教が用いられた。政治的な必要が少なくなると、キリスト教への要請は少なくなるのですね。しかし、異教的宗教の本質はその影響を受けなかった、ということですね。
 ジュロヴァ そのとおりです。これまで、ブルガリアにおける東方正教会の特性について、きわめて簡単に示しましたが、こうした特性は、個人の解放の道を開いた卓越した人物になぜ聖職者が多いのかを説明します。文明の発展の道をさし示した彼らは、革命家であり、使徒であり、作家であり、公人だったのです。これは、他のスラブ諸国にとっても特徴的なことです。ブルガリアの教会もまた、わが国民の歴史的運命が定めた使命である人間の変革において、同様の役割を果たしたのでした。

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