Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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東と西のキリスト教
「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)
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池田
釈尊は、「徳のある人々の香りは、風に逆らっても進んで行く。徳のある人はすべての方向に薫る」(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳、岩波文庫)と語っております。ここに、人間の心、人格性を中心に置く、仏教の卓越性があります。
日蓮大聖人は、強大な武家権力に堂々と論戦をいどみ、二度も流罪にあっています。流刑の地・佐渡で、次のように述懐しています。「
日蓮は・なかねども・なみだひまなし、此のなみだ世間の事には非ず但
偏
ひとえ
に法華経の故なり
」と。また、「
一切衆生のためには大導師にてあるべし
」と。日蓮大聖人もまた、民衆のただ中にあり、人々の苦悩に共鳴し、それを克服する挑戦を通して、人々の境涯を高め、拡大させていったのです。
内村鑑三は、こう評しています。
「『仏敵』には極めて假借なかった彼は、貧しきもの悩めるものに接する時、人として最も柔和なる人であった」(前掲『代表的日本人』)
トルストイが、真のキリスト教的生き方の一つの可能性を、フォークロアの形に見いだしたのも、同じ文脈からと言えるでしょう。また、エマニュエル・レヴィナスの、「神性は隣人を通じて顕現する」(『困難な自由』内田樹訳、国文社)との言葉も、私は同じ趣旨と受け取っております。また、偉大なる詩聖タゴールの次の言葉も、私の心にあざやかな光とともに浮かんできます。
「神のいますのは、農夫が固い土を耕している場所、道路工夫が石を砕いている場所だ。晴れた日も雨の日も、神は彼らの傍にいて、着物は塵にまみれている」(『タゴール詩集ギーターンジャリ』渡辺照宏訳、岩波文庫)『法華経』においては、宗教的人格の理想のイメージの譬喩として、蓮の花が池の中で、水をはじき泥に染まらず、美しい華を咲かせることが用いられています。
すなわち、現実や世俗のなかにありつつも、そのただ中で聖なるものを顕現させていくことがめざされているのです。
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