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日蓮大聖人・池田大作

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東と西のキリスト教  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

前後
1  池田 たいへんに広い領域にわたる問題ではありますが、キリスト教が東方正教会と西のカトリック教会に分裂した背景について、おたずねしたいと思います。
 まず、教義的なことからいきますと、東方正教会は、聖霊が「父から」発すると考えるのに対して、カトリック教会は、聖霊が「父から」と「子から」発するとしていますね。
 ジュロヴァ 今、先生が述べられたカトリック教義、つまり、十一世紀に東西の教会を分裂させた理念は、ローマ教会から出たものではありませんでした。両者を分裂させた、子イエス・キリストからも聖霊が発するとする教え「フィリオクェ」(また子から)は、バチカンの神学者が説いたものではないのです。彼らも、そうした教義や教えが、スペインを越えて多くのヨーロッパ諸国に広まった後には受け入れたのですが。
 池田 アリウス主義(三世紀にリビアに生まれたアリウスを中心に唱えられた、キリストの神性を否定する説)に対する対抗教義として、スペインで唱えられたのだと言われていますね。
 そして、九世紀のブルガリアで、「フィリオクェ」をめぐる論争に火がついたのですね。
 ジュロヴァ そうです。しかし、教義的にそのことが問題となるはるか以前に、東欧は、ローマとは異なる独自の道をたどっていました。
 東西教会の分裂の要因として、まず、八世紀の「聖像破壊運動」(イコノクラティア=七二〇年―八四三年)があります。この運動は、ビザンチン帝国の土台をゆるがしました。
2  池田 イコン(聖画)論争とは、教会に聖画や聖像を置くことをめぐる、半世紀にわたる論争のことですね。
 ジュロヴァ 東欧において、この運動は、ビザンチンのユスティニアヌス一世の後に、教会の権威が大きくなっていくことに対して、国家が懸念をいだいた結果として起きたものです。
 池田 皇帝レオ三世は、七二六年に、聖画や聖像のすべてにおおいをかけるか、破壊すべしと命令しております。この命令は、教会を二分する論争を引き起こしていますね。
 ジュロヴァ 宗教指導者たちが、偶像崇拝のための聖像を用いることに反対したさい、ビザンチン帝国は、政治的な理由から、「聖像破壊運動」を支持しました。
 他方、西欧では、政治的指導者たちは教会にとってほとんど脅威ではなかったので、バチカンは、聖像にまったく別の見解を持ったのです。
3  池田 第二ニカイア会議(七八七年)の後、皇后イレーネは、イコンの礼拝を認め、八四三年には、教会内のイコンの使用が認められています。東欧において、「聖像破壊運動」は、確かに大きな混乱を生みだしましたが、その過程で、イコンに対する哲学的思弁が開花していますね。
 その潮流はイコンだけではなく、ハギア・ソフィア大聖堂などの建築や、コンスタンチノープルの都市計画にも及びました。まさしく、さまざまな哲学的理念が、「形」となって現れたのです。
 「哲学」と「現実」、「抽象」と「具体」、それらがしのぎをけずってぶつかりあい、融合し高めあっていく歴史の崇高な展開が、イコンをめぐってなされています。
 ジュロヴァ 対して、西欧では、イコンに対する態度は、非哲学的な面を持っています。イコンは、読み書きのできない人も、目で見ることができるものです。西欧では、イコンとその題材をめぐる神学論争は、ほとんど知られていませんでした。
 このように、イコンへの態度をめぐる対立が、東西のキリスト教の分裂の原因となりました。先生ご自身は、イコンの持つ意味について、どのように考えておられますか。
4  池田 私は、イコンには、大切な意義が付されていたと思います。それは、肉体の聖化であり、聖性の現実化・肉体化と言えるでしょう。
 イコンのマリアは、見る人に聖なる感覚をあたえました。それは、東ヨーロッパの各地で、悲しむ者、貧しき者たちの心に、希望と平安をあたえています。
 現代のアメリカ大陸でも、中米の軍事政権からのがれた農民たちが、ポーランドの「チェンストホヴァの聖母」(チェンストホヴァにあるヤスナ・グーラ修道院の聖画)像をコピーし、祈りをささげました。南米の軍事政権に夫や子を奪われた母たちは、有名な「拉致された者の聖母」(東欧のマリアのイコンの影響を受けたポスター)によって励まされ、強大な軍事政権に立ち向かっていきました。
 ジュロヴァ よく分かります。ところで、後に、コンスタンチノープルとローマを分裂へと向かわせる原因が、八世紀に準備されていたとすれば、それは、今、語りあってきたイコンをめぐる神学的解釈の相違にだけでなく、地中海地域、欧州、バルカン、アジアにおける政治状況の変化にも見いださなければならないでしょう。
 政治状況の変化は、東欧におけるビザンチンのイデオロギーに、根本的な変化をもたらしました。ビザンチンがまず、第一にめざしたことは、ビザンチン皇帝の権威を侵害することなく、スラブ民族を同化し、キリスト教化することによって「パックス・ビザンチウム(ビザンチンによる平和)」を維持し、拡大させることでした。
 一方、西欧では、教皇が独裁的な権力となりつつありました。教皇のイメージは、ローマ皇帝のイメージからきています。
5  池田 東欧におけるビザンチンの場合、皇帝は東ローマ帝国の国家体制を引き継いでいたのに対して、西欧では、五世紀半ばに西のローマ帝国がほろび、カトリック教会のみが存続していきますね。
 ジュロヴァ そのように、二つの精神的・文化的サークルがしだいに形成されてきたのです。ビザンチンおよび東方正教会のサークルと、カトリックのサークルです。前者は、ますますペルシャ、エジプトの専制君主のような特徴を帯び、後者はギリシャやローマの専制君主の特徴を帯びるようになりました。
 ビザンチンは、ローマから統治の理念を継承して、帝国内の民族的に異質な人々を統合しましたが、後には、東欧的な国家組織体制を創出しました。その体制によって、ビザンチンは、後に、西欧を悩ませたような社会不安を避けることができましたが、ルネサンスや宗教改革といった革新的な過程をも、奪い去ってしまったのです。
 東欧の統治モデルによれば、国王の権力はすべてを超越し、国王は近づきがたいほど神聖であり、国王が人々の前に現れる時の儀式は彼をほとんど「生ける神」としました。これは、たんにアラブやトルコによる侵略の結果ではありません。
6  池田 これもイコノクラティア時代において、具体的なものに哲学的意味が付与された流れの中のものと言えるでしょうね。
 ほかにも、たとえば、種々の聖歌がつくられるなど、典礼における諸要素が、三位一体などの教説を背景に整備されています。それをたんなる形式主義的傾向の増大と決めつけては、精神的深化の面を見ないことになります。ビザンチンの典礼の発達に関して、精神的深化を無視することはできないでしょう。
 ミサのさい、福音書の厳かな朗読の前に、「知恵よ。立て」の語が、高らかに宣せられることが、それを非常によく象徴しているように思えます。
 ジュロヴァ そうです。さらに、こうした国家体制は、教会に行政機関としての機能をあたえました。たとえば、総主教が法廷司祭の役割も果たしたのです。
 国家と宗教がこのような関係にある場合、君主である国王はすべてを超越する立場に立ちます。すなわち皇帝教皇主義ですが、それは、西方での教皇皇帝主義とはまさに反対のものです。
 西方の教皇皇帝主義では、教皇が、西欧に最初の君主が
 現れる以前から支配者への優先性を持ち続けていたために、国家の首長を解任したり指名したりするのです。
 しかし、教会の支配力にもかかわらず、アベラールは一一二二年に宣言しました。「疑いは問いを生む。われわれは問うときに真実を知覚できるのである」、また「私は理解するために信じなければならない」と。
 これは、キリスト教の基本的な選択肢である「不条理を信ずる」(テルトゥリアヌス)に対抗して述べられたものではないでしょうか。あるいは、おそらく、プロタゴラスの思想――「人間は万物の尺度である」――が復興される時代の始まりを示すものでしょうか。
7  池田 なるほど。では東欧と西欧における二つの統治形態――皇帝教皇主義と教皇皇帝主義――は、どのように展開していきましたか。
 ジュロヴァ 東欧で新たに成立した国家は皆、コンスタンチノープルの総主教から離れようとしました。
 総主教は、ビザンチンの歴代の支配者に従属していたため、国家的利害の上に立つことはできず、ローマ教皇のような支配的な役割を演じることはありませんでした。コンスタンチノープルの総主教は、バチカンのように統合的、中心的な立場にはなかったのです。
 ヨーロッパにおいて、カトリック世界と東方正教会の世界が異なった発展の道をたどった原因は、まさに、これら二つのシステムの特殊性にありました。
 東欧的な発展の様式は、――たとえばブルガリア国家のように――新しく形成された国家が完全な自律性を要求するのを可能とし、また、母国語で読み、書き、神に祈る権利を要求するのを可能にしたのです。
 しかし、西欧においては、神学は、諸国家の形成に対する闘争との関連で展開しました。カトリック教会は、統合を維持するために、諸国家を厳格に従属させることになりました。それがバチカンの基本法の一つだったのです。
 カトリック教会は、西欧における主導的な機関として一枚岩的な性格を持ち、独立した諸教会への分裂を許しませんでしたし、教皇の権威をおびやかそうとする人々に対しては、非寛容的な態度をとりました。「私は反抗する権利を持たないし、教皇の権威を否認する権利も持たない」――こうした態度からは、異端的な教義論争はほとんど生じなかったのです。
 東方正教会が、イコン崇拝の神学的側面にますますかかわる一方で、カトリック教会は、教皇の威信を維持するために、ますます政治的、組織的な発展に関心を持つようになりました。たとえば、マルチン・ルターが悪魔の化身と言われたのは、彼が教義に異議を唱えたからではなく、教皇を認めなかったからだったのです。
 したがって、国家が誕生する前に形成されていたカトリック教会の制度は、東方正教会における自治的な独立教会制度とはまったく異なるものでした。東欧で反ローマ教皇の動きが現れたのは、こうした理由からです。
 東欧と西欧において、だれが権力のシンボルをにぎっているのかという点が、教会の発展の様式の相違を生みます。ビザンチンでは、ビザンチン皇帝は、神という超越的で偉大なものを表象するとされます。
 すなわち、独裁君主は「パントクラート(全能性を持つ人物)」なのです。イスラムでは、同様のことが、不在のムハンマド(マホメット)を表象するとされる、カリフ(ムハンマドの代理という意味でイスラムにおける精神的指導者)に当てはまります。
8  池田 確かに、多くの人のビザンチン皇帝に対するイメージは、聖堂のごとき王宮のアプシス(祭室)において、民に祝福をあたえる神のイメージです。
 ジュロヴァ 「エティマジア」(見えざる神、またはキリストを示す象徴的図像。王座とその上の紫のマント、またマントの上には聖書が置かれる)において、皇帝のとなりの王座が空いており、一時的に不在の救世主(キリスト)を待っているとされるのは、この理由からです。
 ビザンチウムにおいては、道徳的な立法規制以外に、教会の独立性を勝ち取ろうとするすべての試みは、国家元首に有利に終わりました。総主教ゲルマニクス、ニセフォルス、フォティオス、神秘主義者ニコラウス、ミカエル・キルラルなどの場合のように。
 世俗的支配と聖職者支配のそのような関係は、東方正教会の道徳規準の基本的な原理のいくつかに、ダメージをもたらすことにもなりました。他方、典礼などの外的な側面は強化されたのです。
 こうして、東欧では、教会は国家の利害に従属するものであることが、不本意ながらではありますが合意を見ました。このことが、東方正教会が外的な儀礼や慣例を重視したり、感情的な要素が欠けているように見えたりすることの原因となったのです。これはとくに、ブルガリアの場合に当てはまります。
 キリスト教は、あらゆる階層の人々の道徳規準にはならなかったのです。道徳規準の役割は、とくに、異教徒の信仰が十分に克服されなかったところでは、何世紀にもわたってフォークロア(民族的な伝統を持つ習俗や宗教、芸能など)が果たしてきました。
 将来は、「民俗宗教」という鍵となる問題が、優先的に研究されるべきでしょう。「民俗宗教」は、わが国では独特の家父長制的家族共同体に体現され、また、公的な文化とは異なってはいるものの、フォークロアに似ているような、社会意識の宗教的モデルに体現されたのです。
 留意しなくてはならないのは、ビザンチン世界とスラブ世界において、福音や教義が、異教的な神秘主義とかかわりのあるプラトン哲学だけでなく、ホメロス的、およびヘシオドス的な神学理論とも、かなり共存していたことです。
 東欧の歴史において、ビザンチウムは、つねに古代の精神を感じていました。古代の精神は、東方正教会の精神文化、物質文化に、人間と神との間に「断絶」を置かないヒューマニズムをあたえたのです。
 私は、貴国では、人間と神の「断絶」を克服する必要はなかったのではないかと考えています。私の知るかぎり、釈尊は人間でした。また、よりよき生命を擬人化したとされる彼の後継者、弥勒菩薩は、人々に「真の生命の法」をあたえるとされていますね。ここには、宇宙、神、人間の間の不断の結びつきが想定されています。
9  池田 釈尊は、「徳のある人々の香りは、風に逆らっても進んで行く。徳のある人はすべての方向に薫る」(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳、岩波文庫)と語っております。ここに、人間の心、人格性を中心に置く、仏教の卓越性があります。
 日蓮大聖人は、強大な武家権力に堂々と論戦をいどみ、二度も流罪にあっています。流刑の地・佐渡で、次のように述懐しています。「日蓮は・なかねども・なみだひまなし、此のなみだ世間の事には非ず但ひとえに法華経の故なり」と。また、「一切衆生のためには大導師にてあるべし」と。日蓮大聖人もまた、民衆のただ中にあり、人々の苦悩に共鳴し、それを克服する挑戦を通して、人々の境涯を高め、拡大させていったのです。
 内村鑑三は、こう評しています。
 「『仏敵』には極めて假借なかった彼は、貧しきもの悩めるものに接する時、人として最も柔和なる人であった」(前掲『代表的日本人』)
 トルストイが、真のキリスト教的生き方の一つの可能性を、フォークロアの形に見いだしたのも、同じ文脈からと言えるでしょう。また、エマニュエル・レヴィナスの、「神性は隣人を通じて顕現する」(『困難な自由』内田樹訳、国文社)との言葉も、私は同じ趣旨と受け取っております。また、偉大なる詩聖タゴールの次の言葉も、私の心にあざやかな光とともに浮かんできます。
 「神のいますのは、農夫が固い土を耕している場所、道路工夫が石を砕いている場所だ。晴れた日も雨の日も、神は彼らの傍にいて、着物は塵にまみれている」(『タゴール詩集ギーターンジャリ』渡辺照宏訳、岩波文庫)『法華経』においては、宗教的人格の理想のイメージの譬喩として、蓮の花が池の中で、水をはじき泥に染まらず、美しい華を咲かせることが用いられています。
 すなわち、現実や世俗のなかにありつつも、そのただ中で聖なるものを顕現させていくことがめざされているのです。

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