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日蓮大聖人・池田大作

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「獅子」の意味するもの  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

前後
2  池田 アショーカ王は、国中に石碑や柱の記念碑を残しました。それらには、“唯一の真の征服とは、自我の克服であり、ダルマ(法・真理)による人間の心の征服である”という王の決意が表れています。
 ジュロヴァ 有名な「法の勝利」ですね。
 池田 そうです。まさに深い闇に閉ざされた人間の心の奥底に達し、埋もれた人間の善性を呼び起こす仏教の力を、みずから強く体験した人にして言い得る言葉でありましょう。
 私は、アショーカ王が、獅子をもって釈尊の説法の象徴としたのも、あたかも百獣の王である獅子の雄叫びを聞いて四周の動物たちが戦慄し四散していくように、釈尊の教えが人間の心に巣くう欲望、狂気、邪見、小心等を晴らしていく、その力強さをみずからが体験したからだと思います。
 ジュロヴァ 仏教の伝統では、獅子のシンボルは深い精神的な意義を持っています。獅子が示すものは、自己に対する勝利、世俗的熱情の克服、地上の悪と権力への欲望の根絶です。これは外部から強いられた法ではなく、人間の内に存在する普遍的な法の統御を表しています。
 獅子は、このように、みずからの成長と完成のためのつきせぬ力を獲得しながら孤独に打ち勝ってきた、精神的に強靭な人間のシンボルと言えるでしょう。
 池田 獅子のイメージを用いたのは、アショーカ王だけではありませんでした。釈尊滅後の仏教徒たちが結集した経典にも、釈尊を「獅子王」にたとえ、釈尊の説法を「獅子吼」と呼んでいる個所が数多く出てまいります。
 勇猛果敢で威力があること、百獣を圧する威厳に満ちていること、孤独をおそれぬ悠然たるふるまい、強敵をおそれぬこと、弱い獲物であってもあなどらず慎重であり、かつ全力を出しきって向かうこと、その威力をだれに頼ることもなくみずからの内から奮い出していること等――さまざまな獅子の姿、ふるまいに託して、釈尊のイメージが釈尊をしたう後世の仏教徒たちに伝えられていったのです。
 真理を覚った釈尊が、邪見、偏見のうずまく社会に躍り出て、敢然と真理を説ききっていく姿は、まさに、「獅子王」の名を冠するにふさわしい勇姿だったにちがいありません。
 そして、いかに苦悩深き人々であろうと、またいかに才気あふれる知恵者であろうと、出会う人ごとに、その人の生命の本質を瞬時にして看破し、ある時は、たくみな譬喩と説話を駆使して、ある時は、生命につきささるような鋭い一言で、またある時は、沈黙をもって、その人の胸奥をゆり動かし魂を呼び覚ましていく、その説法は、「獅子吼」のごとき力強さを持っていたのでありましょう。
 ジュロヴァ よく理解できます。
3  池田 私は、この「獅子」に象徴される釈尊の姿やふるまいの根本にあるものは、何と言っても「法を惜しむ」精神である、と思っています。
 ある経典には、獅子がいかなる獲物と戦う時にも慎重を期し全力をつくしていくように、釈尊がいかなる人にも丁寧に意をつくして法を説き納得させていくのは、法を重んじ法を敬うゆえである、と説かれております。
 また、仏典の中でも最高の崇敬を受けている経典、『法華経』では、諸々の菩薩たちが釈尊の前で、釈尊滅後の悪世の中において、いかなる迫害にあっても仏教を広めていくことを誓う場面があります。(勧持品第十三)
 その時、菩薩たちは、「獅子吼を作して」誓言を発したと『法華経』には書かれておりますが、なぜ本来は仏の説法にあたえられるべき「獅子吼」が、菩薩の言葉にあたえられたかと言うと、私は、その誓言の中に「我れは身命を愛せず但だ無上道を惜しむ」(法華経四二〇㌻)という精神があったがゆえに、菩薩たちの誓言が「獅子吼」と呼ばれたのだと思います。
 ジュロヴァ 仏教では、獅子の雄叫びは、到達しがたい悠然たる姿のシンボルなのでしょう。その雄叫びのなかにこそ、生命の「善き法」を身にそなえた獅子の強さと能力が存在するのです。つまり、獅子がロゴス(言葉)の力、すなわち説教の力を発揮するのは、まさに獅子吼の瞬間なのですね。
 ここでおたずねしたいのですが、東洋では、一般に、獅子のイメージはどのようにとらえられていたのでしょうか。
4  池田 東洋では、主として、インドにおける獅子のイメージが、西域を経て、中国、朝鮮半島、日本から、東アジア、東南アジア全域へと広がってきておりますので、まず、インドから述べたいと思います。
 『リグ・ヴェーダ』には、暴風雨の神であるマルト神群にささげられた歌に獅子が登場します。マルト神群は、『リグ・ヴェーダ』におけるシヴァ神の呼び名である「ルドラ」と密接な関係を持ち、その子と言われています。
 「洞察力ある彼ら(=マルト神群)は、獅子のごとく強く吼ゆ」(『リグ・ヴェーダ讃歌』辻直四郎訳、岩波文庫)と。直接的には、暴風雨のおそろしい音と獅子のほえる声が結びつけられていますが、「洞察力」という語から推察されるように、声によって、闇や悪、おろかさが吹き飛ばされるイメージが加えられています。「知恵と獅子吼」のイメージの連関は、ここにその始まりがあるのかもしれません。
 そのほか、ヴェーダ文献における獅子は、いずれも、勝利、勇気、豪胆さなどのたとえとして用いられています。
 インドには「シン」という名の方が多く、これは「シンハ=獅子」からの転訛です。これはクシャトリア(王族階級)に多い名であったと聞いています。王の勇猛果敢さのイメージ、英雄的な剛毅さのイメージの象徴として、獅子が使われたのでしょう。
 ジュロヴァ 中国の人々は、獅子を知っていたのでしょうか。
5  池田 中国では、獅子はもともと生育していた動物ではなかったので、空想的な動物としてあつかわれることがほとんどだったと思います。勇気や豪胆さなど、人間の精神作用を表す象徴としての役割はあまり負わされていないように思えます。
 もちろん、同じく空想的な動物である竜とともに、悪霊からの守護者としての呪術的意味はあたえられていました。「獅子舞」と言って、祝日には獅子の面を付けた踊りが、極東のあちこちで行われています。また、寺院や宮殿の前に石造りの獅子像を置く風習がありました。
 なお、西域から獅子が中国に送られたという記録のうち、もっとも古いものである『後漢書』巻六「順帝記」には、カシュガルから獅子が送られたという記述が出てきます。一三三年のことです。もちろん、獅子の存在についてはもっと古くから知られており、班固の『西都賦』に、「獅・豹を挟み、熊螭(ゆうち)を施く」とあります。日本には、中国の獅子のイメージがそのまま伝わってきました。
 では、博士におたずねしたいのですが、ブルガリアの人々は、獅子をどのようなイメージでとらえていますか。獅子が、貴国のシンボルとなった経緯はどのようなものでしょうか。
 ジュロヴァ まず私は、ブルガリアにおける獅子の象徴的表現の源について述べたいと思います。ペルシャでは、獅子は強さ、勇気、豪胆さ、剛毅を意味します。そこでは、獅子狩りをし、強き獅子に勝つものだけが「真の王」であると考えられました。スフィンクスも獅子の足を持っていました。獅子が入口の両側に置かれているのは、守護的な意味があったのです。
6  池田 日本でも、宮殿や寺院の前に石造りの一対の獅子像を置くという、中国伝来の風習が広まっています。また、かなりすたれていますが、正月の風習として、獅子の頭をかぶった踊り手がダイナミックに踊る「獅子舞」が、かつてはよく見られました。胴体は唐草模様の布ですから、おそらくペルシャ、中国伝来の「邪悪を防ぐ」という獅子の概念が、民間の風俗として残ったのではないでしょうか。
 ジュロヴァ 考古学的な発見によると、わが国が、獅子を国家のシンボルとして採用した時代の獅子のイメージは、ペルシャ・イラン系の流れを受け継いでいることが分かります。そこでは、獅子の並はずれた身体的能力、豪胆さ、すべてを征服する力と勇気が強調されているのです。
 一般的に獅子は、ヨーロッパと同じく古代のオリエントにおいても、もっとも頻繁に使われたイメージであり、しばしば王権のシンボルとして用いられます。
 古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは、ラクダへの獅子の一撃について記しています。この事件が起こったのは、ペルシャの王クセルクセス一世が、テルマ(現在のテッサロニキ)との戦闘のためにメスタ川の西の地域を行進している時でした。
7  池田 獅子が、クセルクセス王部隊の食料運搬用のラクダだけを襲った事件ですね。他の動物や人には一切危害を加えず、ラクダだけを襲ったことを、ヘロドトスも「不可解」としていますね。
 その事件に次いで、ヘロドトスは、獅子の棲息地域について述べています。
 「アブデラの町を貫流するネストス河と、アカルナニア地方を流れるアケロス河とがライオンの棲息地の限界となっており、事実ネストス河以東のヨーロッパ全域、およびアケロオス河以西の大陸全土にわたって、ライオンの姿は一頭も見られず、両河の中間地域にだけ棲息している」(「歴史」、『ヘロドトス』松平千秋訳〈『世界古典文学全集』10〉筑摩書房)
 ジュロヴァ クセノフォンも、バルカン半島のマケドニアに獅子が存在していたことを指摘しています。一九六九年には、ゴリヤモ・デルチェヴォ村近郊のルダ・カムチャ川のほとりで獅子の骨が発見されましたが、このことは、ヘロドトスやクセノフォンの記述の有力な証拠です。
8  池田 それでは、なぜ、獅子がブルガリアのシンボルとなったのでしょうか。
 ジュロヴァ それは、ブルガリアの存在、およびその承認と生き残りにかかわる出来事でした。
 池田 ブルガリアの始まりはいつごろのことなのですか。
 ジュロヴァ ブルガリア人について知られているもっとも初期の確かな情報は、四世紀に原ブルガリア人がコーカサスの北の地域に定住していたということです。伝えられている最古の文献は三五四年のもので、いわゆる『作者不明の年代記』の中に見られます。
 それでは、原ブルガリア人はいつ、また、なぜ地理学的に十字路にあたるところに移住したのでしょうか。そして、なぜ獅子をシンボルとして選んだのでしょうか。
9  池田 ぜひお聞きしたいですね。
 ジュロヴァ 第一次ブルガリア帝国の創始者アスパルフ汗は、「大ブルガリア王国」の偉大な支配者であったクブラト汗の息子です。彼の名前は、イラン語で「白い騎手」を意味します。アスパルフ汗が誕生したのは、カスピ海、アゾフ海、黒海北部で形成された
 原ブルガリア人の軍事上の部族連合が、最盛期を迎えた時期でした。
 彼の父は、支配者として軍事的部族連合の独立を維持し、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)との絆を強めるため、つねに他の遊牧民族であるアヴァール族、カザール族、西チュルク族と戦ってきました。
 それとは反対に、アスパルフ汗は、力ずくで連合を解体し、原ブルガリア人であるウノゴンドゥリと他の血縁関係にある部族とともにバルカン半島の中央に向けて出発しました。そこで彼は、そこにすでに定住していたアント族とセラヴィニック族というスラブ部族と同盟を結び、最初の遊牧民族国家を創建したのです。
 アスパルフ汗の国家統合は、当初から、東南スラブだけでなくチュルク(トルコ系の部族)の遊牧部族も統合する役割を果たしました。それは、アジアとヨーロッパの伝統を統一する新たな東南ヨーロッパ文化の基礎となったのです。
 ブルガリア国家が形成された時代には、非キリスト教的世界を組織し、ビザンチンに対抗するような制度を創出することが考えられました。
 八六五年にキリスト教を受け入れた後、ブルガリア人が教皇ニコラウス一世に提出した質問に対する回答の一つが注目されます。
 池田 「ニコラウスの反答」と言われるものですね。総大司教派遣まではいきませんでしたが、ブルガリアが、ローマ教皇から大司教派遣を勝ち取った歴史的文書です。
 ジュロヴァ そうです。ブルガリアの王子ボリス一世ミハイルは、キリスト教を受容してから一年もたたない時に、教皇ニコラウス一世に対して百十五問の質問をしたのです。
10  池田 確かボリス王子自身は、ビザンチン側の洗礼を受けていますね。ニコラウス一世は、もちろんローマの教皇です。ビザンチンの洗礼を受けた人間がローマに手紙を送ったのですね。フランク王国、ローマ、ビザンチンの三強国のなかで、国自体の独立と、若いブルガリア教会の独立を図るための、ボリスの苦心が分かります。
 彼は、ブルガリアに総主教を置き、それを頂点とする独立したヒエラルキー(位階制度)をつくろうと考えたようです。しかし、ビザンチンからは期待したような返事がなかった。そこで、ローマから総大司教を派遣してもらおうと考えたのですね。結局、ローマからは総大司教ではないまでも、大司教が派遣された。
 その後、さらに大きな出来事が起こりました。例の「フィリオクェ(「また子から」という意味。聖霊が御父だけではなく、御子からも発出するということを意味し、ビザンチン側は三位一体を乱す教義と考える)」という言葉を、ローマから派遣された聖職者たちが説いていたことをビザンチン側が知ることになります。
 しかもこの時、ビザンチンとローマは極度の緊張関係にありました。コンスタンチノープル(ビザンチン帝国の首都、現イスタンブール)の総主教フォティオスは、「フィリオクェ」を異端とした回勅を発し、教皇ニコラウス一世は破門、退位ということになりました。
 しかし、ビザンチン皇帝のミカエル三世が暗殺され、その後をついだバシレイオス一世がニコラウス一世を復権させ、フォティオスを辞めさせたのです。八六七年のわずか一年の間のことでした。八七七年には、前任者が亡くなり、ふたたびフォティオスが総主教の座につきます。
 このように緊張した事態が続くなかで、ボリスのたくみな外交策が功を奏しました。結果的に、ビザンチンの教会法に従うけれど、その教会法からはかなり自由な大主教をいただくブルガリア教会ができたのです。すべてが、微妙なバランスのなかで、落ち着いた状態になりました。このバランスの上に絶妙に立ちながら、ボリスは国の独立とブルガリア教会の自主性を勝ち取った、と私は認識しております。
 ボリスの子のシメオンの時代に、ブルガリアは大国になりましたが、それ以降も西のフランク王国、東のビザンチン帝国の間で、東西の十字路に位置し、非常に困難な国家経営を強いられたでしょう。
11  ジュロヴァ おっしゃるとおりです。「ニコラウスの反答」の第三十三問への回答は次のようなものでした。
 「あなたがたは、戦闘を始めたときから現在に至るまで、馬の尾を軍旗として用いてきたと主張している。そして、その代わりに何を用いるべきかを知りたいといっている。実際、聖なる十字架以外には考えられないのではないか」(『ブルガリアの質問に対する答え兊)と。
 遊牧民族であるブルガリア人は、馬でのみ移動しました。馬がいないということは、ブルガリア人にとって死を意味します。彼らが、バルカン半島に移住し、キリスト教を受容した時、教皇ニコラウス一世は、異教的な馬の軍旗をキリスト教の象徴である十字架にかえるよう提案したのです。
 バチカンのこのような提案に対して、何らかの反応があったかどうかを知るのはむずかしいことですが、第二次ブルガリア帝国(一一八五年―一三九六年)以前には馬の尾が用いられ、それ以後は、十字架ではなく「獅子」が旗印になりました。
 動きの激しいバルカン半島の十字路にあって、野心や闘争のなかで、とくに政治的、精神的、文化的支配を争う東西の競争の真っただ中で、生き残らなければならなかったブルガリアにとって、十字架よりも「獅子」の方がふさわしかったことは間違いありません。
 一九八一年に、私たちはブルガリア国家の建国千三百周年を祝いましたが、その時点で、過去に、抑圧された六百五十一年と自由な六百四十九年の歴史があったのです。
12  池田 その困難な歴史を戦いぬいてこられたブルガリアの民衆に敬意を表します。
 ジュロヴァ ありがとうございます。ブルガリアは、遊牧民族の精神と愛国心が維持されることによって、生き残ることができたのです。異教信仰の活力は、中世ブルガリア国家のイデオロギーの独自性を決定づけました。このことは、初期に異端的、反聖職者的な運動が出現した理由や、ブルガリア人がしばしばスラブ族のなかでもっとも非宗教(非キリスト教)的な人々と言われる理由を明らかにします。
 池田 九世紀から十世紀にかけて、ブルガリアの首都プレスラフには大規模な図書館がつくられ、その後の歴史に大きな影響をあたえる文学運動も起こりましたが、その蔵書は宗教書とともに、世俗文学も多く含むものだったそうですね。そのあたりにも、大地に根ざした庶民性、世俗性を大切にした貴国の伝統がしのばれます。今、「非宗教的」と言われましたが、それは「非―制度宗教的」と言えるかもしれません。真の信仰は、民衆の大地から滋養を得るものです。
13  ジュロヴァ おっしゃるとおりです。ブルガリア人はまた、バルカン半島に定住した時にも、力を必要としました。遊牧民族的なタイプの最初の国家モデルである、原ブルガリア人とスラブ人の国家が成立しましたが、後にこの国家は、ビザンチンに対する独立闘争において、西スラブの中心になっていきました。
 ビザンチンから高度な政治制度や宗教制度を受容しようとの試みには、当然のことながら、国内的には、国家の特性を維持することを求める抵抗が伴いました。原ブルガリア人の初期の歴史が、古代の遊牧民族の発展と結びついていることや、中央アジアのトルコ人の歴史とかかわりを持っていることは、よく知られています。この対立と地理的な状況から生じた緊張は、ブルガリア人に大きな力を求めさせたのです。遊牧民族の時代は、「静かなものは失われ、動くものが生き残る」と明言する法、すなわち、強いものだけが発展できるという法が行われていました。この考えが大きくクローズアップされたのです。
14  池田 そこで、力の象徴である「獅子」が選ばれた。馬よりもさらに力の強い獅子が――。
 ジュロヴァ そうです。動物のなかでもっとも力強く、敵を一撃で倒すことができ、最強の防護者であり、勇猛果敢さのシンボルである獅子は、ブルガリア国家にとって、ぜひとも必要な標識でした。ブルガリア人の民族復興に最初の閃光を点じた僧侶、ヒレンダール修道院のパイシーが、『スラブ・ブルガリア史』(一七六二年)の中で、ブルガリア人に自民族の力強さを思い起こさせ、ブルガリア人を獅子と比べながら、歴史への注意を喚起したのです。
 「ブルガリア人たちは、王に服従することはなかった。彼らは獅子のように荒々しく、戦いにおいて恐れを知らず、勇猛であった」と。
 池田 「強さ」のほかにブルガリアの象徴として、獅子が選ばれた理由はありませんでしょうか。
 ジュロヴァ ほかにも理由はあります。トラキア(バルカン半島東部の地域名)芸術の二つの優れた実例――ブレゾォヴォの王冠とバショヴァ古墳の甲●の胸当て――の中に、下の顎を欠いた獅子の頭部が描写されているのが見られます。これは、よく知られたイランのモチーフであり、紀元前四世紀のトラキア芸術に一般的に見られるものです。
 ササン朝イランにおいては、七月の黄道帯の標識である獅子が、太陽神ミトラスや、イシュタル、キュベレ、イランのアルテミスなどの名高いアジアの豊穣神の儀礼と結びついていることが知られています。
15  池田 獅子座に太陽が入る時期と、ナイル川の氾濫の季節が一致することから、エジプトなどでも獅子は豊穣のシンボルと見なされています。
 また、ギルガメシュ(古代バビロニアの英雄)やヘラクレス(ギリシャ神話中の英雄)、ダビデ(旧約聖書中の英雄)など、太陽と関係した英雄が、太陽の象徴である獅子を殺す神話が諸民族にありますが、これも祭式的意味が指摘されますね。
 ジュロヴァ はい。先ほど、力強さという点だけを述べましたが、後に獅子を国家のシンボルとして採用した理由は、「強さ」のほかに、そのような祭式的な理由もあるのです。
 たとえば、キリスト教以前のブルガリアの首都であるプリスカの東要塞の壁の門は、エーゲ文明の有名なミケーネの獅子門のように、二匹の獅子に守護されていました。
 プリスカと、オムルタグ汗の儀式用の広間には、獅子の彫刻が見られます。
 池田 なるほど。ブルガリアが獅子を選んだ背景には宗教的な意味合いがあるのですね。
 ジュロヴァ そうです。二、三の例では、獅子がベルトのバックルに用いられています。これはおそらく、蛮族の古器物や金属の装飾で知られている「守護者としての機能」を果たすものでしょう。獅子はまた、もっとも強力な守護者として、武具の盾にも現れます。
 このように、第一次ブルガリア帝国の芸術で残存している例は、獅子が守護者として、あるいは魔術的な守護者として用いられてきたことを示しています。しかしブルガリアにおいて、獅子が悪や死のシンボルとして使われた記録が一つもないのは興味深いことです。
16  池田 そうですね。ふつう、何か善なるもののシンボルは、悪い面も持つのが通例ですね。獅子の強大な力がデモーニッシュ(悪魔的)な意味を持ってもおかしくありません。事実、エジプトの死をもたらす悪神は獅子を従えています。しかし、ブルガリアではそれが見られない。ブルガリア人の前向きな姿勢、高貴さが見てとれるようです。
 ジュロヴァ キリスト教が受容され、ブルガリアの首都がプリスカからプレスラフに移された後も、獅子は引き続き、彫刻の飾りや新たな首都の芸術にしばしば登場しました。
 では、獅子のシンボルの意味は変化したのでしょうか。プレスラフ近郊のアヴラダカでは、寺院入口の窓の近くに獅子の頭部が置かれましたが、これは、悪の力から守護するという前述の機能を果たすものです。
 さらに、キリスト教の象徴的表現においては、獅子は「復活」と「勝利」を擬人化するものでもあります。獅子は、プリスカやプレスラフや、あるいはウラジミールやスズダール(ロシア)の教会、あるいはヨーロッパのローマ大聖堂の装飾彫刻などの聖なる場所に見られるのです。
 「イザヤ書」第二十一章八節の言葉は、獅子は目を開けたまま眠ることを意味すると解釈されてきました。
17  池田 「見張りびと」のくだりですね。
 ジュロヴァ そうです。そして、『フィジロガス』と呼ばれる翻訳書には、次のような記述があります。
 「獅子は三つのすぐれた特質を持っているが、それは三位一体を思い起こさせる。獅子の第一の特質は次のようなものである。すなわち、雌獅子が子どもを生むとき、子どもたちは死んでいて目は見えない。そして、雌獅子が子どもたちの上に三日間座った後、雄獅子がやって来て、子どもたちに三度息を吹きかけ生き返らせる。
 それと同様に、異教徒たちは洗礼前には死んでいて目が見えない状態であるが、三日間埋められた後、主イエス・キリストの復活の後、光がやって来るのを見て生き返った。雌獅子は聖霊である。そして、雄獅子がやって来て息を吹きかけるとき、神がアダムに息を吹きかけたように、われらすべては生き返るのである。
 獅子の第二の特質は、眠るときにも七つの方向に目を光らせて、猟師から身を守ることである。わが主イエス・キリストも、ユダヤ人によって磔にされたが、悪魔を打ち砕いたのである。預言者はそれについて言っている。『私は眠っていたけれども、心は絶えず番をしていた』と。
 獅子の第三の特質は、猟師に追いかけられるとき、猟師にあとをつけられないように(砂の上の)足あとの痕跡を尻尾で消してしまうことである。
 そして、あなた、愚かなるものよ、あなたは施し物を与えるとき、なぜそれを自慢するのだろうか。もし、褒められるために行っているのならば、正義を行っていることにはならない。それは、あなたの精神を喜ばせることにはならないだろう。右の手をもって与えるとき、左手はあなたが悪魔に誘惑されることを知らないのだ。猟師は悪魔だからであり、獅子の尾はあなたのよき行いであり、獅子の道は人間的な慈愛なのである。
 それゆえ、わがよき息子よ、あなたは悪魔に誘惑されないように教会に来るべきである。というのも、預言者ダビデは言っている。『私は死ぬことはない。私は生きるのだ』と。あなたも、魂によき行いをすれば、決して死ぬことはないだろう。正しい人は死なないからである。アーメン」
 獅子の精神的特質を説明しているこの文献を検討すると、先生が獅子の象徴的表現についておっしゃったこととの共通点がいくつか見いだせるでしょう。たとえば、「ロゴスの力」「悪に対する勝利」「善行への報い」「不死の希望」などです。
18  池田 そうです。おっしゃるとおりです。先に述べたサールナートのアショーカ王の石柱は、まさに「ロゴスの勝利」を象徴していると言えるでしょう。
 まず、柱頭には四頭の獅子がすえられています。全方位に「法の勝利」を宣言しているかのようです。獅子たちを乗せたアバカス(頭板)には、インドの国旗の中心的意匠となったダルマ・チャクラ(法輪)と獅子、牡牛、馬、象が刻まれています。
 この石柱は普遍的な「ダルマ」が、悪や無明に勝利することを表しています。
 また、ヒンドゥーの伝統、とくにヴィシュヌ派では、ナラシンハ、すなわち半身が人間で半身が獅子である英雄が、悪と無知を粉砕する者として現れます。悪と無知を破る知恵の象徴としての獅子のイメージは、大乗仏教にも現れ、知恵の具現者である文殊菩薩は獅子に乗った姿で表されています。
 ジュロヴァ 前述の書には、「獅子の道は人間的な慈愛である」と書いてあります。そして、それに向かう道は教会を通り、教会は悪(悪魔)から人間を守ることができるとされます。キリスト教は、獅子の精神的特質にも栄光の場をあたえているのです。
 しかし、獅子がこうした深い精神的象徴性を持つにもかかわらず、ブルガリアの人々は、主として守護者としての獅子の肉体的な特質を重視しています。キリスト教の図像学に見られる獅子の象徴的な意味は、古代の人々や蛮族に知られていた守護的な機能と矛盾することはありません。このことが、獅子がその守護的機能を失うことなくキリスト教に適応することを容易にしたのです。
 池田 教会のステンドグラス装飾にも獅子の意匠が使われますが、これは獅子の守護的な役割とともに、キリストの復活と勝利をも意味するのでしょうか。
 ジュロヴァ そうです。東欧古来の伝統によれば、王座の基盤にある獅子も、防護的な力だけではなく支配者の権力と勝利を象徴します。その意味で、教会の中では、司教の座の獅子が、キリスト教信仰がすべてに打ち勝つことを象徴しているのです。
19  池田 諸民族に伝わる「獅子の神話」の中で、私が興味深く思い出すのは、スリランカのシンハラ民族のものです。
 「シンハラ」という言葉自体が「獅子=シンハ」に由来するものです。「獅子の子」という意味であると聞いています。
 仏教に関しても、スリランカの『マハーヴァンサ(大王統史)』には、スリランカの建国神話が記されています。北インドで、獅子とヴァンガ国の王女の間に生まれたシンハバーフという強力の少年が、父獅子を殺して、その後、ヴァンガ国の王位を継ぎました。
 その息子のヴィジャヤが、ちょうど釈尊が入滅したころに、ランカー島に着き、国をつくったと伝えられています。釈尊は、涅槃に入る直前に、インドラ神(帝釈天)に「シンハバーフの息子のヴィジャヤが、今、ランカー島に着いた。彼はわが教えをランカー島に樹立するだろう。されば、彼とその部下たちと、ランカー島を守護せよ」(『南伝大蔵経』第六十巻、参照)と命じたと伝えられています。
 この伝承では、仏教との結びつきも強調されていますが、不思議な力を持つ獅子を殺した英雄に建国の由来が帰せられているという、先ほど言われた「支配者の権力と勝利」を象徴するものでしょう。
 ジュロヴァ ブルガリアの芸術作品の中でもっとも興味深いものの一つ――マダラ村近郊にある浅浮き彫り、いわゆる「マダラの騎士像」――では、獅子は敵の軍隊への勝利を象徴しています。
20  池田 よく存じております。世界文化遺産にも指定されている、人類の財産ですね。
 ジュロヴァ それは忠誠という特質を示しているのであり、さらにメソポタミアの獅子狩りと、その宗教的・魔術的意味合いを思い起こさせます。
 前にも述べましたが、第二次ブルガリア帝国の期間でさえ、獅子は“守護的”な意義を持ち続け、ブルガリアの
 中世期や民族復興期にも、金属や陶磁器のポットの底や、教会のドアや、ベルトのバックルや飾りに見られました。
 池田 そう言えば、ドアのノック金具にも、よく獅子の意匠が使われます。これも精神的な力、邪悪な力を駆逐し、寄せ付けない力の象徴として使われているのでしょう。獅子を権力者のためのものだけにせず、みずからのものともした。そこに民衆のエートス(情念、情熱)というものを感じます。また庶民の知恵を感じます。
21  ジュロヴァ ヒューマニズムと啓蒙主義の時代に、奴隷化されたブルガリア人の歴史を、スラブ的理念の名のもとに復興させることに着手したヨーロッパ人がいました。たとえば、ドゥブロブニク(クロアチア南部の地域)のベネディクト会の大修道院長マヴロ・オルビニです。彼は、『スラブ王国』を、イタリアのペサロで一六〇一年に著しました。
 この書は、ヒレンダールのパイシーによる『スラブ・ブルガリア史』の主たる典拠となったものですが、この中で、南スラブ諸国の紋章盾が初めて集められています。三九八㌻には、ブルガリアの紋章盾が初期バロック様式で描写されています。ドイツの盾の上に、後足で立ち上がった獅子が右を向いて王冠をかぶっているのが見られるのです。
 南スラブの紋章の本で最初に印刷されたのは、クロアチアの国民復興の初期の代表者の一人であるパーヴェルヴィテゾビッチの著作でした。彼は、一七〇一年に、『ステマトグラフィー』を公にしましたが、その中に、スペインの盾の上に王冠をかぶり右を向いて後足で立ち上がっている獅子が配されている、ブルガリア帝国の紋章が見られます。
 しかし、南スラブの紋章に関してキリル文字で最初に印刷された本が著されたのは、ようやく一七四一年になってからでした。これは、いわゆるブルガリアのフリストフォー・ツェラフォビッチの『ステマトグラフィー』であり、内容的にはオリジナルではなく、ヴィテゾビッチの『ステマトグラフィー』の翻訳を改訂し補充したものでしたが、この出版は南スラブの国民的、精神的、政治的覚醒に非常に大きなインパクトをあたえたのです。
 ここでとくに重要なのは、『スラブ・ブルガリア史』への影響です。一七八四年にエレーナの町でつくられ、ツェラフォビッチの『ステマトグラフィー』と一緒にまとめられたパイシーの歴史書の写本には、次のように書かれています。「王家の印章の紋章として、ブルガリア人は獅子のイメージを持ったのである」と。
 後に、一八二五年に、当時、リラ修道院の修道僧であったパイシーによって作成された写本には、「ブルガリア人は王の紋章として、獅子のイメージを用いた」と記されています。
 十九世紀後半に作成されたパイシーの『スラブ・ブルガリア史』の写本や改訂の多くに、ツェラフォビッチの『ステマトグラフィー』に由来する紋章盾のいくつかが見られます。じつはそれらは、パイシーの『スラブ・ブルガリア史』のオリジナルや初期の写本にはないものです。たとえば、アートロフのコレクションや、ペトコ・スラヴェイコフが一八四二年に出版したパイシーの『スラブ・ブルガリア史』の二冊の写本は、どちらもブルガリア国家の獅子の紋章を含んでいます。
 これらのすべては、獅子を紋章盾に含み、その基本的な象徴的意味合いを保持することが、当時の時代精神と合致していたことを示しています。つまり、国家解放運動を高め、ブルガリア民衆の愛国主義的感情を強めるという精神です。
 たとえば、民族復興期や国民の解放闘争の間、獅子はリラ修道院の印章に、あるいはクリミア戦争の義勇兵の旗に、また革命委員会の印章に、そして武装した楽団や反乱軍の旗に、勇敢さの印として描かれたのです。
 一九四四年の社会主義革命以前は、ブルガリアの紋章は、王冠をかぶった二頭(あるいは一頭)の獅子からなっていました。革命以後は、獅子と一緒に麦の穂の束と三色旗と歯車が描かれています。
22  池田 最近、新しい紋章がつくられたと聞いています。かしわの葉や獅子からなっていると聞いていますが、少し教えていただけますか。
 ジュロヴァ 新しい紋章は一九九七年に制定され、三頭の獅子、かしわの葉、そしてキリスト教のシンボルとして王冠に十字架が含まれています。
 民族復興期には、獅子は覚醒した人々の大胆さ、おそれのなさ、力と統合のシンボルでした。
 池田 もう一度、民衆は獅子の肉体的な力を必要としたのですが、同時に民衆の力を結集するために、獅子の精神的な力も必要としたのですね。
 ジュロヴァ 獅子は、ボテフの反乱(ブルガリアの革命詩人フリスト・ボテフらによるトルコからの解放を求めた蜂起)のさいの毛皮の帽子にも現れ、彼らの旗には、トルコの三日月の上に足を置いている獅子が描かれました。この時期、獅子は、祖国を隷属させてきたものに対する反抗の旗印だったのです。
 獅子は、新たな魔術的な力を獲得したと考えられ、そこでは、獅子が持つ災難を打ちはらうという特質がふたたび主張されました。シプカ峠の守り手たちは獅子、巨人(タイタン)にたとえられました。
 わが国の民衆にとって伝説となっている、ブルガリアの民族革命の「アポストル(使徒)」であるバシル・レフスキーは、その跳躍力を含めて、獅子のような非凡な体力と機敏さを持つと考えられました。彼がレフスキー(Levski)と呼ばれた理由がこれであり、levはブルガリア語で獅子を意味します。この名前は、後にあらゆる人々にとって革命のシンボルとなったのです。
23  池田 民族解放運動のなかで輩出した多くの英雄のなかで、もっとも重要な人物がレフスキーですね。レフとは獅子の意味ですね。ブルガリア人の独立のシンボルが獅子であることとは、きわめて意味深い“一致”と言わざるを得ません。
 ジュロヴァ 十九世紀のブルガリアには、レフスキーのほかにも、思想家で革命家であったゲオルギ・ラコフスキー、作家のリュベン・カラヴェロフ、そして革命詩人ボテフなどの際立った人々がいましたが、レフスキーは、ブルガリアの歴史を「革命のアポストル」として駆けぬけた唯一の人間でありました。
 おそらく、レフスキーの並はずれた無私の態度と禁欲主義が、重要な役割を演じたのでしょう。彼は言っています。「私は、だれが知らずとも、祖国解放の犠牲となることを誓う」と。この無私の態度がまた、彼に絞首台で「純粋で聖なる共和国」に殉ずる力をあたえたのです。この革命運動の聖人――人々が「獅子」と呼ぶ唯一の人間――によれば、その共和国には国王は存在せず、民衆がたがいに、またみずからを支配します。また、この共和国では、「すべての人が完全な自由を持ち、民族、国籍、信仰にかかわらず、すべての人が市民として平等の権利を持つ」のです。
 支えを求める人々の心がシンボルを生みだします。わが民衆の歴史は、ブルガリアの独立と信仰と文化を保持するための一連の闘争の歴史でした。その運命は、生存闘争と、分裂した国家の統合を求める闘争によって特徴づけられます。
 もっとも重大な状況において、ブルガリア民衆は、獅子を擁護者として、また並はずれたおそれのなさと豪胆さのシンボルとして、さらにみずからの意志の唯一の主人となる権利を獲得できる能力のシンボルとして、宣揚したのでした。
 私は、こうした意味で、獅子は今日もなお、民衆の心の中に生き続けていると考えます。民衆は、人間が自由意志を保持し続けるのを助けるような獅子の肉体的な力と弾力性が、自分たちを支えてくれるものであると考えたのです。
24  池田 民衆を守るものとして、独立、自立のシンボルとして、また悪を防ぐものとして、さらには、勇気と勝利のシンボルとして獅子が選ばれた。そこには、地理上の運命的な位置のなかで、毅然と、誇りを保ち続けてきた気高いブルガリアの精神性が貫かれています。
 レフスキーや革命詩人ボテフの話をお聞きして、仏教者の視座から、一言、付け加えたいと思います。
 それは、「仏教の社会性」ということにつながるものです。釈尊は、決して座して瞑想するだけの仏ではありませんでした。彼は、法を人々に教えようとしたのです。この仏の説法は、「獅子の咆哮(獅子吼)」にたとえられることがしばしばなのです。
 「獅子」のイメージは、仏や菩薩がさまざまな迫害に打ち勝って、その教えを人々に広めていく姿に重ねられています。
 人々のなかに、民衆のために、法を広めていく象徴が獅子なのです。
 とくに、獅子と言えば、日蓮大聖人を思い浮かべずにはいられません。日本が軍事大国への坂道を転がり続けていたとき、良心的キリスト者としてそれに抗した内村鑑三は、日蓮大聖人を「骨髄まで真実なる一個の霊魂、人間として最も正直なる人間」「日本人として最も勇敢なる日本人」と述べ、「真の意味に於ての宗教的迫害は、日本に於ては、日蓮を以て始まつたのである」(『代表的日本人』鈴木俊郎訳、岩波文庫旧版)と述べています。
 一切の権力や武力などの後ろ盾を持たず、強大な権力に立ち向かった日蓮大聖人は、自身および弟子たちを、しばしば「獅子」にたとえております。それは、今、博士が言われたように、レフスキーにも通じる強靭な「自由意志」の象徴であり、不屈の独立性の象徴なのです。
 私は一九九四年十月、貴国ブルガリアから、「世界平和への尽力」と「ブルガリアと日本の文化交流への貢献」を評価され、「マダラの騎士第一等勲章」を受賞いたしました。
 その時の正章、副章には、ともに先ほど述べられたマダラの騎士レリーフが刻まれていました。不屈の意志を持つ平和の騎士として権力と戦った日蓮大聖人、また日本の軍国主義と戦い投獄された牧口初代会長、戸田第二代会長の心のままに、これからも世界の平和のために、文化の交流のために、尽力したいと決意を新たにしております。

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