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日蓮大聖人・池田大作

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はじめに  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

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2  池田 恐縮です。嵐を求め、嵐とともに進んでいくのが真実の指導者であり、人間であると私は決めています。
 貴国の国民作家、イヴァン・ヴァーゾフの代表作『軛の下で』について、ソフィア大学での講演でもふれました。(一九八一年、「東西融合の緑野を求めて」。本全集第1巻収録)
 五百年にわたる他国の圧制。ブルガリアの民衆は立ち上がりました。一八七六年の「四月蜂起」――これを描いたその本には、忘れられない場面が数多くあります。
 その一つに、流刑の地から祖国ブルガリアに戻った主人公の革命家を、次のように描いた個所があります。
 「崇高な心の持主にとって、障害や苦難は力を鍛える恰好の場である。抵抗は彼らを強くし、迫害は彼らをひきつけ、危険は彼らを奮いたたせる。なぜなら、それは闘いであり、いかなる闘いも人を気負い立たせ、高潔にするものであるからだ」「闘いは、人にあっては、自衛のため立ち上がる時雄々しく、それが人類のためである時は神々しい」(松永緑彌訳、恒文社)と。
 苦闘こそが人間を高貴にします。それが人々のための苦しみであれば、なおさらです。安逸のなかに人間性を堕落させている社会よりも、どれほど、お国の方が尊いか分かりません。
 重ねて申し上げますが、私の見方は、徹底して「人間」が基準です。
 ジュロヴァ 私たちの国は、今後、民主主義をもとに新しい建設をしていくことになります。けれども、「民主」の伝統が少ないわが国では、これは容易なことではありません。
 先生は、一・二六「SGIの日」には、毎年、記念提言をされておりますが、一九九〇年の提言の中で、プラトンの言葉を引用されていますね。
 プラトンの民主主義批判にふれながら、民主主義のおちいりがちな危険性と、それをどう乗り越えていくかとの視点が述べられていますが、この点に深い感銘をおぼえました。
 民主制についてプラトンは、“過度の自由は、やがて強力な秩序への従属を生みだす”“「民主」が一転して「専制」へと変わる悲劇が生まれる”との危険性を指摘しています。
 先生は、この指摘をふまえつつ、まずみずからの内面を見つめ、“自律”の力を養うことが、「民主の流れ」を定着させるポイントと論じておられます。「民主」の時代の将来を見すえた、優れた観点だと思います。
3  池田 本当に温かいご理解に感謝するしだいです。提言でも述べましたが、東欧諸国を席巻する民衆パワーは、確かに、すさまじいばかりの「解放」のエネルギーです。それは、長期的な観点から言えば、いかなる権力者も、民意に逆らっては存続できないことを、まざまざと見せつけました。大切なことは、その「解放」のエネルギーを、いかにして「建設」のエネルギーへと転換させていくかでしょうね。
 ジュロヴァ 思えばプラトンは、ブルガリアが位置するバルカン半島で生まれました。また、ヨーロッパが世界にあたえてきたもっとも大きな影響とは、ギリシャに発する民主主義の光ではなかったでしょうか。
 こうしたことを考えるにつけ、私は、ブルガリアがこれから新しい民主主義の伝統を築くにあたって、先生の提言にこめられた思想を大いに紹介していくべきだと思い、その準備を進めていきたいと考えています。
 池田 光栄です。これからも、思うぞんぶんに語りあいましょう。
 ブルガリアの最高峰の学府ソフィア大学で、教授として美術史を教えておられる博士と、ブルガリアと日本の「文化、教育、芸術」等にわたって語りあえることは、私の喜びです。
 その意味で、この対談が、両国間を結ぶ友好交流の一助となることを、強く願っております。
 ジュロヴァ ブルガリアでは日本への関心が、いっそう高まっています。この対談集の出版が、両国の友好をさらに発展させていく契機になればと思います。
4  池田 博士は、同大学の付属機関である「スラブ・ビザンチン研究所」の所長も務めてこられました。学問にささげられているその情熱の大きさには、敬服しております。
 そこで対談を始めるにあたり、私がインタビュアーとなり、読者のために、博士の個人的な事柄について何点かうかがいたいと思います。
 これまで私は、多くの世界の知性、トインビー博士、ルネ・ユイグ博士、ペッチェイ博士、旧ソ連のゴルバチョフ大統領などと対談を進めてきましたが、女性との対談集は発刊されておりません。
 二十一世紀は、間違いなく「女性の時代」となるでしょう。できるかぎり女性の方々が喜んでくださるような、親しみやすい内容にしたいと思いますが、いかがですか。
 ジュロヴァ もちろん賛同いたします。女性にとって、この世界で果たすべきみずからの使命を受け入れることは、きわめて重要なことです。その使命とは、人間生命が持つ価値と精神性を守りゆくことです。女性には、みずからの義務を果たすべき責任があると思います。果たさなければ、ひどい罰があたってしまうかもしれません。
 池田 博士は、一九六五年、ソフィア大学を卒業され、同大学ではブルガリア文学を専攻されたと聞いております。そして、モスクワ大学に留学され、そこで歴史学、芸術論を学ばれましたが、そのような学問を専門として選択された動機についてお聞かせください。
 ジュロヴァ 大学での専攻の選択にあたって大きな影響となったのは、母の意見でした。
 父は、私が機械の勉強をすることを希望していましたが、母は私が数学と物理が得意でないことを知っていましたので、母の助言をとったのです。母自身は、文学を勉強したいという希望を持っていました。それで私は、ソフィア大学ではブルガリア文学を学びましたが、あまり熱心だったとは言えません。
5  池田 そうですか。お父さんはご自分の夢である機械の勉強を娘に託そうとし、お母さんは同じくご自分の夢であった文学の研究を託そうとされた。かわいいわが子に、自分の夢を託したいと願うのは、どこの世界でも共通の親心と言えます。
 ジュロヴァ ソフィア大学では、学生クラブに芸術家を招くことがしばしばあり、そうした芸術家と知り合うにつれ、芸術への関心を深めていきました。とくに、美術アカデミーの年次学生作品展を通じて美術創作を始めた時、私は自分がこれまでずっと勉強したかったことが何であったのかが分かったのです。
 そのころ、私を助けてくれたのが、古代ブルガリア語の若手の助手であったペーテル・イルチェフ氏でした。私がノートの余白にいっぱい書いていた飾り文字に注目し、ブルガリアの写本の飾り文字については、これまでだれも研究していないことを教えてくれたのです。
 また、卒業論文の一章で、私は文学と美術との表象的比較を論じました。そのことから、美術の歴史と理論の学問をソ連で続けるよう助言してくれたのが、ペーテル・ディネコフ教授でした。卓越したスラブ学者であったディネコフ教授と私は、一九九二年に教授が亡くなるまで、教師と学生としての関係を保ちながら、親しい友人であり続けました。
6  池田 すばらしい教官にめぐり会えたのですね。学生一人一人が何に関心を持ち、いかなる才能を持っているかを見極め、進むべき方向を指導できるのが、優れた教師と言えるでしょう。
 私の恩師戸田城聖先生は、一つの学問だけでなく、あらゆる人について、その本質、特徴を見抜き、適切な指導をあたえることのできた、まことに偉大な卓越した“人生の師”でした。
 私は、この師匠にめぐり会ったことを誇りに思っています。
 ジュロヴァ 私は、一九六五年にソフィア大学を卒業すると、すぐにモスクワ大学に留学し、もっとも優れたビザンチン学者であるヴィクトル・ニキティチ・ラザレフ氏のもとで学びました。美術史および美術理論でも幸い指導教官に恵まれたのですが、何よりも有益だったのは、プーシキン美術館の絵画部門と、モスクワ国立歴史博物館の古文書部門で研究できたことです。とくに、写本部門の主任教授であったM・B・ステプキーナ氏に好意的に迎えられたのは、イヴァン・ドゥイチェフ教授の推薦状のおかげでした。
 池田 優れた師を持つことほど尊く、大きな幸運はありません。学問においても、人生においても、そうした師を持つことによって、誤った道に迷いこんで人生の貴重な時間を浪費しなくてすむからです。
 ところで、「スラブ・ビザンチン研究所」は、正式名称を「スラブ・ビザンチン研究のためのイヴァン・ドゥイチェフ研究センター」と言い、博士の恩師ドゥイチェフ博士の名をかかげた研究機関だと聞いております。師の遺志を継ぎ、その業績を永久に残していく目的で、たいへんな苦労を重ねて創設されたとうかがっています。これは、まさに「師弟の道」を実践されている、と私は心から感銘しております。とともに、研究所のますますの発展を祈っている一人です。ドゥイチェフ教授について、説明していただけますか。
 ジュロヴァ ドゥイチェフ教授は、スラブ・ブルガリア学の権威でした。私はモスクワ留学を終えてブルガリアに戻ってから、ずっと教授のもとで仕事をしましたから、二十二年間にわたる師弟関係になります。
 ドゥイチェフ教授の学問的業績について述べるのは、私にとってむずかしいことです。と言うのも、教授は、世界中の十二のアカデミーのメンバーでありましたし、三十本もの専門論文と、それ以外に約千本の論文を著したからです。
 ここでは、一九七四年に教授がヘルダー賞を受賞したさいに、オーストリア科学アカデミーの大ホールで述べた声明の一部を引用したいと思います。これによって、ドゥイチェフ教授が、教授とともに仕事をした多くの研究者を啓発し、大きな影響をあたえていたことを、知っていただけると思うからです。
 「文化の分野で、学者、詩人あるいは芸術家として活動しているすべての人は、人間と人間の間に、人生の究極的な目標である平和の橋、相互の友好関係の橋を築くことを考えなければなりません。そして、そうすることによって、人類の永遠の夢を実現するために貢献しなくてはなりません。こうしたやり方によってのみ、創造的な人間が、仲間の人々、世界中の人々に役立つという責任を引き受けることができるのであり、同様に、人生と仕事における神聖な使命を果たすことができるのです」と。
 生前交流した学者、彼の教えを受けた人は、東欧諸国だけでなく西欧諸国、アメリカでも活躍しておられ、一九八八年九月の研究所の開所式には、そうした各国の教授たちが参加してくださいました。
 教授が亡くなったのは、その二年半前の一九八六年四月二十四日のことでした。
7  池田 師が切り開き、積み重ねた研究成果が弟子に受け継がれることは、人類にとっても、文化にとっても、知的遺産をますます豊かにしていくことであり、大切なことです。もちろん、師たる人にとっても、自分の人生の成果を受け継いでくれる弟子を得ることは、大いなる幸せだと言えます。
 ジュロヴァ そのとおりだと思います。ドゥイチェフ教授は、現代における中世研究の第一人者で、彼と共同で仕事ができたことは、私にとって中世研究の上でも、また人間としての生き方の上でも、決定的に重要なことでした。
8  池田 ところで、博士のお父さんは、ブルガリアでトドル・ジフコフ国家評議会議長に次ぐ実力者として、長年、国防大臣を務められ、一九八九年に民主政権に移行するさい、重要な役割を果たされたと聞いています。
 博士は、学生時代のボーイフレンドと一九六五年に結婚され、そして、お子さんも二人育てられ、母として、また主婦としての役目も果たしながら、ソフィア大学教授、「スラブ・ビザンチン研究所」の所長として活躍されています。まさに現代の女性を代表するお一人です。
 その意味で、これからの女性の生き方に、重要な示唆をあたえてくださるのではないかと考えます。博士の個人的な問題、家族についてお聞きしたいと思います。
 ジュロヴァ 私の両親は、二人とも父親なしに成長しました。母の両親は移民で、第一次世界大戦中に、ギリシャ北部からソフィアに移ってきました。父も両親を持たない孤児でした。第二次世界大戦の時には、強制収容所で窮乏生活を体験しました。
 貧困を強いられていた生活のなかで、私の生まれる前日、ゲリラ隊に加わっていた父は、軍事的な反ファシスト組織である第二十五連隊に対する裁判で、死刑を宣告されたのです。私の誕生日の翌日、ギリシャのクサンティ町の近くの「エニ・クジョー」の収容所から逃げ出してきた父とどのように会ったのか、母はよく語ってくれました。それで私は、私が父を死刑から救った守り神になったことを、後で聞かされたものです。ちなみに、父はその後、四回死刑判決を受けています。
9  池田 お母さんも反ファシスト運動に参加していたのですね。
 ジュロヴァ 母も、反ファシスト活動のために投獄されるところでした。でも妊娠していたために、まぬかれることができたのです。私が生まれた後、私たち家族は村から村へと移転を繰り返しました。ノヴォセルツィ村にいた時には、私たちは「血まみれ将校」と呼ばれたストジャノフの手に落ちてしまいました。一九四四年のことです。
 しかし、この時は祖母のおかげで助かりました。祖母は、一九一八年まで国軍大佐であり、後に著名な軍事史家になったペーテル・ダルヴィンゴフの親戚だったのです。彼は、イタリアのトリノの軍事学校を卒業した人で、ドゥイチェフ教授のよき友達でした。
 こうして私たちは、投獄をまぬかれることができたために、一九四四年九月九日の解放の日を生きて迎えたのです。その日、私たちはバビツァと呼ばれる、西ブルガリアのはるか彼方の小さな村にある、親戚のおばの家に滞在していました。
 それ以降、私たちの家族は追憶とともに生き、また、新たな現実とともに生きました。新たな現実のなかでは、一九四七年から五六年までの間に、父は配属先が十回も変わりました。当時、軍人たちはそうしたことを当然の運命として受け入れていました。私は、どこに引っ越しても、戦後収容されたからっぽの家々に住みましたが、すぐに慣れ、また、学校の生徒や教師たちの詮索好きな目付きにも慣れました。
10  池田 たいへんなご苦労があったわけですが、そうした困難を乗り越え、また、その体験が後に生かされたのでしょう。
 日本の古いことわざに「艱難、汝を玉にす」という至言があります。また、仏教でも「難即悟達」と言います。幾多の苦難に挑戦しゆく人生そのものに、仏教の覚りが輝くという意味です。
 お父さんが軍人として多忙ななか、また転勤が多くあったということですが、幼いころの勉強など、どなたの影響を受けたのでしょうか。
 ジュロヴァ まず祖母が重要な役割を果たしたと思います。彼女は、読書の仕方、重要な書物の選択について教えてくれました。私が文学に馴染んだのは、その影響によると思います。
 また、母は、多くの子どもがいたにもかかわらず、独学をしたいと願っていました。戦時中、勉強できなかったので、戦後、高校に通って卒業し、さらに、かつて織物関係で働いていたことから、スリヴェンのカレッジで織物工学技術を学び続けました。そして、その腕を生かして子どもたちのために、いつも素敵な服をつくってくれたのです。
11  池田 “偉人の育つところにこの母あり”で、博士の話からも強靭で知恵のある、聡明で優しいお母さんだったことが想像できます。軍人でしかも要職にあったお父さんについてはいかがですか。
 ジュロヴァ 父はたいへんに厳格な人でした。それは仕事の面でも、生活においてもでした。父は、つねに、いかなる状況にあっても人間は人間である、と教えてくれました。人間性が持つ価値を重視していたのです。そして、人生にとって大切なことを教えてくれました。
 まず試練に対して忍耐強く生きること。そして、チャンスの時には、大胆に行動すること。さらに、いちばんむずかしいことですが、忍耐の時か、それとも大胆に勇気ある行動をとる時なのかを、知恵を発揮して決断することを教えてくれました。
 母は、父のように人生に対して教訓めいたことを言ったことは一度もなく、自由で柔軟でした。私が長男を出産した時にも、母は助けてくれませんでした。四カ月がたったころ、少しずつ助けてくれるようになり、「自分でやること」の大切さを教えてくれたのです。そこに厳しいしつけ、深い愛情を感じたものです。また、年配者に対しては、どんな人にも尊敬心を持っていました。
12  池田 では次に、ご主人のことをお聞きします。博士のご主人は、元オリンピックの体操選手として活躍され、現在もブルガリアのスポーツ界を支える立場で尽力されているとうかがっています。ご主人は、非常に温厚で、すばらしい人柄だとも聞いています。
 ジュロヴァ 夫はスポーツ学の学位を持ち、体育の高等研究所の教授を務めています。体操選手として、一九六〇年のローマ・オリンピックにも出場しました。一九六四年の東京オリンピックには、打撲傷のために出場できませんでしたが。
 夫も非常に多忙です。それは授業のほかに、数年にわたって、ブルガリアのもっとも大きなスポーツ・クラブの一つである、「陸軍中央スポーツ・クラブ」の所長を務めてきたからです。夫は、私にバランス感覚をあたえてくれ、また執筆論文を最初に読んでくれます。
 夫はモラルの高い人です。「これは男性の仕事、これは女性の仕事」というような区別をしません。女性の立場を本当によく理解し、私を助けてくれます。家庭での子育てに関しても、私たちは似たような考え方を持っていました。そうした育て方が、子どもたちのためになったと言えるような結果になることを願うばかりです。
13  池田 ブルガリアでは、これは男性の仕事、あれは女性の仕事という、歴然たる社会的区別が根本的にないということは聞いていました。日本の場合も、最近では、男性と女性の社会的役割の区別がなくなる方向に向かっています。法的にも男女均等、平等を保障するようになりました。しかし、日本社会の実態は、ようやく変わり始めたところのようです。
 ジュロヴァ ブルガリアの場合、女性も男性も給料の格差はありません。教育をはじめ、就職および昇給のチャンスなど、男性と同等なのです。
14  池田 お子さんはお二人ですね。
 ジュロヴァ 息子のドブリと娘のカリーナがいます。二人とも、ほかの両親のように勉強などを見てあげることが少なかったと思います。ただ、自立できることを願っていたのは事実です。一九八九年の民主化以降、二人とも勉強しながらよく働きました。息子は、夜中働いて、建築に関心を持ち、よく勉強していました。子どもたちは、現在、人生の入口に立っていて、将来、どのような職業につくかを、真剣に考え始めているところだと思います。
 娘のカリーナは、美術史に関心を持ち、私と同じ人生行路をたどる可能性があるのです。しかし、それが私のアドバイスや示唆によるものであるとは思いたくありません。現在、イタリアに住んでいます。彼女が池田先生の本――アウレリオ・ペッチェイ氏との対談(『二十一世紀への警鐘』。本全集第4巻収録)――の翻訳をカレッジの級友とともに完成させたことは、自分の意志で行動している証拠であると思います。
15  池田 ありがとうございます。翻訳の作業は人が思う以上にたいへんです。カリーナさんには本当に献身的に多大なご尽力をいただき、見事な翻訳をしていただいたと、担当者からうかがっております。深く感謝するしだいです。
 ジュロヴァ 娘も貴重な仕事にたずさわることができ、たいへんに喜んでおります。
 今、息子は結婚しており、子どもたちの将来の職業の方向について予測することはむずかしいことですが、子どもたちは、私たちの時代よりもはるかにダイナミックで複雑な時代に生きていて、選択の権利は彼ら自身にあります。
16  池田 激動の世界を生きていく子どもたちのためにも、人類の未来を開拓しておきたいのです。希望と栄光の「生命の世紀」への道を、ともに照らしだしていきましょう。
 ジュロヴァ まったく同感です。人間の生と死、二十世紀の倫理的危機の問題から、小国の運命の問題などにいたるまで、さまざまな点について語りあいたいと思います。
 池田 この対談が完結するまでには、今後も長期におよぶ時間を要するかもしれませんが、粘り強く、両国の文化と伝統、そして、「価値ある人生とは何か」「最高に悔いなき人生を送るために、何が肝要か」など、大いに語りあいましょう。

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