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第十一章 人類共生への「選択」――地球…  

「21世紀への選択」マジッド・テヘラニアン(池田大作全集第108巻)

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1  「人間の価値」をいかに守るか
 池田 戸田記念国際平和研究所が主催した、キプロスでの第二回「ペルシャ湾岸安全保障フォーラム」(二〇〇〇年五月)が成功を収めたそうですね。すばらしいことです。
 テヘラニアン ありがとうございます。第一回の会議は、イラン、イラク、トルコ、サウジアラビアなどの中東諸国をはじめ、アメリカ、イギリス、ロシア、フランス、中国、そして中立的立場の国々など、十七カ国の専門家が参加してトルコのイスタンブールで一九九九年三月に開催しました。NGO(非政府組織)がイニシアチブ(主導権)をとって、この地域の平和構築を試みた最初のものとなりました。二回目のキプロスでの会議とあわせて非常に大きな成果を得ることができたと思います。
 池田 いまだ緊張関係が続くこの湾岸地域において、率直かつ誠実な「対話」が継続されたこと自体、平和創造への確かな一歩であると、私は思います。
 非常に重要な取り組みです。今後もぜひ粘り強く続けていってください。
 テヘラニアン この地域はイランイラク戦争や湾岸戦争が行われたように、緊張感が強く、さまざまな利害が錯綜しています。会議をどのように進めるか、当初、頭を痛めました。
 幸いにも、この地域の永続的平和と経済的安定をめざすという会議の目的を参加者がよく理解し、対話がとてもスムーズに進みました。
 それで最初の会議でも具体論に話がおよび、「湾岸地域における非攻撃的防御の展望」「協力的な共通の地域安全保障」「地域軍縮」「地域協力機構の展望」などのテーマをめぐって、未来を見つめる対話が積極的に交わされました。
 池田 湾岸地域は、世界の平和にとってきわめて大きな影響をあたえますが、日本では地理的に遠いこともあり、どうしても関心が薄くなりがちです。日本に拠点を置く平和研究所が、この地域の平和に積極的な貢献を果たすことは大きな意義があると思います。
 テヘラニアン 湾岸諸国の代表からも「世界の困難な状況を自主的に改善しようとしない日本という国にできた平和研究所が、湾岸問題の解決に貢献しようとイニシアチブをとってくれたことに感謝したい」という声が寄せられました。
 ともかく、NGOが率先して行動を起こす以外にありません。とくに戸田平和研究所の場合、研究プロジェクトの中心に「人間の安全保障」をすえており、軍事的な側面ではなく“人間”をどう守りぬくかという観点から国家の利害を超えた問題の解決をめざしています。
 池田 重大な視点です。人間の価値をどう守りぬくかが、二十一世紀の安全保障を考えるうえでの「ホシ」になるでしょう。
 私はそうした意味から、九五年一月、ハワイの東西センターで「平和と人間のための安全保障」と題し講演いたしました。(本全集第2巻収録)
 二十世紀の教訓をふまえて、人間の「生命の尊厳」に目を向けることの重要性が広く人々の意識のなかで共有されつつあります。仏法者として、これまで私どもが強く主張してきた点ですが、今や時代の大きな流れになってきました。
 そこで、「文明間の対話」をめぐる私たちの語らいの締めくくりとして、現代世界におけるいくつかの趨勢を分析しつつ、二十一世紀文明の基調となるべき方向性について語りあっていきたいと思います。
2  地球一体化がもたらす善悪の両側面
 テヘラニアン 以前にもふれましたが、グローバリゼーションの急速な進行は人々にとって好ましい影響をおよぼすこともあれば、そうでない結果をもたらすこともあります。
 好ましい影響の具体例としては、人権や飢餓、地球の温暖化や環境問題、また地雷や核兵器、生物化学兵器の禁止への取り組みなど、地球的な諸問題に人々が国境を越えて、かつてない共通の意識を高め連帯していることがあげられます。
 しかし一方で、経済の不安定化という好ましからぬ現象も起きています。世界経済の自由化の結果として、各国の企業が、賃金や地代、税金、労働力の高い地域から安い地域へ、政府の規制の厳しい国から緩やかな国へと移転することにより、従来の国内の産業は世界的規模の厳しい競争にさらされることになりました。
 二十一世紀においても最大の課題となるのは、今も先進国と発展途上国との間のギャップが拡大の一途をたどる、いわゆる南北問題だと思います。この問題は対話なくして理解しえませんし、ましてや解決は不可能です。
 池田 たしかに、企業が激しい生存競争を勝ちぬこうと、より利益のあがるほうへ、よりコストのかからないほうへと、国境を越えて移動していく現象は日本でも一九八〇年代以降きわだっています。
 そうしたなかで、先進国の間では国内経済の根幹をなす製造業が国外に進出してしまうという、産業の“空洞化現象”も起こっていますね。
 テヘラニアン ええ。こうした移転によって企業は収益をふやし、その結果、その増収を発展途上国に配分することにもなるのですが、他方で先進国は失業率が高まり、福祉制度を維持することが苦しくなってきています。
 このことが、ひいては外国からの移住者や発展途上国の人々に対する、民族的、宗教的、階級的な対立感情をあおり、外国人の排斥や孤立化をより助長してしまうのです。このように南北問題は国際的なだけでなく、国内の問題でもあるのです。
 現にヨーロッパ諸国ではグローバリゼーションとコンピューター化による企業の資金移動が進んだために、各国は徴税の根拠を失うだけでなく、失業率もEU(ヨーロッパ連合)内の平均で一〇パーセントを超えるまでに悪化しました。
 その結果、社会福祉事業への国家の予算配分が削減されるにつれて社会的な不安が強まり、ヨーロッパとアメリカに新たな右翼運動が台頭するなど、さまざまな政治的危機が生みだされているのです。
 また、一九九七年のアジア通貨危機をはじめとする一連の経済危機の背後には、「ヘッジファンド」と呼ばれる国際的な投機集団の存在が指摘されていますが、今や世界を瞬時に移動する巨額の“マネー”が、一国の基盤さえも揺るがす時代に入ってきました。こうした現象は、人類が初めて経験することです。
 池田 九八年八月のロシア金融危機に続き、九九年の年頭にはブラジルの金融危機が、世界に大きな衝撃をあたえました。一九二九年にニューヨークの株式大暴落が発端となって起きた世界的な「大恐慌」の再来を、危惧する声さえあったほどでした。
 かりに、そういった最悪の事態にまでいたらないにしても、経済的な危機が国内において大きな社会的不安や政治的危機をまねく引き金となることは、これまでの歴史が明確に示しているところです。
 テヘラニアン 「大恐慌」は多くの国々に混乱をもたらし、その政治を極端な方向へと走らせる結果をまねきました。共産主義やファシズムのような全体主義的な運動が台頭するきっかけとなったのです。
 現代人がこの過去の教訓をふまえ、かつての道を走りださないようにと私は念じるのですが、人々が絶望におちいったときは歴史の教訓が忘れ去られるスピードも速いのです。
3  「共生」への新たな経済システムをめざして
 池田 この点をどう克服し、人類が二度と同じ悲劇を繰り返さないためにはどうすればよいのか。
 『ゼロサム社会』の著者としても有名なアメリカの経済学者である、レスターサロー教授とも論じあいましたが、第一に、危機に直面すればするほど、勇気をもって変革を実行する真のリーダーシップが要請されます。
 第二に、やはり政治の暴走を許さない民衆の力を、強めていく以外にないのではないでしょうか。目覚めた民衆の力を結集していくことです。
 テヘラニアン 同感です。そして、現代の資本主義自体のもつ欠陥を厳しい目で見ていく必要がありますね。
 九九年に、スイスのダボスで「世界経済フォーラム」の年次総会が開催されました。総会のテーマは「責任ある地球化――グローバリゼーションの衝撃を管理しながら」でしたが、このテーマが象徴しているように、ルールのないグローバリゼーションはきわめて危険です。
 池田 サロー教授も、その点をたいへん憂慮していました。
 教授は、これまでも資本主義経済の「近視眼的」で「弱肉強食的」な傾向性を繰り返し指摘していますが、世界の市場に一定の規制がなければ、犠牲になるのはいまだ競争力のない国々であり庶民です。
 教授はまた、資本主義が今後も成功を収めていくには、「消費」のイデオロギーから「建設」のイデオロギーへの転換が必要であると訴えています。
 「だれかが得をすれば、だれかが損をする」という経済ではなく、人々がたがいに価値をあたえあい、さらなる価値創造へと進みゆく「共生」の経済システムを人類はめざすべきです。
 そのためには、その土台となる哲学や思想をあらためて問わなければなりません。
 テヘラニアン 貧困や飢えは二十一世紀の最大の課題ですが、現在の経済システムのままでも、社会の中でどう人間を生かすかという観点から発想を転換していけば、必ず解決できるのです。
 池田 冷徹なルールが支配する資本主義経済に、「心」という人間的な要素をどう取り入れるか。今、世界の識者は、その重要性に気づき始めたようです。
 「他人の不幸の上に自分の幸福を築く」という考え方は、あってはならないし、もはやナンセンスです。二十一世紀は、自分だけでなく他人も栄えさせる“自他ともの幸福”を追求していく社会が必要です。そのためには、他人の痛みを自分のものとして感じられる柔らかな心、他者のために尽くしていける心がなければなりません。
 この「開かれた精神」を世界で普遍化させていく必要があります。
4  ボーダーレス化のなかでの「地域統合」
 テヘラニアン ところで、急激に進展するグローバリズム(地球主義)の流れに対し、よい意味でのリージョナリズム(地域主義)、ナショナリズム(国家主義)、ローカリズム(地方主義)という潮流が、ある種の抵抗作用となって働くと、私は見ております。
 これらによって、民主主義が広まり、深まる方向へと寄与する可能性もあると思うからです。
 池田 とくに近年においては、リージョナリズムが注目されていますね。グローバリズムとリージョナリズムは、
 一見、相矛盾するようにも思えるのですが必ずしもそうではないでしょう。
 テヘラニアン ええ。両者は相互に刺激をあたえあい、それぞれが健全な発達をとげることを可能にします。
 地域共同体の存在によって域内の国々や都市は、急激なグローバリゼーションが引き起こすさまざまな弊害から守られることになるのです。
 またその一方で、域内の多様性を尊重しつつ平和的で民主的に結ばれた理想的な地域共同体が実現すれば、それはグローバルな市民社会の成立へ向けて、貴重なモデルケースとなるにちがいありません。
 池田 今、世界の各地で、さまざまな形の地域統合が進んでいますが、なかでも一九九九年一月からスタートしたヨーロッパの通貨統合は、人類史における壮大な実験として注目されます。その影響は経済のみならず、政治や文化の領域にまで広くおよんでいくと予想されています。
 テヘラニアン そうですね。これまでにも、多くの地域共同体が形成されてきました。
 ヨーロッパ諸国は第二次世界大戦後、アメリカの経済支配に対する自己防衛のために、まずEC(ヨーロッパ共同体)を形成し、のちにEU(ヨーロッパ連合)へと発展させました。
 ヨーロッパが経済的統合へ進むにつれ、アメリカはカナダとメキシコをふくむNAFTA(北米自由貿易協定)の形成を主導しました。
 他方、東南アジアと中南米の開発途上諸国も、経済的に連帯することの利益を認識しました。ASEAN(東南アジア諸国連合)は、EUに次いで地域的統合がもっとも成功している例になっています。
 中南米では、MERCOSUR(南米南部共同市場)が形成され、OAS(米州機構)が組織されています。
 その他、アフリカではOAU(アフリカ統一機構)、アラブ世界にはアラブ連盟というように、多くの国々が地域共同体に属するまでになっているのです。
 池田 そうした地域統合が推進されてきた背景には、さまざまな理由があります。
 たんに、資源のより効率的な配分や、域内の貿易自由化がもたらす利益、またインフラ(産業基盤となる社会資本)や制度のコストを分担できるなどの経済面でのメリット(利点)だけではありません。統合を進めることにより、人々が過去の反目を乗り越え、平和的な友好関係をよりスムーズに築くことが期待されているのです。
 テヘラニアン 私もそう思います。
 EUでは「不戦の制度化」が確立されつつあり、ASEANにおいても結成以来、ことによれば戦争になるおそれのあった地域紛争のいくつかが回避されました。
5  北東アジアに「平和的共同体」の創設を
 池田 多くの難問をかかえながらも、単一通貨「ユーロ」が実現した背景には、“通貨統合は欧州での戦争を不可能にする”との、人々の平和への強い意志と信念があったからだと言われています。
 これまで、ユーロ圏各国の政府は、通貨の発行権をはじめとする国家の重要な権限の一部を、欧州中央銀行や欧州委員会などに移譲してきました。その結果、国家の存在感は相対的に低下し、域内における
 国境の壁はしだいに低くなりつつあります。
 テヘラニアン 今、EUでは、そうした国家間のボーダーレス化と同時に、加盟国内における地方分権化が進んでいます。
 域内の共通の利益をもつ都市や地方、団体などが、国家という枠を超えて急速に結びつきを深めつつあるようです。
 池田 歴史を振り返ってみても、ほとんどの戦争は、国境を接する国同士、もしくは近隣諸国の間で行われてきました。
 各地の地域共同体が、域内における戦争を未然に防ぐ“歯止め”になっている現実を思うにつけ、いまだ地域統合が進んでいない地域――とりわけ、日本や中国、朝鮮半島(韓半島)などを含む北東アジアにおいて、地域共同体の形成が強く望まれるところです。
 私は九八年五月、韓国を訪問したさい、慶熙大学学園長の趙永植博士と会談しましたが、趙博士も「北東アジア共同体」の形成を訴えておられました。
 テヘラニアン たしかに、北東アジアにおける平和の確立は、国際社会の重要課題の一つであり、その取り組みは急務となっています。
 池田 趙博士は、こう述べられていました。
 「長い間、戦争ばかりしてきたヨーロッパにもEU(ヨーロッパ連合)ができたのに、なぜ北東アジアだけ、そのようなものがないのでしょうか。ヨーロッパは、すでに一つの国家となりつつあります。われわれ北東アジアにおいても、日本と韓国、そして中国を加えて、力を合わせて一つの共同体をつくらなければなりません」
 「考えてみてください。日本と韓国、そして中国が協力し、ここにアメリカがアジア太平洋の国として加わり、そしてロシアが加わって、そのような環境のなかで、だれが戦争を思い浮かべることができるでしょうか。そうなれば北韓(朝鮮民主主義人民共和国)も、『もう平和以外に道はない』という気持ちになるにちがいありません」――と。
 かねてより、北東アジアの平和について提言を続けてきた私も、同じ思いをいだいてきました。それで私たちは、二十一世紀へ向け、慶熙大学と創価大学の両大学がそれぞれの立場で協力しあい、努力していこうと約しあったのです。
6  中東問題解決のカギはどこにあるか
 池田 それにつけても、この(二〇〇〇年)六月、半世紀以上にもわたって分断状態に置かれてきた韓国と北朝鮮の最高首脳が膝を交えて会談したことに、歴史の大きな流れを感じたのは私だけではないと思います。
 テヘラニアン 画期的な会談でしたね。折にふれて、その最高首脳同士の会談の必要性を繰り返し主張されてきた池田会長としては感無量の思いをされたのではないですか。
 池田 ええ、まさに争いと対立でなく、対話の時代が間違いなく来ているとの確信をいよいよ強くしました。
 ともあれ、南も北も、そこに住む人々が平等に幸せになってほしいというのが私の希望です。もともと一つの民族なのですから。
 そこで、朝鮮半島(韓半島)とならんで、もう一つの国際政治の焦点である中東問題にもふれておきたいと思います。七月にアメリカの仲介で行われた中東和平をめぐるイスラエルとパレスチナとの間の対話です。博士はこの問題の専門家ですね。
 一方、日本人にとって中東は距離的に離れているだけでなく、心理的にも遠い国と言われています。この機会に、博士から基本的な見方をおうかがいしたい。
 テヘラニアン アラブイスラエル紛争の問題は、世界でもっとも複雑で悲惨なものであることは間違いありません。これには長い歴史があり、根本的解決にはまだ時間がかかるでしょう。
 この紛争は一般的に考えられているような、いわゆる宗教紛争ではありません。宗教的な過激主義が紛争を不必要に悪化させたのです。
 池田 なるほど。ということは別の見方をすれば、解決の糸口は困難だが見つかる。悲観的になるのではなく、より現実的なアプローチが今こそ必要だということですね。
 テヘラニアン まさにそのとおりです。そもそも元をたどれば、何世紀もの間、ユダヤ教徒とイスラム教徒とは西アジアでともに平和に暮らしていたのですから。事実、ユダヤ人はアッバース朝とオスマン帝国において、学者や管理職などの重要な地位をたもっていたのです。
 イスラム社会にあって、彼らは自治権をもつ一つの宗教グループとして守られていました。
 池田 そうした状況が一変したのがヒトラーの台頭ですね。
 テヘラニアン ええ、ヨーロッパにおけるユダヤ人移民がイギリスの指示によってパレスチナに避難するようになると、アラブ人は彼らの家や農場から追い出されてしまいました。
 初めは新しく到着したユダヤ人移民に定住地を与えるために、ユダヤの係官がアラブ人の地主から土地を買うことから始まりました。それまでは、アラブ人の土地の持ち主が変わっても、小作民はそのまま土地に残ることができたのですが、そのときからは出ていかなければならなくなったのです。
7  紛争を複雑化した大国のエゴ
 池田 そうなると両者の間の関係は一変しますね。共生の関係が一挙に緊張関係になる。えてして紛争というのは、こうして起こるものです。
 テヘラニアン 一九三〇年代から四〇年代の間、この移動がユダヤとアラブの地域社会の間の緊張を高めていったのです。双方ともナショナリズムが強まり、イギリスの植民地的束縛から逃れようと欲していました。
 一方、イギリスは戦争において両者の協力を得るために、ユダヤとアラブの双方に「祖国」を約束していたのです。
 池田 大国の国家エゴですね。問題はますます複雑化していった。
 テヘラニアン ええ、四七年、イギリスの引き揚げが差し迫り、国連はパレスチナをユダヤとアラブの二つの国家に分割することを票決しました。
 次の年、イスラエルは独立を宣言し、アラブは分割を拒否してイスラエルを攻撃しました。
 池田 四八年から四九年に行われた戦争ですね。続いて次の五〇年代、六〇年代、七〇年と四次におよぶ中東戦争の始まりです。多くの犠牲者が出たたいへんな戦争でした。この争いには私自身強い関心をもってきましたし、中東問題についてはアメリカのキッシンジャー国務長官(当時)ともいろいろ意見交換しました。
 この戦争により、結果的にイスラエルは西側の軍事的、政治的な援助を受けて、領土を拡大していきましたね。
 テヘラニアン その後、アラブとイスラエルの間の平和実現のプロセスは、エジプトのサダト大統領(当時)のイスラエル訪問で劇的に始まりました。
 七九年、イスラエルとエジプトはイスラエルのシナイ半島からの段階的な撤退を約束したキャンプデービッド合意と呼ばれる合意に署名しました。しかしながらいくつかの重要問題は、解決されないまま残りました。①イスラエルによるゴラン高原の併合問題、②イスラエルによるヨルダン川西岸の占領問題、③イスラエルによるエルサレムを首都とするとの一方的な宣言問題、④西岸におけるパレスチナ人とユダヤ人との衝突、⑤パレスチナ難民の帰還問題、⑥西岸におけるパレスチナの独立国家実現の有無の問題などです。
 池田 こうした問題を解決していくためのカギはどこにあると思いますか。
 テヘラニアン 問題は両者が一つの領土を、それぞれ自国のものと主張し続けることに帰着します。
 結局、これは正と悪との戦いではありません。正しい者と正しい者との戦いなのです。このポイントをはずしてはなりません。
 だからたがいに非を責めあうのをやめ、排他主義的国家観を捨てることです。
 池田 だからこそ、最高指導者が柔軟に、また創造的解決へ向けて勇気ある決断が必要ですね。過去に起きた悲劇を反省し、たがいに協力しあう姿勢こそが大事ではないでしょうか。協力しあうなかで、たがいに理解する土壌ができてくる。国と国といってもおたがい人間同士ですから。私はむしろ希望をもって現実的な楽観主義でいきたい。
8  国境越えた青年の交流に明るい希望
 テヘラニアン 同感です。私自身は正義にもとづいた解決法は、ユダヤ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒にとって共通の聖地としてのエルサレムの共同統治権の確立だと思います。同時に、双方の連邦的協力により、新しいパレスチナ国家にヨルダン川西岸を支配させることではないでしょうか。
 むろん、その詳細は経験豊かで賢明な調停者や仲裁者に任せるべきでしょう。平和こそが長い歴史のなかで今、必要とされているのです。ユダヤ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒が平和的に共存してきたという歴史の教訓に学ぶべきときです。
 池田 ぜひそうした平和的な共存の方向へ進んでほしい。これはまだ先の話ですが、二十一世紀の中東を考えたとき、そこに生きる青年たちの未来に期待したい。国を越えてアラブとイスラエルの青年たちが交流する姿を想像すると、明るい未来を感じます。そのためにこそ、教育交流を大きく進めてほしいものです。
 テヘラニアン 教育交流で道を開いていくことは、すばらしい構想だと思います。
 EU(ヨーロッパ連合)ではすでに、域内の多様な文化と言語を尊重しつつヨーロッパ市民としての一体感を育んでいくために、「ソクラテス計画」と呼ばれる大規模な学生の交流プログラムをはじめ、さまざまな試みが進められているようです。
 地域統合に話を戻すと、これは平和推進の側面だけではなく、別の面でも重要な可能性を秘めていると思います。つまり、地域統合は、経済や文化の世界的融合へ向かう“飛び石”になることも考えられるのです。
 池田 地域統合の成功が、世界的な連帯や民主化への着実な推進力となるということですね。
 テヘラニアン ええ。現在、NAFTA(北米自由貿易協定)、EU、日本、MERCOSUR(南米南部共同市場)の順で、大きなマーケットが形成されていますが、中国も、ここ二十年の間にアメリカと日本を追い越す経済の実績をすでにあげています。その発展が同じペースで続くなら――いや、少しペースが落ちても、中国は二十一世紀の前半には世界最大の経済国になる可能性をもっています。
 これらの地域ブロックや経済大国は、たんに共存するだけではなく、共栄への道を見いださねばならないのは明らかなことです。
 さもなければ、「象が争うと草が苦しむ」とアフリカの諺が言うように、大国間の争いは世界の中小国を苦しめる結果をまねくでしょう。
 池田 自由貿易の世界に向かうために、GATT(関税と貿易に関する一般協定)にもとづいて多角的協議を重ねる機構としてWTO(世界貿易機関)が、一九九五年にようやく発足しました。
 現在の国際経済における“弱肉強食”のルールや、一部の国々だけに有利となる制度を転換し、すべての国の尊厳を守る新しいレジーム(体制)を形成するためにWTOはどのような役割を果たすべきだと博士は思われますか。
9  多様性育む「開かれた地域主義」を
 テヘラニアン WTOは、富裕国と貧困国、大国と小国、成熟した企業と弱小の企業といった対立が、先鋭化に向かうのではなく、相互に助けあえるように、紛争解決機能を強化していく必要があると思います。普遍性や透明性、自由といった原則がこれまでの貿易の関係を形成してきたのです。
 ガンジーが述べたように、「この世界には、われらのすべてにとって十分なものがある。しかし一人の貪欲にとっては十分にはない」のです。
 大国であれ、小国であれ、すべての国の経済が成長し多様化する余地がなければなりません。統合されるべき世界市場は、なにも同質化された市場ではありません。統合イコール同質化ではないのです。
 統合は連帯のなかに多様性をたもちますが、同質化は画一性をめざします。多様性は生で、画一性は死です。
 地域別の集団化は産業の多様化とともに、比較優位の原則にもとづく「特異化」を奨励するものでなければなりません。グローバリゼーションの時代における貿易は、多様化と特異化が育まれ、ともに繁栄することを可能にする貿易であるべきなのです。
 WTOは、その確かな方向づけをしていくべきであると私は思うのです。
 池田 昨今、「メガコンペティション(大競争)」などといった言葉が声高に叫ばれ、その大号令のもとにすべてが一律に競争の波にさらされてしまっている感がありますが、このままでは波に乗りきれない国々や人々がふるい落とされ、世界における差別や疎外が恒常化されていく危険性があります。
 それがまた紛争やテロ、難民といった形で各国に“逆流”していく――そんな悪循環をまねきかねないのです。
 その意味で、多様化と特異化を大切にしながら、ともに繁栄する道を模索すべきであるとの博士の見解に、私もまったく賛成です。
 地域共同体も、こうした流れに沿って、域内域外を問わず、地域ぐるみで貿易の多様性を育んでいく方向性をめざしていくべきではないでしょうか。そのためにも、博士のおっしゃるように、WTOは「開かれた地域主義」を定義し促進する、より明確なガイドラインを提示する必要があるでしょう。
 テヘラニアン 「開かれた地域主義」という視点は、政治や文化の次元においても、これからの世界において、ますます重要性を増すと思います。
 池田 逆に地域共同体が、グループ外の地域に対して政治的あるいは経済的に閉鎖的な態度をとったり、「地域エゴ」をむき出しにして相互の摩擦や対立を先鋭化させてしまえば、それは歴史の危険な逆行となりますね。
 テヘラニアン ええ。地域共同体が排外的な“要塞”と化してしまえば、それは二十一世紀における世界の平和と安全に対する新たな脅威となるでしょう。ことに世界的不況がさらに深刻化し、諸国が集団的な軍事ブロックに組み入れられる場合にはなおさらです。
 「要塞化したヨーロッパ」対「要塞化したアメリカ」対「要塞化したアジア」という図式では、平和の展望を開くことは不可能です。
 池田 ゆえに、そうした「閉鎖性」や「排外性」をどう克服していくかが今後の課題であることは、論をまちません。
 地域統合へのエネルギーを、「分断」や「対立」という負の方向ではなく、「平和」と「共存」の世界秩序の構築へと生かしていくことができるかどうか――その成否が、二十一世紀の動向を決定する大きなカギとなるにちがいありません。
 ただ、これまで私たちが論じてきたように、結局、その主役となるのは政府の組織でも、経済市場でもなく「人間」自身です。ゆえに、民衆と民衆同士の「開かれた」対話と交流が底流になければ、いかなる試みもいつしか破綻してしまうでしょう。
10  真の自由と現実変革の力
 池田 さて、私たちの対談「二十一世紀への選択」の締めくくりとして、未来を切り開く「人間の力」について語りあいたいと思います。
 未来といっても、ひとりでにやってくるものではありません。新しい時代は、扉を開く人間がいてこそ始まるのです。「選択」とは、この未来を敢然と開く人間の意志の力を示した言葉と言えましょう。
 私がここで言う「選択」とは、“どちらかといえばA、どちらかといえばB”といったように、たんにあれかこれかと思い迷うようなものでは決してない。あくまで一人の人間の人格、全存在を賭けた抜き差しならない決断でなければならないと考えています。
 まさにガンジーが、“それ以外のものにはなりえないがために非暴力主義者となった”と語っていたのと同じように……。
 テヘラニアン 同感です。「選択」とは本来、それほど重いものであり、人間が未来に対してなしうる大いなる挑戦の異名なのです。
 そもそも私たちは、人生においてみずからが望むことをなそうとしても、厳密な意味で完全に自由ではない。人間の自由といっても限度があります。
 まず、自然や社会の環境という運命や業に束縛されています。また直接的にであれ間接的にであれ、一人一人を規定する体制(家族、学校、職場、経済、政治)、および、ある関係や活動のための忠誠心にも、人間の自由は束縛されています。
 選択はいわば、この束縛を自覚しながら自由を最大に行使していく意識的な決定過程のなかでのダイナミズム、と言えましょう。
 私たちの自由は何が必要かを理解したとき、もっとも大きくなります。
 逆説的にいえば、人間はその束縛を自覚しているときにこそ、自由を最大限に行使できるのです。
 池田 まことに含蓄の深い言葉です。
 人間が強い自覚をもって未来を選び取る、その精神的営為にこそ真の自由は脈動する、との博士の主張は仏法の視座にも通じます。
 「心の師とはなるとも心を師とせざれ」とは、釈尊の遺言の一つでありました。
 自由とは、決してむやみな放縦にあるのではない。自身の生命の奥底に刻みこまれている大いなる法にのっとることこそ本当の自由である、と仏法では説くのです。
 周囲の環境に左右されるのでもなく、自分の小さな欲望に翻弄されるのでもなく、運命にただ流されるのでもない――選択とは、博士のおっしゃるとおり、きわめて主体的かつ根源的な人間の行為と言えるでしょう。
 テヘラニアン 伝統的な社会というのは、運命論を信じがちです。その一方で、現代の社会は人間の自由を強調します。
 しかし現実には力の脅威や、人々が置かれている制度的状況、社会的背景というものが私たちの行動に影響をあたえる――つまり、一定の制約を課すことは明らかなのです。選択という行為が問われるのは、まさにそうした状況下においてなのです。
 池田 「選択」という言葉から思い起こされるのは、私のよき友人であった故ノーマンカズンズ氏の著作『人間の選択』にある一文です。
 「わたしがこれまでに学んだ、一番重要な教訓と言えば、新しい選択(オプション)を創造し、その選択を行う能力こそ、人間の独自性の主要な要素の一つであるということである」「わたしは、人間の能力が無限であること、人間に挑みかかるいかなる難事も、人間の理解力と解決能力を越えるものではないことを信じている」(松田銑訳、角川選書)
 なんと希望に満ちた言葉でしょうか。
 このカズンズ氏の思想を貫いている、よい意味での「楽観主義」は私のモットーとするところでもあります。
 テヘラニアン 私も究極的には愛や慈悲といった心の習慣こそが、人間関係や社会の中に浸透していくのではないかと信じています。
 あたかも、水が固い石質の地面にも、やがて浸透していくように――。
 池田 思うに、「人間変革」への強い志向性と、人間への絶対的な信頼に根ざした「楽観主義」、そしてこの二つを共通の精神土壌とした「文明間の対話」こそ、シニシズム(冷笑主義)が蔓延した現代の深い闇から、人類が抜けでる原動力となるのではないでしょうか。
 カズンズ氏はまた、「よりいい世界への出発点は、そういう世界が可能であるという確信である」(同前)と述べております。
 私たちがまず取り組むべきは、そうした楽観主義をもって、あるべき世界の姿、時代の方向性を見定めていくことでしょう。
11  「知性の悲観主義」と「意志の楽観主義」
 テヘラニアン 前にも語りあいましたが、かつてイタリアの思想家、アントニオグラムシは、「知性の悲観主義」と「意志の楽観主義」という“二重の挑戦”を人々に提唱しました。
 まさに難問中の難問ですが、その一つの方途を、池田会長はご自身の実践をもって示されているのではないか、と私は考えます。
 会長は、その著作の中でも決して安易な楽観主義には流されていません。つねに現実を直視し、批判的であり実際的です。
 とくに、「戦争と殺戮の世紀」であった二十世紀の負の遺産には、やや悲観的な見方をしていると評する人もおりましょう。
 他方、実践という面では、「暗闇を千回呪うよりも、一本の蝋燭を灯すほうがよい」という中国の諺の正しさを会長は実証してこられた。みずからの行動をもって、平和と文化と教育の灯を世界に一つ一つ灯してこられたのです。
 その会長とともに、「文明をめぐる対話」という特別の試みにこうして挑戦できたことは、私の最大の喜びです。
 池田 恐縮です。博士のお言葉は、私の過去に対する評価ではなく、私の今後の行動、未来へのあたたかな期待であるととらえていきたいと思います。
 二十五年ほど前、トインビー博士と語りあったときのことを私は思い出します。人類の歴史を千年単位で見つめていた博士は、こう言われました。
 「(遠い将来、二十世紀を振り返ったとき、)未来の歴史家たちが、われわれの時代について書くとしたら、何を書くか。民主主義や共産主義の結末には、ほとんど関心を示さないだろう。彼らが注目するのは『キリスト教と仏教とが、高い次元での相互理解と交流を実現したときに、いかなる事態が起きたか』ということであろう」と。
 これは、キリスト教と仏教との対話について言われたものですが、敷衍していうならば、今回私たち二人がめざした「文明間の対話」というものが、「地球一体化」という人類進歩の方向性にとって、もっとも必要とされる行動なのだということを、トインビー博士は強調されていたと思うのです。
 そして博士は、対談を終えたとき、私に対して、「これからも、このような対話を続けてください」と、「文明と文明を結ぶ対話」を託されたのでした。
 その「心」を継いで、私は世界の良識の方々との対話を続けてきたのです。私たちの対談も、地味であるかもしれません。しかし、必ずや新しい歴史を開く大いなる一歩となる、との強き確信をもっています。
 テヘラニアン 同感です。
 スーフィズム(イスラム神秘主義)では、人間精神の発展を“一つの旅”ととらえます。その意味では、「平和」も旅路です。終着点に、すぐには到達できません。その探求自体が重要なのです。
 世界では、いまだ紛争や対立が果てしなく続いています。しかし、あきらめずに前に進むことが大切なのです。
 池田 そうです。
 人間はみずからの運命をただ甘受するような、哀れで無力な存在では決してありません。それでは人間として敗北です。
 人間の生命には本来、限りない力がそなわっているのです。ゆえに、未来を築く主導権を断じて最後まで手放してはなりません。
12  「友情」は平和を広げるもっとも強い“絆”
 テヘラニアン ええ。人間の人間たる真の証は、まさにその一点にありますね。
 一九九二年、初めて会長とお会いしたとき、ここに私の精神と共鳴しあう同志がいる、と発見したことを懐かしく思い起こします。
 その翌日、私はその思いを「友情の贈りもの」と題する詩に託し、こう詠みました。
   初めて会った二人
   なれど 時間と空間を超え
   我らを分かつ言語も超え
   はやくも 議論できる友となった
   我ら二人は
   束縛なき絆を
   国家なき同盟を
   精神の王国で形成したのだ
   心の言葉は 口先の言葉よりも
   甘美にして 我らを引き裂かない
   そが もたらすは
   超越への 希求のなかで
   それぞれの
   時間と 空間と
   言語と 苦難の
   固定と脆弱を超えて
   二人を一体となす 歓び
 池田 ありがとうございます。博士の真心がひしひしと伝わってくる、すばらしい詩です。私どものこれまでの対話を、見事に集約しています。
 この世界には、人間と人間の絆を断ち切り、世界と世界を分断する力がつねに存在しています。しかし、乗り越えられない対立など絶対にないのです。
 人間精神に内在する「善」の力をもって、分断という「悪」の力と絶えず戦っていかねばならない。
 そのためにも、あらゆる差異を超える「人間性」の大地に立つ、強固な民衆の連帯を築きあげていかねばなりません。真の「対話」とは、そうした善なる民衆の連帯を形づくる“つむぎ糸”の役目を果たすものと言えましょう。
 「友情」こそ、人生にとってもっとも美しく、もっとも強い宝です。「友情」といっても、特別なものではありません。友を思いやる、言ったことは必ず守る、約束は違わず実行する――それが「友情」です。
 人間性の根本ともいうべき、この「友情」を広げることが、すなわち「平和」を広げることです。迂遠のようでも、それがもっとも確実で永遠に崩れない道となるのです。
 博士は、私にとって、同じ「平和の旅路」を歩みゆく大切な同志です。
   ともに進みましょう!
   永遠の平和という理想に向かって――。
   ともにめざしましょう!
   人類を結ぶ、新しき精神のシルクロードを――。

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