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第十章 世界市民の要件――「共同体」と…  

「21世紀への選択」マジッド・テヘラニアン(池田大作全集第108巻)

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1  「戦争の世紀」――二十世紀のもつ意味
 池田 イギリスの思想家アイザイアバーリンは、「人類が互いに容赦なく殺し合いを続けたという点では、二〇世紀に匹敵する世紀はない。これは今では、憂鬱な常識である」(『バーリン選集』4、福田歓一河合秀和田中治男松本礼二訳、岩波書店)と述べました。
 この彼の言を待つまでもなく、十九世紀までとは比較にならないほど、量的にも質的にも“極端化”した形で悲劇が繰り返されてきたのが二十世紀でした。
 テヘラニアン たしかに、二十世紀は、人類史上もっとも血なまぐさい世紀でした。それまでの世紀とは異なり、二十世紀は大量の人々の死が、最先端の科学技術と大量殺戮の武器を使って緻密にデザインされました。
 二度にわたる世界大戦をはじめ、朝鮮半島や湾岸地域などにおける紛争、またホロコーストやカンボジアの大虐殺等々――枚挙にいとまがありません。
 一九〇〇年以降、二百五十以上の戦争が起こり、約一億人の兵士と一億人の市民が命を落としました。
 軍人の犠牲者数だけを見ても、十八世紀は人口百万人につき毎年五十人の犠牲者が、また十九世紀には六十人の割合で犠牲者があったのですが、二十世紀はなんと人口百万につき四百六十人という数字が発表されています。
 はたして人類は、二十一世紀を平和な生活をいとなめる世紀に転換できるでしょうか。
 兵器の命中率と殺傷率の“進歩”だけが進むならば、さらに血なまぐさい世紀になるかもしれません。平和の実現を妨げるやっかいな問題は、まだ数多く残ったままなのですから。
 池田 不毛なイデオロギー対立からようやく抜けだした現在もなお、悲劇を生みだす「分断」のエネルギーの勢いは収まっていません。
 「民族」という言葉が現実から離れて独り歩きし、それが絶対的な偶像にまで祭りあげられてしまった結果、旧ユーゴスラビアやルワンダをはじめ世界各地で目をおおうばかりの惨劇が起こりました。
 残念ながら、三十年も前にバーリンが指摘した「憂鬱な常識」は決して過去のものではないのです。
 テヘラニアン 嘆かわしいことです。戦争だけでなく、飢餓や栄養失調、疫病などによって、何百万もの人々が世界から忘れ去られたまま、ゆっくりと死に追いやられている現実があります。
 こうした「構造的な暴力」の存在も含めると、二十世紀は先に私が申しましたように「デザインされた死の世紀」と名づけることができるのではないかと考えます。
 一方で、二十世紀は「科学技術が壮大に発展した世紀」でもあります。この面での発展の速度は、残念ながら人間の精神面での進歩を追い抜くものでした。湾岸戦争で明らかになったように、人類は想像を超えた「死」の技術や武器を開発してしまった。その進歩は、私たちの道義上の想像をはるかに超えているのです。
2  悲劇の歴史から教訓を学びとる
 池田 同感です。
 しかし一方で、明るいニュースもあります。
 世紀の変わり目を前に、長年の厳しい対立関係から脱却し、新たな一歩を踏みだそうとしている地域が出てきているのです。
 半世紀以上にもわたって分断状態に置かれてきた、韓国(大韓民国)、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の首脳会談が、この(二〇〇〇年)六月に初めて実現しました。
 朝鮮戦争の休戦(一九五三年七月)以来、閣僚レベルや首相同士の対話は断続的に行われてきましたが、南北双方の最高指導者が直接対話をする機会は絶えてなかった。それが今回、韓国の金大中大統領と北朝鮮の金正日総書記による歴史的な会談が平壌で実現し、「南北共同宣言」を合意するまでにいたった。
 南北首脳会談の実現は、私も十五年前から「平和提言」など、さまざまな機会を通じて何度も訴えてきただけに喜ばしいかぎりです。
 朝鮮半島(韓半島)の平和のためにも、北東アジアの安定のためにも、共同宣言に盛り込まれた金総書記のソウル訪問が早期に実現し、首脳間の直接対話が定着していくことを強く望むものです。
 テヘラニアン 本当に画期的な会談でした。
 池田 北東アジアにおける平和の実現は、二十一世紀の焦点です。長年、解決が困難とみられてきた、この地域が平和共存へ向けて大きく前進することができれば、紛争や対立に苦しむ他の地域にも平和への波動が広がっていくと私は考えるのです。
 「敵対」から「対話」へ、「対立」から「共存」へ――時代の方向性を確かなものにしていくためには、社会や人々の生き方を左右してきた価値観を根本的に見つめ直していく必要があります。
 その第一歩となるのが、悲劇の歴史を真摯に見つめ、そこから教訓を学びとる作業ではないでしょうか。
 テヘラニアン 私も、そう思います。
 「人間が学習する」という行為には、少なくとも三つのタイプ、①付加的学習、②反復的学習、③変革的学習、があると私は考えます。
 「付加的学習」の典型は、知識が加速的に蓄積される科学技術上の学習です。
 「反復的学習」は、世代から世代へ伝えられる道義上の学習です。これは新しい世代が、それぞれに悩み苦しむことによって学び直さねばなりません。しかしそれだけでは戦争が再発し、次の世代も同じ過ちを繰り返すおそれは残ってしまうのです。
 池田 「反復的学習」は、積み重ねられるものではない。ゆえに、それぞれの世代が自分自身の痛みや苦しみを通じて、自分自身の文化や社会の古い価値を再発見し、その時代と環境にあった形につくり直していかねばならないというわけですね。
 テヘラニアン ええ。これとは対照的に、「変革的学習」は過去の全世代が学んだことを総合し、融合することによって大跳躍をとげる精神的指導者のインスピレーションを通して、ときどきもたらされるものです。
 そうした道義上の大躍進は、科学技術の世界で言うところの「パラダイム転換」に値するほどのブレークスルー(突破口)の意義をもちます。そして、この大躍進はその後、数世紀の間、社会に影響をあたえ続け制度化されていくものなのです。
 ゾロアスターから釈尊、孔子、老子、アブラハム、モーセ、イエス、さらにはムハンマド、日蓮、ガンジーまで、私たち人類の偉大な師の思想は、そうした性質をもった教えと言えます。
3  人類の危機と精神の「枢軸時代」
 池田 その指導者の多くは、ドイツの哲学者カールヤスパースが言う「枢軸時代」――すなわち、紀元前八百年から紀元前二百年にいたる数世紀に集中して登場していますね。
 この時代には、インドでウパニシャッドの哲学が成立し、釈尊が誕生したのをはじめとして、中国でも孔子や老子など多くの思想家が登場しています。
 また、イランではゾロアスターが善と悪との闘争を説き、パレスチナではエリアからイザヤ、そして第二イザヤにいたる多くの預言者たちが出現しました。
 テヘラニアン おっしゃるとおりです。
 また当時、ギリシャにおいては、ホメロスの二大叙事詩が書かれ、ヘラクレイトス、ソクラテス、プラトン、アリストテレスといった哲学者や、アルキメデスなどの科学者も活躍しました。
 池田 ヤスパースは『歴史の起源と目標』の中で、「この時代に実現され、創造され、思惟されたものによって、人類は今日に至るまで生きている」(『ヤスパース選集』9、重田英世訳、理想社)とさえ述べています。
 私も、ほぼ時を同じくして“精神の巨人”たちが現れたことに深い理由を感ぜずにはいられません。なぜ、同時代にこれだけの人格が次々と生みだされたのか――。
 「人間が全体としての存在と、人間自身ならびに人間の限界を意識した」(同前)時代が要請したものではないかとヤスパースは論じています。時代の激動にともなう精神変革があればこそ、のちのちまで強い影響をあたえる思想や宗教が生みだされたと言えるでしょう。
 しかし、「第一の枢軸時代」の生みだした影響力はすでに失せ、時代は混迷の度を深めています。
 だからこそ私は、人類は今一度、精神面での深い変革をなしとげる挑戦を開始し、人間共和の地球社会を創出する確かな思想的基盤を真剣に模索せねばならないと強く感じるのです。
 テヘラニアン まったく同感です。
 その取り組みは急務となっています。
 池田 この困難をともなう模索を進めるにあたって、ハーバード大学のシセラボク博士が示唆的な発言を行っています。
 ボク博士は、“いかなる人々も価値観は共有できる”という前提に立つことが大切であり、「価値の探求についていえば、新しい価値観を探る必要はない。既に存在する価値観をどう再評価し、深めていくかが肝要である」と主張しています。
 また、「価値は実生活に活用されて初めて有用であることも強調しておきたい」と述べていますが、重要なポイントでしょう。
 こうした「普遍性」や「実際性」などの観点をふまえながら、さまざまな思想哲学の有用性を再検討することは、むだではないと思います。
 テヘラニアン その意味から現代の思想哲学を俯瞰してみると、主として三つのグループに分けることができるでしょう。
 一つは、人間の進歩を促進するには、現代の科学技術が人権と民主的参加の世界倫理を形成するための必要十分な基盤をあたえるだろうと、主張しているモダニストたちです。彼らは、宗教が提示する世界観は取るにたりないものであり、最悪の場合、人間の進歩にとって障害になると考えています。
 二つめは、宗教的であれ、世俗的であれ、目的史観の妥当性を否定するポストモダニストがいます。彼らはすべての目的論的な歴史哲学は、現実的にも潜在的にも意識的にも無意識的にも、支配と搾取を目的とする覇権主義的思想であると考えます。
 池田 こうしたポストモダニストのなかには、伝統的な宗教やイデオロギーの虚構を暴き、非神秘化を試みる懐疑的な精神をもった人たちがいますね。
4  「真理こそ神」――ガンジーの宗教観
 テヘラニアン ええ。そして第三には、現代世界の増大する複雑さに相応する倫理を発達させるために、在来の諸文明の伝統を適応させようとしている多種多様な宗教的世界観と世俗的世界観があります。これらのなかにも、原理主義者と神秘主義者、全体主義者と自由主義者、現実主義者と理想主義者が見られるのです。
 そこで私の立場ですが、私は自身をマハトマガンジーのような真理の探究者と見なしております。つまり、すでに真理を発見したというのではなく、つねに真理を実験するのが好きな人間なのです。
 真理は、それを得たと思ったとたんに失うものだと私は思っております。すでに得たと思えばそれ以上の探究はそこで終わってしまいますし、他の人たちとともに真理を求めて対話をしなければならないのに、それも停滞してしまうからです。ですから、私の考える真理とは「対話による真理の探究」なのです。
 池田 おっしゃる意味は、よく分かります。
 “神は真理であるというより、真理こそ神である”と主張し、セクト性を徹底して排したのがガンジーでした。
 彼は真理について、こう述べています。
 「真理に対する献身は、我々の存在を意義あらしめる唯一のよりどころです。我々の活動のすべては真理を中心とすべきです。真理は我々の生命の息吹そのものにならなければなりません」「真理をぬきにして、生のいかなる原理も規範も認識することはできません」(「私の宗教的実践の補助」保坂俊司訳、『私にとっての宗教』〈訳者代表竹内啓二〉所収、新評論社)と。
 また彼は真理を、「内なる声が語ること」であり、「万人の胸の内に存在するもの」であり、「活気づける力」であると位置づけました。
 彼のこうした「真理」に対する考え方は、すぐれて内発的であるとともに、実践的であったと思います。だからこそガンジーは、「一人に可能なことは、万人に可能である」と言いえたのだと私は考えるのです。
 テヘラニアン 同感です。彼の進めた非暴力の実践、その中核をなす「サティヤーグラハ(真理を求め、堅持すること)」の運動はすべて人間の善性を信じ、呼びかける「対話」を基盤としていました。
 ですから、“敵”と思われる存在に対しても彼は分けへだてなく人間的な心をもって接しました。彼は味方だけでなく敵にも、正しい道を発見し歩めるよう自身の内面を観るように求めたのです。
 当時、インドにいたイギリス人の多くも、彼の勇気と謙虚さに影響を受けずにはおれませんでした。こんなエピソードもあります。
 ――ガンジーを獄に投じたイギリス軍の司令官は、自分の長靴に穴があいているのを苦にしていました。そのことに気づいたガンジーは、獄中で苦労して長靴をつくり、「あなたのご多幸を祈る」との言葉を添え、その司令官に進呈します。感動した司令官は、生涯その靴を自分の部屋に誇りをもって展示し、それをイギリスとインド両国の友好の証としたのです。
 私たちが今、世界に広めていかねばならないのは、セクト性にとらわれない広い意味での宗教的人道的な精神ではないでしょうか。
 池田 ガンジーはみずからの宗教観について、「宗教とは、宗派主義を意味しない。宇宙の秩序正しい道徳的支配への信仰を意味する」(「私にとっての宗教」浦田広朗訳、前掲書所収)と述べています。
 また、その宗教とは「人の性質そのものを変えるものであり、人を内なる真理にしっかりと結びつけるものであり、人を常に清めるものである。それは、人間性の不変的要素である」(同前)とも述べています。
 この開かれた精神性、宗教性こそが、現代社会に求められているのです。
 テヘラニアン 私も、ガンジーの信念の根底に、会長の言う宗教的普遍性があったがゆえに、彼の掲げる非暴力運動が、時代や場所を超えて有効性をもちえたのだと思います。
 ガンジーの理念と方法は、アメリカでは公民権運動、南アフリカでは反アパルトヘイト闘争、東欧では共産党独裁の打倒に応用され、パレスチナやアイルランドにも採り入れられましたが、成功の度合いに違いこそあれ、いずこでも有効だったのです。
 私が思うに、ガンジーの成功のカギは宗教を「個人的な救済への道」とするだけでなく、「平和と正義を実現する社会的な行動への道」と、とらえていたことにあったのではないでしょうか。
5  現代に要請される「開かれた宗教」
 池田 つまり、宗教をたんなる内面的私事に限定することなく、現実社会の中での人間の生き方そのものを深い次元で規定していくものと、彼が考えたということですね。
 この点、ガンジーは、「私は、人間の活動から遊離した宗教というものを知らない。宗教は他のすべての活動に道義的な基礎を提供するものである。その基礎を欠くならば、人生は『意味のない騒音と怒気』の迷宮に変わってしまうだろう」(Kクリパラーニー編『抵抗するな屈服するな――ガンジー語録』古賀勝郎訳、朝日新聞社)と述べています。
 こうした彼の宗教観は、宗教と生活を不可分のものとし、宗教を人間の諸活動の源泉と考える大乗仏教のあり方と符合するものと私には感じられます。
 テヘラニアン 大切なのは「行動」に結びつくかどうかなのです。
 ガンジーの唱えた「非暴力」にしても、その思想自体はさまざまな宗教に見受けられます。
 ヒンドゥー教と仏教では「不殺生」がもっとも重要な戒律となっていますし、イスラムでは「神の名の下に慈悲の心深き者」というのが、『コーラン』の各章の冒頭の言葉となっています。
 イスラム教では、「ジハード」という言葉が、時には「聖戦」を意味すると解釈されてきましたが、この言葉と預言者ムハンマドによる実践を細心に吟味しますと、イスラムで武力に訴える行為は自衛の場合にのみ許されることが分かるはずです。武力に訴えるのは“外的なジハード”であって、“内的なジハード”は、それとは比較にならないほどむずかしいとされています。
 これは貪欲や排他、悪の心を取り除き精神を浄化することです。スーフィーではこれを「ジハードイーアクバル」――つまり「さらに偉大なるジハード」と呼んでいます。
 池田 同じくキリスト教でも、イエス自身が、「剣をとる者はみな、剣で滅びる」(『新約聖書』、日本聖書協会)とペテロに諭し、非暴力を説いていますね。
 テヘラニアン そのとおりです。
 したがって多くの宗教では暴力が非難され、愛と慈悲が主張されており、実際にこれまでの歴史のなかで、排他的精神と暴力が宗教的根拠によって禁じられてきた時代をいくつか指摘することができます。
 しかし残念なことに、それらは例外的な部類であり、それゆえ「教理は崇高であるけれども、実践者はそれほどに崇高ではない」という逆説にも私たちは当面しているのです。
 そのため現代に入って、さまざまな形をとる世俗的ヒューマニズムが次々と現れるようになりました。なかでも、マルクス主義は宗教的決定論の代わりに歴史的必然を強調し、実存主義とポスト・モダニズムは自由を根本とする徹底的立場を選んでいます。
 こうした思想は、一部の宗教的伝統が失ったものを「人間の自由」の名によって回復させようと試みたものだったとも言えます。
 池田 「人間の自由」といえば、キルケゴールの実存思想などに影響を受けた、サルトルが有名な言葉を残していますね。
 テヘラニアン 人間は「自由であることを宣告されている」との言葉ですね。第二次大戦前後の荒涼とした時代に著述活動をしていたサルトルは、すべての存在に意味を認めず、無意味な世界で人間は孤独であるけれども、自由と責任のある生を生きなければならないと主張しました。
 それ以前にニーチェが宣言したように、「神は死んだ」世界では人間は自分のみならず他者のためにも、選択をしなければならないという重大な責任を負っているのだ、と。
 つまり、一つの選択をするにあたっては、つねにその選択に含まれる倫理実践上の意味を考慮するとともに、自身の行為が他者に採り入れられる場合の結果をつねに想定しなければならないというのです。
 池田 そこにある種の「他者への眼差し」が生まれる契機もある、というわけですね。
 テヘラニアン ええ。このように定義される世俗的ヒューマニズムならば、それは必ずしも宗教的伝統のヒューマニズムと矛盾するものではないでしょう。しかし人間の生き方という面から考えるならば、キルケゴールやパウルティリッヒがいみじくも指摘したように、人間は世俗的ヒューマニストや実存主義者であるよりも、宗教者たりうる存在と言えます。私は、この人間の生き方を深い部分で規定していく宗教的精神こそ、SGI(創価学会インタナショナル)に脈打つ大乗仏教や、スーフィーの教えの根本をなすものではないかと解しております。そこでは、かたくなな教条(ドグマ)や権威的指導者の教説に盲従するのではなく、みずからが主体的に意識的に倫理上のことを決定し、その結果に責任をとるように求められます。
 つまり、こうした教えの前提には、すべての人間には利己心を超え、普遍的な善をめざす潜在能力があるとの思想があるのです。
6  人間のための宗教への転換
 池田 おっしゃるように、「法に依って人に依らざれ」が仏法の根本精神です。
 ここでいう「法」とは、大宇宙を貫く永遠不変の法則であり、かつ人間生命から湧き出る内なる規律でもある。ゆえに、科学や道徳とも矛盾するものではないし、つねに「民衆のなかへ」「生活のなかへ」「社会のなかへ」と、生き生きと行動を展開しゆく源泉となるものです。
 テヘラニアン その考え方は、スーフィーでいう「タリーカ(道)」に通じるものがあります。
 スーフィーの教えでは、神は自身に内在すると説きますから、ドグマよりも善の仕事、宗教的義務の外面的な遵守よりも、「道」にのっとった人生の追求を強調するのです。
 池田 分かります。大切なのは実践です。宗教的真理を、いかに自身の生き方として顕現させるかが重要となるのです。
 「法」を根本とし「道理」にのっとって進む。それも他律的や外在的にそうした方向に導かれるのではなくして、あくまで能動的、内発的にみずから進んで行う生き方であらねばならない。そのためには、きわめて強い自己規律の力をやしなうことが求められるのです。
 その峻厳な実践を貫いてこそ、「狂信」「閉鎖」「権威」など宗教のもつ宿命的弊害を乗り越えることができるのではないでしょうか。また、博士が先ほど難じられていた、「教理は崇高であるけれども、実践者はそれほどに崇高ではない」という逆説を乗り越える道もここにあると、私は確信します。
 創価学会の牧口初代会長は、従来の人間を抑圧する権威主義的な宗教観を転換し、「人間のための宗教」を取り戻そうと立ち上がった方でした。
 牧口会長はその不動の信念のもと、人間を手段化して恥じない宗教的権威と戦い、獄死しました。そのあとを継ぐ私どもも、まったく同じ精神で戦っています。
 テヘラニアン 創価学会の歴代会長の崇高な闘争はよく存じあげています。
 「宗教のための人間」ではなく、「人間のための宗教への転換」――この宗教観の変革こそ、最重要の課題と言えましょう。
 池田 そこで肝要となるのが、先に博士が指摘されたように、人間生命に具わる「利己心を超え、普遍的な善をめざす潜在能力」をいかに顕現させていくかという点です。
 仏典には、「鏡に向つて礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり」という美しい譬えがあります。これは、他者の生命への尊敬がそのまま鏡のごとく、自身の生命を荘厳していくという法理を示したものです。
 つまり、すべての生命に対して、自分と別ものではなく、そこに自他に共通する生命を見いだす「自他不二の礼拝」の実践を貫くことによって、利己的な生き方からの脱却がうながされていく。
 また、「喜とは自他共に喜ぶ事なり」とあるように、その実践を積み重ねるなかで、「他人の不幸の上には、自分の幸福は築かない」という価値観が社会に育まれていくと説くのです。
 思うに、現代社会が混迷を深めている最大の要因は、人間と人間を結ぶ理念が失われたことにあるのではないでしょうか。
 社会に蔓延する自分中心のエゴイズムが、あらゆる形をとって「分断」のエネルギーとなり、いらざる対立や紛争を世界各地でまねいている気がしてならないのです。
7  深刻化する「民族問題」の根にあるもの
 池田 ここで、現在、人類が直面している課題の一つとして、深刻化する民族問題について考えてみたいと思います。
 植民地支配など多くの犠牲をはらいながら、ようやく人類は「文化相対主義」という地点までにはたどりつくことができました。しかし、一見、価値中立的に見えるこの概念も、何ら人間の積極的な意志がともなうものではないために、人々の関係を絶えず不安定な状態に置いてしまいかねません。
 そこには、文化の違いがいつでもナショナリズムやエスノセントリズム(自民族中心主義)に転化する危険性があり、共存社会の破壊や非人間的抑圧へと容易に結びつく可能性が残るからです。
 昨日までの隣人が翌日には殺しあいの相手となってしまう悲劇は、繰り返しますがルワンダや旧ユーゴスラビアのように現実に起こっているのです。
 テヘラニアン 歴史的に見れば、それぞれの社会が、独自の方法で民族、宗教、文化の多様さに対処してきました。その政策はもっとも非人道的なものからもっとも人道的なものまで、つまり「消滅」から「排除」「差別」「同化」「混合」「融合」におよんでいます。
 そのなかでもっとも残酷な方法は、ナチスドイツの「ホロコースト(ユダヤ人の大量虐殺)」や、旧ユーゴなどで見られる「エスニッククレンジング(民族浄化)」といった、他民族の存在を消滅させることでした。残念ながら人間の歴史に満ちているのは、程度の差こそあれ、国家のつごうに合うように人々のアイデンティティーを特定の鋳型にはめようとしてきた文化政策なのです。
 文化は、その多様性によって人間精神を豊かにする力をもつ一方で、人間の絆を分断する「差異」として働く面をあわせもっています。ですから、「対立」ではなく「調和」へ向かう文化の傾向を強めることによって、私たちは平和を鼓舞し暴力を否定する社会を築くことができるはずなのです。
 池田 本来は人間を豊かにするはずの「文化」が、人間の絆を分断する働きをもつという矛盾は、異なる文化に属する人々を排除し、かつ排他的な行動を正当化させる「文化の絶対化」に原因があります。
 「人種」や「民族」といった要素で人間を分類するとき、同じ「人間」としての感情は立ち消え、相手の気持ちへの想像力が働かなくなってしまう。そんな人々の心の深層に巣食う病理を、精神分析の創始者のフロイトは“わずかな相違によるナルシシズム(自己陶酔)”と呼びました。人々がこの小さな“差異”に引きずられるかぎり、対立がつねに再生産される悪循環から抜けだすことは容易ではありません。
 あらゆる人々が自由と幸福を享受する権利が尊重される「人間共和の世界」を築くには、十七世紀の政治思想家ホッブズが理想とした「法治国家」の確立だけでは十分ではありませんでした。そのことを、はからずも証明したのが昨今の国際状況だったと言えましょう。
8  「戦争の文化」を「平和の文化」に転換を
 テヘラニアン おっしゃるように、ホッブズは「万人の万人に対する闘争」という世界観にもとづき、平和と社会秩序を安全に守るためには性悪な人間の傾向を禁ずる権力をもつ政府、強力な中央集権制の政府が必要であるとの考えにいたりました。
 つまり、自然状態における人間の主権を国家の主権にゆだねることによって、国家は法への服従を求める代わりに万人に安全を保障するというのが、ホッブズの説だったのです。以来、この「服従契約」としての社会契約説は、すべての人間社会の安全と幸福の必須条件であると見なされてきました。
 しかし、こうして成立した近代国家が行使してきた、いわゆる正義の戦争や正当化された暴力は、問題を解決するどころか、しばしば悪化させてきたのが事実です。
 この点を考えると、制度的な面からいえば、権力の暴走を止める民主的な体制を築いていくことが重要です。さらには、「戦争の文化」ではなく「平和の文化」へと時代を転換させるための、人間の精神的変革が強く求められると言えましょう。
 池田 私は、人々に幸福をもたらす源泉は民族や人種間の融和に求められこそすれ、決して分断からは生まれないと思います。
 現在、「アイデンティティーの空白」という心の不安を感じて、集団への帰属意識を強めていく傾向が強まっていますが、そこで心のよすがとなる「民族意識」も、ともすれば近代の歴史を通じてなかば意図的につくられてきた“虚構”にすぎないものも多いのではないでしょうか。
 この古くて新しい民族問題の本質を、インドの詩聖タゴールは、その著『人間の宗教』の中で見事に言いあてています。
 いわく、「どの時代の偉大な予言者たちも、普遍的な人間の精神の類似性を意識することで、彼らのうちに魂のほんとうの自由を実感していた。それにもかかわらず、各民族は、外的な地理的条件のために、それぞれに孤立するなかで、いまわしい自己本位な考え方をつのらせてきた」(森本達雄訳、『タゴール著作集』7所収、第三文明社)と。
 テヘラニアン まったく、この二十世紀というのは偽りに満ちた部族主義、民族主義、国家主義といった、分断のエネルギーに蹂躙されてきた時代と言えます。
 多くの戦争は、つくられた“虚構”に人々が引きずられる形で起こってきました。それぞれの陣営が、自分たちの勢力拡張の正当性を喧伝する隠れ蓑として「民族主義」を利用してきた傾向はいなめないのです。とくに、マスメディアが発達した今日では、自分たちの陣営だけでなく、世界中のテレビ視聴者を意識して、大向こうを張り、演技をする政治指導者は跡を絶ちません。
 また、マスメディア自身も、紛争や対立を「彼ら」対「我ら」という形で二分し、ドラマに仕立てあげ、敵側を「鬼畜」のごとく報道します。
 それにつれて、「イスラムのテロリスト」「悪魔のようなアメリカ人」「ずるい日本人」「悪い中国人」「野蛮なアフリカ人」という具象化したイメージが多くの視聴者の心に浸透するなかで、それが次の暴力を正当化する悪循環の種となってしまうのです。
9  現代のアイデンティティーの危機の特徴
 池田 まことにゆゆしき問題です。こうしたステレオタイプ的なイメージというのは、いったん定着してしまうと容易にぬぐい去ることはできず、ささいな対立が紛争へと発火してしまう要因となりかねないものです。
 この民族や人種対立がはらむ危険性について、タゴールはまた次のように警告しています。
 「今日われわれが直面している大きな人種問題は、やがてわれわれにたんなる上部の処方を求めることをやめさせ、精神的な適応性を身につけざるをえないところへとわれわれを駈りたてることだろう。そうしないと、そこから生じるさまざまな紛糾の種によって、われわれのいっさいの動きがとれなくなり、われわれを死に追いやることになるだろう」(同前)と。
 この警句を彼が発してから半世紀以上がたちますが、悲劇や愚行がいっこうにやまない状況を思うにつけ、危機はさらに深まっていると言わざるをえません。
 テヘラニアン その意味で、私たちだれもが、「自分は何者であるのか」「何に忠誠を尽くすべきか」という問題に関して偏狭であり続けるか、それとも視野を広げ世界の全体を包含していく道を選ぶのか――真剣に考えねばならない時代を迎えていると言えましょう。
 ただし、世界のボーダーレス化がこれだけ進み、相互依存関係が深まっているだけに、その選択が個々人のまったく自由にはならないことに留意する必要があります。つまり過去の時代、人々が生まれ育ち、生活をいとなみ、そして死ぬ場所が、同じ小さな村や町であった伝統的な社会では、それほど問題は深刻でなかったのです。
 ところが、現代の世界では物理的、社会的、心理的な可動性が加速度的に増大しています。大多数の人々はもはや生まれ育った場所には住んでいません。生まれ育った場所に住んでいる人々でさえ、今は旅行や仕事、あるいはメディアを通して他の社会と文化にふれあう時代なのです。
 池田 そこに、現代の「アイデンティティーの危機」の特徴がありますね。
 テヘラニアン ええ。こういう時代における自己のアイデンティティーは、他の文化と社会に出合うなかで決め直さなければならないものだと私は考えます。
 もっと平和な世界に住みたいと考えるならば、他の人々が属する共同体も、そのアイデンティティーも、忠誠を尽くすべき対象も多様であることを認めることが必要です。
 対話を通し、たがいの存在を深く理解しあうなかで、自己のアイデンティティーを排他的なものではなく、包括的で開放的なものへと広げていくべきではないでしょうか。
 時間と空間を超えて、私たちは精神の世界にも住んでいます。私たちは縛られた自分自身を超えて宇宙生命に溶け込めたら幸せでしょう。すべての偉大な人々や偉大な芸術は、それと同じ特質を分かちあいます。
10  「郷土民」「国民」「世界民」の三つの自覚
 池田 この点、牧口初代会長は『人生地理学』(一九〇三年刊)の中で、一人の人間が身近な地域に根ざした「郷土民」であり、同時に国家に属する「国民」であり、世界を人生の舞台とする「世界民」であるべきと主張し、この三つの自覚をあわせもつことが重要であると強調しました。
 すなわち、国家悪に流されない確固たる足場を「郷土」と「世界」の両方に見いだすことによって、地域にあっても、国際社会にあっても「良き隣人」「良き市民」として相互理解を深め、共存共栄していくべきであると訴えていた。
 「郷土」から「世界」を見て、また「世界」から「郷土」を見る――この往還で視野を広く高くもて、としたのです。
 テヘラニアン じつにすばらしい。その考え方は、近年、提唱されている「地球市民社会」にも通じる先見ですね。
 アイデンティティーを一つに限定せず、多層化させることで、地域にも世界にも開かれていることが重要なポイントだと思います。
 池田 博士が指摘されたように、相互依存化が加速度的に進むなかで、個々人においても、自分を超えて人類全体とかかわっていることを自覚した生き方が求められています。
 しかし、一足飛びにコスモポリタン(世界市民)的生き方をめざしても、それだけでは“根無し草”的な弱さがぬぐいきれない面もあります。
 フランスの思想家シモーヌヴェイユは、「根をもつこと」の重要性を主張しましたが、自身のアイデンティティーのうえに、世界市民という「開かれた心」を失わないことが肝要なのではないでしょうか。
 その国や地域の「よき市民」であることは、必ずしも「世界市民」であることと矛盾するものではないし、むしろ矛盾しない時代状況を創りだしていかねばならないと私は考えます。
 「郷土民」「国民」「世界市民」といったアイデンティティーは決して排他的な関係にあるのではなく、いずれかを選択しなければならないものでもないはずです。
 テヘラニアン 同感です。
 ガンジーやキング博士をはじめとする偉人たちの生涯を見ても、その正しさは証明されると思います。
 私が敬愛する黒沢明監督のすばらしい映画のなかに、私たちは地域性と地球規模のユニークな合成を見ます。
 ペルシャの詩人ハーフィズの詩の中でも、個性的であると同時に普遍的なイメージが謳われています。
11  “狂気の時代”に自己を見失わない生き方
 池田 世界市民の要件というものを掘り下げて考えるとき、私は哲学者ヤスパースのエピソードを思い起こします。
 彼の哲学的著作は、弟子であったアーレントが指摘しているように、すべて「世界市民への意図」から構想されたものでした。
 「全地球的規模での責任」という耐えがたい重荷に対する人々の共通の反応が、政治的無関心や孤立的ナショナリズムであったり、あらゆる権力に対する絶望的な反抗になったとしても驚くにあたらない、とアーレントは言います。
 しかし、ヤスパースはこうした政治的精神的現実の背景をどの哲学者よりも知悉していたにもかかわらず、「世界市民への意図」にもとづいてみずからの哲学を築きあげていったというのです。
 テヘラニアン アーレントが、地球的な問題に対する一般の人々の傾向として難じている点は、私もよく分かります。
 池田 私が紹介したいヤスパースの第二次大戦中のエピソードとは、そんな彼の真骨頂を物語るものです。
 「戦時中、多くの人々が無批判にヒトラーの権力の前に屈し、ドイツ人の魂を売り渡した時、(=ユダヤ人である)彼の妻ゲルトルートがドイツを愛しながらもドイツを厳しく非難した。しかしそのたびごとにヤスパースは、『私がドイツだと思いなさい』と答えていた」(寺脇丕信『ヤスパースの実存と政治思想』北樹出版)と。
 ユダヤ人を妻にもつという理由で公の活動の自由を奪われたヤスパースでしたが、彼は自身が“ファシズムに蹂躙されたドイツ”ではなく“本来のドイツ”を体現する「よき模範」として生きようと心に定め、狂気が吹き荒れる時代にあっても、自己を決して見失わなかったのです。
 私は、そんなヤスパースの姿に、時代が求める世界市民の要件を見る思いがします。
12  地球化時代に対応し新しい世代を育成
 池田 ところで博士は、こうした「開かれた心」をもった世界市民を育てるために、国連大学が提唱している「グローバルラーニング(地球的学習)」の必要性を強調されていますね。
 テヘラニアン そのとおりです。「グローバルラーニング」とは、世界が「地球村」となってしまったこの時代に、それに適応した地球規模の視野が求められているということを示唆するために、国連大学が用いている概念です。私の良き友人でもあった故エディプロマンが国連大学副学長だったときに、そのプログラムが始まったのです。
 国籍や人種、年齢に関係なく、すべての人々が取り組むべきものと言えるでしょう。
 人々は、グローバル化の進む世界に住んでいるにもかかわらず、その受ける教育はおおかたのところ国家によって形成され、その領土と文化の域内で管理されています。ですから、眼前に急速に展開しつつある世界の現状に対して、多くの人々が十分な対処ができる用意ができていないのです。
 政治家たちは今なお、国家の安全保障についても核保有政策に象徴される時代遅れの観念にもとづいて行動しています。核兵器が使用された場合、そのあたえる影響が国境を選ばないにもかかわらず、です。
 また教育者たちも、世界を「我ら」対「彼ら」に分断する偏狭な愛国心を青年たちに教えこみたがります。そして、大半のジャーナリストたちは、自分たちと異なる世界を「怪奇な」「野蛮な」「非文明的な」ところだとして画一化する一方で、視聴率や購読率が得られる国外の出来事しか伝えないのです。
 池田 世界はグローバル化しているのに、人々に影響をもたらす国内の政治や教育、マスコミの意識がグローバル化していない――このギャップこそが問題ということですね。
 テヘラニアン ええ。そこで、地球化時代に対応していくもっとも有効な方法は、若い人たちに注目することだと私は考えます。
 「古い文化の形態が死にゆく時、新しい文化を創造するのは、不確かであることを恐れない一握りの人々である」と、ルドルフバーロは言いました。
 私なりに表現すれば、“信じ、疑い、そして学ぶことを恐れない人々が、新しい時代を開くことができる”と言えましょう。これらの要素はすべて、青年たちが持っている特質とも言えるのではないでしょうか。
 ですからグローバルな視野に立った「教育」で、人種や肌の色、信条とは関係なく、すべての生命、人間のすべての尊厳性を深く尊重する新しい世代を育てることが重要となってくるでしょう。
 私の経験からも、それは断言できます。
 池田 具体的に、どのような経験をされたのですか。
 テヘラニアン 一九五五年、私が高校生のころでした。「ニューヨークヘラルドトリビューン」紙が主催する公開討論会「青年の広場」に出席できることになったのです。
 それは、小論文のコンテストによって選ばれた高校生が、世界三十五カ国から参加して行われたフォーラムでした。
 そのとき、参加者全員がアメリカの有志の方々の家にホームステイしながら、同年齢の若者たちのいる高校を訪れ、自国の事情や文化について話すために約三カ月間、アメリカに滞在したのです。
 その間、国連やその他の所で催される会議に参加し、世界の問題や平和への展望を討論しあいました。
 その体験は、私の心に忘れがたい刻印を残し、以来、私は「世界市民」の道を歩むことになったのです。
 この短期間のうちに、ユダヤ教、プロテスタント、カトリック、黒人といったさまざまなアメリカ人の家族と暮らしながら、各地の高校に通い、アメリカ文化の速習コースを受講したわけです。それと同時に、インド人対パキスタン人、アラブ人対イスラエル人、南アフリカ人対黒人の紛争についても、直接的な教育を受けたような感じがします。
13  次代担う青年に「平和教育」を
 池田 それは、じつに得がたい経験でしたね。若いころに、さまざまな人に直接ふれ話しあうことは視野を大きく広げるものです。
 その意味からも、次代を担う青年が、世界に開かれた心をもって、平和建設に挺身する勇気と知性をやしなっていける環境づくりをさらに進めることが重要ですね。SGIが世界各国の青年の支援を進めているのも、この意図からです。
 平和学者のガルトゥング博士も、「平和への献身的情熱」と「平和のための知性」の両方を兼ね備えた人材の重要性を訴えておられました。
 博士には、「人類の平和を守るフォートレス(要塞)たれ」を建学の精神に掲げる創価大学で、平和構築に貢献できる人材専門家を養成したいとの、私の願いを快く受け入れてくださり、短期間ではありますが、特別講義を行っていただいたことがあります。
 「ピースリサーチャー(平和のための研究者)ではなく、ピースワーカー(平和のための行動者)に育て」との博士の思いが、講義から伝わってきたと学生たちが感動の面持ちで語っていました。
 テヘラニアン 崇高な理念を掲げる創価大学から、陸続と「ピースワーカー」が育っていくことを私も念願しています。
 戸田平和研究所においても、将来的には次代を担う青年たちを対象にした「平和教育」に力を入れていきたいと考えています。
 私は、これを「青年のためのグローバルラーニングとリーダーシップフォーラム」と名づけていますが、私が若いときに経験したような形で世界各地から青年たちを募り、交流や意見交換を幅広く行うことのできるフォーラムを定期的に開催できれば、と考えています。
 また、できるだけ多くの世界の青年たちに意見の発表の場を提供するために、毎年、場所を変えて開催することも有益かと考えます。
 池田 ガルトゥング博士も、「現在、平和学は、これまでの知識構築という焦点(平和研究)から技術面の焦点(平和訓練)へと進展しつつある」との見通しを語っておられました。
 その意味で、戸田平和研究所が、世界の青年たちのために「平和教育」を推進することの意義は大きいと思います。
 青年こそ、未来の希望であり、未来を開く力です。だからこそ私も、その育成に最大の力をそそいできました。
 青年たちが世界の人々とふれあい、対話を重ね、社会のために行動することによって自身を鍛えていく。そして、自分だけでなく一人でも多くの人の心に「平和の炎」を灯し、燃えあがらせていくことが人類を混迷の闇から救いだす「希望の光明」になっていくと、私は確信しています。

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