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第九章 人間の安全保障――核兵器のない…  

「21世紀への選択」マジッド・テヘラニアン(池田大作全集第108巻)

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2  平和のために具体的提案と行動を
 テヘラニアン ええ。所長就任以来、戸田平和研究所は、東京、ケンブリッジ(アメリカ)、ホノルル(同)、広島、ヨーク(イギリス)、テヘラン(イラン)、ブリスベーン(オーストラリア)、トロント(カナダ)など各地で諮問会合を開催しました。
 この一連の会議を通じながら、世界のすべての大陸から二百人余の学識者らの協力をあおぎ、戸田平和研究所の国際諮問委員会への参加を求めたのです。そして、この国際諮問委員会の協力メンバーをインターネットで結び、電子メールを通じた意見交換も行っています。これが現在にいたる継続的な討議と諮問の場となっているのです。
 国際諮問委員会はその後も規模を拡大し、今や学者だけにとどまらず、政府機関、実業界、市民の多くのレベルからなる地球市民のネットワークを形成しつつあります。
 池田 すばらしいことです。いずれにしても、平和研究は大きな転換期を迎えていることは間違いありません。
 冷戦下の時代では、世界の破滅をまねきかねない核戦争を回避し、どう緊張を緩和させていくかに研究の眼目が置かれてきました。
 こうした平和研究の成果が十分に還元されるよりも先に、旧ソ連が崩壊し、「冷戦終結」という事態が先に進行した感はいなめない気がしますが、それも民衆と時代が世界平和と核廃絶を強く求め続けたからだと思います。
 そのなかで、事態の悪化を止めようと、国際社会に繰り返し警告を発してきた平和研究の意義は決して少なくないでしょう。
 その意味からいえば、今後の平和研究の課題は平和構築のための具体的な代替案を提示する――つまり、新時代創出の礎となる研究が待たれているのです。
 テヘラニアン まったく同感です。
 以前も述べたことですが、私たち戸田平和研究所のスタッフは、その発足にあたり、研究所の使命を討議するなかで、「新しい時代のための、まったく新しいタイプの研究所」をめざすことを確認しました。
 そして、研究テーマとして「HUGG(人間の安全保障と地球社会の運営)」を掲げ、世界の国々や社会に影響をあたえる、具体的な政策の選択肢を提示していくことを研究の主眼に定めました。
 池田 明確な方向性を打ち出しながら、具体的なプランを提示していく――これからの平和研究にはその両輪が不可欠ですね。
 師の戸田会長も、平和のためには具体的提案と行動が大切であると語っていました。たとえ、すぐには実現できなくとも、やがてそれが“種火”となって平和の炎が広がっていく。空理空論はどこまでもむなしいが、具体的な提案は現実変革の柱となり、やがて人類を守る屋根となっていく、と。
 私が毎年発表してきた「平和提言」などを通し、時代の方向性とその具体的アプローチをあわせて提示することに努め、その実現のために行動を続けてきたのも、すべて師の指針があればこそでした。
3  核廃絶の指針「原水爆禁止宣言」の意義
 池田 なかでも、私どもがとくに力を入れてきたのが核兵器廃絶の問題です。第七章でふれたように、私どもSGI(創価学会インタナショナル)が進める平和運動の原点には、戸田会長が発表した「原水爆禁止宣言」があります。
 その中で、民衆の生存の権利をおびやかすものに対して、こう叫ばれた。「その奥に隠されているところの爪をもぎ取りたい」と。
 これは、人類の生存を危うくする核兵器の悪魔性を糾弾するとともに、核兵器を生みだし、これを使用しようとする人間の生命に巣くう魔性を鋭く告発したものでした。
 そして、この宣言を“第一の遺訓”として、私たち当時の青年たちに託したのです。以来、創価学会では、「核の脅威展」や「戦争と平和展」を世界各地で巡回開催したのをはじめ、反戦出版シリーズの刊行を行ってきました。
 そして最近では、核廃絶キャンペーン「アボリション二〇〇〇」に賛同した青年部が一千三百万の署名活動を達成するなど、幅広い活動を展開してきたのです。
 テヘラニアン 「核兵器のない世界」をめざす池田会長の不屈の努力、またSGIの取り組みについては、私もよく存じております。
 実際、私が初めてSGIに注目したのは、そうした活動があったからなのです。
 その原点にある「原水爆禁止宣言」を世に問うた戸田会長の名を冠するわが研究所でも、その深い意義を鑑みて、核廃絶を最優先の研究課題に掲げました。戸田会長の怒りの叫びは、何百万という世界市民の心に共鳴し続けているのです。
 「宣言」発表四十年にあたる九七年九月には、イギリスのタプローコートで「核兵器廃絶のための国際会議」を開催しました。
 これには、パグウォッシュ会議名誉会長のジョセフロートブラット博士をはじめ、軍縮問題の世界的権威が多数参加し、有意義な討議を行うことができました。
 この会議を通じて、私はあらためて戸田会長の「宣言」がもつ先見性を感じるとともに、私たちの進める研究プロジェクトが、いかに緊急の必要事であるかを確信したのです。この研究成果は、戸田平和研究所から本にまとめられ出版されております。(『核軍縮―克服への障害』〈IBトーリス社刊〉。二〇〇〇年)
4  不正義を許さない民衆運動
 池田 たしかに冷戦が終結し、全面核戦争の危険性が遠ざかったことで、“これで一安心”という雰囲気が国際社会に漂い、核兵器に対する人々の関心が弱まった面があります。
 しかし、近年のインドとパキスタンの相次ぐ核実験の強行に見られるように、核保有をめざす国々が新たに現れ、さらなる核拡散への連鎖が懸念されています。このまま事態を見過ごせば、人類は引き返すことのできない隘路に進むことになってしまうでしょう。しかし残念なことに今なお、「核兵器は安全保障のために必要」とする核保有国の立場は変わっていません。
 抑止論に固執し、核兵器廃絶に積極的でない保有国をどう方向転換させるか――。そこで重要となるのがNGOなどの民衆運動であると私は考えます。イギリスの国際会議でも、その重要性が指摘されたとうかがいましたが。
 テヘラニアン ええ。
 タプローコートの会議で「核兵器のない世界への地球的行動――軍備管理から廃絶へ」と題し報告を行った、核時代平和財団のデイビッドクリーガー所長がNGOの重要性を強調していました。
 会議の合間にも、「核廃絶を現実のものとするためには、国際世論をもっと強くしなければならない。だからこそ、SGIのような取り組みが今後ますます重要になってくるのです」と述べておられました。
 私も、核保有国がいだき続ける幻想を打ち破る力が、民衆のなかにあると信じています。
 私は、会議の基調講演でロートブラット博士が厳しい口調で語った、「人類は、短期間のうちに何万発も核弾頭を蓄積してしまった。これほど愚かで狂気に満ちたことをなぜ許してしまったのか」との言葉が忘れられません。
 だからこそ、国家が「必要悪」とする核兵器保有を「狂気」と断じられる人間本来の感性と、その不正義を許さない勇気に立脚した民衆運動が求められるのです。
 その意味で私も、SGIの平和運動に大いに期待しています。
5  「戦争の世紀」を繰り返さないために
 池田 「核兵器のない世界」へ、そしてさらには二十一世紀の最終目標として「不戦の世紀」への道を民衆自身の手で開かねばならない――これが、私の変わらぬ信念です。
 そのためにSGIは、世界の心ある人々と友情のネットワークを広げながら、平和創出の民衆の連帯を築きあげてきました。
 私たちの生きてきた二十世紀は、まことにおびただしい数の戦死者を出しました。第一次大戦では民間人を含め二千二百万人、第二次大戦では六千万人が命を失ったと推定されています。ある学者はこれを評して「戦死の世紀」と名づけているほどです。
 「戦争ほど悲惨で残酷なものはない」というのが、人類が大きな代償を贖ったすえに得た教訓でした。しかし今なお、戦争はいっこうに止むことがない。
 この流転から抜けでるためには、国家中心の安全保障から「人間の安全保障」への転換が不可欠であり、これをリードしていくのが民衆による平和運動だと思うのです。
 テヘラニアン 会長がおっしゃるとおり、これまで国際社会で安全保障の基軸とされてきたのは、あくまで国家でした。
 一六四八年のウェストファリア講和条約以来、伝統的な国家体制は、国家間の安全保障問題を中心に構成されてきたのです。その結果、安全保障の研究も国家間の関係のみにとらわれ、「人間の安全保障」という視点はまったく無視されてきました。
 もちろん、国家間の安全保障という観点からも、生物化学兵器の軍縮など一定の範囲で前進が見られたことは事実です。しかし、戦争が国策として至上命令となったとき、犠牲を強いられるのはいつも民衆であるというのが歴史の教訓でもあります。近年とくにそれが顕著になっています。
 また戦争だけでなく、飢饉や疫病、環境破壊やテロなどの形をとって人間の安全が脅かされるようになってきており、安全保障の概念そのものを見直す必要が高まりました。
 そうしたなかで、国連開発計画(UNDP)や、グローバルガバナンス委員会が出した報告書を通じて、「人間の安全保障」という新たな概念が構築され、その実現が国際社会全体の焦点となってきているのです。
 池田 そこで現実に「人間の安全保障」を実現させていくためには、人類益に立った国際法の拡充をめざすとともに、国連を支援強化していくことが強く求められると私は考えます。長きにわたる「ウェストファリア体制」のもとで形成されてきた国際法は、国家間の利害を調整するためのルールとして発達してきた面が強く、伝統的に国家の排他的主権が尊重される傾向がありました。
 そのために、「人類益」に立った合意形成を導くことはむずかしく、またかりに合意をみたとしても留保などによって実効性に乏しいという限界をかかえてきました。
 テヘラニアン 国際関係の発展の歴史は次の三段階に分けて通観することができます。
 第一段階は「ハードパワー」(軍事力や経済力)の時代。強者が弱者を支配していった時代です。
 次の第二の段階は国際関係が成熟をとげ、国際法がある程度、国家間のバランスをとるようになった時代です。
 これは「ヘゲモニックパワー」の時代と呼ばれる時代で、力と説得を使い分けながら国際関係の均衡がたもたれていく段階です。
 現行の国際法は、こうした時代の制約を受けながら形成されてきました。しかし、グローバル化の進んだ世界のなかで、危機もグローバルな性格をおびるようになってきており、旧来のものでは対応できなくなっています。
 偏狭な国益ではなく、より広範でグローバルな目的観に立つ、新しい国際法を確立する挑戦を開始すべきであると私も考えます。
 私たちは「ソフトパワー」(文化や知識)のほうが「ハードパワー」や覇権主義的な力より、より効果的に働く新しい時代に入りました。道義的説得、食べ物や音楽、芸術、映画などを含む文化的影響、そして対話がより平和的に、より効果的な結果を出しています。
6  国連を「人類的機関」へと強化
 池田 次に国連の問題ですが、“国家の集合体”という伝統的枠組みによる制約をまぬかれず、当初の目的を十分に達成しきれていない現実があります。
 しかし、かつて博士が「今日においては、善かれ悪しかれ、国連が世界の一体性を具現する唯一の機関である」と指摘されたとおり、私たちは今ある国連を全力で支えながら、地球の全民衆のための機関へと変えていくことが大切なのではないかと思うのです。
 一九九四年秋にガリ国連事務総長(当時)と会談した折に申し上げたことですが、国連には「最大の期待」が寄せられている一方、現実には「最小の支援」というべき不十分なものしか寄せられていないという側面があることを、ふまえる必要がありましょう。博士もかねてより、創造的に力を結集していける「民衆の議会」の必要性を訴えておられますね。
 私もまったく同感であり、現在、世界のほとんどの国々が加盟している国連を、人類的機関として機能させるために、英知を結集して検討を進めるべきではないでしょうか。
 テヘラニアン 国連改革の問題を提起していただき、うれしく思います。
 と言いますのも、戸田平和研究所ではオーストラリアのラトローベ大学や、タイのチュラロンコン大学の研究機関と協力し「グローバルガバナンス(地球社会の運営)改革」と呼ぶ研究プロジェクトに取り組んできたからです。
 これは国連改革の可能性を探求するもので、研究所の「HUGG(人間の安全保障と地球社会の運営)」プロジェクトの一環として、世界の秀でた学識者や国連関係者とともに討議を重ねてきました。この成果を要約したレポートが、九月(二〇〇〇年)の国連ミレニアムサミットに合わせて発刊されました。(『未来への再構想―民主的ガバナンスを目指して』〈ラトローベ大学出版局刊〉)
 私自身は、現実の諸課題に国連が対応できる機関となるために、何よりも国連の機構や運営方法をできるかぎり民主化しなくてはならないと考えています。具体的には、安保理の改革と新たな総会の新設が考えられるでしょう。
 安保理に関しては、①常任理事国の拒否権を段階的に廃止、②理事国の拡大、③軍事介入を要する決議には「全会一致」を原則とすべきである、という点などです。
 総会については、現行の国家代表による総会(GA)の他に、自国の支配を受けない民衆の組織を、新たに「民衆総会(PA)」として形成すべきと考えます。この代表は、欧州議会の議員のように、直接選挙で選出してはどうかと考えます。
 池田 いずれも重要な提案だと思います。
 とくに「民衆総会」の創設については、私も平和学者のガルトゥング博士と語りあったところであり、真剣に検討すべきテーマであると考えます。
 すぐさま実現することはむずかしくても、これを一つの目標として、国連憲章が「われら連合国の人民は」(前文)との一節で始まることを想起しながら、民衆の声を国連に反映させていく努力を重ねていくことが大切なのではないでしょうか。
 ともすれば、これまでの国連は「国家の顔」が前面に出ていた感がありました。その反省をふまえ、国連は創設時の精神に立ち返って、運営面、また制度面においても、より「人間の顔」「民衆の顔」を際立たせる方向性をめざすべきではないかと思うのです。
7  国家に依存しないアクター(主体)の台頭
 テヘラニアン もはや、国家を中心とした「ヘゲモニックパワーの時代」は終わりを迎えようとしています。チェコのハベル大統領は、そんな国際社会の状況を次のように述べていますが、これは私の考えにも近いものです。
 「近代が終わったと断ずるには、しかるべき理由があると思う。今日、われわれは過渡期にあるということを多くの事柄が示している。この時代には何かが退場しつつあり、別の何かが難産ではあるけれども誕生しつつあるように思われる。その状態は、あたかも何かが老朽し疲弊し、崩壊している一方で、別の何かが、まだ判然としないけれども、瓦礫の下から発芽しているかのようである」と。
 まことに、的確な表現だと思います。
 その新生児はまだ見えませんが、胎内では心臓が鼓動しており、産声をあげる前の苦しみにあえいでいるのは確かなようです。しかし、その新しい趨勢はかなりよく見えています。ことに冷戦終結以降は、国家によらないアクター(主体)の運動に弾みと勢いがついているのです。
 池田 近年はとくに、NGO(非政府組織)の活動には特筆すべきものがありますね。
 これまで環境や人権、人道的分野においてめざましい貢献をしてきたNGOですが、最近ではそれまで国家の専権事項とされてきた軍縮分野においても、大きな成果をいくつもなしとげています。
 一九九六年七月、国際司法裁判所(ICJ)が勧告的意見として、核兵器による威嚇または使用に対し「一般的には武力紛争に適用される国際法、とくに人道法に反する」との判断を示しましたが、これを導くうえで大きな役割を果たしたのは、「世界法廷プロジェクト」を中心とするNGOの運動でした。また九七年九月には、「対人地雷全面禁止条約」が採択されましたが、これもまた「地雷禁止国際キャンペーン」(ICBL)をはじめとする地雷の廃絶を訴えるNGOの活動が、結束して数多くの国々を揺さぶり動かした結果によるものと言えるでしょう。
 テヘラニアン いずれも画期的なものでした。
 こうした状況をもたらした要因の一つは、超大国の対立が緩和されたことにあると思われますが、国家によらないアクターは、今日ではそれぞれの活動分野でより自在に運動を展開できるようになっているのです。そのアクターとして、NGO以外にも、TNC(多国籍企業)、TMC(多国籍メディア団体)などがあげられます。
 今日の世界経済を動かしているのは、多国籍企業の上位五百社ほどであるとも言われています。しかし、そこには民主社会のコントロールがおよばないという問題もあります。
 これらの経済行為は、世界銀行やIMF(国際通貨基金)、WTO(世界貿易機関)の協力を得てなされていますが、その結果、経済開発の長期的計画や外国為替の安定、労使対立の国際的問題などが現実に采配されるようになっているのです。
 池田 たしかに、多国籍企業のなかには国家にも匹敵する資金力と組織を有するものもあります。その行為一つが、国際社会の動向を大きく左右するケースも少なくない。
 それだけに国際経済の分野では、こうした強い影響 力をもち経済行為のルールを決める者と、それに従う者の間には、歴然とした差が生じていると言えます。
 テヘラニアン ええ。実際、中小国が大国や多国籍企業、政府間組織の方針に反対する場合は、経済封鎖、禁輸、資金調達の道の閉鎖といった罰則を受けるのも、中小国にとっての現実なのです。
 したがって、戸田平和研究所は、ビジネス界、市民社会、学術界代表を加えた“民衆(NGO)総会”を国連に創設すべきだと主張しています。
8  発達するメディア報道の問題点
 テヘラニアン そして、こうした経過の監視役とともに、応援団長をおもに務めるのが多国籍メディア団体です。ニュース番組は世界の出来事を監視しますが、それだけにとどまらず、私たちが対応すべき“現実”を提示する役割も果たしているのです。
 こうしたメディア報道は「ソフトパワー」の一部ではありますが、「ソフトパワー」自体は、じつに多面的で異なる形態をとることがありうるだけに、おのずと望ましい面と望ましからぬ面があることに留意する必要があると思われます。
 池田 そうですね。
 テヘラニアン 世界のニュースの主要な発信源とチャンネル(回路)が過去一世紀の間そうであったように、欧米だけに限定されるかぎり視聴者に提示される“現実”は、なおも一元的であり続けるでしょう。
 同時に多国籍メディアは、世界中で広告宣伝を行うことによって、消費主義を促進し、正当化する媒体でもある。これは「ソフトパワー」が今日の世界を形成しつつあることのもう一つの表れと言えます。
 この線に沿うものとして、外国旅行、文化交易、さらにはインターネットも文化の交流に資するチャンネルと言えるでしょう。マクドナルド、マイケルジャクソン、マドンナ、CNNが世界の市場に浸透したように、日本の鮨、刺身、黒沢明監督の映画も、世界中の人々の心をとらえたのです。
 池田 通信技術の革新によって、世界各地のニュースを瞬時に知ることができるようになりましたが、博士のご指摘のように、そのほとんどが欧米の視点を通して伝えられているのが現状と言えましょう。
 また情報量という点でも、欧米から配信される“一方通行”の情報が大半で、それ以外の地域が発信するニュースを含め、逆方向の情報の流れが不十分である面はいなめません。しかし、メディアの発達やインターネットの普及により、人々の情報へのアクセスの幅が広がったことは、民主主義の健全な発展という意味からも資するところがあると思われます。
 また、世界各地で起きている環境破壊や難民などの状況を、人々はメディアを通じて知り、問題解決への行動を起こすきっかけとなっている面もありますね。
9  メディアと民主主義の新たな可能性
 テヘラニアン ですから、「ソフトパワー」そのものは価値中立的で、用い方によって善にも悪にもなる存在なのです。
 生命を重んじることも、軽んじることもできます。諸国間の理解を促進することもできれば、それとは逆に、ある人種、民族、国籍、宗教に属する人々のイメージを悪く伝えることによって、それらの人々の文化について固定観念を強めることもできます。
 もちろん現在、拡大している国際コミュニケーションは、国家間と文化間のより永続的和解を達成する可能性をもたらすものです。しかし、武力紛争の発生する根本原因とそれに対する解決法を真剣に分析することなく、ただ武力紛争のニュースを気まぐれに報道する媒体が乱立しているだけでは、コミュニケーションと情報を組織的に歪曲することになります。
 国際社会はグローバルな観点、市民性、ジャーナリズムを求めているのに、ニュースの大半は偏狭な党派的、国家主義的な枠にはめられているのです。
 池田 こうした利害や思惑に満ちた報道を改めていくためには、国家や党派的利害を超える新たな報道倫理を形成していくことが必要となりますね。
 テヘラニアン その新しい倫理には、国際ジャーナリズムの慣行と紛争の調停に資する規範を含むことが重要でしょう。それには世界市民の意識に立った、真にグローバルなジャーナリズムが必要です。
 私は思うのですが、メディアにとって本当にやりがいのある課題とは、「ソフトパワー」を国際社会の平和と相互理解のために用いることではないでしょうか。
 池田会長が先に言及されたように、対人地雷全面禁止条約締結に貢献したのは、NGOの連帯組織であるICBL(地雷禁止国際キャンペーン)でした。この取り組みこそ、私が一つの先験的モデルになりうると考えるものなのです。
 ICBLは六年間、情報を普及させるために一千余のNGOを動員し、インターネットを広範に活用することによって各国政府を説得しました。その結果、すでに百カ国以上が条約に調印し、九九年三月に発効するにいたっています。
 池田 私たちは、さらに国際世論を高め、地雷を保有する国々をはじめ、世界のすべての国々に調印を迫っていくことが必要ですね。
 当初は無理と思われたこの条約が採択を見たのは、全面禁止に同意する国々だけで先行して条約づくりを進めるという「オタワプロセス」の試みが功を奏した結果とも言えますが、博士の言うとおり、ICBLの運動がやはり大きく貢献したと言えましょう。
 抜け道を許さない画期的な条約が頓挫しなかったのも、ICBLが随時、反対国リストを公表し、国際的な圧力をかけ続けるとともに、「国防上の理由」を盾に否定的な態度を見せる各国政府に対し、粘り強く再考をうながした結果だったのです。
 「将来、同じような取り組みのモデルとして、軍縮、平和への国際的な努力の先例となりうる」――。その功績をたたえ、一九九七年度の平和賞をICBLに授与した「ノーベル賞委員会」が授賞理由をこうあげたのは、民衆が主体となって進めた軍縮運動への期待の表れとも言えるでしょう。
10  情報革命に欠かせない「魂のふれあい」
 テヘラニアン インターネットなどの通信手段を効果的に使ったICBLの運動は、旧来の意思決定の手法の限界を打ち破ろうとする試みでもありました。
 民主主義は、ややもすると政治資金の集め方によっては腐敗します。政治家は一般の市民よりも、寄付金を出してくれる兵器製造業者を含む企業の利益に従いがちです。そういった腐敗も、市民勢力の動員によっていくぶんは是正できますが、そのためには市民自身が十分な情報と意識をもっており、なおかつ活動をいとわないという条件がそろう必要があるでしょう。
 その点、インターネットは、具体的な問題について、市民が世界的な情報を得て結集し、一つの勢力を形成するうえでの新しい民主公共的な媒体になりえます。
 私はこの地雷禁止の運動が、「コンピューターを善用する新しい民主主義が市民の教育と結集によって、いかに有効に活動しうるか」、を例証したと強く確信するのです。市民がコンピューターを価値的に利用したことの勝利とも言えるのです。
 池田 インターネットに象徴される「情報革命」の利点は、博士の指摘されるように、知識や情報が一部の人やグループに独占されることを防ぎ、民主的に多くの人々に共有されていくことにあると言えましょう。
 であればこそ、知識や情報だけでなく、これらを真に活かす「知恵」をともに薫発していくことが重要となると私は思うのです。そのためにもやはり、人間同士の直接の対話を通した「魂のふれあい」が欠かせないと私は考えます。
 新たに開発される技術そのものは、人間社会を幸福にも不幸にもする力があります。要は、その技術がもつ特性と本質を見きわめながら人間のために価値的に生かしていく――私たちはテクノロジーに対し、そうした基本姿勢を失ってはならないと言えますね。
 仏法では、物事をよりよい方向へ導く「知恵」を開発することの重要性を説いています。
 人格と人格がふれあう対話には、知識の一方通行もなければ、「魂なき情報」の洪水もない。声と声、生命と生命がふれあい、通いあいながらダイナミックな対話のドラマが織りなされる。ここに、みずみずしい「知恵」も育まれていくと思うのです。
 テヘラニアン これまで私たちは主にマクロな問題を論じてきましたが、平和はミクロな問題の領域においてこそ、もっとも効果的に達成できると思います。そこでカギとなるのは、会長のおっしゃるとおり人間同士の対話にほかなりません。
 対話による意思の疎通が、もっとも効果的でありうるのは、多数のメンバーとの距離をへだてた間接的コミュニケーションにおいてよりも、小さな輪の中での“一対一の対話”なのです。ゆえに私は、EFシューマッハーと同様に、「スモールイズビューティフル(小さいことはすばらしい)」と言いたいと思います。
 家族や、友人や、信仰者のサークルの中でのように、少人数のほうが、親しみやたがいに理解し思いやる心が育まれるものなのです。ですから、私はSGIに見られる座談会などの、自主的な小規模のミーティングのもつ役割を高く評価し、着目しています。
 現代の国家や企業といったマスの次元だけでは、どうしても非個性化、非人格化、貪欲性、攻撃性が優勢になりがちだからです。
11  「対立的競争」から「協調的競争」へ
 池田 私は、昨今のNGOの活躍を見るにつけ、戸田会長が提唱した「地球民族主義」の思想――今日の言葉で言えば、「地球市民意識」が着実に芽生えているのを実感します。大事なのはそうした草の根の運動です。
 戸田会長はつねづね、「いかなる民族も犠牲になってはならない。地球上から悲惨の二字をなくしていくのだ」と語っていました。
 この思想の淵源には、第七章でもふれましたが牧口会長の「人道的競争」という共存共栄の理念があります。
 牧口会長は『人生地理学』の中で、“人類は、もはや「軍事的競争」でも「政治的競争」でも「経済的競争」でもなく、「人道的競争」の時代を志向すべきである”として概要、次のように訴えました。
 「人道的方式といっても、単純な方法はない。政治的であれ、経済的であれ、人道の範囲内においてすることである。要はその目的を利己主義に置かず、自己とともに他の生活をも保護し、増進させようとするところにある。反言すれば、他のためにし、他を益しつつ自己も益する方法を選ぶことにある。共同生活を意識的に行うことにある」(『牧口常三郎全集』第二巻、第三文明社。現代表記に改めた)と。
 ここで重要な点は「人道」の「競争」ということを強調したことです。「競いあう」ということを否定するのではなく、人類の真の進歩、発展、共生のために競いあう、その人道的競争こそが新たな時代を開くと主張した点です。まさに二十一世紀の平和のための“ホシ”がここにある感を深くします。
 テヘラニアン 今から百年も前に、人類共存のためのビジョンをこれだけ明快に示していたことに、驚きをおぼえます。
 これまで論じたように、今日の火急の課題は、時代の潮流を「対立」から「協調」へ転じていくことにあります。
 過去数世紀の世界を支配してきたのは、ホッブズの言う「万人の万人に対する闘争」という考え方でした。こうした世界では、いわば「ゼロサム」ゲーム――ある人にとっての幸福と安全は、他の人間にとって不幸となり危険となる、ということになります。
 池田 こうした「敗者を生みだす世界」ではなく、「皆が勝者である世界(ウィンウィンワールド)」を築くことが、地球社会のめざすべき指標と言えますね。
 私がかつて「平和提言」の中で言及した、南アフリカでのマンデラ大統領の挑戦、つまり肌の色によって差別されない「虹の国」の建設のビジョンなどは、まさにその好例と言えましょう。
 テヘラニアン 私も提言を読み、深い感銘をおぼえました。
 マンデラ大統領が掲げるビジョンには、「各人の安全と幸福が、万人の安全と幸福の前提条件である」という思想が息づいています。そこでは、「プラスサム」ゲームが前提となっているのです。
 ホッブズの暗い悲観主義の代わりに、マンデラ大統領は各人の内面に神性が潜在すると想定して、楽観主義から出発しています。それは、とりもなおさず、人間にひそむ悪の側面ではなく善の側面を信頼し、それを呼び覚ます提唱なのです。
 池田 まさに、一人一人の人間の精神革命が欠かせませんね。「皆が勝者である社会」を築くには、頭で納得するだけでなく、深き「内なる変革」が必要となります。
 この点、ロートブラット博士が以前、私に次のように語ったことがありました。
 「『戦争』は、人間を愚かな動物に変えてしまう力をもっている。通常の状態では思慮分別のある科学者も、ひとたび戦争が始まると、正しい判断を失ってしまう。『野蛮』を憎んでいた人が、みずから『野蛮』な行為に走る。そこに戦争の『狂気』がある」と。
 テヘラニアン こうした狂気は戦争にかぎらず、あらゆる悲劇を人類にもたらしてきました。
 そんな痛い目にあってきたにもかかわらず、人間は過ちを繰り返してしまう――私は人間の“業”とでもいうべき、問題の根深さを感ぜざるをえません。
12  人間生命の内なる変革が平和を築く
 池田 仏法では、「十界」といって、どんな人間にも十とおりの生命境界があると洞察しています。
 いうなれば、戦争に巻き込まれた人間の生命状態は、このなかでももっとも低い「地獄界」「餓鬼界」「畜生界」「修羅界」の三悪道四悪趣におおわれたもので、本能と欲望に支配されるままの状態と言えましょう。そうした状態にある人間の思慮も行動も、愚かで野蛮であることをまぬかれないのは、仏法の知見からみれば道理なのです。
 かりに表面上の平和――「外なる平和」が達成されたとしても、それはちょっとした縁でたやすく崩れてしまうもろい存在です。迂遠なようでも、崩れない平和を建設する礎となるのは一人一人の人間の心の中に平和を築く、つまり「内なる平和」を確立することであると考え、私どもSGIは「人間革命」運動を世界に広げてきました。
 この人間生命の内なる変革が、波が波を呼ぶように、賢明なる民衆のスクラムとなって連動するとき、「戦乱」と「暴力」の宿命的な流転から必ずや人類を解き放つであろうことを、私は信じてやまないのです。
 テヘラニアン 会長が賢明にも提起された「内的な平和」と「外的な平和」の関係について、あるペルシャの詩人が、次のように巧みに表現しています。
 「生命のない存在が、他の存在に
  生命を与えるなど、どうしてできるのか」
 自己の内面に平和のない人が、どうして他者に平和を伝えられるのか――私にも、それは不可能なことであると思われます。
 外面の世界は、非常に複雑な紛争の多いところであって、平和を確立するのは容易ではないかもしれません。しかし人はだれもが、一つの寄与ならできるはずです。では、どこから始めればよいのか――。
 自分の影響力をもっとも受け入れられるところは自己の内面であり、まずそこに向きあうべきです。
 スーフィーの教えでも、自己に克つことをもっとも偉大なことであるとしています。自制のない自我は自己の最大の敵となり、それが絶えず人を独善へ、瞋恚へ、貪欲へ、憎悪へ、排他へと向かわしめます。
 池田 よく、分かります。
 仏法の一つの眼目も、そうした「自己規律の力」をやしなっていくことにあるのです。
 テヘラニアン スーフィーの教えでは、人の内面にはもう一つの自我があり、これは教育や訓練、また慈愛の心を通じて目覚めると説きます。
 こうして、自我と他者との二元性を超越することが、迷妄から覚めた平和の人生へのカギとなっていくのです。
 自己の利益を他者の利益と区分し続けるかぎり、紛争の種をまいていることに変わりはないでしょう。
 私たち人間の「生」は、もっと大きな存在の一部であって、他のすべての生命体と「相互依存」の関係にあることを認識することが重要です。
 そう認識すれば、個別的と思われる肉体的存在がまねく、不可避的な宿業である紛争をも解決する道を、私たちは歩めるのではないでしょうか。
13  深い生命の尊厳観が人間共和の源泉に
 池田 仏法の「縁起」の思想にも相通じる考え方ですね。「縁りて起こる」とあるように、人間界であれ、自然界であれ、単独で生起する現象はこの世に一つもないと見ます。万物はたがいに関係しあい、支えあいながら、一つのコスモス(調和世界)を形成し流転していく、ととらえていくのです。
 「自分は生きている! 自分は、大きな生命の一部なのだ!」――こうした「生命」というもっとも普遍的な次元への深き詩的な眼差しは、そのまま、限りない多様性への「共感」となって広がっていきましょう。
 この生命の内奥から発する「共感」、いうなれば生命を内在的に掘り下げていったところに立ち現れる透徹した“平等観”や“尊厳観”こそ、「人間共和の世界」の源泉となりうるのではないでしょうか。
 テヘラニアン つまり、共生といっても、たんに「他者の存在を認める」といった表面的な寛容の精神だけでは不十分であるということですね。
 池田 ええ。それは、たんなる心構えといった次元を突き抜けて、生命の奥底から湧く秩序感覚、コスモス感覚に根ざしたものでなければならないでしょう。
 また、仏法では「依正不二」といって、生命活動の主体である「正報」と、環境である「依報」が二にして不二であると説きます。つまり、「主体」としての人間の生き方、生命状態が「環境」にも大きな影響をあたえていく――「内なる平和」の確立なくして「外なる平和」の創造は困難と考えるのです。
 ただし、「心の平和」だけではこの激動の社会の中で、たんなる観念論や抽象論の域にとどまってしまう危険性もないわけではありません。
 ゆえに私は、それと同時に、社会の平和と調和を追求する「現実の行動」が必要になると考えます。具体的実践がともなってこそ、「平和」は現実としての形をとりはじめ、定着しはじめていくのです。また、その戦いのなかでこそ一人一人の「内面の平和」も陶冶され、崩れないものになっていくのではないでしょうか。
 こうした往還作業が、やがて時代を突き動かす力となっていくと、私は強く確信するのです。

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