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第六章 「宗教的精神」の蘇生――価値を…  

「21世紀への選択」マジッド・テヘラニアン(池田大作全集第108巻)

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2  絶望を希望に転換する勇気
 池田 そのとおりです。残念ながら、そうした「宗教的精神」の衰退はますます進行しています。
 この危ぶむべき進行にどう対処すればよいのか。幸いにも、私たちは歴史にその処方箋をもっています。
 テヘラニアン その処方箋の一つが、仏教やイスラムですね。すでに話しあったように、両者はともに迷信や呪術的な伝統に対する、精神覚醒の運動でした。
 池田 そうした次元でいえば、イスラムという言葉の意味は、一般に「神に絶対的に帰依すること」と聞いていますが、それは著名な神学者パウルティリッヒが「宗教」について定義したように、“存在に通じる概念の根源に、究極的にかかわること”をめざした、と言えるかもしれません。
 テヘラニアン ええ。厳密にいえば、それはすべての存在への「積極的かつ完全なるかかわりとあわれみ」を意味すると言えましょう。それは積極的平和、すなわち愛と勇気を合体させた状態を意味するのです。
 池田 前に、イスラムは「宗教改革」であったと語りあいました。
 ムハンマドは「積極的に」と強調することによって、当時の呪術的な部族の宗教、またユダヤ教やキリスト教の信仰への疑念を表したということでしたね。
 テヘラニアン ええ。ユダヤ教、キリスト教への疑念として、『コーラン』の次の言葉がそれを物語っています。
 「我々(=ムスリム〈イスラム教徒〉)が誠の限りをつくしておつかえ申すのはアッラーのみ」〔二一三三〕(前掲『コーラン』)
 また、呪術的な多神教に対して、ムハンマドは徹底的に批判をしています。
 ところで、会長は今、パウルティリッヒに言及されました。それは、私の心に懐かしい「ティリッヒ先生」の思い出を蘇らせてくれました。じつは、私の恩師なのです。私は、彼からすべての偉大な精神的伝統に共通する宗教的精神について多くを学びました。
 池田 よく存じています。ティリッヒ博士は、ナチスに追われてアメリカに亡命しています。テヘラニアン博士がティリッヒ博士から直接学ばれたのは、ハーバードの大学院生時代ですね。偉大な師をもつことは、人間にとって最高の宝です。
 テヘラニアン 本当にそう実感します。池田会長にも戸田城聖第二代会長という師匠がおられた。ともに、すばらしい師との出会いがあった――。
 池田 ティリッヒ博士の著した『生きる勇気』は、アウシュヴィッツとヒロシマ以後を生きる私たちに、希望をあたえてくれました。不朽の名著であり、人類の財産です。
 テヘラニアン そのとおりです。ティリッヒ博士は同書の中で、現代の苦悩と絶望を真正面から見すえながら、「それにもかかわらず」(大木英夫訳、『ティリィヒ著作集』9所収、白水社)生きていこう! と訴えています。
 池田 「にもかかわらず」――ドイツ語で“トゥロッツ”――それが「生きる勇気」のキーワードでした。その態度は、二十世紀を代表する名著『夜と霧』の著者、ヴィクトルフランクルにも通じますね。別の著書『それでも人生にイエスと言う』(山田邦男松田美佳訳、春秋社)の表題のとおりです。
 テヘラニアン アウシュヴィッツをみずから体験し、人間の悪の面をいやというほど味わいながら、フランクルは「それでも」人間を信頼しよう、人生を肯定しようとするのです。
 池田 その態度は、グラムシが座右の銘としている「知性においては悲観主義、意志においては楽観主義」(ロマンロラン)という言葉にも通じます。
 「意志における楽観主義」とは、言い換えれば不屈の勇気と言えるでしょう。現実の深い闇を直視しながら、それでも前進しようとする勇気です。
 テヘラニアン 全面的に賛成です。それらの人々はまったく同じ志向性、同じ姿勢をもっています。基本的に彼らは、死と絶望の深淵を見る一方で、それを生と希望に転換したのです。
 池田 現実の深淵を見ようともせずに、欲望の達成と快楽だけを幸福といってはばからない、薄っぺらな楽観主義とはまったく異なります。
 人類がこれほどの悲惨を起こしてしまったのは、たんにヒトラーやナチスだけが問題であったのではない。ティリッヒは、民主主義もいつしか体制順応主義に堕落し、「冷笑主義」「無関心」「無感動」の虚無に飲みこまれる可能性がある、と指摘しています。
 そうさせないためにも、人間存在そのものの奥底に横たわる深い闇を見すえながら、「にもかかわらず」生きていこう――そういう強靭な意志が『生きる勇気』では語られています。
3  宗教は存在の根源への「究極的かかわり」
 テヘラニアン ハーバードの大学院生だったころ、私はよくティリッヒ博士の講義を聴講したものです。
 宗教を、存在の根源への「究極的かかわり」とするティリッヒ博士と同様の認識を、私ももっています。宗教の本質についてのその定義は、ご指摘のとおりイスラムにあてはまります。
 『コーラン』は“アルディーンアルクワッイン”つまり「永遠不変の宗教」という言葉で、その「普遍性」を表しています。
 池田 さらに一言つけくわえさせていただければ、私はムハンマドが「アブラハムの時代に帰れ」と主張したのも、いわゆる“原理主義的”な先祖返りを意図したのではないと思うのです。より普遍的である「宗教的なもの」を模索していたのではないでしょうか。
 テヘラニアン 「宗教的なもの」については、会長もハーバード大学での二回目の講演(一九九三年九月、「二十一世紀文明と大乗仏教」。本全集第2巻収録)で、その重要性を指摘されていましたね。それは、先ほどおっしゃった「宗教的精神」につながるものです。
 池田 仏教には「仏母」という考えがあります。すべての仏を仏たらしめる根源の教えのことです。これも、まさしく「普遍性」「根源」を探究しようと
 する志向性の表れと言えるでしょう。
 ともあれ、「究極的かかわり」といえば、なにか狂信的、排他的なイメージをあたえるかもしれません。
 しかし、排他的な狂信は決して「究極的」ではありえません。排他的な狂信は、部分的で偏狭なかかわりであり、感情的なかかわりでしかない。しかも、人間存在の根源へのかかわりではなく、利己的な目的へのかかわりであり、ときとして、ナショナリスティック(国粋主義的)な目的へのかかわりとなります。
 「究極的」というのは、人間のもっている善なる性質、善なる力すべてをかけて、人間存在の根源を追求するということです。そうやって「人間とは何か」「自分は何のために生まれてきたのか」を求めることは、排他的であるはずはなく、きわめて人間主義的であると言えるでしょう。
 テヘラニアン 同感です。そして、会長が何度も言われているように、人間主義というのは、人間自身に限定されるべきものではありません。すべての自然と生物を含めた生命の大地にかかわるべきものです。
4  言葉の奥底の「意」を読み取る努力
 池田 全体的な流れから少し外れるかもしれませんが、イスラム教やキリスト教、ユダヤ教では「預言者」が登場します。
 日本で「預言者」の語は、発音が同じということもあり、超人的な力で未来を予知する「予言者」と混同されています。『コーラン』や『旧約聖書』などに現れる「預言者」を、占い師のような存在だと
 誤解している人が多いのが実情でしょう。
 テヘラニアン 一般的にいっても、私たちは同じ言葉を使いながら、たがいにまったく違う意味に考えていることがよくあります。その意味では、私たちは“言葉の囚われ人”かもしれません。ですから、言葉はたんなる出発点として、言葉の奥底の意味を解きほぐす努力を重ねるのが、相互理解や対話にはよき方法であると思うのです。
 池田 私も同意見です。「預言者」の例でいえば、何らかの判断をくだす前に、そもそもどのような文脈でその言葉が使われているかを知ることが不可欠でしょう。そういう「精神的努力」を惜しんで、先入観や決めつけで、判断をくだしてはならない。
 仏教の伝統でいえば、釈尊も竜樹も「言語」の問題には非常に敏感でした。「言語的な慣習」「通念」が、どれほど人を欺くかを示し続けました。
 テヘラニアン よく理解できます。
 池田 仏教では「文・義・意」と説きます。
 「文」は、言葉や文の表面的な意味です。
 「義」は、前後関係、文脈を通じて、ある言葉や文がもつ一重深い意味です。
 さらに「意」とは、その言葉や文にこめられた作者の意図、心です。もちろん仏典の場合は仏の心です。
 「文・義・意」の中で、もっとも大切なのは「意」です。ある言葉が、人を欺いたり支配しようとする悪意から発せられているのか、人を幸福にしたいという切望から発せられているのか。それを深く考えねばなりません。
 ともあれ、「預言者」と「予言者」を、日本語の発音が同じだというので混同してしまっていては、「文」や「義」の段階で、すでにつまずいてしまっていると言わざるをえません。
 テヘラニアン イスラムを離れて宗教一般で言えば、「預言者」は宗教学でいうところのいわゆる「神秘主義」に関係します。一般に思われているのとは異なって、「神秘主義」はたんなるオカルト主義ではなく、原則として、教義よりもみずからの体験を重視する立場です。
 この世には、宇宙と生命の始まりと終わりに関して、大いなる神秘が存在する。神秘主義はこれらの神秘を認識し、これを説明しようとするのではなく、これらを畏敬と称賛の念をもって受けとめようとするのです。
 池田 「神秘」というと、奇跡や超自然的なものを想像しがちです。しかし、イスラムの著名な神秘主義者であるサフルイブンアブディッラーは語っています。
 「最大の奇蹟は悪い性格を善い性格に変えることだ」(RAニコルソン『イスラムの神秘主義』中村廣治郎訳、平凡社ライブラリー)と。
 ようするに、「神秘主義」といっても人間を離れるものではありませんね。
 テヘラニアン ええ。「神秘主義」は、奇跡重視というより、体験重視なのです。法の字句より、むしろ精神を重視します。
 池田 聖典はもちろん必須であり、大前提です。しかし、時を経るとともに、聖典にはさまざまな注釈がなされ、注釈者が権威をもってしまう。そのなかで、「文義意」の「意」が忘れ去られてしまう場合も多い。
 そこで、根本の精神に迫る宗教体験を積んだ警世の預言者が登場し、既存の宗教的文献群、硬直化した教義体系、堕落した宗教権力を批判する形で、直接、神の「意」を語り、宗教の精神を蘇らせていく。
 さまざまな宗教で、こうした歴史が繰り返されていますね。
 テヘラニアン ご指摘のとおりです。ゾロアスター教では千年ごとに新たな預言者が現れて、人類を導くという預言さえあります。
 池田 それはそれで意義のあることですが、世紀末を迎えて、「予言」もしくは自称「預言」を語る者たちがいく人か現れ、人々の心を惑わせ、いたずらに不安をあおる事例が見受けられます。
 安易な神秘主義は、恣意性におちいる可能性もありますね。
 テヘラニアン ええ。そこで、何を「基準」とするかが、もっとも大事になってきますね。
 池田 そうです。
5  “権力との闘争”で「原典の心」を救い出す
 テヘラニアン では、その「基準」とは何でしょうか。
 池田 歴史上大きな変革をなしとげた運動を見たとき、「警世の人」は、恣意ではなく「原典に帰れ」という形で預言を語っているように思えます。
 ルターしかり。日蓮も「『法華経』の心に帰れ」と主張しました。日蓮の闘争は、のちの注釈家がつけくわえた解釈から、「原典の心」を救いだすことでした。
 いわば、みずからの体験が釈尊の体験に肉薄しているかどうか、等しいかどうか――仏法では「如説修行」と言いますが――それが日蓮が恣意性を超えて、普遍性を獲得しようとした基準といえます。
 テヘラニアン よく分かります。イスラムは、みずからの教え自体を、預言者たちを通じて人間に伝達される教え、いくども再現される「永遠の教え」であると見なしています。イスラムでいう預言者は、占い師や易者の類ではありません。預言者は、人間の行為がまねく結果に関して、人間に警告し、また約束するために神が選んだ人です。
 ムハンマドは、みずからをアダムに始まりノア、モーセ、そしてイエスによって翻訳された神の永遠のメッセージを伝える、ふつうの人間だと考えていました。
 池田 「預言者、郷里に容れられず」と言われます。つまり、警世の句を発する預言者たちは、しばしば権力者たちから迫害され、また人々の嘲りや無視の対象となってきた……。
 本来、人は深い祈りのなかで、みずからを振り返ることができる。熱い祈りのなかで、他人の境遇に思いをはせながら涙する。困難に負けそうになりながら、強い祈りのなかで勇気を取り戻すことができる。これが宗教であり、祈りであり、信仰といえます。そのような「宗教的精神」を軽蔑する国は、「痩せた精神の国」になってしまう。それどころか、閉鎖的でエゴイズムに堕落した宗教や迷信が、はびこるようになってしまう。
 テヘラニアン まさしく、そのような危機感にもとづく批判を、ムハンマドやブッダ(釈尊)、イエスは行ったのです。ルターもそうです。
 池田 日蓮仏法もそうです。日蓮は、貴族化し庶民を見くだした既存の仏教や、儀式主義に堕した宗教に、まっこうから戦いを挑みました。
 私ども創価学会の運動も、江戸時代に徳川幕府の権力によって、戸籍管理に通ずる檀家制度や葬祭儀礼のためだけのものにつくり替えられてしまった仏教に対して、もう一度「釈尊の精神に戻れ」「宗祖の心に戻れ」と訴える宗教改革運動なのです。
 テヘラニアン よく理解できます。全面的に賛同します。
6  多様性の花開く豊かな「共同体」の創出へ
 池田 仏教とイスラムをめぐる対話のしめくくりとして、これから現代社会に両宗教がどのような貢献をなすことができるか、現代におけるイスラムと仏教の意義を中心的話題として語りあっていきたいと思います。
 テヘラニアン 賛成です。
 池田 現代は「分断と対立の時代」と言われています。さまざまな主義、主張、はたまた趣味や嗜好までが、差異を強調するための働きをなしています。
 しかし、その差異は、決して豊かな「個性」ではなく、粗暴に画一化された集団への帰属意識を強めるためにつくりあげられた、虚構である場合が多いのではないでしょうか。
 テヘラニアン おっしゃるとおりです。移動能力がどんどん大きく速くなっているので、心理的な混乱を引き起こしています。その混乱はアイデンティティー(自己認識)の不安を生じさせ、呪物崇拝へと変わっていきます。それは偽りのアイデンティティーとして特定の消費物資や、あたえられたアイデンティティーに執着させます。
 たとえば、東洋と西洋を対立的に見る「オリエンタリズム」もそうです。資本主義と共産主義の対立は、冷戦時代に偽りのアイデンティティーを提供しました。
 こうしたステレオタイプ(紋切り型)のイメージが、心を許した対話をむずかしくしたのです。
 池田 そこで私が言及したいのは、人々が排他的にならずに集い合う「共同体」の可能性です。ちなみに「共同体」に相当する語は、イスラムの場合では「ウンマ」でしょう。仏教では「サンガ」がそれに相当します。
 テヘラニアン このテーマは、それだけで別の新しい章が立てられるほどの重みをもっていると思います。それほど大きなテーマです。
 まず思いつくのが、「宗教」という言葉の語源です。「宗教」を意味する英語の“religion”は「ふたたび結ぶこと」を意味します。
 池田 ユダヤ教、キリスト教、イスラムでは、「神」と一人一人を「結ぶ」ということですね。
 テヘラニアン アブラハムを父祖とするこの三つの宗教の信徒たちは、信仰をもとにして生きることを神と「契約」しました。アラビア語では、この「契約」のことを「ミサク」と言います。
 イスラムにおける契約は、「アラーの他に神はなく、ムハンマドは神の使徒である」というシャハーダ(信仰告白)を詠ずることによって強められます。このシャハーダを詠ずることによって、すべての人が、性別、人種、民族の違いにかかわらず、ムスリムになれたのです。
 最初のイスラム国家がメディナに確立されると、すべての人がムハンマドとの契約を結び、保護を受けられるようになりました。イスラムの共同体=「ウンマ」は、こうして創立されました。
 『コーラン』にはこう記されています。
 「汝ら全部が打って一団となり、人々を善に誘い、ただしいことを勧め、いけないことを止めさせるよう努めよ。そういう人たちは、栄達の道を行く」〔三一〇〇〕(前掲『コーラン』)
 メディナ期の「ウンマ」の成立は、かつてのメッカ期に確立した「神と少数の個々人との関係」を、社会の中でダイナミックに「人と人との関係」に展開するときにあたっていた、と言えるかもしれません。
7  真の宗教は理想的な共同体を建設
 池田 そこでは慈愛や寛大さ、信義を重んじることなど、神の属性と考えられたものを、信仰者自身が社会において実現することがめざされた、と言えるのではないでしょうか。その基盤となるのが「ウンマ」だと思います。
 テヘラニアン そうです。「ウンマ」は社会を離れた信仰集団ではなく、信仰を一つとする人々の社会そのものです。
 コーランのすべての章は、「哀れみと慈悲のアラーの神の名において」という句で始まります。イスラムを「剣の宗教」だと言う人たちは、このことを知らないのです。
 池田 「ウンマ」が成立して、イスラムは信仰を基盤とした共同体組織になりました。それまでの部族共同体を支えていたのは「血の連帯」ですね。
 テヘラニアン ええ。ですから、ムハンマドに対して、ある反対者は「血縁の絆を断ち切った」と言って罵りました。
 それほど、「血のつながり」は疑いをはさむ余地のないものだったのです。それに対して、「ウンマ」をまとめる原理は「信仰」でした。
 池田 「血の連帯」による共同体は、たしかに強固ですが、閉じた共同体です。差別や弾圧の温床ともなります。
 テヘラニアン 「機織工はたおりこうの手にするくしの歯のように、すべての人間はたがいに平等である。白人が黒人に対して優越感をもつということはありえない」というムハンマドに帰せられた伝承があります。
 イスラム共同体は、ムスリムだけを構成員にしているのではありません。「ジンミー」といって、他の宗教の人々が、改宗しなくても構成員として認められていました。
 池田 仏教における「共同体」も、社会を離れた「閉鎖的集団」ではなく、仏教の理念と社会の現実との接点でした。
 原始仏教の共同体の「サンガ」は「集い」「集団」、さらにギルド(中世ヨーロッパに発達した、商業手工業者の親方職人徒弟からなる同業組合)のような「同業組合」の意味です。
 テヘラニアン 「サンガ」は、もともとインドの社会にあったものですか、それとも仏教のオリジナルですか。
 池田 すでに社会にあった理念を、釈尊が活用したようです。
 当時、米づくりを基盤として、都市国家が成立し経済活動が活発化しましたが、この都市国家の中には民主的な共和制を採る国もありました。また経済活動は同業者のギルド的共同体がその中核でした。じつは、この共和政体、そしてギルド的経済共同体のことを「サンガ」と言っていたのです。
 テヘラニアン すると、ブッダはみずからの教団の模範を、現実の共和的な民主的な集団に求めたのですね。これは興味深いお話です。
 池田 そうなのです。集団の理想の姿を、その「サンガ」に見ていたのです。
 テヘラニアン なるほど。イスラムの「ウンマ」の理想と通じるものがありますね。
 池田 この共同体では、四摂事が貴ばれます。四摂事とは、「布施」「愛語」「利行」「同事」、現代的にいえば「他者への施し」「優しい言葉で人に接すること」「衆生の利益になる行為」「共同作業」ということでしょう。
 テヘラニアン 具体的、現実的な実践の指標ですね。
 池田 ええ。まさに、仏の教えが現実社会で具体的な形となって実践される――その場が「サンガ」でした。いずれにしろ、真の宗教は自己の錬磨と他者の救済にかかわるのですから、当然、社会の中で理想的な共同体を建設するという形で範を示すべきです。
 テヘラニアン まったく同感です。それが「ウンマ」の理想でもあります。しかし、理想はえてして人間のもつ弱さゆえに現実のものにならないことがあります。近年のイランイラク戦争や湾岸戦争が、イスラム同士の戦いであったことは示唆的です。
8  現実との対話こそ組織を活かす「血液」
 池田 中世日本の高僧で、当時天下を二分した源平の合戦を知らない人がいたそうです。たしかに、一時期、現実とのかかわりを捨てて、孤独な修行に勤める場合もあるかもしれない。
 しかし、釈尊も「人々の幸福のために各地を遍歴せよ」と伝道を命じています。僧団のリーダーとなるような高僧が、現実社会を知らないではすまされない。それは、その僧団が閉鎖的集団である証拠です。
 組織は、理念と現実が切り結ばれる要です。ゆえに組織は大切です。生きた組織によって、理想が現実を変革する。とともに、現実との対話によって、理想が偏狭なドグマ(独断)におちいることをまぬかれるのです。
 テヘラニアン 残念ながら、過度の個人主義の横行とともに、組織を嫌う風潮が強くなってきました。
 池田 もちろん、閉鎖的組織なら、批判されるべきです。その組織がどのような理念を訴えているか、どのような活動をして社会にどのような貢献をしているのか、きちんと実態を見なければなりません。
 しかし、組織といえば家族も組織です。組織すべてを否定してしまえば、「国家」という組織のみが肥大化していきます。その実例を、二十世紀はいやというほど見てきました。
 私は「組織嫌い」の風潮の奥底に、エゴイズム(利己主義)と国家主義という「両極の双子」の肥大を感じてなりません。個人と国家の間に、国家の境界を超える血の通った組織体、「民衆の連帯」を築いていかねばなりません。
 テヘラニアン おっしゃるとおりです。
 そのための方法が「対話」でしょう。
 池田 そうです。「対話」こそが、栄養と酸素を運び、組織を活かしていく「血液」なのです。「対話」という温かな「血液」が流れているか否か、それが「生きた組織」かどうかを判断する基準と言えるでしょう。
 また、「理想の共同体」「真の組織」にとっての必須の条件としては、平等性もあげられます。その構成メンバーが、平等観をもっていることが大切です。
 ところで、日蓮は時の最高権力者に対して、「わづかの小島のぬしら主等」と、その本質を喝破しました。日本の権力者など、どれほど傲り高ぶろうと、世界を知らないちっぽけな存在だというのです。
 テヘラニアン 痛快な言葉ですね。
9  仏法の平等観の根本は他者への尊敬
 池田 また、日蓮はみずからを「日蓮今生には貧窮下賤の者と生れ旃陀羅せんだらが家より出たり」とも述べています。旃陀羅(サンスクリット〈梵語〉の「チャンダーラ」の音写)とは、カーストの外に位置づけられた人々のことです。
 日蓮はみずからの出自を、もっとも差別された民衆のなかにあるとし、その民衆のなかから『法華経』の信仰のゆえの「魂の尊貴さ」を高らかに宣言したのです。
 また、「男女はきらふべからず」と、男女間の本質的平等をも高らかに宣言しております。
 テヘラニアン 現代では当たり前の言葉ですが、当時と今とは状況がまったく違います。当時、この言葉を発することは迫害の対象となることを意味したでしょう。
 池田 そのとおりです。仏教の平等観の特徴は、すべての衆生に「仏性」を観るところにあります。つまり、それは差別されている人へ向けられる「哀れみ」ではなく、等しく有する「仏性」への尊敬です。
 『法華経』の常不軽菩薩品には、常不軽菩薩がどのような人に対しても、その仏性を尊び礼拝行を行った、とあります。この「礼拝行」は、サンスクリットで「ナマスカーラ」「ナマステー」です。「あなたに帰命します」という意味です。
 テヘラニアン 現在のインドやネパールでも、同じあいさつをしますね。インド人やネパール人が、両手を合わせてあいさつするのは、おたがいを尊敬をこめて礼拝する象徴と言えるでしょう。
 池田 おそらく、同じような伝統の流れだと思います。
 仏教の平等観の根本は、他者への尊敬です。みずからが偉いから、また恵まれているから、かわいそうな人を救うというのでは、その行為の奥にはエゴイズムが見え隠れするでしょう。
 そうではなく、他者のなかの仏性を尊敬するゆえに、利他の行動に打って出るのです。他者の仏性に奉仕するのです。これによって、利他の行動は「偽善」におちいることをまぬかれるのです。
10  イスラム社会がめざした平等と寛容のあり方
 テヘラニアン 心に響く言葉です。心に銘ずべき言葉です。
 イスラムの「平等思想」については、すでにかなり語りあってきました。ここで、仏教と比較対照するためにもう一度、概観したいと思います。
 イスラムが歴史の場面に登場したのは西暦六二二年のことですが、当時のアラビアは、ササン朝ペルシャや西アジアのビザンチン帝国(東ローマ帝国)と同様に、不平等が特徴であり、それはカースト制のような
 悲惨な状態にありました。
 池田 西アジアとヨーロッパの主要な帝国の接点に位置していたメッカは、南アジアと西アジアの間の交易の中心地として繁栄するようになっていましたね。
 しかし一方で、繁栄のなかの貧困も増大していた。経済的な差別も生まれていたのですね。
 テヘラニアン いつものことながら、繁栄は不公平を激化させていった。そういう時代状況のなかでイスラムが登場し、すでにふれましたように、ムハンマドの説く唯一神の教えと、人間は平等であるという根本思想が、急速に信奉者を得たのです。
 しかし、彼自身の部族の怒りを買い、ムハンマドと弟子たちはメッカを脱出し、メディナへ逃亡せざるをえませんでした。そうして誕生したメディナのイスラム国家が、ムスリムと非ムスリムとの間の平等原則を確立したのです。
 池田 メディナ憲章と呼ばれるものですね。
 テヘラニアン ええ。ここに、神の目から見れば、すべてのムスリムは平等であることが宣言されました。ただし、信仰の篤実さによる違いは、もうけられましたが。
 池田 非ムスリムも、税金を支払えば「ジンミー」として自治の権利を認められましたね。
 テヘラニアン そうです。彼らの自治体はイスラム国家の保護のもとに運営されることになりました。また、それまでのアラビアは、奴隷制度が一般の慣行でした。それに、女子には間引きが行われていました。
 イスラムは間引きを厳禁し、奴隷もイスラム信仰を受け入れることにより自由になれました。奴隷の解放は、イスラムの法制にきちんと定められています。
 池田 イスラムによる奴隷解放の事実は、あまり知られていませんね。
 テヘラニアン また当時、女性と孤児たちは、非常に差別された立場に置かれていました。イスラムは子どもの権利を保護するために、家族の関係をじつに細かいところまで規制しました。
 現代の基準でいえば、イスラムの結婚、離婚、相続などの法律のなかには、男女の不平等を維持しているものがありますが、イスラム社会は今、それを変えようと努力しています。
 池田 ムハンマドは、みずからが両親を早く亡くしたため、孤児や孤独に暮らす人々に対しては、とくに手厚く保護する規定をつくっていますね。
 たとえば、相続の問題についても、イスラム以前の部族社会では、父系男性親族にしか相続権が認められていませんでしたが、寡婦と孤児にも相続権を認めましたね。
 テヘラニアン 四人の妻まで娶っていいという、有名な『コーラン』の規定も、じつは戦争などで夫や父を失い、犠牲を強いられた寡婦と孤児を保護するためだったと解釈することができます。
 また、異教徒の保護については、ムハンマドは当時の政治上と宗教上の寛容の水準をはるかに超えて、ムスリムと非ムスリムが共存するために守るべきことを定めているのです。
 池田 先ほどもふれたように、メディナ憲章で、非ムスリムを「ジンミー」として安全を保障したことですね。たしかに、法制度にマイノリティー(少数者)の存在が組み込まれていたことは評価されるべきことだと思います。
 テヘラニアン ヨーロッパやアメリカの歴史家のなかには、伝統的なイスラム社会は、伝統的なキリスト教社会よりも、高い水準の平等と寛容を示していたと主張する人々がいます。
 池田 たとえば、著名な歴史学者であるマークコーエンもその一人ですね。
 彼は、中世のイスラム社会とヨーロッパにおけるユダヤ人迫害を比較して、「ジンミー」はムスリムとは税制度などにおける差別はあったものの、迫害されることなく保護された存在であった、と結論づけています。
 テヘラニアン オスマン帝国下の「ミッレト制」は、キリスト教国の異端者があずかったことのない水準の自治を、マイノリティーである非ムスリムに認めていました。
 現代世界の状況では、アラブイスラエル紛争の後、イスラム国家におけるユダヤ人の立場は危険にさらされました。イランやスーダンのような国ではバハイ教徒やキリスト教徒も迫害されます。
11  異質性は「差別」でなく「尊敬」の根拠に
 池田 オスマン帝国におけるユダヤ人の共同体では、ユダヤの文化的伝統が維持されていましたね。平等は、画一ではありません。違いを認め、違いによって差別しないことです。決して違いをなくすことではありません。
 テヘラニアン そうです。現代の大衆社会は、人を同じ尺度で測る傾向がありますが、それは正しいことではありません。
 この明らかな一例が、いわゆる知能テスト(IQテスト)です。言語能力と数学能力を測定する画一テストが開発されて以来、身体能力、音楽の才能、社会的適性など他の能力や知能が、はなはだ軽視されてきました。
 池田 おっしゃるとおりです。人を思いやる心、悪と闘う勇気などは、決して知能テストでは測定できません。しかし、そのような精神的な力こそが、人間の最大の徳なのです。
 テヘラニアン 「公正」「平等」は、まず人間が多様であることを認め、その価値を尊ぶことから始まらなければなりません。生は多様で、死は一様です。
 もっとも平等で公正な社会とは、まず一人一人の異なる潜在能力を発揮させることが、全員の潜在能力を発揮させる前提条件であると信じられている社会でしょう。
 性、人種、民族、年齢の違いは、差別の根拠にされるのではなく、礼讃されるべき、また尊重されるべき多様性なのです。
 池田 異質性は差別の根拠ではなく、尊敬の根拠――。すばらしい考えです。
 ふたたびご紹介しますが、仏教においても、「桜梅桃李」の考えがあります。桜には桜のよさがあり、梅には梅のよさがある。桃には桃のすばらしさがあり、李には李でかけがえのない価値がある。それぞれの個性を花開かせることが、社会に多様性という豊かさの薫りと実りをあたえるのです。
 テヘラニアン まことに示唆深い思想だと思います。

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