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日蓮大聖人・池田大作

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第五章 永遠の生命の視座――意識と人生…  

「21世紀への選択」マジッド・テヘラニアン(池田大作全集第108巻)

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14  今の一瞬に無限の生命を生きる
 テヘラニアン 神話は、身分制度のような圧制の正当性を示しうるイデオロギーにもなりうるのです。一見、「霊魂」を説かない仏教とは対照的に、アブラハム系の宗教は、人間は肉体と霊魂を具備しているとしています。そして、肉体は滅びるけれども、霊魂は永遠に不滅であるとされているわけです。しかし、最初に申し上げたように、言葉の表面上の違いにもかかわらず、この教えの深い意味は、仏教の輪廻説が深いところで意味するものと通じていると思います。善と悪の行動が審判される日まで、人間の魂は煉獄のなかで運命の決断を待つのです。この神話は私たちが自分の行動によって、今ここで天国や地獄、幸福や苦悩の生活をするということを言っています。
 池田 「不死」とは、本当に死なないのではない。苦しみからの自由です。それが輪廻からの解放です。その考えは『法華経』でもっともよく現れます。
  『法華経』の第十六番目の章は、その名も如来寿量品――いうなれば「如来の永遠の生命の章」です。この章では、釈尊が久遠の昔から仏であったと述べられます。
 テヘラニアン もちろんそれは文字どおりではなく、「象徴的意味」を考えねばならない言葉ですね。
 池田 ええ、日蓮はこの法理を「本有常住の仏なれば本の儘なり是を久遠と云うなり」と述べています。つまり、「久遠の仏」とは過去にさかのぼって見つかるものではない。仏道修行によって、みずからの心の中に“いま”顕れてくる人間本来の生命なのです。
 テヘラニアン よく分かります。人間は永遠なる自然の一部であることをあるがままに認識できれば、死の恐怖や欲望に結びつく種々の不安から自由になるのです。そして、そのとき、人は、他者への奉仕に、よりよく献身できるのです。この献身のなかでは、他者の幸福が自身の幸福になるでしょう。私たちがそれを永遠の精神ヤーヴェと呼ぶにしろ、キリスト、アラー、ブッダと呼ぶにしろ、この永遠性に加わるとき、私たちも不滅となるのです。
 池田 釈尊は『ダンマパダ(真理のことば)』の中で、信仰実践について「つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。つとめ励む人々は死ぬことが無い。怠りなまける人々は、死者のごとくである」(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳、岩波文庫)と語っています。
 仏教の生命観に共振する魂を有していた詩聖タゴールは謳います。
 「生命をふんだんにほどこすほど
  生命はますますほとばしり、
  もはや 生命は尽きないだろう」
 (「滝の目覚め」森本達雄訳、『タゴール著作集』1所収、第三文明社)
 仏教の生死観は、生死を永遠と見ます。ただし、それは霊魂不滅説ではありません。今の一瞬に無限の生命を生きることができるという意味です。
 テヘラニアン 今、会長と話をしていて、二人の女性のことを思い出しました。
 ダイアナ妃とマザーテレサです。両人は自身を超える偉大な目的に生を捧げられ、世界の人々の心を揺さぶりました。ダイアナ妃は、多くの慈善事業の率先はもとより、恐るべき対人地雷の撤去運動に勇気ある行動を示し、未来の英国女王たる身分から、世界の「心の女王」へ変身しました。
 マザーテレサは、ダイアナ妃の若々しい魅力と体力とは対照的に、肉体は虚弱な女性でありながら、インドの貧しい人々のなかに入って挺身し、ノーベル平和賞を授けられました。この非凡な二人の女性たちは、それぞれの人生の可能性をまっとうすることによって、自身の死を克服する精神の生きたる模範です。
 それぞれに、怠惰な無関心や優雅な孤立の人生を生き続けるのではなく、他者たちの苦を和らげる苦難の人生を選択した「王妃」と「聖者」であると追憶され、永遠に世界中の人々の心に生き続けることでしょう。

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