Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第三章 対立から共生へ――豊饒の時代の…  

「21世紀への選択」マジッド・テヘラニアン(池田大作全集第108巻)

前後
23  「三十羽の鳥」の美しい寓話が教えるもの
 テヘラニアン 十二世紀のスーフィズム(イスラム神秘主義)の詩人アッタールが、「鳥たちの会合」という美しい詩の中で、人生の精神的な旅の歓びと困難の諸相を、比喩や寓意を交えて謳っています。スーフィズムは、先に述べたように、仏教から大きな影響を受けています。
 池田 スーフィーの詩人であり思想家であったルーミーの師とされている人物ですね。興味深いです。ぜひ紹介してください。
 テヘラニアン まず、全世界の鳥たちが、彼らの神話の神である巨大な賢鳥シームルグがどこにいるかを議論する会議に集まります。そこで、会議の主宰者であるハドハドが「わたしは高い山中にいるシームルグのありかを知っている」と言いだします。それではシームルグを見つけようではないか、ということになり、鳥たちはハドハドに従い、長途の旅に出るのです。この旅というのが、スーフィーの説く「精神の進展の道の階梯」にちなむ七つの谷を渡るものです。
 池田 真理の探求が冒険物語となっているところが、交流と交易の文明イスラムらしいですね。その七つの谷とは……。
 テヘラニアン 探求から愛、知識、驚嘆、満足、富裕、清貧へと続く七つです。その道程にあって、多くの鳥たちが道を外れていきます。言い訳や遁辞を述べたり、
 不注意であったり、遅れたりして脱落していくのです。
 池田 それはおもしろい。脱落の原因は一様ではないのですね。人間の多様性への洞察力の豊かさが分かります。
 テヘラニアン ようやくシームルグの在処と思われる山の頂点に達したときには、わずかに三十羽の鳥しか残っていません。彼らはあたりを見まわします。
 池田 シームルグなど、どこにもいない。
 テヘラニアン そうです。おっしゃるとおり。鳥たちは自身がシームルグであることを発見するのです。シームルグとは、ペルシャ語で「三十羽の鳥」をも意味する言葉なのです。言葉遊びといえばそうなのですが、この寓話を通して詩人アッタールは、神は生きとし生けるものの共生と、相互依存性のなかにあることを教えていると言えましょう。
 池田 仏教説話にもありそうな寓話ですね。決して、幸福は彼方にあるのではない。他者とともに、生きていく瞬間、瞬間にある。理想を求めていく過程にこそある。仏教では「娑婆即寂光」と説きます。この現実世界で苦難と闘う人間の姿自体が、仏の姿なのです。また「煩悩即菩提」とも説きます。苦しみがなくなれば幸福かといえば、決してそうではない。苦しみに真正面から挑戦する姿自体が、崇高なのです。
 テヘラニアン なるほど、よく分かります。いかにして宗教的信条と現実的な社会性を調和させるか――それには、この寓話の示唆すること、また会長が今、語られた仏教の哲理を理解することから始めなければならないでしょう。
  
 必要な「驚きの感覚」と「畏敬の念」
 池田 詩聖タゴールも『ギタンジャリ』の中でこう謳っています。「そのような詠唱を 讃歌を 数珠のつまぐりをやめるのだ。扉をすっかり閉ざした寺院の こんな寂しい暗い片隅で、おまえは誰を拝んでいるのか? おまえの目を開けるのだ、そして見るがよい――おまえの前に 神がいまさぬのを。農夫が固い土を耕しているところ、道路人夫が石を砕いているところ、そこに 神はいたもう。神は 照る日も雨の日も 働く者とともにいて、その衣は塵にまみれている。おまえの法衣を脱ぎ捨て、あのかたにならって 埃っぽい大地の上に降りて来るのだ!」(『ギタンジャリ』森本達雄訳、第三文明社) ここには、近代のヒューマニズムと宗教の見事な両立が謳われています。大乗仏教の菩薩行にも通じる精神です。
 テヘラニアン そうです。近代的世俗性と宗教的信仰は、たがいに排斥しあうものではありません。それとは反対に、宗教的信仰のない近代性の未来というものは、寒々として見通しは暗い。
 池田 それはガンジーの指摘でもありますね。そして悲しいことに、二十世紀の歴史はそのことを証明してしまった。
 テヘラニアン そうです。主要な諸宗教に道徳的、精神的に導かれない現代の世界は、自滅してしまうでしょう。汚染、人口の増加、核兵器、生物化学兵器による戦争によって、また精神と道義の貧困のなかでの緩慢な死によって……。
 池田 今日の環境危機を早くから指摘していたアメリカの
 生物学者レイチェルカーソンの言う「センスオブワンダー」の感覚、つまり他者や未知のものに対する畏敬の念が、今、失われているのではないでしょうか。すべてを予測可能なもの、既知のものと矮小化してとらえ、それを支配したり加工しようとする。また、できると思っている。
 テヘラニアン それはまさに世俗的ヒューマニズムがもつ傲慢さの表れですね。ヒューマニズムは人間の運命、すなわち有限性、はかなさ、道徳的弱点というようなものの大いなる神秘性を明らかにしていません。信仰こそがそれをしている。だからこそ畏敬の念をもち、魅力を感じ、神秘を感じるのです。
 池田 自分以外のものを、軽視したり敵視するのではなく、まず「驚きの感覚」「畏敬の念」をもって見る。「存在の重み」「生の重み」の実感です。その感覚をたもっておくために、「永遠なるもの」「自分を超えたもの」を感じようとする宗教的な感性は、絶対に必要ですね。
 テヘラニアン まったく同感です。全面的に賛同します。

1
23