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日蓮大聖人・池田大作

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第二章 「寛容」と「多様性」――地球ル…  

「21世紀への選択」マジッド・テヘラニアン(池田大作全集第108巻)

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2  認識せずして評価するな
 池田 賢者とは過去を見つめ、未来を洞察する人のことです。博士は賢者です。その博士とともに、希望の新世紀を築くための方途を語りあえることは私の喜びです。こうしたテロ事件が象徴しているように、西欧諸国にとってイスラムは、「脅威」というイメージがことさら強いような気がします。イスラム文化、またムスリム(イスラム教徒)の生活の実像は、欧米諸国ばかりか日本でもなかなか報道されません。そのために、かたよったイメージが先行している感があります。
  たとえば、イスラム法にのっとった銀行では利子が禁止されていることなどは、イスラム世界ではごく普通のことなのに、そういうありふれた事実ですら、日本で知る人はほとんどいないでしょう。
 テヘラニアン 労働せずにお金がふえることを、好ましくないと考えることに由来する慣習です。イスラムの聖典『コーラン』に、その禁止は明示されています。〔節番号二二七六〕(以下、節番号はいわゆる「フリューゲル版」にのっとる)
 池田 イスラム銀行以外に預けているムスリムでも利子を放棄し、その分を喜捨や貧しい人への布施にと要望する人が多いそうですが。
 テヘラニアン 人さまざまですが、今、言われたような人はたしかに多いですね。とはいえ、イスラム銀行のなかには、預金者に出資者になることを許したり、イスラム法によって許された範囲で利子を受けとれるようにしているところもあります。
 池田 また、“女性が差別されているイスラム社会”というイメージも広まっていますが、女性の社会進出はさかんで、首相や政府高官や知識人にかなりの割合で女性がいます。少なくとも、その比率は日本以上でしょう。うれしいことに、創価大学にもヒジャーブ(イスラムの女性が顔をおおうのに用いる伝統的なスカーフ)を着用した女性留学生が学ばれています。彼女も母国での活躍が期待されています。「認識せずして評価するな」――これは創価学会の牧口初代会長の見識でした。ともかく、つくられたイメージから離れ、イスラムの実像に少しでも迫るために、まず基本的な事実を確認したいと思うのです。
 テヘラニアン 大賛成です。実像を知り、認識を深めることは、情報化が進んだ現代では重要です。高度情報化社会では、どうしても出来合いの情報を受動的に受け取ることしかできなくなるからです。
3  イスラム文化を象徴する時間の価値観
 池田 私は一九六二年(昭和三十七年)の一月末から約二週間、博士の故郷であるイランをはじめとして、イラク、トルコ、エジプト、パキスタンのイスラム諸国を訪れました。当時、日本は「高度経済成長」の坂を、猛烈な勢いで上っているところでした。新しい技術や製品が街にあふれだし、「物質的進歩」の至上価値を皆が疑わなかったころです。そういう日本から、宗教的伝統を重んじるイスラム諸国を訪れたのです。それは新鮮な驚きでした。なにかしら懐かしくもありました。たとえば、時間の概念です。イスラムでは日常的な時間をいくつかに分ける、と聞きました。
 テヘラニアン 祈る者のための時間「サラート」、労働のための時間「ショグル」、趣味やゆとりのための時間「ラーハ」などですね。
 池田 金儲けのためにあくせく働く「ショグル」の時間は、あまり高く評価されませんね。日本などでは、「ゆとり」といっても、翌日の仕事に向けて心身をリフレッシュするための“余暇”の時間は「ラーハ」というよりは、「ショグル」の一部と位置づけられるかもしれません。(笑い)
 テヘラニアン ワーカホリック(仕事中毒者)にとっては、すべてが「ショグル」。遊びも仕事に奉仕させられています。人生に何か目的があって、そのために働くのではない。働くために働くということになります。
 池田 一方、「ラーハ」は、友と有意義な対話をしたり、旅をしたり、詩を創ったり、人生の意味を思索する時間ですね。実際にイスラムの国々を訪れ、その「ラーハの時」がゆったりと流れているのを実感しました。また、祈りの時間、「サラート」もそうでした。異なる文化とありのままの姿で出合い、驚いたり感動したりすることは大切です。現代社会において、人は「他者」と出会うとき、まず“自分とは異質なもの”“奇異なもの”、さらには“悪”とすらみなして、身がまえる傾向がある。現代の深刻な病理です。
4  自己中心の世界観からの脱却
 テヘラニアン そのような態度を、エドワードWサイードは“オリエンタリズム(東洋主義)”と名づけ、批判しました。彼はこう述べています。「人は常に、世界を、実在または想像上の特質によって相互に区別されるような幾つかの地域へと分割してきた」 東と西の「関係は、さまざまな用語によって表現された。バルフォアやクローマーは、これらの用語の幾つかを型どおりに使ってみせた。たとえば、東洋人は非合理的で、下劣で(堕落していて)、幼稚で、『異常』である。したがって、ヨーロッパ人は、合理的で、有徳で、成熟しており、かつ『正常』であるということになる」(板垣雄三杉田英明監修『オリエンタリズム』今沢紀子訳、平凡社)
 池田 サイードについては、いろいろな評価がありますが、著書『オリエンタリズム』(一九七八年刊)が比較文化論の世界で近年、西洋優位の発想に警鐘を鳴らすなど大胆な問題提起をしたことは確かでしょう。サイードに反対の立場の人も、アジアやコロニアリズム(植民地主義)について語るときには、『オリエンタリズム』に着目せざるをえないようです。重い病と闘いながら、つねに「少数者」の立場に立とうとしたその意志、発言、そして行動は高く評価されます。人が他者を差別するとき、差別の因は決して差別される側にはない。差別する側にあるのです。相手が劣っているのではなく、見るほうがそういう見方しかできないからです。
 テヘラニアン おっしゃるとおりです。
 池田 “オリエンタリズム”は、ヨーロッパ、アメリカだけの問題ではありません。アジアの一員でありながら「脱亜入欧」をスローガンに、アジア的なものを欧米的なものよりも低く見て、「アジアの盟主」として君臨しようとしてきた日本のアジアを見る“眼差し”は、複雑で錯綜的です。
 テヘラニアン 本来、世界は「西洋」「東洋」などと、簡単に分類できるはずはないのです。たとえば、ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラムという世界的に大きな影響をもった宗教は、同じ西アジアを発祥の地としています。
 池田 そうですね。欧米の社会の精神的土台となった諸宗教が西アジアで生まれたのですから、欧米はアジアを「異者」として排除はできないはずですね。文化というものは、それほど融合している。日本も、
 精神形成の骨格となる儒教や仏教、また漢字などもアジアの国々から贈られました。
 テヘラニアン ですから、「純粋な民族」「純粋な国」などというものは存在せず、その概念が、どれほど偏見に満ちた危険な幻想かが分かります。
 池田 その危険な「幻想」につき動かされ、悲劇を繰り返してしまったのが、二十世紀でした。私が博士をはじめとするさまざまな方々と、文化や民族、宗教の違いを超えて対話を繰り返しているのも、対話によって「他者」と出会い、相互に触発されるなかで、地球上に、より多元的な平和交流を広げたいという思いからなのです。
5  ムハンマドの生い立ち
 池田 西アジアで生まれたユダヤ教、キリスト教、イスラムという三つの宗教の関係についてですが、イスラム自体が、それをどう考えていたかが、『コーラン』で明言されていますね。一つは、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教は、同じ一つの宗教の、異なった歴史上での現れであるということです。(たとえば『コーラン』には、次のような言葉がある。「〔ユダヤ教徒やキリスト教徒に〕言ってやるがよい、〈中略〉アッラーのことで我々と言い争いをしようというのか。アッラーは我々の神様でもあれば、お前たちの神様でもあるものを。〈中略〉我々が誠の限りをつくしておつかえ申すのはアッラーのみ」〔二一三三〕 「われらはアッラーを信じ、われらに啓示されたものを、またイブラーヒーム〈=アブラハム〉とイスマイール〈=イシュマエル〉とヤアクーブ〈=ヤコブ〉と〔イスラエルの十二〕
 支族に啓示されたものを、またムーサー〈モーセ〉とイーサー〈イエス〉に与えられたものを、またすべての予言者たちに神様から与えられたものを信じます。われらは彼ら〈今列挙した「使徒」たち〉の間に誰彼の差別は致しません。われらアッラーに帰依し奉ります」〔二一三〇〕 「聖典を授けられた人々〈=ユダヤ教徒、キリスト教徒〉は立派な知〈神の啓示による特別の知識〉を戴いておきながら、しかも互いに嫉み心を起して仲間割れを起した」〔三一七〕)(井筒俊彦訳、岩波文庫)
6  テヘラニアン そうです。ユダヤ教、キリスト教、イスラムは、それぞれの伝統のなかで、いずれも一神教の始祖としてアブラハムを崇敬するゆえに、しばしば等しく「アブラハムの宗教」と呼ばれます。ゾロアスター教も一神教であるし、それゆえにペルシャをイスラムが征服した後、ゾロアスター教の教えはイスラムによって「聖典の宗教」として認められました。
 池田 イスラムの創始者ムハンマド(マホメット)は、モーセやイエスと等しく預言者であり、しかも、ムハンマドは「預言者の封印」、すなわち最後の預言者である――これが、イスラムの認識ですね。
 テヘラニアン そのとおりです。
 池田 そこで、ムハンマドの生涯について、何点かおうかがいしたい。ムハンマドは、西暦五七〇年ごろ、アラビア半島のメッカで生まれたと伝承されています。また、メッカの有力な部族の一つであるクライシュ族に属していたと言われます。
 父親は、ムハンマドが母親の胎内にいるときに死去し、母親も六歳のとき世を去ったため、ムハンマドは叔父によって養育されました。しかも、非常に貧しかった。
 テヘラニアン そうです。ムハンマドは幼いときに多くの試練を経験したのです。両親との死別の影響も見逃せないでしょう。ムハンマドは二十五歳のとき、好運にも年上の裕福な寡婦ハディージャと結婚します。それからは、経済的に恵まれた生活を送りました。
7  「他者の苦」「永遠なるもの」に対する感性
 池田 しかし、ムハンマドの心の中には「しこり」や「刺」のような何かが、つねにあった……。それはおそらく、彼の人間性から発したものであったのでしょう。彼は社会の矛盾に対して、決して目を閉じてはおれなかった。『コーラン』には、孤児や貧しき人、孤独な人を大切にするよう、うながす文章がたくさんありますね。
 テヘラニアン 『コーラン』の「爽昧の章」(九三章。「朝明けの章」とも呼ばれる)には、こうあります。主は「もともと孤児の汝を見つけ出して、やさしく庇って下さったお方ではないか。道に迷っている汝を見つけて、手を引いて下さったお方、 赤貧の汝を見つけて、金持ちにして下さったお方ではないか」〔九三六~八〕(同前) ムハンマドの生い立ちの消息を語る印象深い一節です。
 池田 次の『コーラン』の一節も、鋭敏なムハンマドの感性を物語っていますね。「現世の生活はただ束の間の遊びごと、戯ごと、徒なる飾り。ただいたずらに(血筋)を誇り合い、かたみに財宝と息子の数を競うだけのこと」〔五七一九〕(同前) じつは、仏教の開祖である釈尊の青年時代にも、同じような「実存的な心のしこり」がありました。釈尊は王子として生まれましたが、生後一週間で母を失っています。経済的には、何不自由ない生活を送るなかで、貧富の差などの社会的な矛盾や、宮廷生活のぜいたくぶりへの疑問を、つねに感じていたようです。私は、偉大な宗教の創始者の生涯を見たとき、二つの感性において、非常に敏感であったように思えてなりません。それは「他者の苦に対する感性」そして「永遠なるものに対する感性」です。
 テヘラニアン 仏教でいうところの、「慈悲」と「智慧」のことですね。
 池田 そうです。若き釈尊が王子の位を捨て、一人、求道の旅に出たように、ムハンマドもまた、やがて一人で思索にふけることが、しばしば見られるようになりました。当時のそうした人々と同様、洞窟の中で過ごすことも多かったといいます。そして、かの「ライラアルカドル(威力の夜)」が訪れる。西暦六一〇年、洞窟の中で突然、天使ジブリール(『旧約聖書』のガブリエル)の「啓示を読め」という声を聞いたと言われていますが。
 テヘラニアン ええ。以後この啓示は、二十数年間、死を迎えるまで断続的に続きました。これを集めたものが『コーラン』です。「神の啓示」というと「非科学的だ」と一笑に付す
 向きがあるかもしれませんが、「啓示宗教」というイスラムの特質を考慮すると、そう不思議でも奇妙なことでもありません。そもそも、「非科学的」という決めつけこそが、非科学的態度そのものです。言葉や表現の表層ではなく、その奥にどのような意味をもつかを考えねばなりません。啓示の言葉は詩の言葉に近い象徴的なもので、字義だけにとらわれるべきではありません。
 池田 現代の学者の表現を使うと、「啓示」は「理念系」と言えますね。別の言葉を使えば、「表現の体系」と言ってもいいかもしれない。たとえば、芸術でいうと、パブロピカソは、あの独特の描写を用いて彼の芸術的インスピレーション(霊感)を表現したのです。それを「生物学的にこのような顔をした人間はいない」などと言っては、「芸術を解さない人だ」と逆に笑われてしまうでしょう。(笑い)
 テヘラニアン おっしゃるとおりです。
8  「現実の行動」こそ宗教の要諦
 池田 また、人は神が創ったという『旧約聖書』の考えは、進化論とは矛盾します。しかし、その確信から人の命は限りなく貴いと考え、平和運動に挺身したり、良心的兵役拒否の態度をとったりした人々がいたことも事実です。逆に、似非進化論を振りまわして、レイシズム(人種差別主義)やエスノセントリズム(自民族中心主義)、エスニッククレンジング(民族浄化)へ向かう人々もいます。そのほうが非理性的であることは、明確です。
 テヘラニアン 重要なことは、偉大な宗教者は、自身が啓示を身に帯した使命の人であることを、現実の行動で証明したということです。現実にその教えによって、人々をより幸福な人生へと導いたということです。教えの出所がどのような形かは、さほど重要ではないと思います。
 池田 博士の考えはよく分かります。たんに荒唐無稽だとか、迷信だとかと否定してしまう態度は問題です。そのような態度こそ、教条的かもしれません。その「啓示」が何を訴えているか、その「啓示」から導かれる行動によって社会がどうなるのかを、鋭く見きわめる態度こそが必要ではないでしょうか。
 テヘラニアン 池田会長の公平な心に感動しました。そして哲学的な洞察の深さに感銘いたしました。
 池田 ムハンマドの話に戻りますが、啓示にふれたムハンマドは驚き、苦悩します。そのムハンマドを、妻ハディージャが励まし、神の使徒として生きることを説き勧めた。そして、彼女が最初の教団のメンバーになります。
 テヘラニアン ムハンマドが広めようとした教えは、最初はメッカの人々に受け入れられませんでした。
 池田 メッカは中国、インドと地中海沿岸を結ぶ交易ルートの一大拠点として繁栄していました。しかし、それだけに貧富の差も大きかったと思われます。当時の生活倫理は、高名な東洋学者である井筒俊彦博士によれば「全ては過去によって決定される」
 (『イスラーム生誕』中公文庫)と考えることにありました。「過去」とは「自分たちの祖先が幾百年となく履み行って来た人生の途」(同前)であり、アラビア語では「スンナ(慣行)」と言うそうですね。
9  「信頼できる人」として新天地で活躍
 テヘラニアン 血縁の共同体的慣習をすべての基礎、中心とする考え方が、いきわたっていたのです。ムハンマドの革新思想は、このようなメッカの貴族主義的傾向を打ち破るものだった、と言えるでしょう。ムハンマドは、人間の高貴さは血筋などではなく信仰の深さによって決まり、いかなる人間も唯一神アッラーのもとに平等である、と主張しました。
 池田 当然、裕福で保守的な人々は、ムハンマドを自分たちの社会の基盤を侵す者として危険視したが、貧しい人々や庶民はムハンマドに同調した。とくに若い人たちに支持者が多かったとも言われます。最初、無視や嘲笑を続けていた既存権力は、やがてムハンマドの勢力が無視できないようになると、ムハンマドとそれに従う者たちに迫害を加えるようになりました。
 テヘラニアン その思想の革新性に気づいたのです。信者とその家族の多くは、エチオピアなどに逃れました。さらに不幸なことに、ムハンマドの最大の理解者である妻ハディージャが亡くなりました。また、父母を失った幼いムハンマドを引き取って養育した、叔父のアブータリーブも逝去します。
 池田 ムハンマドは宗教者としての人生においても、
 私的人生においても、最大の困難に遭遇したわけですね。
 テヘラニアン ええ。ムハンマドはそれから大胆にもメッカを離れ、北に三百キロメートル以上も離れた都市メディナに移ることになります(西暦六二二年)。これが「ヒジュラ(聖遷)」です。イスラム暦は、ここから始まります。イスラムの時代の始まりを意味するものです。
 池田 ムハンマドは、メディナで奇跡ともいうべき成功をおさめ、死までの十年あまりをここで過ごしました。人脈のほとんどなかったメディナで、ムハンマドが目覚ましい栄光を勝ちえたのは、なぜでしょうか。
 テヘラニアン 当時、ムハンマドのメディナへの脱出以前には、アラビア半島各地で部族間の絶え間ない戦いが行われていました。メディナでも、ユダヤとアラブの有力な数部族が長いあいだ対立し、抗争を繰り返していました。そこで、長年の対立の調停者として、ムハンマドが選ばれたのです。
 池田 メディナの人々は、なぜ調停者としてムハンマドを選んだのでしょうか。
 テヘラニアン 彼らはどの部族も、ムハンマドが正直者であるという評判を聞きおよんでいたのです。そこで、彼を部族間の調停者としてまねいたのです。
 池田 たしかに、ムハンマドは不遇な商人だった時代に、メッカの人々から「アミーン」、つまり「信頼できる人」と呼ばれ、一目置かれる存在だったと言われていますね。その人格がムハンマドの窮地を救い、メディナという活躍の舞台、新天地をあたえた。
 人徳が最高の財産であり、困難なときの最大の支えとなったということですね。
10  イスラム文明の真髄――「多様性」
 池田 引き続いて博士に質問したいのですが、イスラム文明の特徴とは何でしょうか。現代でも、アメリカにおいては、ムスリムたちによる個性的な文化創造の動きがありますし、ヨーロッパにおいては、音楽をはじめとして、イスラム文化が多方面にエネルギッシュな影響をあたえつつあります。私としても、イスラムの文化について興味が尽きません。
 テヘラニアン イスラム文明の真髄を一言でいうと、やはり「多様性」ですね。イスラム文明は四つの柱――宗教、法学、科学、文化――の上に築かれました。このうち、宗教の柱は、「宗教には無理強いということが禁もつ」〔二二五七〕(前掲『コーラン』)という『コーラン』の韻文にその特質が力強く表現されております。この文が、特定の宗教を人々に強制することなく、創造的な一体性への信仰を啓発したのです。そして、多様さを許容するイスラム法の体系を誕生させました。
 池田 イスラム法を意味する「シャリーア」という言葉は、もともと「水場へいたる道」を意味し、さらには「救いへといたる道」という意味があるとか。この場合、法といっても、国家における法体系というより、「人として守るべき道」という広い意味で解するべきものだそうですね。
 テヘラニアン そうです。そして宗教、法学に次いで、科学がやがてイスラムの第三の柱になりました。その依って立つ基盤が、ムハンマドの「ムスリムは男女を問わず、各人が知識を求めて『中国にさえ』赴かなくてはならない」という言葉だったのです。
 池田 イスラムと中国の交流は、ヨーロッパの大航海時代以前から存在していましたね。
 テヘラニアン ええ。中国は当時、アラブ人の地理的な想像のなかでは、おそらくもっとも遠隔の地であったと思われます。イスラムの学者や科学者たちは逡巡することなく、ペルシャ、エジプト、インド、中国の科学的成果を発見し、神のすばらしき神秘として活用できたのです。
 池田 少し話はそれますが、中国におけるイスラムといえば、有名な「アラジンと魔法のランプ」の主人公アラジンを思い出します。もちろん架空の話ですが、アラジンは中国の都市に住んでおり、そこで魔法のランプを見つけ、その威力で中国の支配者になります。おとぎ話では、かなり省略されていますが、中国におけるイスラムの発展はこうした物語からもうかがえます。また、イスラムが、ギリシャローマの哲学などの学問を大切にしたことは、よく知られています。
 テヘラニアン そうです。イスラム世界は、九世紀から十三世紀にかけて全世界をリードする科学技術の中心圏となりました。他の文化を破壊するのではなく、取り入れることによってイスラムは豊かになり、そして世界を豊かにしたのです。
 池田 他文化を吸収することが、自文化を豊かにする。このことは、人類がイスラムの繁栄の歴史から学ばねばならない教訓の一つです。
11  ルネサンスの恩人はイスラムの科学と文化
 テヘラニアン 身近な生活を豊かにする文化も、イスラムにおいて相当に発達しました。
 池田 そうですね。「アルコール」「アルカリ」「アンモニア」などの科学用語は、アラビア語、またはペルシャ語に起源を有すると言われていますね。「パジャマ」「コットン」「ソファ」「マガジン」「レモン」「オレンジ」「シロップ」「チューリップ」などの生活必需品、食品、草花の言葉もそうです。
 テヘラニアン ええ。「パラダイス」や「サタン」などの形而上的な概念もそうですね。その他の面でも、八世紀から九世紀にかけて、アリストテレスなど古代のギリシャ語の諸テキスト(文献)が、ほとんどといってもいいほどアラビア語に翻訳されました。
 池田 翻訳が国をあげての宗教的事業として、なされたことがうかがえます。ギリシャ文明など古代地中海世界の科学や思想、知識は、そのままヨーロッパに直結したのではなかった。ゲルマン民族の大移動とそれに続く中世の封建時代のあいだ、ギリシャローマの文明はイスラムによって保存され、発展してきました。
 テヘラニアン 十一世紀に始まる「東方」との交流の活性化によって、発達したイスラム文明の成果がヨーロッパにもち込まれたのです。
 池田 このとき、もち込まれたイスラムの科学と文化が、やがて来るルネサンスにたいへん重要な役割を
 果たしました。ルネサンスとは文芸復興、すなわち忘れ去られていたギリシャローマの文化を復興することでした。復興ということは、それまで衰退していたということです。ヨーロッパでギリシャローマの文化が衰退していたときに、その多くを保持発展させたイスラムは“ルネサンスの恩人”と言えるでしょう。
12  「寛容」が学者科学者の交流を促進
 テヘラニアン アリストテレスの著作などと同時に、イブンルシュド、イブンシーナなどのイスラムの哲学者の著作や思想もヨーロッパにもたらされ、中世のキリスト教神学の完成に大きな影響をあたえました。
 池田 これらの学者はアヴェロエス(イブンルシュド)、アヴィセンナ(イブンシーナ)とラテン語読みにされるほどヨーロッパで親しまれ、影響をあたえていますね。とくにイブンルシュドは、ラテンアヴェロイストと呼ばれる後継者たちをヨーロッパキリスト教内部に生んでいます。
 テヘラニアン 中世のヨーロッパは、閉鎖的な封建公国が割拠する時代が続いていました。それにくらべると同時期のイスラム諸国は開放的であり、広大な地域にわたる交易と人々の往来があって、このことが学者たちが原典にふれることを可能にしました。とくに、イスラム諸国中のユダヤ教、あるいはキリスト教の学者たちの働きは見落とせません。
 池田 アッバース朝の首都バグダッドには、イェシヴァ
 というユダヤ教の律法学院ができましたが、ここで『タルムード』(ユダヤ教の律法注釈書)の研究、編纂にたずさわったラビ(ユダヤ教の律法学者)たちがウラマー(イスラム法学者)と交流を行い、相互に影響をあたえあったそうですが。
 テヘラニアン イスラムが寛容であることは明らかでしたから、学者や科学者たちはどこの出身であろうと対話をし、交流することができたのです。ムスリムとキリスト教徒が共存していたスペインの例が、代表的なものです。
 池田 八世紀にスペインがイスラム圏に入ってから、コルドバやグラナダはヨーロッパ人が先進のイスラム文化に接することができる場所でした。これらの都市の大学で、ヨーロッパ諸国の学生は科学や芸術を学んだ。ことに美しいアルハンブラ宮殿のあるグラナダは、別名「ユダヤ人の街」と呼ばれるほど多くのユダヤ人が住んでいました。
13  画一化は死、多様性こそ文化の生命力
 テヘラニアン しかし一四九二年に、ムスリムがスペインから追い出されるやいなやユダヤ教徒も追い出され、以後、キリスト教の異端者に対する暗黒の宗教裁判が続きました。こうした歴史にもとづく教訓の意味は明らかです。すなわち、多様であることが文化の生命力の淵源であり、画一化は文化を沈滞させるのです。
 池田 多様性の否定について、テオドールアドルノも「純粋な同一性は死であるという哲学命題の正しさをアウシュヴィッツは証明している」(『否定弁証法』木田元徳永恂渡辺祐邦三島憲一須田朗宮武昭訳、作品社)と述べています。生命とは多様性の別名です。画一化は死です。多様な
 文化を尊重し、ともに共存の道を模索することが、文化の画一化が進行する現在、もっとも求められていることではないでしょうか。人間と人間が語りあうこと、これがすべての始まりです。人間と人間が心を開きあい、知りあい、友情を深めあえば、そこからいくらでも相互の違いや多様性に対する理解が生まれるのです。
 テヘラニアン 同感です。そして、この対談こそが、そうした努力を促進するものとなることを願ってやみません。

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