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日蓮大聖人・池田大作

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第一章 仏教とイスラム――平和への対話…  

「21世紀への選択」マジッド・テヘラニアン(池田大作全集第108巻)

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10  優れた「対話の人」こそ真の平和主義者
 池田 その意味でも、歴史を振り返って、先人たちが残した足跡を顧みることは、きわめて有益となりましょう。ソクラテスと並んで、私が優れた「対話の人」としてあげたいのは、宗教対立が相次ぐ惨劇を引き起こした十六世紀のフランスを生きぬいたモンテーニュです。彼は『エセー(随想録)』の中で、「精神を鍛練するもっとも有効で自然な方法は、私の考えでは、話し合うこと」であるとし、それは「人生の他のどの行為よりも楽しいもの」(原二郎訳、岩波文庫)と記しています。
 テヘラニアン 私も、「対話」すること自体がたいへん好きです。
 池田 それこそ、本物の「平和主義者」の証です。モンテーニュはさらに続けます。「いかなる信念も、たとえそれが私の信念とどんなに違っていようと、私を傷つけない。どんなにつまらない、突飛な思想でも、私にとって人間の精神の所産としてふさわしく思われないものはない」(同前)――と。
 テヘラニアン 私どもが提示したルールにも通じる視点が、見受けられますね。
 池田 ええ。『エセー』の中でも引用されているキケロの言葉「反駁なしには議論は成り立たない」(同前)をわが信条としていたモンテーニュは、対話の目的は真理の探究にこそあると強調しています。時と場所は異なりますが、先にふれたマハトマガンジーも、「真理こそ神である」をモットーとし、徹底してセクト性を排しました。そして、“聖なるもの”を求める精神の力、内なる力を全人類に目覚めさせようと、非暴力(アヒンサー)の行動を貫いたのです。
 テヘラニアン ガンジーといえば、会長のガンジー記念館での講演(一九九二年二月、「不戦世界を目指して――ガンジー主義と現代」がテーマ。本全集第2巻収録)に、たいへん感銘を受けました。対話というのは、ガンジーのいう「サティヤーグラハ」(真理を求め、守りぬくこと)と深い関連性があると私も思います。なぜなら、「サティヤーグラハ」は、人々の内奥の道徳的側面にアピールしていく
 戦いであるからです。
 池田 人々の内奥の道徳的側面にアピールしていく――対話の眼目はまさに、魂と魂の交流をうながすその精神の働きかけにある、と言ってよいでしょう。対話とは名ばかりの、一方的に押しつけるような態度で臨むのであれば、心の底からの納得などは生まれません。そこに残るのは結局、博士が先に述べた「憎しみの種子」だけでしょう。そんな対話では、人と人とを結びつけることなど、とうていできないのです。対話の必要性を訴えていく努力とともに、対話のあり方そのものを問い直す作業が欠かせません。この二つが相まってこそ、初めて対話の真の効用というものが社会の中で発現し、時代を動かす大きな力として結実していくのではないでしょうか。

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