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日蓮大聖人・池田大作

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第一章 仏教とイスラム――平和への対話…  

「21世紀への選択」マジッド・テヘラニアン(池田大作全集第108巻)

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1  行動する平和学者として
 池田 私は、平和のために戦う人を、もっとも尊敬します。平和を語る人は多いが、現実に行動を起こす人は少ない。
 行動する平和学者であるテヘラニアン博士と、こうして語りあえることを、うれしく思います。
 テヘラニアン こちらこそ、よろしくお願いします。池田SGI(創価学会インタナショナル)会長とは、これまで何度もお会いする機会がありましたが、いずれも時のたつのを忘れるほど充実したものでした。お話ししていると心がなごみます。ただし、いつも話しあいたいことが多すぎて、時間がたりないことが残念でなりません。
 池田 「コミュニケーション論」の権威である博士からのあたたかなお言葉に、勇気づけられます。ところでこの前、博士は南アフリカのダーバンへ行かれましたね。
 テヘラニアン ええ。私ども戸田記念国際平和研究所の主催で、アフリカの食糧安全保障をテーマに国際会議を開きました(一九九八年六月)。創立者の池田会長から丁重なメッセージを頂戴し、心から感謝しております。会議の冒頭に、私から紹介させていただきました。参加者から、すばらしい反応が寄せられたことをご報告します。私は、会長が早くから「二十一世紀はアフリカの世紀」と、アフリカに大きな関心をいだいてこられたことをよく知っています。
 池田 マンデラ大統領をはじめ、アフリカ各界の方々とも、私は、できうるかぎりお会いしてきました。ダーバンといえば、かのマハトマガンジーとゆかりの深いところですね。
 テヘラニアン そのとおりです。南アフリカで第三の都市であり、非暴力平和運動の原点の地といってよいでしょう。ガンジーは十九世紀末から二十一年間、そこで差別撤廃のために戦い続けました。
 池田 ガンジーについては折にふれて論じあいたいと思いますが、インドとパキスタンの核実験を見ても、人類は二十一世紀へ、あらためて非暴力主義を再評価し、生かしていく道を考えるべきではないでしょうか。絶対に核戦争は起こしてはならない。
 テヘラニアン まったく同感です。戸田平和研究所が今、主要な研究プロジェクトとして「ヒューマンセキュリティー(人間の安全保障)」を取り上げ、その重要な課題として核兵器廃絶への手だてを考えているのもそのためです。私も座して研究に没頭するだけでなく、核兵器廃絶へ向けて、英知のネットワークを築くために行動していきます。
2  生い立ち――幼き日の思い出
 池田 さて対話を進める前に、私たちの相互理解を深めていくために、まず博士の生い立ちからうかがっていきたいと思います。
 テヘラニアン 分かりました。私は一九三七年、イランのマシュハドというところで生まれました。この「マシュハド」という地名は、“殉教の地”を意味する言葉に由来するものです。ここには、イスラムシーア派の最高指導者、第八代イマームレザーが埋葬されています。九世紀に、ホラーサーン州の知事として赴任してきたレザー師は、この地に到着して間もなく、敵対者たちに毒殺されてしまったのです。レザー師は公平な正義の指導者として名高い人だっただけに、その死がたいへん惜しまれ、この地は師にちなんで“殉教の地”を意味する「マシュハド」と名づけられたのです。
 池田 その墓所であるイマームレザー廟は、今でも毎年、世界各地からシーア派の巡礼者たちが訪れる聖地として有名だそうですね。
 テヘラニアン ええ。ですから、そこで生まれた私はいやおうなしに、「マシュハド」という場所がもつ精神的な意味合いを、子どものころから意識して育ってきたのです。私は現在、ハワイで暮らしていますが、生まれ故郷を思い出すとき目に浮かんでくるのは、イマームレザー廟の黄金色のドームと、それに付属する高い塔の情景です。ドームは市街地の中心部にあり、私の家からもよく見えました。そしてそこから、日の出、正午、日没と、塔から放送される祈りへの呼び声が聞こえてきたのです。
 池田 太陽の光に輝く黄金色のドーム、そして街々をつつみこむ祈りの声――まさに、お国を象徴する情景ですね。私は一九二八年(昭和三年)、東京の大田区で生まれました。当時は、都会の田舎という感じで、とくに記憶に残っている光景は家の近くの海岸から望む海です。とてもきれいな、青い海でした。実家が、海苔採取という栽培漁業をいとなんでいたこともあり、潮の干満に合わせ真夜中に仕事へと出かける父たちの姿と、それを懸命に支える母の印象が深く残っています。
 テヘラニアン 私が忘れられないのは、朝な夕なにコーランを唱える母の美しい声です。幼き日にいつも耳にしていたこの声が、私の心に深い宗教的情操を植えつけました。私の一日は、鐘の音、アザーン(礼拝時の告知)の詠唱、そして母のコーランを唱える声によって区切られ、明け暮れたのです。こうした生活が、まだ幼かった私の生命に美しい規則性をあたえ、この世に自己を超越した世界があることを銘記させました。今、思えば、私は生まれながらにして、精神生活の世界というものを、知らずしらずのうちに経験してきたような気がします。
3  人間を野獣に変える“戦争の愚かさ”
 池田 母の声には、平和の響きがあります。私が十一歳のとき、あの忌まわしい第二次世界大戦が始まりました。博士はおいくつでしたか。
 テヘラニアン そのとき、私はまだ二歳でした。
 イランは中立を宣言したにもかかわらず、連合国軍に侵略され、占領されました。当時、連合国側のソ連の一部地域は、ナチスドイツ側によって包囲されていました。イランはその地域へ、連合国が戦略物資をペルシャ湾から送り込むための“勝利への橋”として利用されたのです。一方で、私の故郷マシュハドも爆撃を受け、ソ連軍に占領されてしまいました。当時、市街地を歩くとき、ソ連軍の砲弾の破片が当たらないように、私は母のチャードル(大きなヴェール)の陰によく隠れていたことを覚えています。
 池田 人々の幸せな暮らしを、根こそぎ台無しにしてしまう。それまで暮らしていた町が一日にして灰になり、親しかった人々の命を次々と奪っていく――戦争のむごさというものは、体験していなければ分かりません。
 テヘラニアン 本当にそのとおりです。こんな苦い思い出もありました。私の兄たちが、市の公営プールで泳いでいたときのことです。そこに突如、ソ連の兵隊が現れました。兵隊たちは兄たちを見つけると、「もうダメだ」と思うまで兄たちを水中に押さえつけ、それからようやく引き上げては喜んでいる……。そんなことを何度も繰り返していました。どうやら彼らは、兄たちが苦しむ様子をおもしろがり、楽しんでいるらしい――そのときから、戦争に対する憎しみが私の心に埋めこまれました。戦争は人間を“野獣”に変えてしまうことを、私は思い知らされたのです。ときには、ソ連の兵隊が子どもにお菓子を与えることもありましたが、そんな優しさはきわめて例外的なものだったのです。
4  「平和への道」を歩み始めるまで
 池田 戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない。――私は、小説『人間革命』の書きだしを、この一節から始めました。それは観念ではなく、ましてや感傷などでは決してない。すべての人々を悲劇へと巻き込んでいく「戦争」に対する、私の強い憤りの思いをつづったものです。
 テヘラニアン 感銘します。私の戦争に対する怒りが行動につながったのは、学校に行くようになり、読み書きを覚えてからのことでした。私なりの反戦感情は、まず愛国心へと向かいました。小学二年生で手作りの雑誌を出し、ジャーナリストの卵になったのです。そこには記事、漫画、それに論説も書きました。今、思えば、まことにささやかなものですが。
 池田 それは、すばらしい。いったいどのような内容だったのですか。
 テヘラニアン 論説の重点は、連合国軍のイラン占領におきました。二人の姉妹が一体の人形をめぐって争い、それをちぎって皆を泣かせる――学校で教わった話を用いて、論じたのです。漫画にはその話に合わせて、連合国同士が――北ではソ連が、南ではイギリスが――イランをめぐって争っている地図を取り入れました。その雑誌を一部買ってくれた祖父が、「お前はいいことをしたけれども、そのために検閲されるぞ」と、言ったものです。こうして私の運命は決まりました。私は歯に衣着せない不戦主義者と反帝国主義者として、一生ペンで闘う人間になったのです。
 池田 傲慢な権力と闘いぬく人こそ、真の正義の勇者です。私は十九歳のとき、師である戸田城聖第二代会長とめぐり会いました。そして、創価学会が平和思想である仏法を根幹にしていること、また第二次大戦中に、戦争遂行に狂奔する軍部権力と闘いぬいた結果、牧口常三郎初代会長が獄死し、戸田会長も二年間、投獄されていたことを知りました。以来、私は仏法を基調とした「平和への道」を歩み始めることになったのです。
5  人間の真価は「権力との闘い」に現れる
 テヘラニアン 私自身、不当な理由で一時身柄を拘束されたことがありますから、投獄されてもなお信念を曲げなかった牧口戸田両会長の偉大さはよく分かります。私はイランを出てアメリカに渡り、ハーバード大学で学ぶかたわら、イラン学生協会の会長として祖国の民主化運動に身を投じていました。それで、イランの秘密警察から狙われていたのです。一九七一年、三十四歳のときです。私は望郷の思いにかられて帰国を考えました。両親からは帰国は危険だと忠告されましたが、ハーバード時代の学友でイラン政府の要職についていた友人から、「一緒に仕事をしてほしい」と頼まれたこともあり、勇気を奮って帰ることを決断したのです。
 池田 あえて、そうされたわけですね。
 テヘラニアン ええ。イランに到着した日、私のパスポートを見た秘密警察の役人がブラックリストのファイルを調べて、急に顔をほころばせました。“反体制派のリーダーを捕まえた”と喜んだのでしょう。
 私は即刻、空港の警備室まで連れていかれたのです。そのとき、通路の窓から家族が手を振っているのが見えました。私がすぐ手続きを終えて出てくるだろうと思っていた彼らの顔は、担当官に連行されていく私の姿を見て、みるみるうちに恐怖にひきつっていきました。なぜなら皆、イランの残酷な独裁の歴史を知っているからです。
 池田 「まさか」と心配されたのですね。
 テヘラニアン そこで私は、家族にメッセージを伝えることにしました。「政府の友人の保証もあるので、心配はいらない。今、捕まっているのは誤解なのだから、皆は家に帰りなさい」――と。翌朝、当局から私が危険分子ではないとの一応の保証が得られ、釈放されたのです。しかし、「呼び出しに応じて、いつでも当局に出頭すること」「当局の許可なしに出国しないこと」を約束させられ、以後七年間、つねに監視されていました。その後、仕事を始めたのですが、最初のうちは給料さえもらえなかったのです。
 池田 胸に突き刺さる、真実の証言です。牧口会長や戸田会長と同じく、私も無実の罪で投獄されました。忘れもしない、一九五七年(昭和三十二年)の七月、二十九歳のときです。民衆運動の台頭を恐れた権力が、まだ広範な運動になる前に芽をつんでおこうと、私を不当に拘置したものでした。しかし、権力の弾圧には絶対に屈しなかった。
 テヘラニアン 私は、創価学会の三代の会長の生き方に深い感動をおぼえます。なぜなら、三人とも個人的な苦悩を乗り越えながら、なおかつ、そこに安住することなく人類のために徹して行動されているからです。そしてまた、
 崇高な美しい価値を創造されているからです。世界には多くの苦悩する人々がいますが、三代の会長のように「人類のために闘う崇高な人生」へと、自分の生き方を転換できる人はごくかぎられています。
6  平和への「持続の挑戦」と「責任への挑戦」
 池田 私のことはともかく、一流の人は一流の次元で、見るべき点を見ることを実感します。みずからの悩みや苦しみを乗り越えて、社会に人類に貢献できる自分へと変革していく――まさにそこに、私どもSGI(創価学会インタナショナル)のめざす「人間革命」運動の眼目もあります。
 テヘラニアン その意味でも、私は「創価(価値創造)」という学会の名称に深い意義を感じます。マハトマガンジー、マーチンルーサーキングなど、歴史に新たな「創造の道」を開いた人々は皆、価値観の危機の時代に生まれ、生きてきました。そうした危機の時代に、新たな「創造への知恵」を輝かせるためには、何よりも、境遇に負けない「自己規律の心」を強く育むことが肝要です。一般に、「自己規律の心」が強い人ほど、権威に挑み、古い権威との闘いのなかで新たな創造の道を切り開いています。
 池田 危機の時代にあって価値創造の道を歩むためには、「自己規律の心」が欠かせない――この博士の鋭い指摘は、胸に響きます。この点、私の友人であるハーバード大学のヌールヤーマン教授も、「『持続の挑戦』こそが、偉大なる価値創造のための源泉である」と述べておられた。
  私が考える「持続の挑戦」とは、民衆一人一人が賢明になり、強靭な連帯をつくりあげていくことだと思います。「平和」という問題を考えても、民衆が権力の暴走を制御する力をもたなければ、戦争の惨劇は決して止むことはないのです。
 テヘラニアン 時代の趨勢として、グローバリゼーション(地球一体化)にともなう世界の相互依存性が強まっていますが、残念ながらそれに見合う“地球的視野”は、いまだ開発途上にあると言えましょう。私は、池田会長がそのパイオニアとして、世界的な規模で思索と行動を重ねてこられたことを、よく存じあげております。
 池田 過分な評価をいただき、恐縮です。私は、「第三の千年」の基調となる、新たな世界ビジョンを模索し、打ち立てるための一つの結集軸になればと願い、一九九六年(平成八年)二月、戸田平和研究所を創設し、博士に所長に就いていただいたのです。
 テヘラニアン 所長就任は、私にとってたいへんに光栄なことでした。会長からの真情あふれる要請をお受けしたとき、この仕事は私自身が深く信じる大義に添うものであり、また平和を愛し求める人々とともに働く千載一遇のチャンスである、ということを即座に感じました。創価学会の存在には以前から関心をもっており、私なりに研究を進めるなかで“世界平和を探求する不屈の団体”であるとの結論に達していたのです。九二年七月に会長と初めて東京でお会いし、その考えははっきりとした確信へと変わりました。
 池田 かつて博士は、私ども創価学会の歴史にふれて、「牧口初代会長が、宗教改革の名において権威の
 宗教と戦い、平和の名において軍部の権力と戦い、自分自身の思想に殉じられた姿。そこに『価値創造者』の至高の姿があると思う」と論じてくださったことがありました。こうした深い理解を寄せてくださる博士に、所長を引き受けていただいたことは、私にとって研究所の誕生とともに、二重の喜びとなりました。
 テヘラニアン ありがとうございます。所長就任は、平和探求に生きてきた私にとっての、いうなれば「責任への挑戦」でもありました。発足にあたって、スタッフとともに研究所の使命を討議していくうちに浮かびあがってきたことがあります。それは、「新しい世界のための、まったく新しいタイプの研究所にならねばならない」という点です。私がここでいう「新しい世界」とは、「コミュニケーションの回路はどんどん拡大しているにもかかわらず、対話そのものは切実に不足している世界」のことです。そこで戸田平和研究所では、モットーとして「地球市民のための文明間の対話」を掲げ、戸田第二代会長の生誕一〇〇年である二〇〇〇年を一つの目標に、研究を進めてきました。
7  求められる「対話」の精神
 池田 創立者として私も研究所に対し、できうるかぎりの応援をしていく決心です。さて、テヘラニアン博士は、私たちの対談を始めるにあたって、これを「対話への選択」と意義づけたいと提案されましたね。
 テヘラニアン はい。会長と二人の卓越した学者、アーノルドトインビー博士との対談集『生への選択』、
 ヨハンガルトゥング博士との対談集『平和への選択』は、興味深く読ませていただきました。(=『生への選択』は、『二十一世紀への対話』〈日本語版〉の外国語版のタイトル。日本語版は本全集第3巻収録。『平和への選択』は同第104巻収録) 二つの対談集ではそれぞれ、平和的な手段によって平和を探求し、生命の尊厳をいかにたもつかというテーマに、主として焦点が絞られていました。いずれも、人類そのものとともに始まった古くからの問題であり、同時に今日においてもきわめて重要な問題であることに変わりありません。しかし、今や私たちの時代は、この「生命」や「平和」と同程度に「対話」が必要とされる歴史の段階に入ったのです。じつのところ「対話」こそが、「生命」と「平和」を保障しうる唯一の手段かもしれないのです。
 池田 そうした思いを共有して、私は、この対談の日本語版のタイトルを「二十一世紀への選択」と発案させていただきました。思うに、人間の人間たる証は、つまるところ対話の精神に表れるのではないでしょうか。博士の故国イランの大詩人サアディーは、こう訴えています。「人は語るの術において獣にまさる、善きことを語らぬなら獣が汝に勝ろう!」(『薔薇園』蒲生礼一訳、平凡社)と。
 テヘラニアン 同じく「ペルシャの三大詩人」の一人であるルーミーも、同様のことを繰り返し訴えていました。そのルーミーは、異なる地域で誕生した文化的遺産――仏教とイスラムの教えを結びつけながら二つの文明の橋渡しをしたのではないか、と私は考えています。
 池田 サアディーにしても、ルーミーにしても、言葉を生命とする詩人であるからこそ、「対話」の重要性を肌身で感じとっていたのでしょうか。ともあれ、異なる文化、文明間の橋渡しという作業が、二十一世紀における大きな課題となってくることはまちがいありません。
 テヘラニアン ええ。今日では市場と社会のグローバリゼーションが進むにつれ、国家間、文化間、文明間の接触が親密になり、大規模になってきました。しかしその反面で、経済と政治の組織や体制は協力的であるとともに競争的になり、交流や協議の機会はあるものの、認識や利害が対立する状況をまねいています。こうした「接触」に、当然ともなうべき対話が欠けているかぎり、残念ながら事態は暴力と圧制のもとにあるのと同じく、「憎しみの種子」がこれからもまかれ続けていくでしょう。それこそ何年も、何十年も……。
 池田 そのような時代状況をふまえて、「文明の衝突」論(ハーバード大学のサミュエルハンチントン教授の説)などが一部で唱えられていますね。しかし、衝突が不可避であると考えることは正しくありません。そればかりか、対立の構図を安易に固定化させてしまう危険がある、と私は考えます。かりに衝突が起こったとしても、真の原因は文明そのものにあるのではなく、そこに巣くう野蛮性にあるのではないでしょうか。文明同士ではなく、異なる集団を認めようとしない野蛮性が衝突するのです。こうした事態を防ぐためにも、あくまで人間にそなわる善性を信じ、そこに呼びかけ働きかけていく「対話」の精神が何よりも求められるのです。
 テヘラニアン おっしゃるとおりです。
 友か敵かの関係に対応する手段として、「対話」が選択されるならば、たがいに相手をよりよく理解できる可能性、そして、それによる認識と利害の相互的な受容という可能性が、希望として開かれてくるはずです。
 池田 「対話」こそ、平和への武器です。これは仏教の根本精神でもあります。釈尊が生きた当時のインド社会は、ある意味で現代とよく似た社会の変革期で価値観が混乱していた時代であり、いろいろな勢力が相対する暴力的な時代でした。家の中ですら、武器を手放せなかったともいわれています。そんな乱れた社会にあって、釈尊は人々の幸福のために、生涯、国々を遍歴し平和への行動を貫きました。その武器が“非暴力の対話”でした。釈尊は対話によって「生命の尊厳」を説き、暴力の排除へと社会をリードしていったのです。
8  「人間性」という共通の大地に立って
 テヘラニアン 対話がない世界は、暗黒です。「対話」がなければ、人間は独善という暗闇の中を歩み続けねばならないのです。
 池田 博士の比喩を借りれば、「対話」とは、その暗闇にあって自身の足元を照らしだすものとも表現することができますね。人間と人間が語りあうこと――ここからすべては始まります。現代の大きな焦点となっている「文明間の対話」といっても、あくまでその基本となるのは「人間と人間の対話」なのです。社会主義の国々を訪れたさいにも、「そこに人間がいるから」という信念で、私は「友好の橋」を架けようと努めてきました。友か敵かといった、二者択一的な関係を打ち破り、「人間性」という共通の大地に立って心を開いて話しあうことが、問題解決の糸口を見いだすことにつながると固く信じてきました。
 テヘラニアン 池田会長の行動は、じつに先駆的です。過去四十年間にわたり、トインビー博士からゴルバチョフ元大統領など、世界の指導的な立場の方々と千五百回を超える対話を続けてこられた。ご指摘のように、「相違点」と同時に「共通点」を見いだし、認めあうことから新しい価値は生まれてくるのです。
 池田 かつて社会主義国に対してそうだったように、今はイスラム圏に対して、欧米諸国を中心とする多くの人たちがステレオタイプ(紋切り型)の偏った先入観をいだいていると思います。非常に危険なことです。
 テヘラニアン 私も、現在の状況を深く憂慮しています。しかし、これまでさまざまな文化を背景とする識者との対話を重ねられ、また仏教とキリスト教をはじめ宗教間の対話にも意欲的に取り組んでこられた池田会長ならば、そのむずかしい「橋渡し」も実現可能なのではないでしょうか。会長は国際社会において、特定の国が“孤立化”しないよう率先して行動してこられた。世界を「分断」の危機から救おうとされるそのご努力に、私は心より敬意を表したいのです。
 池田 いや、博士こそ戸田平和研究所での短期間の目覚ましい実績を拝見しただけでも、グローバルな対話の推進役になられています。「よく知る」ということが、友好を深めるための第一歩となります。たがいの長所を認めあい、謙虚に学びあっていく姿勢が、現代を生きる私たちには求められております。仏教とイスラムという、異なる背景をもつ私たち二人が行う対談が、その一助になればと願っています。
 テヘラニアン 同感です。私も、全力で取り組みます。
9  「他者性の尊重」にもとづく「開かれた対話」
 テヘラニアン 先ほども紹介しましたが、戸田平和研究所では「地球市民のための文明間の対話」をモットーに掲げ、研究を進めております。そのあり様を模索するなかで、「対話のルール」ともいうべき、一つのガイドラインをまとめました。網羅的ではなく、あくまで試案的なものですが、ここで紹介させていただいてよろしいでしょうか。
 池田 どうぞ、ぜひお願いします。
 テヘラニアン 全部で十項目あります。
 一、他者を尊重し、心情と精神のすべてをもって他者の意見に深く耳をかたむける。
 二、総意への共通の基盤を探求するが、意見の多様さを認め、重んじて、グループ思考はさける。
 三、不適切な干渉も、節度のない干渉もしない。
 四、討論に自身が貢献する前に、他者の貢献を認める。
 五、沈黙も言葉であることを忘れない。発言は適切な問いを提起するか、事実を述べるか、主張するか、主張を明確にするか、討論をより具体的な点へ、またはより大きな総意へ進めることに
 よってなすべき寄与があるときにかぎる。
 六、重大な意見の相違があるときは、相違を認めたうえでさらに討議する。
 七、自身の意見を通すため他者の意見を歪めることは決してしない。自身の異論を述べる前に、他者の立場に他者が満足するまで言いおよぶように努める。
 八、いかなる討議事項にも一致点を形成したあと、次の議題に移る。
 九、グループの方針と行動のため、一致点に含まれる意味合いを引き出す。
 十、自身の同僚たちにその貢献を感謝する。――以上です。
 池田 いずれも重要なポイントですね。すべての項目を通じて、「他者性の尊重」に根ざした「開かれた対話」という視点が貫かれています。人類がめざすべき対話のモデルを提示した試みとして、高く評価されてしかるべきでしょう。また、後世に残る試みだと信じます。
 テヘラニアン ありがとうございます。今後も、さまざまな角度からさらに検討を加えながら、研究を進めていきたいと思います。
10  優れた「対話の人」こそ真の平和主義者
 池田 その意味でも、歴史を振り返って、先人たちが残した足跡を顧みることは、きわめて有益となりましょう。ソクラテスと並んで、私が優れた「対話の人」としてあげたいのは、宗教対立が相次ぐ惨劇を引き起こした十六世紀のフランスを生きぬいたモンテーニュです。彼は『エセー(随想録)』の中で、「精神を鍛練するもっとも有効で自然な方法は、私の考えでは、話し合うこと」であるとし、それは「人生の他のどの行為よりも楽しいもの」(原二郎訳、岩波文庫)と記しています。
 テヘラニアン 私も、「対話」すること自体がたいへん好きです。
 池田 それこそ、本物の「平和主義者」の証です。モンテーニュはさらに続けます。「いかなる信念も、たとえそれが私の信念とどんなに違っていようと、私を傷つけない。どんなにつまらない、突飛な思想でも、私にとって人間の精神の所産としてふさわしく思われないものはない」(同前)――と。
 テヘラニアン 私どもが提示したルールにも通じる視点が、見受けられますね。
 池田 ええ。『エセー』の中でも引用されているキケロの言葉「反駁なしには議論は成り立たない」(同前)をわが信条としていたモンテーニュは、対話の目的は真理の探究にこそあると強調しています。時と場所は異なりますが、先にふれたマハトマガンジーも、「真理こそ神である」をモットーとし、徹底してセクト性を排しました。そして、“聖なるもの”を求める精神の力、内なる力を全人類に目覚めさせようと、非暴力(アヒンサー)の行動を貫いたのです。
 テヘラニアン ガンジーといえば、会長のガンジー記念館での講演(一九九二年二月、「不戦世界を目指して――ガンジー主義と現代」がテーマ。本全集第2巻収録)に、たいへん感銘を受けました。対話というのは、ガンジーのいう「サティヤーグラハ」(真理を求め、守りぬくこと)と深い関連性があると私も思います。なぜなら、「サティヤーグラハ」は、人々の内奥の道徳的側面にアピールしていく
 戦いであるからです。
 池田 人々の内奥の道徳的側面にアピールしていく――対話の眼目はまさに、魂と魂の交流をうながすその精神の働きかけにある、と言ってよいでしょう。対話とは名ばかりの、一方的に押しつけるような態度で臨むのであれば、心の底からの納得などは生まれません。そこに残るのは結局、博士が先に述べた「憎しみの種子」だけでしょう。そんな対話では、人と人とを結びつけることなど、とうていできないのです。対話の必要性を訴えていく努力とともに、対話のあり方そのものを問い直す作業が欠かせません。この二つが相まってこそ、初めて対話の真の効用というものが社会の中で発現し、時代を動かす大きな力として結実していくのではないでしょうか。

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