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はじめに  

「21世紀への選択」マジッド・テヘラニアン(池田大作全集第108巻)

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2  はじめに(池田 大作)
 平和学者のマジッドテヘラニアン博士と初めてお会いしたのは、一九九二年(平成四年)七月であった。博士はシルクロードの遺跡へ向かう旅の途中で、東京に立ち寄られた。その折に、語りあう機会を得たのである。
 眼差しは、春の光のような温かさを感じさせた。
 穏やかな口調が、ひとたび戦争と平和の問題となると、一変して語気を強めて語られる。その情熱的な姿が印象的であった。
 私は、胸の奥に秘めた“信念の炎”を見る思いがした。
3  博士と私はともに、戦争の嵐が吹き荒れるなかで、少年時代を過ごした体験をもつ。
 博士は、一九三七年、イランのマシュハドで誕生された。
 ほどなくして第二次世界大戦が勃発し、街は爆撃を受け、占領される。幼心にも、戦争の悲惨さは深く刻まれたにちがいない。
 「戦争は人間を“野獣”に変えてしまうことを、私は思い知らされたのです」
 少年は戦争を憎んだ。そして、怒りを決意に変えた。
 平和な世界を築くために、一生を捧げよう!と。
4  青春の日、アメリカに渡ってからも、ハーバード大学で勉強に努めるかたわら、祖国の民主化運動のために戦われた。
 そのため、帰国したさいには空港で身柄を拘束され、釈放された後も、七年間にわたり当局の監視が続けられたという。
 だが博士は、信念の歩みを止めることはなかった。
 「波浪は障害にあうごとに、その頑固の度を増す」との箴言のごとく、“平和を求める心”を、いやまして強めていかれたのである。
 だからこそ、一言一言に重みがある。「行動する平和学者」として培ってこられた“闘争する英知”が輝いておられる。
 「地球民族主義」や「原水爆禁止宣言」などの先見的思想を世に問うた、わが師戸田城聖創価学会第二代会長の平和思想を永遠にとどめるため、一九九六年二月、私は「戸田記念国際平和研究所」を設立した。
 私が長い間、あたためてきた構想であった。
 そのさい、初代所長への就任を、テヘラニアン博士にお願いした。社会の現実のなかで苦しむ人々の側に立つ研究姿勢とともに、それを支える鋼のような信条に、感銘をおぼえたからであった。
 就任の快諾をいただいた直後、私たちは再会した。
 「文明間の対話」をめぐる対談を、二人で進めようと合意したのも、そのときだった。
 以来、博士は、研究所の活動でも「地球市民のための文明間の対話」をモットーに、平和研究のネットワークを世界に広げながら、つねに時代の喫緊の課題に取り組んでこられた。
 本年(二〇〇〇年)二月には、戸田第二代会長生誕百周年を記念し、沖縄で「文明間の対話」をめぐる国際会議も開催した。
 この会議は今後、モスクワや北京などでの開催が予定されており、その成果が、大いに期待されるところである。
5  テヘラニアン博士は、宗教にも造詣が深い。
 文明と文明との“橋渡し”を進めるうえで、宗教が薫発する「開かれた心」が重要となると強調しておられた。
 博士は、ハーバードの大学院時代、著名な宗教学者パウルティリッヒ博士のもとで学ばれたことがある。
 二十世紀を代表する神学者の一人であり、仏教にも強い関心をいだいていたティリッヒ博士は、宗教の本質を“存在に通じる概念の根源に、究極的にかかわること”と定義した。
 私も、人間が善なる精神のすべてをかけて、「生の意味」を追求する宗教的精神のいとなみのなかにこそ、生命の尊厳を覚知した「開かれた心」を薫発する土壌があると考える。
 ティリッヒ博士は、「生命力とは、自己自身を失うことなしに自己を越えて創造するところの力なのである」(『生きる勇気』大木英夫訳、平凡社)と述べた。
 私は以前、「二十一世紀文明と大乗仏教」と題して、ハーバード大学で二度目の講演(一九九三年九月。本全集第2巻収録)をした。
 その折、私がデューイの言葉を通し、「宗教」と「宗教的なもの」を立て分けながら論じたのも、この「生命力」を念頭に、人間の内発的な力をいかに引き出すかというテーマであった。
 民族や人種、文化といった差異が、「対立」や「分断」をまねくのではない。人々の間を引き裂く、負のエネルギーを生みだしてしまうのは、人間の心である。
 その心を統御し、たがいの差異をともに輝かせながら、「価値創造の源泉」に転じさせていくことが、宗教が担うべき役割にほかならない。
 「永遠なるもの」「普遍なるもの」への眼差しによって、人間性を蘇生させていく――時代が要請する世界宗教の第一の要件は、この点にこそあると思う。
 “多様性こそ生命の証”ととらえる宗教には、「差異」を人間社会に豊かな実りをもたらすものとしてたたえ、もっとも価値的な形で生かしていく「智慧」がある。
 私たちは、この対話を通じて、釈尊とムハンマドという、仏教とイスラムの精神的源流まで遡りながら、現代に還元すべき思想性を汲みだそうと試みた。
 それも、共通点ばかりでなく、差異を認めあい、超えていくところに、これからの“人類の英知”の基軸があると考えたからである。
6  二十一世紀の幕開けとなる明二〇〇一年を、国連は「文明間の対話年」と定めた。
 人類の長い歴史を振り返れば、異なる文明と文明が出合い、交流を重ねるなかから、新しい偉大な価値が創造された事例は数多い。
 歴史家アーノルドトインビー博士が大著『歴史の研究』を通して、あざやかに浮かびあがらせていたのも、この「文明の遭遇」のダイナミズムであった。
 しかし今、経済面でのグローバリゼーション(地球一体化)が進む反面で、人々は依って立つ基盤を失い、心はみずからのアイデンティティー(自己であることの根拠)を求めて“内向き”となりつつある。
 摩擦と紛争は激化し、「文明の衝突」の事態さえ懸念されている。
 特定の価値観を押しつける「画一化」か、無軌道で際限のない「分裂化」か――。
 ギリシャ神話の「ミノタウロスの迷宮」さながらの隘路から、一人一人の尊厳と生の重みを取り戻す導きの糸となる「アリアドネの糸」とは、いったい何か。
 私たちは、それを人間と人間との一対一の「対話」だと考える。
7  現在、「国際コミュニケーション論」の専門家として、ハワイ大学で教鞭を執られるテヘラニアン博士は、現代の世界が直面している危機を、端的にこう表現されている。
 「私たちが迎えた新しい世界とは、コミュニケーションの回路は拡大しているにもかかわらず、対話そのものは切実に不足している世界のことである」と。
 たしかに、インターネットなどの急速な普及にともない、「IT(情報技術)革命」が声高に叫ばれる時代のなかで、情報を伝達するためのツール(手段)はかなり整ってきた。
 しかし、それがそのまま、人間と人間の“心の距離”を縮め、相互理解から相互信頼を結ぶことに役立っていないのが現状である。
 出来合いのステレオタイプ(紋切り型)の情報が一方的に増幅され、多くの人々がそれを受動的に受け取ることしかできない状況も生まれてきた。
 さらに「デジタルデバイド」と呼ばれる情報格差の問題も、深刻にクローズアップされている。博士は、こうした情報化社会の“陥穽”を、鋭く警告されたのである。
 “頂門の一針”ともいうべき博士の指摘に、私は哲学者マルチンブーバーの言葉を思い浮かべた。
 行うべき対話は「相手を現実に見つめることもせず、呼びかけもしないあの見せかけの対話ではなくて、確信から確信への真の対話、胸襟を開いた人格から人格への真の対話である」(『我と汝対話』植田重雄訳、岩波文庫)と。
 この「開かれた対話」の精神こそ、現代の世界に待たれているものではないだろうか。
8  世紀の変わり目を前に、世界平和の宿願であった地域にも、「対話」を求める潮流が芽生えてきている。
 六月には、半世紀以上にわたり分断されてきた、韓国(大韓民国)と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の最高首脳による直接対話が初めて実現した。
 七月には、アメリカの仲介により、イスラエルとパレスチナの間で中東和平をめぐる対話が粘り強く続けられた。
 いずれも、長年の厳しい対立によって、双方の歩み寄りが困難視されてきた地域である。中東和平交渉は、残念ながら最終合意をみるまでにいたっていないが、平和共存に向けての一歩を、ぜひとも踏みだしてほしい。
 「憎しみ」や「排他」の心でひび割れ、「不寛容」で乾ききった大地も、「対話」という水を一滴ずつ染みこませていけば、「信頼」と「友情」の沃野は広がっていく――。
 迂遠のようではあっても、それがもっとも着実で、永遠に崩れない道であると、私は信じる。
9  そのためには、政治的な次元にとどまらず、幅広く民衆レベルで「対話の潮流」を押しあげていく必要がある。
 微力ながらも私も、キリスト教やヒンドゥー教をはじめ、さまざまな宗教的文化的背景をもつ識者や、社会主義諸国の方々と「対話」を重ねてきた。
 「人間」という普遍的次元から、平和への道を模索してきたつもりである。
 今回、国際社会で大きな比重を占めるイスラム世界に造詣の深いテヘラニアン博士と、文明をめぐる有意義な「対話」を交わすことができたことは喜びにたえない。
 二十一世紀への門出にあたり発刊される本書が、人間と人間とを結ぶ“精神のシルクロード”を世界に広げ、寛容と共生が基軸となる「新たな地球文明」を築くための視座を、提供する一助となればと念願するものである。
    二〇〇〇年八月十四日
10  仏教とイスラムの歴史的出合い(マジッド・テヘラニアン)
 ギリシャの逍遙学派の哲学者たちは、学習におけるもっとも啓発的な方法が対話であることを知っていた。ソクラテスもプラトンもアリストテレスも、アテネの庭園を歩きながら講義を行った。
 彼らは、自分たちを現代の大学に見られるような個性を欠いた大講堂に閉じ込めるようなことは決してしなかった。
 教師と学生の関係は直接的で、より親密で個人的なものであった。
 彼らはたがいに質問しあった。何ものも当然のこととしては受け入れなかった。何もかもが厳しい吟味の対象となった。
 対話を通して、相対立する思考や観点から真実が見いだされた。会話は開放的であった。真理はさらなる真理の追求の糧だった。
 だれびとも究極の真理を見つけた、とは言わなかった。
 一九九二年に私がシルクロードへの長途の旅の途上、日本で池田大作氏に初めて会ったとき、氏のなかに対話の芸術を大切にする、もう一人のソクラテスを見いだした。
 氏は身体的にも精神的にも、すばらしく機敏であった。
 氏は会う前から私のことを知っていた。氏は会うなり私をリラックスさせ、そして三時間にわたる、私の人生においてもっとも楽しいといえる対話が展開した。
 事実のうえでも、また教育学的な面からも、私は氏から多くのことを学んだ。
 他の話題も交えながら、私たちの対話は、自然のうちにシルクロードに沿った仏教とイスラムの文明の出合いに焦点が合わされた。
 私はその席で、氏とアーノルドトインビーとの対話(『生への選択』、日本語版『二十一世紀への対話』。本全集第3巻収録)や、ヨハンガルトゥングとの対話(『平和への選択』。本全集第104巻収録)に続いて、私たちの対話も本として出版したらどうかと提案した。
 池田氏は、すぐさま同意された。両者はそのタイトルを「対話への選択」(英語版)と名づけた。本書はその成果である。
 何度もの語らいと、何度もの書簡のやり取りで、八年の歳月が過ぎた。
 私は、世界中にはさまざまな異なる経験や考えがあっても、良き志をもつ二人の人間が出会い、それぞれの信じる真実について誠実に語りあうとき、より普遍的な真実が出現するということを学ぶことができた。
 私はそのことを固く信じて、この本を親愛なる読者の皆さまに捧げたい。それこそがシルクロードを通して、何千年もの間、行われてきたことである。異なる宗教をもつ貿易商人たち――ゾロアスター教、ヒンドゥー教、仏教、儒教、ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教徒が物資と考えを交換してきたのである。
 このシルクロードを通じた第一の世界的な経済交流に続いて、二十一世紀における第二の世界的経済交流が興起しようとしている。そこにおいては超音速輸送や電子コミュニケーションが、対話の手法を基調とした新しい地球文明の基礎をつくっている。
11  池田氏は、この文明の構築に大きな貢献をされてきた。
 氏は現代の対話の達人である。
 この四十年間、千五百回にもおよぶ、じつに多彩な世界の指導者と対話を重ねてこられた。
 そのなかには、ライナスポーリングからチンギスアイトマートフ、アウレリオペッチェイ、ヘンリーキッシンジャー、ミハイルゴルバチョフなどが含まれる。
 これらの対談を出版することで、氏は何百万という人々に世界の文化の豊かさを紹介し、平和運動を促進し、地球市民の連帯を拡大した。
 SGI(創価学会インタナショナル)のメンバーを超えた何百万の人々が、氏に敬愛と賞賛の思いを寄せている。
12  本書の構成は、それぞれの著者の関心に添ったものである。
 二つの世界文明を背景に、現代的な人間主義と科学技術文明との出合いを経験した両著者はともに、その世界観は伝統的な観点と現代的な観点とを重層的にあわせもっており、それを反映するものである。
 本書の内容は、まず対話の根本的な重要性にふれ、二十一世紀における人類の物理的、文化的生存についての会話から始まる。
 そして、仏教とイスラム文明の世界観や文化の相互的な紹介へと進む。歴史を通じた、仏教とイスラムの出合い、スーフィズム(イスラム神秘主義)の哲学と詩の出現と興隆、現代の世界教会主義や原理主義などがトピックとして続き、文化、発展、正義などを含むさまざまな生活領域における対話の役割が語られる。
 そのうえで、政治的、経済的、文化的な分割と緊張によって引き裂かれた世界に対し、対話はどのような貢献ができるかが語りあわれる。
 私どもはこの八年の歳月の間に交わした対話によって、多くのことを学んだ。一人一人、名前はあげないが、この期間に両者の対話を支えてくださった多くの人々に、心よりの謝意を表したい。
 本書が、グローバリゼーション(地球一体化)の時代において、国際的かつ多様な文化間の理解を進めようとされている方々に役立つことを願っている。さらにそれ以上に皆さまが出会った人々と、とくに外国からの人々と、あなた自身が対話による真理の追究を試みられることを願ってやまない。
13  最後に、私が敬愛する十三世紀のペルシャ詩人ハーフィズの詩を紹介したい。
   対話をしよう
   二つの人生の十字路において
   いま別れたら
   もう二度と会えないかもしれないのだから
       二〇〇〇年七月十九日

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