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日蓮大聖人・池田大作

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5「生命の世紀」に向けて――世界市民の…  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

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9  日蓮仏法は生活という現実のなかに
 シマー よくわかりました。最後に、「釈迦仏法」と「日蓮仏法」の違いは、日常生活にどのような相違をもたらしますか。
 池田 釈尊が王子として生まれたのに対して、日蓮大聖人が漁師の子として庶民のなかに生まれたことは、象徴的です。
 釈尊の仏法は、一面では権力と妥協し、民衆を抑圧する側に回るとともに、一面では権力を避け、民衆から離れて自己のみの“安心立命”を求める傾向におちいってしまいました。
 日蓮大聖人の仏法は、民衆のなかに入り、他者とともに、崩れない“幸福境涯”の確立をめざします。日蓮大聖人は、「智者とは世間の法より外に仏法をおこなわず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり」と説かれています。政治・経済・学問・文化・科学にたずさわる日常生活のなかにこそ、仏法者の使命が顕現するのです。
 現実社会の苦しみに打ちひしがれることなく、また、逃避するのでもなく、生老病死の「四苦」を自身を鍛えるチャンスととらえて真っ正面から挑戦していくのです。
 同時に、他者の苦しみにも「同苦」し、ともに協力しあって、「苦」を「楽」に変えゆく戦いを展開するのです。
 職場、家庭、近隣、地域社会から、「四苦」を転換する戦いを開始し、各自の状況に応じて、その戦いの場は、地球上のあらゆる文化圏、人類へと拡大していきます。
 ある場合は、民衆を抑圧する権力や堕落した聖職者との戦いとなり、「人権闘争」の様相を呈することにもなります。まさに、「娑婆即寂光」の実現こそが、日蓮大聖人の仏法の指標なのです。遠く離れた「いつか、どこか」ではなく、「今、ここ」という現実に即して、理想を実現するのです。
 シマー 仏法が、地に足をつけた現実変革の法であることが、納得できました。
 池田 教育の現場で、牧口会長は、具体的に「郷土科」を提唱されました。それぞれの人にとって郷土という「足元」の生活の場こそ出発点になるからです。
 そこから交流と対話と参加の“連帯のネットワーク”を広げていくところに、「世界市民意識」が形成されると述べています。
 ブルジョ 私も、しっかりした「郷土意識」がなければ、「世界市民意識」はありえないと思います。グローバリゼーションによって“世界”がどこにでも進出していますし、また、一つの地域が“世界”と密接につながってきています。ですから、自分の地域から離れなければ「世界市民」になれないなどということは、ありえないと思います。むしろ、地域への帰属意識をもち、自分が受け継いだ文化やものの考え方を認めたうえで、他の地域・文化の人たちと対話や議論を行うべきだと思います。
 池田 おっしゃるとおりです。「世界市民」といっても、決して特別な人ではありません。開かれた心で世界を見つめ、世界の人々とともに、あらゆる手段で人類の平和と繁栄に尽くそうとする慈悲と勇気と知恵の人こそ、「世界市民」と言えましょう。
 シマー モントリオール大学も、講義内容の国際化や新しいタイプの教育方法の開発、外国語教育の充実に努めております。また、創価大学をはじめ世界の大学と学生、教員、研究員の交流に努めております。
 池田 「世界市民意識」を形成するための尊い貢献です。創価大学も、貴大学をはじめ、世界数十カ国の大学と交流協定を結び、活発に、学生、教員の交流を行っております。
 これからも、貴大学と創価大学が、力を合わせて、多くの人々に科学、文化の情報や世界と結ぶ手段を提供してまいりたい。そして、人類の平和と繁栄に尽くしゆく、若き「世界市民」を、全世界に送り出していきたいと念願しております。

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