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日蓮大聖人・池田大作

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5「生命の世紀」に向けて――世界市民の…  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

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2  違いの認識が「世界市民意識」へ
 シマー 二十一世紀は、また、情報化時代でもあります。
 高度情報化社会に対して、大学がどのように適応していくかということも、新しい課題です。
 新しい情報・通信技術によって、たとえば、インテリジェント個人学習システムのような新しい学習方法も開発されています。会長は、この新しい試みについてどうお考えですか。
 池田 情報化社会の中で、学習方法も変わらなければなりません。創価大学では、学生と教員が、インターネットで世界中の情報を検索できるようにしています。女子短大では、インターネットを利用した英語学習を進めています。「知識」をあたえられるのではなく、みずから世界の情報を手に入れ、「学習」し、さらに、遠く離れた世界の人とも“対話”し、友人になることができます。世界的次元でたがいに「学び」あい啓発しゆく時代に入ってきました。本格的な「国際化時代」です。
 以前、お会いしたコスタリカのフィゲレス大統領は、二カ国語が話せ、コンピューターが使え、社会に奉仕できる国民を育てたいと話しておりました。
 シマー 私が学生に、まず訴えたいことは、母国語を完全にマスターすることです。人間は母国語を通じて世界を見ていますので、知覚も表現も、母国語の質をそのまま反映してしまうものです。
 これに対して、第二言語、第三言語は大いに性格が異なっています。これらは本質的に他人とのコミュニケーションのためのものです。ほかの文化様式を知るためにも、外国語の習得はとても大切です。
 しかし、二十一世紀を生きる人間に習得が必要な言語は、それだけではありません。今も話しあったように、この情報化社会における「知」の領域には、数学的言語とコンピューター言語が欠かせないものとなっています。
 また、芸術の分野、すなわち、文学、絵画、音楽、造形など、いずれであろうとも、そのメッセージを言語として理解しなければならないと思います。テクノロジーの発達だけでは、人間は幸福になれません。ハイテクは、良心や知識や人間の偉大さを表すすべての資質と並行する形で発展しなければ、必ずや人間を疎外してしまうものです。
 池田 そのとおりです。コンピューターを駆使したり、「語学」を学んだりするのも、結局は、人類の多様な文化や民族性を知り、国際人としての「世界市民意識」を形成するためです。他の人々の心を知り、どう協調し、共鳴していくか、その感覚・意識こそが、国際人としての心ではないでしょうか。
 シマー 現代社会においては、国家間の相互依存、
 政治と経済の連動が常識となっていますから、学生にはまず文化的多様性に寛容であり、かつまた地球規模でものを考えてもらいたいと思います。
 自分の存在が、つねに地球上の他人に連動しているという認識から、責任感も生まれます。他の文化に遭遇したさいのカルチャーショックは、今後の世界市民にとって、日常的な現象となるでしょう。
 ブルジョ しぜんな交流のなかで、おたがいに違うということをしっかり意識しつつ、そこから、“共有できる事項”を発見していくところに、本当の意味での「世界市民意識」が生まれてくるのではないかと思います。
 「世界市民意識」を育むには、まず多様性をしっかり認識することが大事です。そして、他の人が自分と違ってよい、違ってもよい権利をもっているということを、しっかり認識することが大事です。
 池田 日蓮大聖人は、「鏡に向つて礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり」と説かれています。
 多様な他者の生命を、すばらしいと尊敬すれば、そのまま鏡に映るように、自分の生命を荘厳していくことになるのではないでしょうか。
 おたがいの差異を尊重しあうところに、みずからの“個性”も磨かれていくのです。
3  大乗の菩薩が立てる「四弘誓願」
 ブルジョ 文化多元主義から、“共有する意識”をどのようにしてつくっていくのかということですが、それには「交流」し、おたがいに「理解」しあっていくことが大切です。
 そこでは「慈悲」というか、“他の人のために尽くす”
 ということが非常に大事になってきます。しかし、それは一方的に他者に尽くすだけでなくて、やはり自分自身がこういうふうに尽くしてもらいたいという要望も、きちんと言えなければならないと思います。特定の他者に対してだけでなく全体に対する責任感が、大事になってきます。
 池田 教授が言われたプロセスは、仏教が説く大乗の菩薩の生き方と重なってきます。
 牧口会長は、教育の目的を考えるときの第一要件は、「一般民衆が人生の目的を如何に自覚するか」(『創価教育学体系』上、『牧口常三郎全集』第五巻)にあると述べています。それは、「人生の目的が、即ち教育の目的と一致するから」(同前)です。
 人生をもっとも豊かに、もっとも実りあるものにしようと挑戦し続けるのが、仏法なかんずく大乗仏教の根本姿勢です。大乗の菩薩が仏法の実践を始めるにあたり、万人共通の四つの誓い「四弘誓願」を立てます。これは、仏法者として学び達成すべき「教育の目的」即「人生の目的」を示すものです。
 ブルジョ それは、具体的には、どのようなものですか。
 池田 第一は「衆生無辺誓願度」です。
 “あらゆる人を幸福にせずにはおかぬ”という誓いです。日蓮大聖人は「所詮しょせん四弘誓願の中には衆生無辺誓願度を以て肝要とするなり」と仰せです。それは、仏法を学ぶ根本目的が「自他ともの幸福」以外にないからです。まさに教授が指摘された「全体に対する責任感」です。
 第二は「煩悩無数誓願断」です。これは貪(際限なき欲望)・瞋(欲求が満たされぬ憤懣)・癡(真正の目的を見失った愚かさ)におおわれた小さな自己に打ち勝とう、との誓いです。自己中心性を脱却し、確固
 たる理想と勇気をもって知恵を発揮し、あらゆる苦難を乗り越えて生きぬこうということです。
 第三は「法門無尽誓願知」です。これは、さまざまな人間の苦悩を解決するために説かれた法理を学び尽くそうとの誓いです。
 仏の智慧から見れば「一切法即仏法」です。世界のよりよき未来を開くため、仏法をはじめ、人類の築き上げた多くの知識、多様な文化を、尊敬の心でもって接し、学びつつ、さらなる「真理」の探究を広げていこう、ということです。
 第四は「仏道無上誓願成」です。
 これは、どこまでも「人間完成」をめざそうとの誓いです。時間的には過去・現在・未来を見渡し、空間的には全宇宙をとらえきった仏の大境涯をめざして、たゆまぬ前進を続けるということです。そのためには、生あるかぎり、ぞんぶんに学び、生きぬくことです。いわば「生涯学習の誓い」です。
 「四弘誓願」には、人生の根本として、自身の向上と他者への貢献をともにめざす生き方が示されています。私は、この根本の確立が「世界市民」「国際人」の要件であると考えています。
4  開かれた「人間観」「世界観」を
 ブルジョ ていねいに説明していただき、ありがとうございます。たしかに「世界市民」には、そうした菩薩的人格が不可欠ですね。
 そのように、つねに時代に応じた新たな「人間観」「世界観」を構築していくことが必要です。
 人類の歴史を振り返ると、宗教の硬直的な教条に示された「人間観」「世界観」が、“聖戦”という名の暴力を生みだしてきた事実があります。それは今なお、宗教的対立、民族的対立として続いています。
 池田 非常に悲しい事態です。今、人類が求めているのは「人間のための宗教」です。
 「宗教のための人間」は、もはや必要ありません。二十一世紀の宗教には、つねに開かれた「人間観」「世界観」をもっていることが、最低の要件の一つでしょう。
 ブルジョ これからもさらに、人類は新しい技術を進展させていくでしょう。それが私たちの選択や慣習に、新たな方向性をあたえることもありえます。
 もはや既成の明確な「人間観」「世界観」があたえられている時代ではなく、それをつくっていく時代です。
 私たちは、“人間が明日はどうなるか”を決め、“私たちの子孫が生きていくための環境の質を維持するために、必要な手段は何か”を決める責任がゆだねられており、その力があるのです。これからは、人生とその質について、私たち自身が責任を負っていくのです。
 昔、ヘブライ人が「約束の土地」へ長途の旅を続けながら、やがて、その旅すること自体に“人生の意味”を見いだしました。
 今、人類は、私たちに責任をゆだねられた“人生の新しい冒険”に対して、連帯して挑戦しているのです。
 池田 全面的に賛成です。二十一世紀は、“人間の、人間による、人間のための世紀”にしなければなりません。
 ブルジョ キリスト教の精神教育では、人間を「神の愛のために」愛することを奨励することがあります。
 私に言わせれば、人間はひ弱で、はかない存在であるから、人間同士がおたがいに愛しあっていくべきです。
 現実は、人は他人と同じ冒険をして生きており、日夜、道づれとして、その喜びも苦痛もともに味わって生き続けているわけです。
 そうした仲間の男女を愛するのに、自分を超越する必要などありません。
 池田 菩薩の慈悲に通じる考え方です。人間(凡夫)が同じく人間とともに、苦楽を分かちあい、幸福へと挑戦を続けるのが、慈悲の行動です。
 仏法者である私は、そのあくなき労作業に、“無限の尊さ”を見ます。“人間の尊厳”を感じます。その点で、たしかに一個の人間は弱く、はかない存在ではあるけれども、その内に秘めた偉大さを感じてなりません。
 この人間がそなえる尊厳なる慈愛に対しては、仏の慈悲と呼び、神の愛と表現しても、許されるのではないでしょうか。
 ともあれ、生命輝く世紀のために、ともどもに健闘してまいりましょう。
5  仏教が「世界宗教」となった理由
 シマー 仏教は紀元前五世紀以来、人類に影響をあたえ、地球上に広がっていきました。仏教はどうして世界宗教となったのですか。
 池田 仏教についての本質的な質問です。また、これに答えることは、二十一世紀を生きる人類に対して、示唆をあたえるものとなるでしょう。
 重要な問題ですので、何点かに分けて、答えていきましょう。
 まず、仏教が世界宗教となった理由としてあげられるのは、すでに述べたことですが、仏教が、すべての人間がもっている「根源的な苦悩」の救済をめざした宗教だということです。
 シマー この対談の第二章で述べられた「生老病死」の四苦のことですね。
 池田 「四苦八苦」への挑戦と救済が、仏教の出発点です。釈尊は、王子の位を捨てて、出家し、苦行、禅定などの修行を積み重ねて、ついに菩提樹下での禅定で、「ブッダ」すなわち“覚者”となったのです。
 覚者とは、“宇宙根源の法”を覚知した人を言います。この法は、人間生命のみならず、生きとし生けるものの奥底に脈動するゆえに、「普遍の法」なのです。釈尊の“覚り”が、「普遍の法」を洞察していたことが、仏教が「世界宗教」となりえた第二の理由です。
 つまり、人種、民族、国家、文化を超えた法であるゆえに、仏教は現象世界のあらゆる“差異の壁”を超えて伝播していったのです。
 第三に、釈尊が覚知した「法」は、決して抽象的な存在ではなく、宇宙万物に横溢する「智慧」と「慈悲」に輝いていました。仏教の「智慧」は、龍樹の「空」論、世親の「唯識論」、そして、天台の「一念三千」論などと、きわめて高度な哲学体系を築き上げてきました。その精緻な体系と論理が、人々を引きつけ、信仰の“核”となっていったのです。
 シマー 先ほども、会長が語られた「仏性」や「縁起」の思想ですね。
 池田 そうです。同時に、仏教の「智慧」は、宇宙根源の「慈悲力」に根ざしていますから、必然的に、他者への奉仕、他者の「苦悩」を打破する菩薩道へと展開していったのです。
 第四に、仏教の菩薩道は、「慈悲」に満ちていますから、断じて、暴力性を拒否し、非暴力に徹していました。
 ブルジョ ここで、私も質問をさせていただきたいのですが、じつは、私と仏教の伝統との出あいは、宗教の歴史を断片的に勉強したときに始まります。それは西洋中心でしたが、非常に印象に残ったのが、宗教間の緊張状態は、あるときは、それが戦争にまで発展してしまうということでした。まず、紛争があり、それが発展して宗教を巻き込んだという実態があります。西洋においてはそういうことが多いのですが、仏教でも同様の現象は見られますか。
 池田 まさに“非暴力”に関する問題です。一つの例をあげましょう。
 紀元前三世紀、釈尊の精神を政治に反映させようとしたアショーカ大王がいます。彼は、カリンガ地方の征服という悲惨な戦争の状態を目のあたりにして、仏教の精神に深く共鳴し、戦争を放棄しました。権力も武力も用いず、平和のうちに、「人間共和の社会」を築こうとしたのです。
 アショーカは、各民族、各国家へ、“法の使節”を派遣し、仏教の精神を伝えていったのです。
 アショーカの政治においては、それぞれの文化の独自性が生かされ、寛容の精神が実現されていきました。アショーカ自身は、仏教に帰依していましたが、各民族のもつ「信仰の自由」を保障していました。この「寛容性」こそが、仏教の第五の特質なのです。
 したがって、仏教は、非暴力と寛容性に徹して、広がっていった「世界宗教」です。
 さて、仏教の「寛容性」の精神は、人権感覚を養い、人間の尊厳性と多様性に敬意を払い、文化の創造的発展を促進します。仏教は、すでに高度な文化を築いていた中国文化をはじめ、東洋各域の豊かな文化を吸収しつつ、発展していきました。
6  誤った「寛容性」は権力への迎合を生む
 ブルジョ 具体的な実例をあげて、語っていただいて、ありがとうございました。ところで、私の仏教との出あいは、まだ続くのです(笑い)。二回目は、すでにこの対談でも紹介しましたが、私の教え子のガンとの闘いです。仏教徒である彼女を通して、仏教の闘病の姿勢を学びました。
 池田 連載中に、読者からも感動の声が多く寄せられました。
 ブルジョ そして、仏教との三回目の出あいが、こうして会長とお会いできたことです。たいへんにうれしく思っています。
 池田 私も、シマー博士やブルジョ博士から、人類最高の英知をお聞きして、最大の喜びを味わっております。こちらこそ、お礼を申し上げたい。
 ブルジョ 今の会長のお話をうかがい、きわめて図式的ですが、西欧文明と仏教との違いを考えてみました。
 仏教の特質として、「智慧」「慈悲」「非暴力」「寛容」などの観点を示されました。
 西欧文明では、智慧は、外界に働きかける、科学技術の発展をもたらしました。仏教の慈悲に相対するのは、リベラルな資本主義の競争原理があげられると思います。非暴力に対比されるのは、国家間の戦争、紛争でした。そして、寛容に対しては、現状容認ではなく、西洋ではつねに積極的な改革をめざしてきたのです。
 これに対して、むろん、反論もあります。たとえば、キリストが非暴力を説いたと言えますし、また聖書も一つの智慧の源泉であるとも言えると思います。
 しかし、図式的にパターン化してとらえれば、このようになるのではないでしょうか。
 池田 興味深い対比です。博士がいみじくも指摘されたように、たしかに仏教史においては「寛容の精神」が、その内実を失い、現状容認となり、仏教の停滞と堕落、権力への迎合を生んでいったという面もあります。
 ときに国家権力に利用されたり、また、逆に教団が国王の力を利用した事例もあり、権力との癒着が、仏教の堕落、僧侶の腐敗を引き起こしてしまったのです。その結果、日本の仏教界のように、軍国主義に巻き込まれるのみならず、戦争に積極的に加担する宗派までありました。
 このとき、日本の軍国主義とまっこうから対決したのが、創価学会の牧口常三郎初代会長です。七十三歳で獄死しております。
 ブルジョ よく存じております。
 池田 私も対談したことがある平和学者のガルトゥング博士は、仏教が、キリスト教やイスラム教といった世界宗教と違って、「寛容性」「多様性」という長所をもっていることを評価しておりました。これは、平和の哲学において、何よりも大切なことです。
 一方、仏教の短所として、その「寛容性」ゆえに、権力の横暴や、貧困、人権の抑圧といった“構造的暴力”に対しても容認する傾向をあげておられました。
 ブルジョ 率直に語っていただいて、たいへんに感銘しております。
 西欧のキリスト教では、たとえば、貧乏な人々に、その現在の不正を容認し、従順であれと教えてきた側面があります。仏教においても、権力支配の道具に使われたという側面があったのですね。
7  「日蓮仏法」と「釈迦仏法」の違い
 シマー さて、仏教は世界各地に広がっていきましたが、日本にも大きな影響をあたえております。古代のころから日本は仏教国となりました。
 池田 聖徳太子による仏教の導入は、日本仏教の原点となりました。
 シマー その後、十三世紀ごろ、日本の仏教界に大変革が起きます。その代表として、日蓮大聖人があげられますが、十三世紀の「日蓮仏法」の特徴はどのようなものでしょうか。
 池田 いずれも、本質的な質問ばかりです。(笑い)
 仏教史をたどってみますと、釈尊が覚知した「宇宙根源の法」を自力で覚知するには、きわめて困難で厳しい修行が求められました。
 釈尊の滅後、仏教は煩瑣な思弁哲学におちいり、民衆から遊離した部派仏教が生じるまでになりました。それに対して、釈尊の精神に帰ることを旗印として興起したのが、大乗仏教の運動です。
 しかし、その大乗仏教も菩薩道をかかげながら、やがて、修行の段階が、一般の民衆には、とても実践できないほど複雑化していったのです。天台仏教においても、出家した僧侶が十数年もかけて修行するような体系がつくられていきました。
 日蓮大聖人は、一般民衆が日常生活のなかで、自己に内在する「仏性」を顕現できるように、自身の生命に体得した「宇宙根源の法」を漫荼羅として顕しました。この漫荼羅を「本尊」とすることによって、すべての人々が、「仏性」を顕し、「四苦」を克服する方途を示したのです。ここに、真実の民衆仏法が確立したと言えるでしょう。
 シマー そうしますと、「日蓮仏法」と通途の「釈迦仏法」とは、具体的にどのような歴史上の違いとして現れてくるのでしょうか。
 池田 釈尊の仏法は、いつしか釈尊の本意から離れて、権力と妥協し、支配の道具となる宗派さえ現れました。権力への妥協は、民衆の抑圧を引き起こしたのです。しかし、仏法の本来の「寛容性」は、むろん、そのような権力の不正の容認、妥協とは無縁のものです。民衆を抑圧する権力と戦うところにこそ、真実の「寛容」の心があります。
 仏法における「寛容」とは「慈悲」の異名です。民衆に苦しみを押しつける“権力の魔性”と戦うのが「慈悲」であり、その心が「寛容」の精神です。
 「慈悲」とは、苦しみに共感し、その苦を抜く行為をさします。仏法では、この「同苦」の側面を「母の愛」として表象し、「抜苦」の側面を「父の愛」として表象するのです。「母の愛」は無限なる包容です。「父の愛」には、正邪を判別し、悪と戦う厳しさがあります。
 この「母の愛」「父の愛」という両義からすると、釈尊の仏法は、「母の愛」の側面が強くなり、悪と戦う「父の愛」を失ってしまうことが多かったのです。
 シマー そうしますと、日蓮仏法は、権力に対してどういう姿勢をとったのですか。
 池田 日蓮大聖人の仏法は、「母の愛」と「父の愛」を両方あわせもつ教えです。したがって、権力に対しては、父の厳愛により、諌めるべきものは諌め、非道理や民衆を不幸にする勢力との闘争を貫きました。
 当時の既成仏教が総じて権威・権力に取り込まれていたのに対して、徹して民衆の側に立った日蓮大聖人の姿勢は、仏教史上特筆すべきものであると考えております。
 図式的に対照すれば、釈尊の仏法が静的で、「母の優しい愛」をたたえているとすれば、「日蓮仏法」はそれを含みつつ、よりダイナミックであり、「父の厳愛」を兼ねそなえていると言っていいでしょう。
 日蓮大聖人は、「一切衆生の異の苦を受くるはことごとく是れ日蓮一人の苦なるべし」と仰せになるとともに、「結句は勝負を決せざらん外は此の災難止み難かるべし」と説いています。仏の慈悲は、衆生の苦悩を包容し、同苦する「悲母」のごとき愛であるとともに、その苦悩を除き、真の安楽をあたえるまで徹底して戦う「厳父の愛」であることが示されています。
 もちろん、ここでいう「厳父」「悲母」という表現は、仏の「徳性」の内実を示す譬えであって、家庭における父母の役割を固定的に論じたものではありません。
8  現実のなかでの「平和のための仏法」
 シマー 日蓮仏法が、現実社会の変革をめざした“時代的な背景”とは、どのようなものでしょうか。
 池田 当時の既成仏教の教えは社会の実態とあわなくなり、偽善的な人間をつくり出していました。さらに僧侶が、仏法の本義を曲げてまでも、権力と妥協するようになった。
 そこで、政治権力と結託し民衆を虐げる側に立っていた仏教界の変革を、日蓮大聖人は訴えたのです。仏法はあくまで、社会という現実のなかでの「平和のための仏法」でなければならないと叫んだのです。それが「立正安国論」の心です。
 ブルジョ 第二章の理想の人生について語りあったときに、「立正安国論」のことはうかがいました。
 池田 ブルジョ博士には、日蓮大聖人が「立正安国論」を鎌倉幕府へ提出したことが時の権力の迫害を引き起こしたこと、さらに、日蓮大聖人が真っ正面から“権力の魔性”と対決された歴史を紹介しました。
 法華経には、現実社会と離れたどこか遠いところに理想郷があるのではないと説いています。「娑婆即寂光」といい、この厳しい現実世界こそ、「智慧」と「慈悲」を輝かせながら、「寂光土」すなわち平和と繁栄の楽土を建設しゆく場所である、と示しているのです。
 日蓮大聖人は、その法華経の示す理想世界を、日本国、ひいては、この地球上に実現するために、「立正安国」の理念を掲げられたのです。つまり「宇宙根源の法」を基盤とする仏土・宝土(平和・人権が重んじられる社会、自然生態系との共生ができる社会)を実現しようとされたのです。
 この精神を現代に継承したのがSGIです。
 すでに一九五七年、戸田第二代会長は「原水爆禁止宣言」を発し、「核兵器の使用は絶対悪である」という思想を広めゆくことを、青年に託されました。
 人類の“種”そのものを絶滅しかねない“権力の魔性”との戦いが、今日の菩薩道となるからです。現在、SGIの青年たちは、この遺訓を受け継ぎ、世界中で反核・平和・環境保全・人権を守る運動を繰り広げております。
9  日蓮仏法は生活という現実のなかに
 シマー よくわかりました。最後に、「釈迦仏法」と「日蓮仏法」の違いは、日常生活にどのような相違をもたらしますか。
 池田 釈尊が王子として生まれたのに対して、日蓮大聖人が漁師の子として庶民のなかに生まれたことは、象徴的です。
 釈尊の仏法は、一面では権力と妥協し、民衆を抑圧する側に回るとともに、一面では権力を避け、民衆から離れて自己のみの“安心立命”を求める傾向におちいってしまいました。
 日蓮大聖人の仏法は、民衆のなかに入り、他者とともに、崩れない“幸福境涯”の確立をめざします。日蓮大聖人は、「智者とは世間の法より外に仏法をおこなわず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり」と説かれています。政治・経済・学問・文化・科学にたずさわる日常生活のなかにこそ、仏法者の使命が顕現するのです。
 現実社会の苦しみに打ちひしがれることなく、また、逃避するのでもなく、生老病死の「四苦」を自身を鍛えるチャンスととらえて真っ正面から挑戦していくのです。
 同時に、他者の苦しみにも「同苦」し、ともに協力しあって、「苦」を「楽」に変えゆく戦いを展開するのです。
 職場、家庭、近隣、地域社会から、「四苦」を転換する戦いを開始し、各自の状況に応じて、その戦いの場は、地球上のあらゆる文化圏、人類へと拡大していきます。
 ある場合は、民衆を抑圧する権力や堕落した聖職者との戦いとなり、「人権闘争」の様相を呈することにもなります。まさに、「娑婆即寂光」の実現こそが、日蓮大聖人の仏法の指標なのです。遠く離れた「いつか、どこか」ではなく、「今、ここ」という現実に即して、理想を実現するのです。
 シマー 仏法が、地に足をつけた現実変革の法であることが、納得できました。
 池田 教育の現場で、牧口会長は、具体的に「郷土科」を提唱されました。それぞれの人にとって郷土という「足元」の生活の場こそ出発点になるからです。
 そこから交流と対話と参加の“連帯のネットワーク”を広げていくところに、「世界市民意識」が形成されると述べています。
 ブルジョ 私も、しっかりした「郷土意識」がなければ、「世界市民意識」はありえないと思います。グローバリゼーションによって“世界”がどこにでも進出していますし、また、一つの地域が“世界”と密接につながってきています。ですから、自分の地域から離れなければ「世界市民」になれないなどということは、ありえないと思います。むしろ、地域への帰属意識をもち、自分が受け継いだ文化やものの考え方を認めたうえで、他の地域・文化の人たちと対話や議論を行うべきだと思います。
 池田 おっしゃるとおりです。「世界市民」といっても、決して特別な人ではありません。開かれた心で世界を見つめ、世界の人々とともに、あらゆる手段で人類の平和と繁栄に尽くそうとする慈悲と勇気と知恵の人こそ、「世界市民」と言えましょう。
 シマー モントリオール大学も、講義内容の国際化や新しいタイプの教育方法の開発、外国語教育の充実に努めております。また、創価大学をはじめ世界の大学と学生、教員、研究員の交流に努めております。
 池田 「世界市民意識」を形成するための尊い貢献です。創価大学も、貴大学をはじめ、世界数十カ国の大学と交流協定を結び、活発に、学生、教員の交流を行っております。
 これからも、貴大学と創価大学が、力を合わせて、多くの人々に科学、文化の情報や世界と結ぶ手段を提供してまいりたい。そして、人類の平和と繁栄に尽くしゆく、若き「世界市民」を、全世界に送り出していきたいと念願しております。

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