Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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4 科学技術と倫理・哲学  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

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2  科学技術の選択に幅広い民主的な議論を
 池田 数々の科学技術の成果は、産業構造や情報システム
 などさまざまな側面において、人間社会にかつてないほどの多大な影響をおよぼしております。
 文明を支えるエネルギーに注目して言えば、二十世紀は「科学技術文明の時代」であったと表現できるでしょう。
 しかしその一方で、環境破壊や人間疎外という重大な問題を発生させながらも「このまま科学が発達すれば、何もかも科学が解決してくれるだろう」という科学至上主義の一人歩きを、人類は暗黙のうちに許しているようにさえ思われます。
 この一世紀にわたる壮大なる実験ともいうべき科学の発展に対し、科学を真に人間の幸福、人類の平和という理想を実現するためのものとすべく、論議を重ね、思索を深めるべきときを迎えているように思われます。
 ブルジョ 科学技術の抑制においては、「十分な思慮分別を用いる」ことが第一です。具体的には、危険の予見あるいは予測と、警戒的配慮をおこたらないことです。
 池田 かつて日本の各地で生じた有機水銀中毒や喘息などの「公害」について、公害源になった企業を擁護するために、科学者が重要なデータを意図的に黙殺したり、捏造するという、およそ考えられないようなケースもありました。
 このような事態は、近年の非加熱製剤による薬害エイズの問題でも繰り返されています。
 これらの事例がなぜ起こったのか――。みずからの専門家としての権威にとらわれるあまり、視野が狭小化し、ふつうの市民として、人間として当然もつべき倫理観を喪失し、個人的利益に走った結果であると言えるのではないでしょうか。
 ブルジョ 今日、国家は経済の動向と社会的秩序の
 維持に汲々としていて――もっと通俗的な言い方をすれば、政治家は市民の将来の生活を考えるよりは、次の選挙をどのようにして勝ち取るかのほうが優先的課題なのです。
 危険に直面したり、あるいは惨事の最中においてさえ、国家は市民に対して「心配することはない」と言い続けます。
 そういう政府の姿勢に一方では強い反感をいだきながらも、“現状の安穏に甘んじる”感情の狭間に立つ市民は、結局、専門家たちが現実問題として何を討論し続けているのかさえ理解することなく、生活し続けるのです。
 市民は大きな事故や災害が起きたときに、個人的にはそれに対して何もできないことをもともと知っています。
 また、実際にそのような災害が発生したとき、“事前に警告が発せられていながら、それを気にとめなかったために予期できなかった”と主張されることがよくありますが、そのような惰性が働いて責任の所在があいまいになります。
 いわゆる「血液汚染」として、多くの国で起きた事例はその典型的なケースと言えるでしょう。輸血についての議論は起こったものの、だれも責任をとろうとしませんでした。その結果、HIVの感染と発病に悩む血友病患者が、後に数十万を数えるにいたったのです。
 池田 要はだれびとも、こうした科学技術に対する倫理的責任をまぬかれることはありえません。そこで、どのように民衆が責任感をもって、民主的議論を積み重ねることができるかにかかっていると思います。一般市民にも科学技術の知識が浸透し、きちんと説明すれば、理解できるようになってきていま
 す。専門的な技術者、研究者が科学技術や科学知識を独占することを容認する時代ではありません。
 すでに、第一章の“ガン”の話題のところでも、シマー博士と話しあいましたが、日本においても、たとえば、医師と患者の接し方が変化を始めました。「インフォームド・コンセント」(知らされた上での同意)と呼ばれる患者の同意を得た医療が求められるようになり、患者が医師を選ぶ場合もふえてきました。
 私は、このように一般の人々が専門家を選択し、専門知識に対して積極的にかかわっていくことを歓迎するものです。
 シマー 私も同感です。“科学技術と人類の責任”と題する講演で、ブルジョ博士も「科学技術、専門技術の選択の問題は、同時に社会的、政治的問題でもある。ゆえに、幅広い民主的な議論が必要である」と述べています。
 ブルジョ 民主主義社会においては、技術を社会的に抑制するためには、新技術とその利用を時代に見あうように適合させることを主な責任とする者が、重要な選択や意思決定を行うことに直接参加する市民代表者に提案することによって、民衆に対して十分に説明し納得してもらえる過程を経るべきです。
 残念ながら、現状はまだまだ実施されていません。
 池田 いわば「専門的科学者の支配」を許してしまうのは、ものごとの判断を各分野の専門家のみにゆだねて、一般市民が、みずからの立場で積極的に関与しなかったということもあるでしょう。
 ブルジョ 市民が政策決定とわれわれ各人の生命にかかわる分野に、確実に広く参加することができなければ、社会の民主主義的な健康はありえません。
 池田 かつて、故ライナス・ポーリング博士と対談したおり、博士はこの「科学者の支配」を警戒すべきであると強調されておりました。
 私は、科学が人類にその刃を向けてくるという事態を回避するためには、科学者自身の中に“人間としての”強靭な倫理観を打ち立てなければならない。そのためには、科学者自身が一般の市民との交流のなかで人間としてのあるべき生き方を思索し、広い意味での人生観を確立しなければならない、と考えております。
 そして、人生観の確立のためにこそ、哲学や宗教が重大な意味をもってくると思うのです。
3  「妙なるもの」への畏敬の念の喪失
 ブルジョ 西欧における倫理学ないしは、もっと一般的な意味での哲学と、科学的研究は“同じ培養基”から育ちました。
 どういうことかと言うと、元来、哲学と科学のそれぞれの領域間には、協調や暗黙の了解がありました。また、相互に影響をあたえあい、発展してきたのです。
 いずれの領域も、同じ世界観を共有していました。哲学者も神学者もまた法律の専門家までが、みな一様に“自然法”と“自然権”ですべてを説明していました。一方、物理学者や医師もまた“自然的”視点で、物理や生理の法則を発見し、よりよく理解しようと努めました。
 彼らは一様に、そのような自然の法則は、もともとあったものであり、自分たちの理論の一部としてつくり出したものではなく、“すでにあたえられていたもの”であって、それが現実に姿をとって現れたものを発見したと見なしてきたのです。
 そして、さらに、そこには普遍的な力、持久性、永遠性、価値があるとしました。
 イマヌエル・カントは、このように、異なるがともに不変の自然法である二つのものを尊敬の念をもって比較しました。すなわち「天空の星の動きと、内なる道徳律」です。
 池田 科学が自然に対して敬意をいだき、宇宙の神秘に対して謙虚であった時期ですね。
 身近にありながら、しかも人知を超えた「妙なるもの」が、科学と哲学の共通の源泉であった――。
 しかし、科学の進展とともに、科学の特性である分析的手法で解明できる部分を拡大していくにつれ、科学的手法がすべてに有効であるかのような全能感へとつながっていったように思われます。
 ブルジョ 科学の研究においても、哲学の思索においても、相対的な認知や概念把握が始まり、絶対から相対化への道を進んでいきました。
 そして、ついには、哲学と科学の同盟関係・相互作用は、両者が共通の母体としていた“培養基”の崩壊とともに消滅したようです。
 池田 すなわち、「妙なるもの」への畏敬の念がなくなった――と。
 “時間を超え、空間を超えて、普遍的な基盤がある”と想像できなくなってしまった。それは、たしかに、無前提に絶対的な“神”を中心とした教条主義的な世界観からの解放ではありました。しかし、それとともに、自身と世界がよって立つ基盤を失い、根無し草になったことでもありました。
 ブルジョ 科学活動が多様化していったにもかかわらず、すべての倫理綱領をもってしても、そこに一貫した倫理を打ち立てることがその時点から困難
 になっていったことは疑いありません。そして、現在にいたるまで、科学技術のあり方、進むべき方向を明示できないでいるのです。
 池田 従来の世界観からの解放が、科学が扱う分野を広げ、多彩な成果をあげてきたこと自体は、人類にとって大きな価値を生みだしてきました。
 ルネサンス以来、偉大な業績を積み重ねてきた科学者は、その同時代の人からみれば「神をもおそれぬ」大胆な思考と行動をとってきた人々です。ガリレオしかり、コペルニクスしかり――。
 しかし、彼らのなかには、人間のもつ可能性への深い信頼があったと言えましょう。「フマニスム」(人間主義、人文主義)という基盤をもっていたのではないでしょうか。
 それに対して、現代の科学は、その基盤すらも突き崩し、技術的側面に収斂していき、それがさまざまな軋轢を生みだしているように思われます。
4  科学と哲学の再会への「問いかけ」を
 ブルジョ 二十年ほど前に、イリヤ・プリゴジンとイザベル・スティンガースは、“近代科学を特徴づけているのは、理論の技術化であり、また自然環境を理解しようとする野心とその脅威を和らげようとする野心を、体系的に提携させることである”と指摘しています。
 深い省察を共通項として成立していた哲学と科学の同盟は崩壊し、それとともに、自然に影響をあたえたり、それを支配しようとするのではなく、自然の法則を発見し理解していこうとする科学的アプローチと道徳や自然法との間にみられた共通基盤も瓦解しさったのです。
 科学は哲学と組むより、“技術”と提携することを選ぶことによって、科学自体が「操作的」になった――こう、ジャン・ラドリエールは記しています。
 池田 従来の思想的土台の上では、科学という大建造物はもはや建てることができなくなっていた。それゆえ、大きく発展した現代科学がよって立つべき、より深く、より広く、より確かな基盤が求められています。
 現代科学が広げた地平を俯瞰するパースペクティブ(見取り図)と、今後、人類が歩むべき方向を示す羅針盤が必要です。
 ブルジョ 現代社会では、技術の発展自体が、哲学的・倫理的問いかけの必要性を生みだしております。この数十年の科学技術の発展は、倫理問題への洞察を必要かつ喫緊のものとしています。
 「そうすることがはたして便利なのか」「そうすべきであろうか」「それによって達成できると思っていることが本当に可能なのか」――。
 また、「何のためにそうするのか」「だれにとって、利便なのか」。そして、「このような質問と、その後にくる選択を、最終的にだれが決定するのか」と。
 このような基本的でしかも具体的な問いかけが、今日、科学・技術と、哲学・倫理の再会を実現するのです。
 池田 ご指摘のとおりです。具体と普遍は一体です。仏法では、具体(随縁)にも、普遍(不変)にも、同じく真理(真如)を見いだします。
 哲学・倫理が提示すべき「永遠なるもの」「妙なるもの」は、分析的な科学・技術が提示する「具体的な個々のもの」を離れて現れるのではないと考えます。
 このことこそ、「諸法実相」、すなわち“この世界万物の真実のすがた”ととらえられています。
 しかも、仏法では、それぞれの時代・社会において、「諸法実相」をとらえる力は異なり、時代の変遷とともに、仏法者はより高い次元、より深い見方での「諸法実相」を獲得しようと、普遍性と具体性を往復して探求を続けるのです。
 永遠の真理探求――それが菩薩の生き方です。菩薩(菩提薩埵)とは、元来、“究極の智慧(菩提)を求めて生きる者(薩埵)”という意味ですから。

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