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日蓮大聖人・池田大作

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1 現代物質文明の病態  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

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1  求められる“人間”を基準とした普遍的価値
 池田 二十一世紀を目前にして、世界は今、大いなる変貌をとげつつあります。
 ドイツの統一が実現し、戦略核兵器の削減が約束されるなど、冷戦時代にはまったく想像すらできなかったことが起こりました。
 しかし、東欧諸国の民主化が行われた後もなお、問題が山積しています。ユーゴスラビアなどで激しい民族対立が続いていることをはじめ、アジアを中心とする昨今の深刻な経済危機は、人類の未来をおおう暗雲として垂れ込めています。世界はまさに、「病んだ状態」にあるという感をいちだんと深くしています。
 ブルジョ さまざまな落差がわれわれの社会に広がっています。民族間の分裂もその一つです。
 目まぐるしく転回するこの時代、私たちはさまざまな悪夢を経験しました。
 ナチスの民族主義もその一つです。それを乗りきったかと思うと、今度はソビエト連邦の崩壊とともに、民族間抗争の火の手が、とくにここ数年、激しく燃え盛っています。
 もともと、このような民族間の確執には根深いものがあります。しばし埋もれていたものが新しい火種を得たとも言えます。ルワンダとユーゴスラビアのように、別々の大陸で「民族浄化」運動が相次いで勃発しました。
 池田 悲しい事態です。民族を超えて求めるべき普遍的価値が失われたことは、大きな問題です。今ほど、民族、宗教、文化的伝統などの違いを超えて“人間”という基準で考えることが、求められている時代はありません。
 ブルジョ 欧州、とくにフランスでは、社会生活で、民族としての出自、文化的伝統、宗教の信奉の多様性を認めることを、イスラム原理主義運動を口実にして拒もうとしています。
 日本では、このような問題がどうなっているか、私にはわかりませんが、カナダは、フランス、イギリス、イタリア、ギリシャ、スペイン、ポルトガル、中国、インド、東欧、中南米諸国、アフリカなど、さまざまな国からの移民が、住民を多彩にしている国です。
 池田 日本は、明治以降、近年まで、アイヌ民族をはじめ北方少数民族をかかえていながら、同化政策を徹底しました。豊かな伝統を誇る琉球文化も大和化しました。また、朝鮮半島や台湾、南洋諸島など植民地として領有した地域でも同化政策を強力に推進しました。
 たしかに、当時、西洋諸国も帝国主義に基づき、アジア・アフリカを“未開”と位置づけ、自分たちの文化の流入をその“啓蒙”“開発”と考えていま
 した。その道を模倣しての日本化とはいえ、多彩な民族色すら許さなかった点などには大きな問題があると言えるでしょう。
 また、そのような歴史がつちかった差別意識から、経済的に繁栄した今日、アジアや中南米各国などから職を求めてやってきた人々に対しても、疑い深く蔑んだ眼差しをもつ人もいないとは言えない現状です。
 ブルジョ カナダでも、とくにモントリオール、トロント、バンクーバーといった大都市では、そうした傾向が顕著です。
 一部の人々を排除するとは言わないまでも、少数民族として疎外しようとする傾向があることを否定できません。いわばゲットー化です。
 池田 移住してきた人は、親類・縁者を頼ってくること、また経済力が似通っていることなどから、同じような地域に集中して住むことになるでしょう。
 そして、ややもすれば、その地域が、他の地域から異質視され、差別を受けやすいものです。
 ブルジョ 差別する人々には、相互理解がまったく欠けています。暴力を含む社会のさまざまな病理をわれわれは自分たちの責任と感じず、他人にその責任を押しつけています。
 この他人とはだれのことをさすのでしょうか。われわれと違う人たちということでしょうが、この「われわれ」はじつは、「異質なものの混合」であることを忘れがちです。
 池田 「異質なものの混合」とは、積極的に評価する眼でみれば、“豊かな多様性”です。
 ブルジョ 生命の発達は第四章で取り上げたテーマですが、多様な出会いと交流があり、そのような経過が生命の発達に集約されていったという事実を話
 しあいました。
 生命の発達には多様性が必要だった、と言えるでしょう。ところが、民族浄化などの動きはそれに反するものです。
 しかし、私たちには、動植物については、種を絶やさないように配慮し、遺伝子の多様性を守ろうとする面があります。
 池田 自然環境の分野では、生物学的遺伝子の多様性の保全が重視されています。それにならっていえば、文化・社会環境においても、固有文化の多様性の保存に取り組まなければならないでしょう。
 ブルジョ 経済学でいう競争原理のように、他人を排除しながら最後まで生きぬくための闘争が、私たちの社会では、もっぱらです。
 それが社会構造や政治構造におよんでいます。
 池田 その根本を変えなければなりません。他人ではなく同類なんだ、と。
 “異質性を多様性と見る”視点の基盤には、「同じ人間である」との根底の信頼があります。
 この根源の信頼を打ち立てることが、「人間」を基準とすることです。
 古代ギリシャのプロタゴラスは「人間は万物の尺度である」と言いました。たしかに、この言葉は、ソフィスト(職業的弁論家)一流の相対主義の発言ではあります。しかし、そこには、多様な価値観をおさめゆく唯一のカギが「人間」そのものを基準とすることにしかない、との卓見があるように思えてなりません。
 人間そのものをどれだけ深く愛し、どれだけ大切にするか――それこそが、世界がかかえる重病を癒し、人類を幸福へと導く“処方箋”ではないでしょうか。
2  貧困は社会と人間の「健康」と密接に関係
 ブルジョ おっしゃるとおりです。
 社会が健康であるためには、分裂と不均衡のなかに、均衡と調和を築く努力が欠かせないでしょう。それが欠落している現在のわれわれの社会は、病んでいます。重病です。
 その病のもっとも重篤な症状の一つは、貧困です。貧困を解消できない社会は、その社会自体が重い病を患っているようなものです。
 池田 「北」すなわち先進国と「南」すなわち発展途上国との経済格差は、近年ますます広がりつつあります。
 南では、今日食べるものにも事欠き、雨露をしのぐ家ももてない人が少なくありません。その一方で、北では栄養の摂りすぎや過大なエネルギー消費による環境破壊などが問題になっています。
 ブルジョ 二十世紀の産業と技術の発達がめざしてきたものは、あらゆる人々の幸福と豊かさであったはずです。
 しかし、現時点ではその約束は反古にされています。
 池田 多くの発展途上国では、なんとか産業を振興し、貧困状態から脱却しようと努力しています。しかし、電力施設や上下水道、あるいは鉄道・道路など、社会的生産基盤(インフラ・ストラクチャー)があまりにも不備なため、産業を興そうにも興しようがないというのが現状です。
 ブルジョ 貧困は人間と社会の健康状態と密接に関係する問題です。
 貧困と病気、貧困と短命の相関性については、多くの研究が発表されています。
 貧困による生活の質の低下が指摘されていることは言うまでもありません。
 池田 衛生状態が悪いところでは乳幼児の死亡率が高く、そのために人々は多くの子どもを産み、その結果、とめどもない人口爆発を現出している、という悪循環が続いています。
 ブルジョ たしかに二十世紀、われわれ人類は、すばらしい技術革新を達成しました。そして、それによって、前代未聞といえる豊かさを築きました。けれども、それは一部の人たちだけです。その恩恵は民衆一般にはおよんでいません。これは明らかな矛盾と言わざるをえません。
 池田 そのとおりです。
 また、発展途上国における物質的貧しさも深刻ですが、先進国が直面している精神的貧しさも抜きさしならぬ状況です。それは、麻薬の蔓延、青少年の非行、暴力、犯罪の増加などの現象に端的に現れています。
 さらに先進国では、一応、物質的繁栄が達成されているように見えますが、それでも最貧層の人々が取り残されている現実を無視することができません。しかも、最貧層と一般層・富裕層との格差は、近年、いちだんと開きを見せ、固定化する様相を呈しています。
 ブルジョ 私どもの大学があるモントリオールでもそうです。ロイヤル山の西側にウエスト・マウンテンという地域があります。その地域の人々は、健康状態もよく、長生きし、教育・情報・文化などに恵まれ、高い生活の質を享受しています。
 これに対して、山麓に住んでいる人々にとって、そのような生活は、夢でしかありません。
 池田 貧困層の固定化の結果、とくに、青少年層においては、自分たちは何を目標に生きればよいのかわからないという「目標喪失状態」におちいっているように思われます。青年の心は渇き、ひび割れ、まさに「精神の砂漠化」現象が進行しています。
 そこから目先の快楽、快適さのみを追い求める生き方が生まれてきます。自分の快楽さえ満たされればよいとする青年たちにとって、社会の問題は目に入ってきません。
 先進国の社会は、今のところ、こうした青年たちに進むべき目標を示すことができていないように思います。
 ブルジョ カナダよりも貧富の格差が激しい国もあります。
 たとえば、巨大な隣国アメリカでは、社会政策が皆無とは言わないまでも、不十分であることは明らかです。
 国全体としては、経済の国際的競争力は第一位を維持する能力があることを誇っているものの、大部分の国民のふところは国の富ほど潤っているとは言えません。
 池田 先進国の貧困も大きな問題とはいえ、大枠でみれば、発展途上国は物質的危機に直面し、先進国は精神的危機に突入しているようです。そして、地球全体としては極端な不均衡に悩んでいるのです。
 ブルジョ 豊かな国と貧しい国の格差――それ自体があってはならないものです。しかし、それを縮める努力をしているにもかかわらず、ここ数年、深刻の度を増しています。
 そのために、富めるものが自身の利益のために貧しいものを搾取している、との非難の声があがっています。
3  援助のあり方の見直しを
 池田 そこで、まず、発展途上国に対しては、その経済的危機を克服するために、これまで以上の援助が世界全体から必要でしょう。
 もちろん、援助は、たんに資金や物資を提供するというだけでは十分ではありません。識字率の向上など教育の分野を含めて、途上国が自立的に経済発展のコースに乗れるように、技術的・人的な貢献がとりわけ必要です。
 しかし、物質的基盤がないとそれも十分に行えません。先進諸国はもはや、みずからの繁栄のために途上国を犠牲にし続けることは許されません。たしかに近年、先進諸国も経済的行き詰まりに悩んでいますが、それでもなお先進国が途上国から受けた恩恵とそれによってもたらされた貧富の差を考えるとき、みずからの行動の補償を行い、共存共栄の世界へと移行していくことは不可欠です。
 ブルジョ まったく同感です。おっしゃるとおり、一部の人たちの物質的繁栄は、他の人々の犠牲の上に成り立っています。何世紀にもわたって、慈悲・分かちあい・連帯をたたえてきたさまざまな文化的伝統があったにもかかわらず、他者の犠牲による一部の人の物質的繁栄がその精神性の貧困を招いているようです。
 しかし、その傾向は、きのうきょうからのことではありません。
 池田 現代社会では、特権階級の既得権を守るための保護主義の台頭があります。危険なことです。悪しき保守です。
 ブルジョ 数年前に私の友人も指摘しています。「保護主義者とは保護するものをもっている人たちのことだ」(笑い)と。
 富は分かちあうことができるものです。また、分かちあうべきもので、占有すべきものではありません。
 また、これまでも、時に応じて真理を告げる預言者たちが出現しては、慈悲と分かちあうことの重要性を説いてきました。
 池田 そうです。仏教にせよ、キリスト教にせよ、万人に対して開かれた慈悲や愛を説き、思いやりの実践を勧めております。
 ブルジョ ただ、一般的にいって、貧者のほうが富者よりも、その説教をよく理解したのです。
 池田 貧しい人ほど、助けあい、分かちあっています。歴史をみれば、おごれる富者は、ついには滅んでいきました。この点を深く見つめねばなりません。
 人間は他者の支えなしには、片時も生きられないのです。そのことに対する感謝をもっていなければなりません。仏法では「一切衆生の恩」といって、あらゆる人に支えられて生きていることへの感謝を説きます。
 ブルジョ 今の社会や世界には、貧困をほとんどなくしてしまうか、あるいは完全になくしてしまうだけの力があるのに、まだ貧困がなくなりません。
 池田 もちろん、現在でも少なからぬ額の援助が先進国から途上国になされています。しかし、事態はあまり改善されていませんね。
 ブルジョ 最近ある経済学者が次のようなことを指摘したそうです。
 ――今日、国際金融取引が商業活動で大きな部分を占めている。その額に対して、最小限(ほんの〇・一パーセントでいい)の税金を課すとする。その合計は年間一千億米ドルにもなる。これだけあれば、全世界の相当数の栄養失調者に食糧を与え、健康管理と治療を行い、教育や訓練を施し、知識を広めることが十分にできる――と。このわずかな課税のために、だれかが貧乏になるとは考えられません。
 池田 卓見ですね。富の一部を回すだけで、多くの人が救われます。
 一九九八年、ノーベル経済学賞を受賞した、インド出身のアマーティア・セン教授も、弱者救済を基軸とした「貧困の経済学」が受賞理由です。同教授も、強者によるマネー・ゲームではなく、弱者が豊かになれる倫理ある経済を主張し、実践しています。
 また、現在の援助は、援助する側の国内事情によって不安定な要素をはらんでいることも事実です。それゆえ、国家から国家へという現在の援助のあり方を見直す必要があるのではないでしょうか。
 国連や世界銀行など国際機関に対して、大幅な財源と、大国の意図に左右されない権限をあたえ、国際社会が一丸となって有効な援助を進める体制を確立することが必要であるように思われます。
4  戦争の経済から平和の経済へ
 ブルジョ 国連に開発と環境問題を扱う委員会があります。一九八七年に、ノルウェーの元首相であるブルントラント女史がその議長を務めておられました。
 そのときに、ご指摘のような決議を行いました。
 “現在、軍備拡張のために使われている金額を、貧困との戦いと環境の質の保護のために使おうではないか”との提案です。
 池田 国連の「環境と開発に関する世界委員会」と、その議長をされたブルントラント女史のことはよく存じております。
 私どもが一九九一年にノルウェーの首都オスロで「戦争と平和」展を開催したときに、首相であった女史から、メッセージを頂戴しました。私どもの平和と環境の問題に対する草の根の意識啓発への取り組みを評価し、「パートナーを得た」と喜んでくださいました。
 女史が中心となって作成した環境問題の報告書については、すでに第二章で、ブルジョ博士もふれておられます。
 そこにかかげられている「持続可能な開発」は、今、論じている「貧困」と「環境」の問題の両方を視野に入れた解決をめざすものです。
 ブルジョ 元来、武器製造者が戦争を食い物にしなければ、そのような国連の使命は存在しなくてもすんだはずです。
 ところが、武器製造者が裕福な国々で高く尊敬されている人々のなかにいるのです。しかも、武器産業は最先端の技術開発が進んでいる分野の一つです。これも大きな矛盾です。
 池田 たしかに現実と理想の乖離は大きいです。だからこそ、いっそう高らかに理想をかかげなくてはなりません。
 “戦争は儲からない。平和のほうが儲かる”と論証しようとしている学者たちがいます。私は彼らに敬意をいだきます。というのも、現実から出発して理想へと導く道を具体的に示そうとする点を、高く評価したいのです。
 理想だけをかかげて、その途上のすべての段階を否定するのは、あまりに非現実的です。マハトマ・ガンジーが言うように、“よいことはカタツムリのように進む”ものです。
 ブルジョ 私自身、十年前、カナダのユネスコ委員会の委員長を務めたことがあります。そのときの経験したこと、また近年の国連の活動から思うことは、加盟国、とりわけアメリカなどの豊かな国々に分担金の支払いを含めて積極的な取り組みが欠けており、それが活動を遅らせています。しかも、それらの国々が、危機が発生したときにそれを大声で嘆き、すぐに手を打たなければたいへんなことになると言って、ただちに武力その他の介入を始めたりするのです。
 池田 正しいことの実現には、たんに即効的な手段ではなく、正しい手段が必要です。
 前に、東洋では、最善の医師とは、すでに病気になってから治療するのではなく、未然に防ぐ医師であるということを紹介しました。社会を治療する医師においても、同じことが言えるでしょう。
5  煩悩の薪を智慧の火へ
 ブルジョ 私は数年前、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(第六章「偉大な異端審問官」)の中の「イエスへの三つの誘惑」を再読して、刺激を受けました。
 この中では、イエスは、人間存在を一貫して貫く糸となっている“三つの重要な経験”を生きる者として、描かれています。
 この三つの経験に対して、哲学者のポール・リクールは、「所有欲」「社会的認知の欲求(人に認められたいとの欲求)」「権力欲」の三重の欲求と名づけています。
 このうち「所有欲」は、蓄積と占有という形をとるとともに、交換・寄付・分かちあい、という形もとります。
 また「社会的認知の欲求」は、絶えず威信を求める場合もあれば、あるいは自分が人並み、対等であることを求める場合もあります。
 「権力欲」は、一面では支配と隷属ですが、他面では際立った相互依存や連帯関係のなかでの相互扶助です。
 仏法の教えのなかにも似たような考え方が発見できると思いますが、いかがでしょうか。
 池田 人間の欲求の本質を鋭く見抜いた言葉です。仏法に通じる考え方です。
 これらの三つの欲求は、いずれも自我の拡大をさし示しております。つまり、自分(我)と自分に属するもの(我有)を広げたいとの欲求(我愛)です。
 仏法では、これらの欲求には大きな落とし穴があることを見抜いています。それゆえ、根本的煩悩の一つとみるのです。
 しかし、大乗仏教では、この欲求を正しく用いれば、自他ともの幸福を築くエネルギー源ともみています。いわゆる「煩悩即菩提」の法理です。
 煩悩を薪に譬え、それを昇華して得られる「智慧」の発露を、薪から出る火(熱と光)に譬えています。
 欲求そのものがなければ、それを人々に役立つ「智慧」へと転換することはできません。財産がなければ人に分かち与えられません。大切なのは、煩悩の薪を「智慧」の火へと転換していく根底の心です。
 ブルジョ 何かを与えたり、分かちあったりするには、当然のことながら、その何かを持っていなければできないことです。
 他人と比肩できる立場に身を置くためには、人から認められ、自分に自信をもてるようでなければなりません。
 助けあいと連帯の精神を築くためには、生命とその環境についての洞察が欠かせないのは言うまでもありません。
 しかし、現実には、われわれ個人あるいは集団としての行動は、かなり違う方向を志向しています。国際市場での激烈な競争は競争相手の排除をめざし、それが企業の優秀性の名のもとに正当化されています。それが最終的に弱肉強食、富者による貧者の支配と搾取というパターンをつくり上げています。
 まさに社会はわずらっており、現代人は病んでいると言わざるを得ません。
 われわれは技術上、達成した偉業と商業的な成功をみずからたたえていますが、貧困はなくならないどころか、逆に広まっています。
 最悪なのは、そういう事態を運命にことよせて、みずからの責任を考えようとしない態度です。表面的には、変えようとしても変えられない、ほかにしようがないというのは、一種の運命論です。その運命論が世界に広がっています。
6  みずからの行いで運命を転換
 池田 厳しい現実から目をそむけてはなりません。苦悩の“現実の声”に耳を塞いではなりません。すべてを自身の問題としてとらえていく、“開かれた心”であり続けなければなりません。私も人間であるかぎり、人間に関するすべてを自分のこととして関心をいだき続けようと決意しております。それが仏法の同苦の精神、慈悲の精神であり、仏法者たる菩薩の道だからです。
 そして、世界の運命をも転換しようとするのが、仏法です。仏法の真髄は、みずからの行いによって得た運命なのだから、みずからの行いで運命を転換していくことを教える点にあります。それが私どもSGIの人間革命の運動です。
 ブルジョ 打つ手は何もない、というのは、真実ではありません。私たちには、変えようとすれば何であっても、たとえそれが世界であっても、変えることができるのです。
 池田 そうです。今、困難を打破して、人間そのものを開発することが求められているのです。これまでの開発が引き起こしてきた問題は、近代においてひたすら物質的豊かさの拡大と充足を追求してきた科学技術文明のあり方そのものにかかわるものです。自然の摂理に長く翻弄されてきた人類は、さまざまな技術革新によって、自然の猛威を克服して環境を開発し、自分たちの生活向上のために利用できるようになってきました。
 やがて、自然は人類にとって統御し征服すべきものであり、無限に利用できるものであるという感覚が生まれてきました。こうした自然観が、「環境汚染」「環境破壊」などのいわゆる“地球的問題群”にも深くかかわっているように思われます。
 “地球的問題群”は、現在、きわめて文明史的な問題を投げかけています。あらゆる分野で、“何のため”という問いかけが必要です。“人間”は“人間のため”に英知を用いねばなりません。
 ブルジョ 社会で不均衡が目立ち、ひどい貧困が定着したとしても、技術開発がすべての病根であると言うことはできません。
 池田 たしかにそのとおりです。技術を生みだすのも、用いるのも“人間”です。“人間”をつくるしかありません。
 先進諸国が直面している精神的問題を解決するカギも同じです。二十一世紀に生きるにふさわしい人間をつくることです。
 さもなければ、苦悩に喘ぐ同じ地球の隣人に対して、手を差しのべることはおろか、関心をもつことすら、できないでしょう。

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