Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

4 さまざまな生命観  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

前後
6  仏法の法理からみた「主体的生命観」
 池田 私も、博士の見解に賛成です。二分法的な生命観ではなく、生命観そのものが発展するということです。
 仏法では、とくに人間精神に特徴的な「自己意識」について深く洞察するとき、そこに「主体的生命観」が成立するととらえております。
 前にも取り上げましたが、この「主体的生命観」の基盤をなす仏法の法理の一つが「九識論」です。すでに紹介しました“五陰(仮和合)”説と、この“九識論”を組み合わせると、いわば「仏法的生命観」が成立してきます。“五陰”のなかの“識陰”を洞察していくとき、人間においては「自己意識」が重要な心の働きをなすことは、「人類の誕生」のところで話しあいました。
 さて、その「自己意識」(第六識)の底を掘り下げ、その内面に深層意識としての根源的自己意識、つまり第七識(末那識)をも発見しております。この第七識が、反省的、内省的“自己”の基盤であります。この根源的自我は、つねに貪欲や慢心や悪見につきまとわれているのですが、そのような悪心を打破すると、良心、理性に輝く「自己意識」が現れてきます。
 では、その悪心を打破する原動力をどこに求めていくか――第七識の底を洞察していきます。環境と一体化しつつ拡大し、時間的にも過去を摂取しながら未来をも志向する広大なる深層意識領域としての
 第八識・阿頼耶識に到達します。仏法的に言えば、阿頼耶識は「業蔵」とも言い、人間生命の体験が善悪の業としてはらまれています。
 善悪の業のなかで、善業を強化する源泉を求めて、仏法はその第八識をも包括する宇宙生命そのものと一体となった自己自身、すなわち第九識阿摩頼識(根本清浄識)を洞察しております。
 今後の総合的な発展によると思いますが、このような「自己意識」を起点として主体的に深まり拡大しゆく「主体的生命観」は、哲学的側面からの重要な生命観として位置づけられるのではないかと思います。
 ブルジョ 「機械論的生命観」あるいは「生気論的生命観」の両者を比較して、私なりに結論を下すとすれば、次のようなことが言えると思います。
 人間その他の生物の中に生命があることは否定できない事実です。その生命は、つねに新しい経験を積みます。したがって、生命の概念を規定しようとすれば、あるいは生命を理解しようとすれば、生命にはそれ自体が経験的につねに変化し、新しくなっていくという側面があることを無視できません。このことを認識すれば、人間の生命構造が反映されている社会の枠組みと範疇の中で、人間生命は新たに経験を積み重ねたり、物事を理解したりするわけです。
 この究極に主体性の問題も存在すると考えられますが、おっしゃるような「主体的生命観」は、自己の人生にどのような意味をもたせるかは人間自身であるという意味において、重要な視点であると考えます。

1
6