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日蓮大聖人・池田大作

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4 さまざまな生命観  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

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1  社会構造の変化で「生命観」も変化
 池田 生命の起源から進化論をたどって、人類の誕生を見てきました。この章の最後に、現在までの人々がいだいてきたさまざまな「生命観」を検討しておきたいと思います。
 ところで、今までの論議をふまえて、あらためて問い直したいのですが、「生命」とは何でしょうか。
 ブルジョ 生命とは何か――その答えはいまだ出ていないといってよいでしょう。(笑い)
 アンドレ・ピショは、彼の膨大な著作『生命観の歴史』を「生命の概念はわれわれにとって重大な問題なのに、科学史を見ても、哲学史をひもといてみても、生命についての明確な定義はまだ下されていない」という文で書き起こしています。
 われわれは自分が生きていることを実感できます。それなのに、生命の定義――少なくとも決定的で断定的といえる定義――がないのです。生命自体がつねに新しく、人間の意識や知識も刻々新しくなっていくので、その実態をとらえきれないのかもしれません。
 「生命とは何か」と問われてアンドレ・ピショは、聖アウグスティヌスが時間について述べたことを引用しました。「自分自身ではわかっているつもりだが、あらためてそう聞かれると、説明に困ってしまう」と。われわれも同じように生命についてほとんどわかっていないし、「生命とは何か」と尋ねられればピショのように返事するしかないでしょう。私自身、自分の人生を通じて生命についてわかっているようで、じつはわかっていないことを率直に認めるしかありません。
 池田 私たち自身が「生命」であり、主体的に生きていながら、たしかに、「生命」をあらためて定義するとなると、むずかしいですね。
 そういえば、私も対談したことがあるポーリング博士(ノーベル化学賞・平和賞の受賞者)も「生命を定義することよりも、生命を研究することの方がやさしい。定義はしなくても研究はできる」と国際学会で発言(江上不二夫『生命を探る』〈岩波新書〉の中で紹介)しているようですが、たしかに同感できます。
 ブルジョ この世界には、さまざまな生命が独自の存在と生き方を見せているのも明白な事実です。個人差も多様で、集団間にも差異があり、社会によっても時代によっても差があります。私個人の見解では、とくに社会秩序と構成、なかんずく社会における権力構造のあり方が、生命観に大きく影響するように思えます。
 池田 「生命」のとらえ方に影響をあたえるということでしょうか。
 ブルジョ ええ。たとえば、階層区分(ヒエラルキー)が明確になっている社会では、既存の秩序を維持し、その社会を存続させるために、生命の起源と進化をそうした階層区分に関連づけて理解していたように考えられます。聖書の「創世記」がその好例でしょう。そこでは具体的に、まず最初に無機物が現れ、次に有機物が、それから動植物が現れ、最終的にできあがっていったピラミッド構造の頂点に人間が存在すると書かれています。
 このピラミッド構造の構成要素である各段階が、さまざまな形態をとる生命の階層区分に相当していることは明らかで、底辺から上に進むにしたがって複雑性が増し、頂点にいる人間がもっとも複雑な存在として区分されるわけです。
 池田 なるほど。そうすると、科学知識が増したり、社会構造が変化したりすれば、「生命観」もまた変化するということになりますね。
 ブルジョ そのとおりです。現在のもっとも民主化が進んだ社会の構造、価値の多様化、法体系などを見るまでもなく、少なくとも原理的には、現代は以前の社会より階層的ではなくなってきているように思えます。それとともに、当然のことながら、生命とくに人間の生命についての考え方、ないしは人生観が大きく変わってきていると思います。
 たとえば、ユベール・レーヴェの『天空のたゆまざる歩み』(英語のタイトルは“Patience in the Sky”)では、「『ビッグバン現象』といわれる原初の混沌の中から宇宙法則の微妙な相互作用によって、次々に原子、分子、細胞、生物、さらに思考力をもつ存在などのより高度で複雑な構造など、その一切が宇宙の形成期間に果実として実って」いった過程を見ることができます。
 また、クリスチャン・ドゥ・デューブの『生命が宿る屑』では、著者は生命の進化を逆方向にたどってその生い立ちを探ろうとしています。すなわち、複雑な生命体から出発して、生命の構成要素としての単純なもの、つねに存在してきたものへ向かう方向性です。
 このような生命観は、(非連続性に対比する)「生命の連続性」や(個別性に対比する)「相互依存性」を提供しているように思えます。その意味において、従来の生命観を超えているように思います。
2  デカルト生命観の背景
 池田 たしかに、博士が指摘されたように、生命観の「階層性」(非連続性)や「個別性」から、「連続性」「相互依存性」への変化が起きております。
 ところで、歴史上、この生命観に関して、一般的に議論されてきた問題について検討しておきたいと思います。
 現在、生命を科学的に考察しようとするかぎりにおいては、いわゆる「機械論的生命観」が有力であり、これが生命観の主流をなしていると思えます。しかし、この生命観の基礎には「生命は物質から生じ、さらに物質ではあるが物質的でない特異な機能も示す」という前提があります。生命の実証的研究はこのような前提を承認した上でなされてきたわけですが、実際に「生命は生命から」というテーゼ(提案)をくつがえし、着々と「生命は物質から」というテーゼを立証してきているように思われます。
 とくに、ここ三十年間の生命科学の進展には目を見はるものがあり、遺伝や免疫、脳の機能など、ふつうの物質現象では見られないいちじるしい特異性を示す生命現象が、分子レベルの物質の振る舞いとして解明されようとしております。
 こうしたデカルト以来と言われる「機械論的生命観」について、博士はどのように考えますか。
 ブルジョ デカルトを考えるとき、コペルニクスやガリレオのことを考えずにはいられません。ご承知のように、各惑星がその軸を中心に自転しながら太陽の周囲を公転するという、二重の回転運動をしていることについてはコペルニクスがその理論的先駆をなし、ガリレオが惑星の運動のメカニズムを解明する道を開いたとされます。
 デカルトが生物学の研究によっていだいた生命に対する考え方は、機械論的生命観の伝統のなかでその影響を受けつつ育まれた宇宙論(コペルニクス)と物理学(ガリレオ)をその背景に見据えないと、理解できません。数々の星の動きを観察すると、それはあたかも時計が機械的に動くのに似ているというふうに理解できます。この時計との類似性が、自然界と生物を理解するためのカギであるとデカルトは考えたのでしょう。人間さえもその生物のなかには含まれますから、その人間こそがデカルトの重要で独特な研究テーマになったわけです。
 池田 デカルトは、人間には独特な「思惟」という他の生物にはない特性を認めています。「延長」と「思惟」をもとにする「二元論」ですね。しかも人間以外には「延長」一元論で十分であるとしたわけで、それが物質に基づく「機械論的生命観」に結びつくのは容易に考えられます。
 ブルジョ デカルトは、人間は明確に区分できる二つの実体で構成されていると言っています。一つは「かたちをとる実体」すなわち身体で、もう一つは「考える実体」すなわち魂です。デカルトの生物学では、この二つはあくまで別のもので、ついぞ結びつくことはなかったと言えます。デカルトのこの「物心二元論」は、アリストテレスが魂をすべての生物の身体の内部にあって自律的な行動をとらせる「原理」ないしは「形相」である、とした定義からの訣別と言えるでしょう。
 植物や動物を「無生物と見なしてしまう」思考過程は、ガリレオのなかにすでに見られますが、人間以外のものに魂はないとするデカルトの結論も、その延長線上にあると言えます。そういう意味では、ジョルジョ・カンギレムがその著書『生命についての知見』の中ですでに述べているように、「アリストテレスは奴隷が心をもっていることを認めなかったが、デカルトは動物に対してそれと同じ姿勢でのぞみ、人間の道具として扱うことを正当化した」のです。このような思考過程をたどりつつ、文明の進展が、西欧人をして「人間が自然を所有する、自然の主人なのである」と思わせるようにしていったのでしょう。
 それがやがて、人間が所有する自然の中には、自分自身、その全部とは言わずとも、少なくともその身体が含まれると考えるようになったのです。
3  「機械論的生命観」の成果と倫理的問題
 池田 近年の急速な分子生物学の発展は、その流れを助長させているようで、その勢いは「魂」の領域へさえ到達しているといってよいかもしれません。そのように、デカルト以来の「機械論的生命観」が大きな成功をもたらした側面は否定できません。
 しかし、そのことは、「機械論的生命観」が唯一の生命観であるとただちに是認させるものではないと思うのです。今日では、一口に「機械論」といっても、実際には多義的に使われているようです。たとえば、生命現象を漠然と古典力学的に考察しようとする方法論的態度を示す場合や、あるいは物理・化学的現象へと還元する立場を示す場合、さらには人工的機械とのアナロジー(相似)を意味する場合などがあります。いずれにしても、「生命現象の基礎には物質のメカニズムがあるのだから、生命は物質の特異な振る舞い以上のものではない」という前提のあることは否定できないように思われます。しかしながら、「機械論的生命観」の以上のような前提そのものは、自明でもなければ、完全に論証されたものでもないと思うのです。
 ブルジョ それには同意できます。ただ、現代の臨床医学を含めた生物学や生命科学が重要な研究分野であるとの認識の広まりは、デカルトのおかげであると言えないこともないという点があります。結果論として、デカルトが「機械論的生命観」の原型をつくったから、今日われわれはそれに基づいて人間の身体とその機能を理解することができるようになったし、人体の内奥に立ち入ってさまざまな実験的介入を試みる道が開けた、とも言えるのです。
 事実、デカルトは、人間の身体を人間ではなくて機械であると考えました。その著『人間論』の中には、次のような記述があります。
 「(人間の)身体は、神がわれわれにもっとも近似した形象をつくることを意図してつくった彫像、ないしは土くれでできた機械以外の何ものでもない、と私は思う。その外側に色をつけ、四肢をつけただけでなく、人間が歩き、食べ、呼吸するのに必要なすべての部分を内部にいれ、物質でできたものとしては可能なかぎりの、またわれわれの器官がいまの配置をとっているからこそ可能な、すべての機能を備えさせたのである。人間がどれだけ巧妙につくりだしたもの――たとえば時計、人工的な噴水、粉引き機――でも、自由自在に自分で動ける力はもっていない。それに比べて人間のつくりは精緻をきわめており、そのどの動きをとっても、わたしには神の手でつくられたものとしか考えられない」
 このように、生きている人間、少なくともその肉体を、デカルトがしたように一つの機械になぞらえて理解しようとするならば、機械というものは人間が自分自身についていだくイメージによって、自分に似せて一定の形と寸法にしたがってつくりだしたものであることを忘れるべきではないでしょう。したがって、生物ないしは生命そのものについての機械論的見方や概念は、基本的に「神人同形論」(宗教上の擬人観の一つ。神に人類の性質や人類に類似した性質を賦与するもの)と変わりません。
 しかし、ジョルジョ・カンギレムもデカルトの出現によって「神人同形論」が政治構造的ニュアンスを帯びたものから技術社会的ニュアンスを帯びたものに変わったと言っているように、「機械論的生命観」にも多種多様の形態が存在するという会長の見解に賛同できます。
 池田 ここに「生命観の多元性」という問題が、むしろ必然的に提起されてきたように思われます。
 ポルトマンが「生命の形を研究するには多元的な観点が必要で、ある一つの観点だけが他の観点よりも重要であるとか、より科学的であるとかということはない」と指摘するように、近代科学のよりどころとなっている「機械論的生命観」に対して、生命の主観的経験などを根拠とするような他のさまざまな生命観が提示されても、決して不思議なことではないと思います。
 ブルジョ しかし、「機械論的生命観」は、現代の技術社会においても依然として主流的なパラダイム(個々のものごとの説明の枠組みとなる包括的論理)になっていることは否定できません。ただ、発展がいちじるしい生命科学は、主体でもあり客体でもある人間が、どのように構築され、破壊され、再構築されていくかの相互作用を解明する総合的な学問ですが、その実践には倫理的な問題がはらまれ、多くの懸念も表明されています。そこで、そのような問題を扱おうとする学問、「生命倫理学」が生まれました。
 池田 「生命倫理学」の主要なテーマについては、すでに話しあいましたね。
 ブルジョ 生命倫理に関する懸念すべき問題は、会長の言われる、「機械論的生命観」の前提に存在する不備の現れとも言えるかもしれませんし、多元的な生命観へのパラダイム・シフトを求める動きなのかもしれません。
4  「生気論的生命観」の衰退の過程
 池田 その両方でしょう。そこで、もう一つの代表的な生命観である「生気論的生命観」(生命現象には物理・化学の法則だけでは説明できない独特な生命の原理があるという見方)について検討したいと思います。
 歴史的には、生命を物質とは離れた独自の原理と考える「生気論」のほうが古いわけです。しかも、その「生気論」にも、生気を生命の実体とするのか、それとも構造的なものとするか、あるいは機能的なものとするかによって、考え方の格差が生じていたように思われます。構造的、機能的なものと考えると、むしろ「有機体論」(生活機能をもつように組織された物質系が有機体で、生物を他の物質系と区別していう場合に用いられてきた)に近いとも言えます。この「生気論的生命観」については、博士はどのようにお考えでしょうか。
 ブルジョ それも、生命の本質を解明しようとする一つの試みと位置づけられましょう。
 生物にとっては、物理的力学や自然の法則は生命の存続に脅威的な制約をあたえるように思えますが、生物がそれに対抗できる活力を活発化させる「生命原理」が存在する、と説くのが「生気論」と言えるでしょう。
 生気論者は、物理的世界に属する身体の劣化に拮抗する能力をもたせる「生命(ないしは活力)原理」は、あらゆる生物の中にあると言います。十八世紀の初頭に、ゲオルグ・エルンスト・シュタールは霊魂の中にこの生命原理が存在すると述べましたが、これがすなわち「霊魂不滅論」です。
 池田 シュタールは、燃焼における「フロギストン説」(仮想的なフロギストン=燃素をもとにした燃焼理論。物質の燃焼はこのフロギストンが物質から逃げだす現象であると説明した)で有名ですね。フロギストンとは「点火する」という意味のギリシャ語からとったようですが、燃素ともいうべき実体を仮想した点で「霊魂」という生気に結びつきます。
 「フロギストン説」は、やがてラボアジェの「燃焼理論」(物質が多量の熱と光を発して燃える現象は、物質と酸素が化合する現象であるとした理論)によって否定されるわけですから、彼の提唱した「霊魂不滅論」が衰退してしまったのは想像できます。
 ブルジョ ただシュタールの著作の一部に出てくる「霊魂不滅論」は、活力説とはまったく逆の立場をとる「機械論」に対する反発として論じられています。
 生気論者としては、もっと穏健派であるバーシス、ボールドー、ビシャなどがあげられますが、ビシャはその旗頭として広く知られています。彼は、自然と生命原理の機能の仕方を一貫するものとして同時的に(少なくともニュートンの万有引力の法則に比喩的に関連させて)理解し、説明しようとしました。つまり、物理的法則には左右されないで、しかし霊魂とは異なる別の概念を提示したわけです。
 「生気論」は十八世紀の後半から、とくに十九世紀の初頭に、一部の欧州の科学分野で歓迎されました。しかし、ビシャもその他の生気論者も、ニュートンの物理学の伴侶にふさわしい「近代生理学理論」としての「生気論」を確立することに成功していません。今日、「生気論」の後継者が少ないのもそのためだと思われます。
5  生命観は多元的である
 池田 このような考察からも、生命現象という事実そのものは唯一であるのに対し、生命観のほうは多元的であると考えたほうが適切であると思われます。
 そして、博士がおっしゃるように、この生命観が時代や社会によっても変わるということをも考慮すると、ますます画一的な生命観に固執する必要はなくなるわけですね。
 ブルジョ そのとおりです。われわれの先人たちはギリシャ・ローマ的、ユダヤ・キリスト教的伝統――これは私にもよくわかるのですが――の影響を受けて、人類はすべてのものの上に立って統治するという立場をとりました。それが、われわれが「西欧文明」と呼ぶものの出現や「機械論的生命観」の出現につながったのですが、今日では、もっと民主的、平等主義的な考え方が広まっていると言えるでしょう。
 そうしたパラダイム・シフトに対する科学の影響は決して小さいものではありません。その経緯を説明した好著を二冊あげることができます。一つはフランソワ・ジャコブの『可能性 生物の多様性について』で、私はこの本から、生命の相互作用がその働きの一部として個々の生命に際限のない多様性をあたえているのを学びました。もう一つはイリヤ・プリゴジンとイザベル・スティンガースの共著『新しい同盟 科学の変身』で、こちらからは、人間と他の生物、自然、そして統一体としての宇宙との関係性についての新しい知見が、科学の進歩によってもたらされた経緯、それがひるがえって科学そのものをどのように変えていったか、を学びました。
 池田 それらは、たんなる「機械論的生命観」以上のものを含みますね。
 ブルジョ そうです。ですから、科学はたしかに物質主義的な生命観にその基盤をおいているのですが、それが必ずしも狭いものの見方であるとは言いきれない、と私には思えるのです。この立場は、観察の結果を素直に考慮に入れるという立場だと言えます。
 個々のものには個別的な区分があることは否定できませんが、その背後に、生命と物質の間に連続性が厳然として存在することを見ています。今や、デカルトとボーデュー、あるいはビシャのどちらの立場をとるか、つまり「人間機械論」か「生気論」かはもう問題ではなくなります。どちらか一方に与するというわけにはいかなくなってきたと思います。
6  仏法の法理からみた「主体的生命観」
 池田 私も、博士の見解に賛成です。二分法的な生命観ではなく、生命観そのものが発展するということです。
 仏法では、とくに人間精神に特徴的な「自己意識」について深く洞察するとき、そこに「主体的生命観」が成立するととらえております。
 前にも取り上げましたが、この「主体的生命観」の基盤をなす仏法の法理の一つが「九識論」です。すでに紹介しました“五陰(仮和合)”説と、この“九識論”を組み合わせると、いわば「仏法的生命観」が成立してきます。“五陰”のなかの“識陰”を洞察していくとき、人間においては「自己意識」が重要な心の働きをなすことは、「人類の誕生」のところで話しあいました。
 さて、その「自己意識」(第六識)の底を掘り下げ、その内面に深層意識としての根源的自己意識、つまり第七識(末那識)をも発見しております。この第七識が、反省的、内省的“自己”の基盤であります。この根源的自我は、つねに貪欲や慢心や悪見につきまとわれているのですが、そのような悪心を打破すると、良心、理性に輝く「自己意識」が現れてきます。
 では、その悪心を打破する原動力をどこに求めていくか――第七識の底を洞察していきます。環境と一体化しつつ拡大し、時間的にも過去を摂取しながら未来をも志向する広大なる深層意識領域としての
 第八識・阿頼耶識に到達します。仏法的に言えば、阿頼耶識は「業蔵」とも言い、人間生命の体験が善悪の業としてはらまれています。
 善悪の業のなかで、善業を強化する源泉を求めて、仏法はその第八識をも包括する宇宙生命そのものと一体となった自己自身、すなわち第九識阿摩頼識(根本清浄識)を洞察しております。
 今後の総合的な発展によると思いますが、このような「自己意識」を起点として主体的に深まり拡大しゆく「主体的生命観」は、哲学的側面からの重要な生命観として位置づけられるのではないかと思います。
 ブルジョ 「機械論的生命観」あるいは「生気論的生命観」の両者を比較して、私なりに結論を下すとすれば、次のようなことが言えると思います。
 人間その他の生物の中に生命があることは否定できない事実です。その生命は、つねに新しい経験を積みます。したがって、生命の概念を規定しようとすれば、あるいは生命を理解しようとすれば、生命にはそれ自体が経験的につねに変化し、新しくなっていくという側面があることを無視できません。このことを認識すれば、人間の生命構造が反映されている社会の枠組みと範疇の中で、人間生命は新たに経験を積み重ねたり、物事を理解したりするわけです。
 この究極に主体性の問題も存在すると考えられますが、おっしゃるような「主体的生命観」は、自己の人生にどのような意味をもたせるかは人間自身であるという意味において、重要な視点であると考えます。

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