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日蓮大聖人・池田大作

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3 人類の誕生  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

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2  遺伝子には、何億年という長い進化の過程で起きた多くの「突然変異」が蓄積されているはずですから、もし分岐した年代が古ければ古いほど、分かれた生物の間の遺伝子の構造、つまり塩基配列(DNAを構成する四種の塩基、アデニン、グアニン、チミン、シトシンの並び方)には異なる個所が多い、ということになるでしょう。こうした研究が実験室の中で可能となり、さまざまな生物が分かれてきた年代を推定する「分子時計」がつくられておりますね。
 ブルジョ そうした研究成果をもとに、少々歴史をたどってみたいと思います。
 “ビッグバン”があったのは約百五十億年前だったと言われています。そして、生命が物質から“出てきた”のが約三十億年前です。現代人につながるヒトの祖先が出現したのはわずか三百五十万年ほど前で、それほど遠い昔ではありません。アウストラロピテクス・アファレンシス(エチオピアのアファー地方で発見された骸骨の一部が、その存在を直接的に証明する証拠とされています)が現れ、これがわれわれが直立して二本足を使えるようになった先祖と考えられているようです。
 池田 アメリカのカリフォルニア大学のサリッチとウィルソンが「分子時計」を用いて霊長類(哺乳類の霊長目。ヒトを含む広義のサル類)の進化を調べた結果、ヒトがチンパンジーやゴリラと分かれたのは八百万年から九百万年前ということですから、その後、二足歩行への進化を考慮すると、博士のおっしゃることは妥当なところだと思います。
 ブルジョ さらに、ヒトの進化は進み、現在のわれわれへと近づきます。約二百万年前に、ジャワのピテカントロプスと北京原人が出現しました。「ホモハビリス(器用なヒト)」、それから「ホモエレクトゥス(直立して歩くヒト)」です。
 古生物学者のイヴォン・パゴーは『人類進化の現象』(一九九〇年)の中で、人間が「最初の第一歩」を踏み出し、やがて手を伸ばすことができるようになり、話すことができるようにもなった、と書いています。手を使って目的に応じた石器をつくる能力の発達とともに、頭蓋骨のサイズも大きくなり、構造も複雑になったのでしょう。言語によるコミュニケーションを獲得し、火も発見した。ここには、新しい冒険への志向性が見られ、それが人類の歴史を綴ってきたとも言えるでしょう。
 池田 よくわかります。人類の起源に関しては「多地域進化説」(地球上のそれぞれ別のところで、類人猿から人類へと進化したという説)と「単一起源説」(人類への進化がある特定の場所であったという説)とがあるようですが、博士のおっしゃるアフリカをもとにしたストーリーは、後者の立場に立つものと理解できます。
 化石学的にも、ホモサピエンスの化石がアフリカからしか発見されておりませんし、「コーカソイド」「モンゴロイド」「ニグロイド」という三大人種の間の遺伝子の違いを検討した分子遺伝学的なデータからも、違いがあまり見られないということで、「単一起源説」が支持されているようです。
3  人生に「意味をあたえる能力」
 池田 今まで、生物学的意味での人類の誕生ということを論じました。しかし、ホモサピエンスとしてではなく、まさに“人”の出現を説明するためには、生物学的進化という視座だけでは十分とは言えないと思うのです。
 たしかに、人間は動物には違いありませんが、たんなる動物ではなく、動物以上の存在でもあります。すなわち、人間は文化を創造し、社会を形成し、理性・精神をもって自己自身をコントロールすることのできる反省的・内省的動物であると言ってもよいでしょう。
 ブルジョ おっしゃるとおりです。長い準備期間がありましたが、まさにご指摘のように、何か“新しいこと”がかたちになって現れ始めたのです。
 池田 私が以前から興味深く思っていた事実をあげたいと思います。
 人類学者のソレッキィーによれば、イラクのシャニダールで発掘されたネアンデルタール人の遺跡から、彼らが死者を花で囲む埋葬の儀式を行っていたことが推定される、とのことです。
 これが事実だとすれば、ネアンデルタール人においても、すでにたんなる動物性から離脱して、自己自身の内省、反省から「死」を直視し、人間らしさを身につけていた。また、他者を思いやる心を表していたとされています。
 もっともネアンデルタール人は絶滅してしまい、現生人類とは関係ないという学説もあるようです。
 ブルジョ いや、その事実は大事なことだと私も考えます。そのネアンデルタール人の儀式や、あるいはアルタミラ(スペイン)やラスコー(フランス)の洞窟に見られるクロマニョン人が描いたとされるデザイン、それらは一万年から一万二千年ほど前、さらに一説では一万七千年ほど前のものと推測されますが、それらはわれわれに、彼らが人生に「意味をあたえる能力」をもっていたことを示していると思うのです。
 最近のショーヴェ洞窟(フランス)の発見は、さらにもっと古代に描かれた動物の絵があることを示唆しています。しかしながら、宇宙の次元から見れば、それらはまだまだ最近の部類に入る出来事です。
 われわれはすでに、生物進化に関して、そして究極的には宇宙の驚異的な躍動の世界そのものについて、そのダイナミズムと重要な時期のいくつかをたどってみました。そのようなことが初期の人類にも、その後の人類にもあったのでしょう。
 池田 キルケゴールは『死に至る病』(斎藤信治訳、岩波文庫)の中で、「人間とは精神である。精神とは何であるか? 精神とは自己である。自己とは何であるか? 自己とは自己自身に関係するところの関係である」と述べております。
 「自己自身に関係するところの関係」とは、「自己意識」という言葉で置き換えられるでしょう。仏法においては、さらに詳細に「自己意識」の構造を分析しております。
 たとえば、唯識学派では「四分」という説があります。それは「相分」「見分」「自証分」「証自証分」です。「相分」は認識の対象であり、それを直接的に認識するのが「見分」です。仏法では、この「見分」を自覚している自分を「自証分」と説きます。次いで、その自覚している自分「自証分」をさらに自覚する自分を「証自証分」として説いております。この「証自証分」という側面は、自分の内面で自己自身と語る自己であると言えましょう。
 二足歩行、道具の使用、火の使用や芸術、言語によるコミュニケーション等も人類の特質と考えられますが、しかし、このような特質を可能にした生命内在の特性こそ、「自己意識」の出現と言えるのではないでしょうか。
 ベルクソンも「狭義の道具は知性の産物である」と述べております。換言すれば、「自己意識」としての精神構造のあり方こそ人間固有の特性であり、動物性から飛躍した人間性の基本をなすものであろうと考えられます。
 ブルジョ 同感です。わたしも、生命に意味をあたえることができる人間の能力が「意識」だと思います。それは、自己の生命を感じつつ経験として生きるだけでなく、そのことに注目し、生命的存在としての方向づけをするために、人生いかに生きるかを知る能力です。
 あえて言えば、ここには鏡のような効果があります。「意識」があるから、人間はあたかも自分を鏡に映して見るように、自分の生き方を思索できます。また、夢と欲望にしたがって自分の将来を選択することもできます。この鏡に自分を映し、自分を抑制しようとするのも意識の力です。
 この「意識」が、他の生物と人間を分けるものでしょうか。たしかに無生物と生物の間、また人間以外の生物、動物と人間との間に断絶が歴然としてあります。
 しかし、人間以外の生物のなかに、人間と同じように環境に対して反応したり適応したりする種属がたくさん存在します。アリや鳥やクジラやイルカがそのいい例です。断絶性がありながらも、連結性や連続性もあるということです。
4  連続性と断絶性をどうとらえるか
 池田 仏法の「有情」「非情」の考え方からすれば、環境への反応である“受陰”や“想陰”“行陰”は動物にもあると思われます。また、これらと“色陰”を合わせた四陰を統合する“識陰”の働きも、その一部は動物にも発現していると思われます。つまり、このような視点からも、人間と動物の間の“連続性”を認めることはできましょう。
 ブルジョ “連続性”はおっしゃるとおりでしょう。一方、“断続性”については、いかがですか。
 池田 生物の生命活動は、物質のメカニズムで条件づけられるにしても、決定されるものではないことも十分に考察されなければならないと思います。
 ちなみに、エクルズ卿は「大脳皮質の物理・化学的過程と意識の心理的過程の間に存在するミゾは、進化の創造的過程をもってしても埋めることはできない」と述べております。また、カナダのペンフィールド博士も「神経の衝撃が何らかの方法で思考に変わり、さらに思考が神経衝撃となる点は疑う余地がないにもかかわらず、こうした知識はこの不思議な精神の本性を決して説明するものではない」と指摘しております。
 ブルジョ 逆に、人間の思考、ここでは「意識」と言ったほうが適切かもしれませんが、それは、この人間という複雑な有機体の機能、とくに頭脳の働きがあるからこそ可能である、とも言えますね。しかも、脳の機能は物理と化学に共通な法則によって研究、測定することは可能であると思われます。たとえば、躁うつ病状態の治療にリチウムが使われ、熱意と不安の間にある深い谷間をコントロールしているわけです。ここにもまた、物質と生命、さらに意識との間にある連続性が現れています。
 池田 仏法では、人間の心と身体の働きを“色心不二”ととらえることは前にも申しましたが、ここに出てくる「不二」とは「而二不二」(二にして二ならず)という意味なのです。つまり、「而二」とは、二つがそれぞれ独自の働きをもっていることを述べたものです。つまりは非連続性です。
 これに対して、「不二」とは一体性、連続性をさします。
 博士があげられた躁うつ病の治療に即していうなら、躁うつの様相を呈している心は、それ自体で精神的次元で一つのまとまったシステムです。また、リチウムは脳や神経系など身体の器官に物理・化学的作用をあたえますが、身体のほうも物質的次元で一つのまとまったシステムです。
 ところが、身体における物理・化学的変化が、心の状態に影響をあたえます。また逆に、心の動揺がホルモンの分泌を左右し、体温を変化させるなど、物理・化学的変化をあたえます。このように、二つのシステムの間で、相互に影響しあっているわけです。二つのシステムが独立性と連続性をそなえているとみるのが、仏法の「而二不二」の視点です。このような関係は、心と身体だけではなく、個人と環境(正報と依報)などにおいても認められます。
5  自己意識の永遠なるものとの邂逅
 ブルジョ よくわかりました。
 要するに、人類の出現とともに新しく「出てきた」と思われるものは、人生に「意味をあたえる能力」です。しかも、そのようにしてあたえられた「意味」が、個人的に、さらに歴史をつくる社会として、人類の生命に印を残すだけにとどまらず、世界そのものの変化をも人類の生命に刻んでいくと思うのです。
 人間の生命は、人生を生きるうえでは最終的には個人の自由であるべきでしょうが、そのために生命をあたかも一つの鏡であるかのように見立て、そこに自己を映し出して見ることができる、と考えることもできるでしょう。この“実存的な投射”を通じて、人間が数世代にわたってもち続け、今後ももち続けると思われる直感力、欲望、勇猛心などに、新しい可能性が開けます。この数十年間に見られた科学・技術の進歩は、ほぼこのような視点に立っていると言えましょう。
 池田 私は、生物進化という背景を考えるとき、「自己意識」の発現には、悠久なる宇宙との関連における自己自身の位置づけという契機が必要であったのではないかと考えております。つまり、人間の意識が宇宙における自己の位置づけを自覚し、宇宙進化を推進しゆく「永遠なるもの」にふれたとき、内省的、反省的な「自己意識」の構造が可能になったのではないかと思うのです。それは、宇宙の側からの生物進化の場への「創発」であるとともに、人類進化の側から言えば、生物進化を通し、それを内在的に超越しての宇宙への帰還であり、「永遠なるもの」との邂逅であった、と言えるのではないでしょうか。
 人間の「生」と「死」、そのような「自己存在への反省」、そして実存的不安、恐怖も、有限なる自己と永遠なるものとの邂逅から生じた深層感情であり、私は、ここに宗教の原点を見いだし得るのではないかと考えております。
 仏法においては、人間の「自己意識」は「永遠なるもの」との邂逅から、この宇宙進化のなかに生を受けた深い「意味」を感受し、それを使命としゆくと説いています。この使命とは何か――あらゆる存在が、相互に関連しあいながら、創造的進化をおりなしている大宇宙の中で、他の人々に慈悲の行動をなしゆくことです。その自覚が、人生に意味をあたえ、「生」と「死」の深淵を超えゆくものではないでしょうか。

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