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日蓮大聖人・池田大作

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2 生物進化論をめぐって  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

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2  “相互関連のダイナミズム”に着目して
 ブルジョ まったくそのとおりだと思います。
 ところで、ダーウィンの進化論についての今日の科学者たちの意見はさまざまです。
 たとえば、アンドレ・ピショはその著書『生命観の歴史』の中で、「ダーウィンは、進化について説明するのに既成概念を極力取り払ったことで名声を勝ち得た」と述べ、そのために分子生物学など自由な学問的展開への道が開かれたと指摘しています。ダーウィン自身の理論だけでなく、ダーウィニズムやネオ・ダーウィニズムを完成させ、真理を追究するためには、生物遺伝学などの分野をはじめとして、さらに新しい発見がなされなければならない、という指摘はまさに正鵠を射ています。
 池田 私も同意見です。一方、その後、ダーウィン進化論に対抗して、「中立進化説」(「突然変異」の大部分は、生物にとって有利でも不利でもない中立的な変化であるとする説)とか「断続平衡説」(進化は連続的に起こるのではなく、短い間の急激な変化によって起こり、その後はかなり長い間、変化が起きない状態が続くという説)などが提案されていると聞いています。
 それらの新説は、ダーウィン進化論との違いを明確にさせながらも、ダーウィン進化論と同様、決して完成されたものではなく、今後さまざまなかたちで確証づけられるべき部分を有していると言えるでしょう。
 そこで、生物進化をめぐる多くの議論のなかで展開されてきた、論争の中心的な課題をクローズアップしてみたいと思います。
 「獲得形質(先天的ではなく、後天的に学習などにより獲得されたさまざまな性質)は遺伝するか」とか、また「進化の主役は環境か生物か」、「進化は必然の結果なのか偶然の結果なのか」、「進化は連続か不連続か」、「生存競争なのか協調なのか」といった議論がなされているようですね。
 ブルジョ それらは端的で明確で、今まで生物の進化について論じるときに繰り返し問われてきた項目でもあります。しかし、そのように二者択一的に範疇化させると、そのどちらをとるか、ないしは「イエス」「ノー」をはっきりさせることによって一方の立場をとることを明確に意思表示しないと、決定的な答えになりません。それは無理というものでしょうし、現在のところそれが不可能であることもはっきりしていると思われます。
 以前にも申し上げたように、少なくとも生物の有機体としての性質に関するかぎり、その錯綜した様相に注目しなければ、それ自体の本質やその内奥にある根源的なダイナミズム、ましてや他の生物との相互作用のダイナミズムについて理解することはできないと思うのです。
 池田 よくわかります。博士の言われる生物進化の内奥にある“根源的ダイナミズム”、“相互関連のダイナミズム”にこそ、着目すべきでしょう。その上に立って、どのあたりに議論の焦点があるのかを、わかりやすく列挙してみたいと思います。
 最初の「獲得形質は遺伝するか」という問題は、「用不用説」とともに「ラマルク進化論」(博物学者ラマルクによって一八〇九年に提唱された、外界の影響や用・不用による器官の発達・進化が遺伝することも進化の要因であるとする説)の核心でもありましたね。これまで多くの科学者によって否定的に扱われてきたようですが、ノーベル医学生理学賞を受賞したアメリカのハワード・テミンは新たな仮説として、レトロウイルスが獲得形質を遺伝させる仕組みを証明し得る(RNAからDNAをつくりだせる酵素をもつレトロウイルスは、自分の遺伝子をヒトを含めた動物の遺伝子の中に組み込めるので、そのメカニズムになる可能性が出てきた)と発表、その行方が注目されていると聞いています。
 ブルジョ たとえば、なぜ現代の北米人の若者は両親より背が高いのか、という問題があります。この場合、生物とその環境との間の交流が決定要因であるということになり、栄養やライフスタイルの変化がその理由の一つであるという説明もありました。
 しかし、実際にはこの相互作用はもっと複雑きわまりないもので、それも連続的に変化をあたえ続けるものと言えるでしょう。
 ある種の獲得された形質が、遺伝の「プログラム」のなかに組み込まれていくメカニズムについては、科学者たちは依然として、その解明のために、いつ終わるともわからない悪戦苦闘を続けているというのが現状でしょう。
3  進化は偶然の結果か、必然の結果か
 池田 次の「進化の主役は環境か生物か」という問題も、科学者の“悪戦苦闘”の一つですが(笑い)、進化論をめぐる論争でどうしても欠かせないテーマが、この「目的論」(生物体におけるすべての構造と機能は、生きる目的にかなっているとする説)と「機械論」(生物を一種の機械と見なし、その仕組みは完全に物質法則のもとにあるとする考え方)の対立です。この点について、博士はどうお考えになりますか。
 ブルジョ その問題を考えるときは、「プログラム」(前もって組み立てられていたこと)という概念を導入するとよいかもしれませんね。この問題は、別な言い方をすれば、生命はすでに前もって決定されていたし、生命自体も一切変更の余地がない決定的な道をたどるように最初から決められていたのか、または、生命はつくられ、構築され、結実していったものなのか、というようになるでしょう。
 しかし、結果的には、「目的論」も「機械論」も「プログラム」を暗示していますし、「プログラム」という以上、その裏にはある意図があったと受け取れます。
 「機械論」は何らかの方法ですでにあったものしか表面化しないという主張で、そこには「逃れられない運命」という意味があります。「プログラム」は生物のなかに前もって書き込まれていて、登録されているというわけですから、この内在的な「プログラム」は、いわばそこに閉じ込められていると言えます。
 池田 哲学的な概念から言えば、あたかも宿命論のようなものですね。その生物がどのようになるかは、あらかじめ決まっているということになります。これでは「自由度」はまったくありません。
 ブルジョ 一方、「目的論」では、生物にとって「プログラム」は外部的なものです。生物の発達と進化をどこか遠くから指令している、という言い方ができるかもしれません。その指令の設計意図が明らかでないので、この場合「プログラム」は閉じていなくてオープンになっています。しかし、その「プログラム」は容赦なく、慎重に進むべき道を設計し続けます。
 池田 これは、宇宙の創造主である“神”による運命の支配という考え方に通じますね。創造主たる“神”が、みずからのあらかじめ定めた計画(プロヴィンス――摂理)に基づいて、宇宙が変化していくという。
 日本の仏教宗派や新宗教のなかにも、絶対的な神仏の意図に基づいてみずからが「生かされている」との自覚が大切である、と主張するものがあります。みずからの主体性で「生きている」という視点がぬけ落ちて、ただ、神仏のおかげで「生かされている」ととらえるのです。
 たしかに、人間は一人では生きていけないものですから、その点では、何かのおかげで生きていけるとの感謝の心は大切です。
 しかし、自分を取り巻く自然や社会環境によって生きていればこそ、その意義を高めるために、みずからの主体性を発揮し、より高い価値を生みだしていくことが大切ではないでしょうか。
 「目的論」のような考えでは、それぞれの生命体、個人には「自由度」がなく、主体的、創造的な行動は閉塞してしまうことにもなりかねません。
 ブルジョ そうなりますね。「目的論」では外見はどのように見えても、すべては必然性の支配下にあり、偶然的なものは何もない、というわけです。
 しかし、われわれがこれまで見てきたように、ダイナミックな進化の過程で、“偶然”はきわめて決定的な役割を果たしてきたように思えるのです。
 池田 そうです。“偶然”が介入するからこそ“自由”があり、創造が可能になるのではないでしょうか。
 そこで「進化は偶然の結果か、必然の結果か」という論題になります。
 ブルジョ ここでは、パリ病院に勤務する生物物理学者のアンリ・アトラン博士が、一九九四年にパリの医学・哲学会議が主催した会合で行ったプレゼンテーションを引用してみたいと思います。
 博士は、移動性をもつ生物とそうではない生物のなかにおいて、われわれが観察できることをわかりやすく説明しようとして、横軸に「プログラム」、縦軸に「データ」をとるチャート(図表)を使いました。
 「プログラム」軸はプログラムされた遺伝的特質で、「データ」軸は移動性や、未定で予期できない分散的データを表します。いわば前者は秩序、後者は無秩序で、その対比を示したチャートとも言えます。
 そのチャートを見るかぎり、生物とその存在にかかわるダイナミックな相互作用において、ジャック・モノーがいう偶然と必然との間に逆比例的な関係があることがわかりました。
 すなわち、プログラムされた特質が多いものほど“秩序的”で、それが少ないと“無秩序的”である、という当たり前のような帰結であったのです。
 いずれにしても、偶然か必然か、どちらか一方にかたよるというものではないことだけは確かだと思います。
4  「競争」と「協調」のダイナミズム
 池田 「必然」と「偶然」をともにはらみながら、進化のプロセスはダイナミックな相互作用の連続のなかで、変化し展開していく。仏法者としては納得できます。
 そこで、論点の最後にあげた、進化は「生存競争」か「協調」かということですが、当然、二者択一にはとらえられないということですね。日本の学者で、ダーウィンの「生存競争」に対して、独自の進化論を唱えた人がいます。今西錦司博士で、「今西進化論」(「棲み分け」という現象によって区分される「種社会」を進化の単位とし、「種は変わるべきときがきたら変わる」とする進化論)と言われています。
 今西博士自身による論文はそれまでにも発表されていたのですが、いわゆる「今西進化論」に関してまとめた論文――「日本における反ダーウィン説」――が(今西博士のもとに滞在していたイギリスの古生物学者L・B・ホールステッドにより)、一九八五年に「ネイチャー」誌に発表されて、世界的な論争を巻き起こしたようです。今西博士は京都の加茂川に生息しているヒラタカゲロウの観察から、「棲み分け」と「種社会」を中心的な概念とする進化論を展開したわけです。
 進化の単位が、個体ではなく「種」である点、生存競争による自然淘汰を否定して「協調して棲み分ける」とした点に、その理論の特徴があるとされています。しかし、一方、この進化論に対しては、変化のメカニズムについて提示されていない、との指摘もなされているようです。
 ブルジョ 生存とは「競争」と戦争なのか、あるいは、生態学的観点から「ふさわしい居所」を見つけ、「協調」しあいながら適応していくのか――この問題は、慎重に考えなくてはなりません。
 というのは、この二つのダイナミズムは歴史の上では交互に登場してきた時期もあったが、両方が一緒だったときもあるとしか、私には思えないからです。
 池田 たしかに、人類の歴史上では「競争」と「協調」が、さまざまな形で登場してきていますね。
 ブルジョ われわれの歴史を振り返ってみると、戦争によって先住民を追い立ててその土地を併合し、自分たちの領土の拡大を図ったこともあるし、いわゆる新しい土地を征服して原住民の意思や運命を無視して、そこの資源を搾取したりしました。反面、和解をしたり、平和的な共存を約したこともありました。
 そのすべては過去の出来事であったとは言いきれません。今日でも部族間の闘争や内戦は見られ、多くの国が分裂の憂き目にあっています。激化する多国籍企業間の競争は商業戦争の様相を帯び、弱者は排除されてしまいます。相も変わらずとしか言いようがありません。
 池田 非常にわかりやすい説明です。人類史が、「戦争」と「協調」によってつくられてきたことは事実です。しかし、“地球的問題群”が噴出してきた現在、人類は大きくその方向性を「戦争」から「協調」「共存」へと転換しなければなりません。
5  生物はいかにして「主体性」をもったか
 ブルジョ この項の最後に、多少補足の説明をさせてください。
 池田 どうぞ、十分に論じてください。
 ブルジョ 私はこれまで一貫して、あえて物質と生命の連続性を強調してきました。また事実、生物学とくに分子生物学と遺伝学は長足の進歩を遂げて、この数十年間、生物がどのようにして無生物と同じ物理化学的法則に支配されているか、を明らかにしてきたと思っています。
 池田 私も、仏法の視座から、「非情」と「有情」の連続性を強調してきました。
 ブルジョ しかし、この生物と無生物間の連続性を強調しすぎると、アンドレ・ピショも言っているように、生命や生物を生物学の研究対象から奪い去ってしまう危険性がないとも限りません。
 非連続性についてはあらためて後で述べたいと思いますが、今指摘しておきたいことは、非生物と同じ物理化学的法則に生物はしたがっているけれども、生物はそれらの法則を生物なりのしかたで正確に守って生きており、統合して管理しているという点です。おそらく、異なる種類のさまざまな存在を生んでいった差別化を含めて、生命の進化の過程で生じた生物と非生物間の区別を一貫した理論のなかに位置づけるためには、生物がどのようにして“主体性”をもつようになっていったのか、また、やがて生物が中心となっていった環境とどのような“交流”が必要だったのか、を解明しなくてはならないことを知っておく必要があるでしょう。
 池田 私も博士に合わせて補足させてください。(笑い)
 仏法でも「非情」の存在から、やがて「有情」が登場するのですが、この「非情」と「有情」の連続性と非連続性を、次のように説いています。
 仏法では、「非情」も「有情」も、ともに五陰という五つの要素が仮に和合した存在であると説くのです。
 和合のしかたによって、色陰(物質的存在)が顕在化していて、他の四つの要素が潜在化している存在もあります。これが“非生物”です。
 ところが、生物進化のなかで、環境との連続的な相互関連を通して、色陰にはらまれていた受陰(外界への感受性・感情)や想陰(イメージを想い浮かべる作用)や行陰(この中には意思的作用も入ります)が徐々に顕在化してきます。動物は意思をもち、豊かな感受性をもっていますが、現今では、植物も感受性をもち、感情をもつとされています。
 そして、人類の誕生にともなって、識陰が「意識」として登場してきます。ここに、人間としての「主体性」が確立します。これは次節で話しあいましょう。
 ともあれ、このような理由から、私は、生物の“主体性”や、生物と環境との“交流”の解明を主張される博士の見解に、基本的に賛成です。

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