Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

1 生命の起源  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

前後
1  「霊魂創造論」と「汎生気論」の出発点
 ブルジョ 生命の起源と進化、また人類の誕生と進化の問題は、何世紀にもわたって研究と議論が行われてきたテーマです。とくに、この数十年の分子生物学の発展とあいまって、この問題はますます脚光を浴びていると思います。
 池田 これらの重要なテーマは、いまだに論争中のものもあり、きわめて複雑な内容を含んでいます。
 「生命の起源は何か」――人間は古代よりこの命題に取り組み、思いをめぐらせ、思索を深めてきました。その結果として、今日までさまざまな宗教上・哲学上の仮説が提唱されています。
 ブルジョ 哲学的な観点からすれば、生命の起源についての質問は、生命の本質とは何かという問いと無関係ではありません。
 生命とは何か。どのような基準にしたがって、生物と非生物を区別するのか。もし、生物と非生物の根源的な分離が概念としてありえるならば、それは「霊魂創造論」あるいは「汎生気論」の出発点ともなるわけです。
 池田 では、「霊魂創造論」から語りあいましょう。これは、唯一絶対神による創造のことですね。
 ブルジョ 聖書の「創世記」(『旧約聖書』開巻第一の書)によれば、生物を含めたすべての存在には階級的な差別がありつつも、そこには秩序が考慮されているとされます。つまり、神の直接的介入による創造があったということになっています。そうだとすると、生命の起源は神の恣意的な決定であったということにもなります。なぜなら、神は生物を創らずにすますこともできたからです。
 池田 そのとおりです。生物を創るも創らないも神の意志によるということになりますね。
 ブルジョ 神による創造という説を採る「創造論者」にすれば、創造される生物の階級的区分、すなわち底辺から上層へ向かって階層的に配列されている植物、動物、人間という区分も、やはり神の恣意的決定だったことになります。そうだとすれば、生物はその生命の内容と質の程度によって、階級上のあたえられた位置に配置されたわけで、そこには原則としての一貫性があります。
 池田 なるほど。明解な説明です。次に、博士が言われる「汎生気論」とはどのような説ですか。
 ブルジョ 「汎生気論」と私が名づける生命観は、宇宙の中に“生命の種子”が包含されており、それが生成するようになっているという見方です。
 「活力論」(「生気論」とほぼ同義)は、このような思想的枠組みの一部です。われわれの感覚や観察力では感知できないが、自然や宇宙のあらゆるところに“生気”ないしは“精神的な超自然的な力”が存在していて、それが目に見える形でかなり大きな影響力をもつ、という考えです。
 池田 仏法では“唯一絶対神”による創造は説きません。
 むしろ、宇宙そのものが、一つの“生命的存在”であると洞察していますから、「汎生気論」に近いのかもしれません。“生命”の哲学的考察については後ほどふれることにして、今度は生命の起源をめぐる科学的な仮説を取り上げてみたいと思います。
 大別すると二つになりますね。――地球外の宇宙にその起源を求めるものと、地球上で発生してきたという説です。
 ブルジョ そうなります。
2  「地球外生命起源説」への否定的見解
 池田 まず、生命の起源を、大宇宙との関連性から“地球外に求める”ものについて考えてみます。
 一九〇八年、スウェーデンのノーベル化学賞受賞者のスバンテ・アレニウスは、銀河系の他の惑星で誕生した「生命の胚種」(種子とほぼ同義)が宇宙空間を胞子のごとく漂って地球に飛来し根を下ろした、という「パンスペルミア(胚種公布)説」を発表しました。これは、オパーリンによって痛烈な批判を受けるわけですが、十九世紀半ばにパスツールにより、生命の「自然発生説」が否定されて以来、有力な生命の起源を説明する仮説が存在しなかったこともあって、当時の科学界に広い関心を呼び起こしたようです。
 ブルジョ しかし、その説に関しては、結局のところ否定的見解のほうが強いようですね。
 池田 そうです。その微小な「生命の胚種」が惑星などの重力を振り切れないことや、宇宙空間の放射線(放射性元素の崩壊にともなって放出される粒子線)や極低温(宇宙空間は摂氏零下二六〇―二七〇度)という環境に耐えられそうもないことなどが理由になっています。
 こうした批判がある一方で、「パンスペルミア説」をさらに発展させた新仮説を打ちだす研究者もおります。たとえば、イギリスのフランシス・クリックです。彼は、地球上の生物が遺伝子的に単一の起源をもつことなどを理由にして、宇宙に“生命”の起源を求めています。
 そのほか、私もお会いしたイギリスの天文学者サー・フレッド・ホイル博士とチャンドラ・ウィックラマシンゲ博士による「生命の彗星起源説」(彗星の尾の部分の光の分析からアミノ酸などの存在が明らかとなり、生命の始原物質が彗星によってもたらされたとする説)も、この流れのなかに位置するものと考えられます。
 ウィックラマシンゲ博士と私は、対談集(『「宇宙」と「人間」のロマンを語る』。本全集第103巻収録)も編みました。博士らも、地球上の生物のDNAの起源を宇宙空間に求めています。
 ブルジョ 今日、多くの科学研究の成果として、われわれの住む惑星「地球」がどのような条件でつくられてきたのかがわかっています。また「さまざまな偶然と必然がゲームのように複雑に交錯してこの地球上に生命が出現した」(ジャック・モノー)という事実もわかっています。
 惑星としての地球上に存在する「地球生命の起源」は、どこか他のところから来たというより、最初から地球とともにあった可能性がきわめて高いと思われます。もちろん、まだそのメカニズムの全容が解明されたわけではないので、どこか地球外のところで「偶然と必然」がわれわれの場合と同様に働いて、生命の起源にふさわしい条件がそろい、そこに生命が出現したという可能性がまったくないとは言えませんが。
 池田 現代の分子生物学などが明らかにしてきているように、生命体と言ってもDNAやタンパク質という物質によって構成されていることは間違いありませんし、いわば物質という「非生物」と、「生物」はそれほど明確には分けられないと言っても過言ではありません。
 そうだとすると、あえて、生命の起源を地球外に求める必要はなくなるかもしれません。宇宙空間に「生命の起源」を求めても、では、そこでどのようにして“生命”が発生したのかという問題に直面するでしょう。「生物」と「非生物」に連続性があれば、地球上でも“生命”の発生は可能です。
 ブルジョ それが趨勢でしょうね。ユベール・レーヴェも、そうした見解の持ち主です。
 彼は、「生物」と「非生物」の間に違いがあることを認めながらも、そこには連続性があるという観点に立っています。もっと正確に言うと、生命的存在そのものの組成は複雑化をたどる一方であり、そのようなダイナミックな「生成進化」(化学反応による物質合成が、さらなる化学反応を起こしていくこと)が生物そのものの複雑化をうながしているように見える、と主張します。
 したがって生命が出現したからといって、この生物・非生物間の断絶と連続性のダイナミックな進化はそこで終わるのではなく、それは依然として続行しているというのです。そういう意味で、もっとも単純な形状の生命からもっとも複雑な生命形態(人間を含めて)まで、すべての生命は、“断絶”と“連続性”
 の複雑な過程の結果出現したもので、そのもとは物質であったと主張しているわけです。要するに、人間はその他のすべての生物と同様に、石や星などと同じ物質から形づくられたという見解です。
3  すべてのものの起源は共通している
 池田 単純なようで深遠な見解ですね。宇宙存在そのものに“生命”がはらまれている、また地球の誕生に“生命的傾向性”を認めるという仏法の考え方にも、それは近いように思われます。
 仏法には、「非情」「有情」という考え方があります。「非情」とは、“情”――感情の発現していない生命形態であり、「有情」とは、感情の発現している生命形態で、人間にもっとも顕著に現れています。
 「有情」には人間だけでなく、動物も含めます。「非情」には、無生物や植物も含まれるとしますが、植物を含めるか否か、については種々の意見があるようです。
 いずれにしても、この「有情」と「非情」は連続しているととらえることができます。つまり、一方の極に“人間”が位置し、他方の極に“無生物”が位置し、その間に、動物や植物が連続的に位置づけられることになります。
 仏法では、地球という惑星もまた“生命的存在”である――“無生物”としての原始地球にも、生命への傾向性をはらんでいる――と考えています。ですから、「非情」の原始地球から「有情」の生命が発生し、人類が誕生することも連続的にとらえられるのです。
 ブルジョ 数年前にモントリオール大学で開催された
 会議に私も出席し、二人の有名な科学者の対話を聞く機会がありました。
 遺伝学者のアルベール・ジャカールと宇宙物理学者のユベール・レーヴェです。この二人を通じて、遺伝学と宇宙物理学という二つの学問分野の出あいがあったのですが、私はきわめて強烈な印象を受け、それは今日でも新鮮に私の心に焼きついています。二人の対話は、われわれ人間とその生存環境についてわれわれがもつ知識を、“宇宙的観点”から検証して見せてくれました。
 池田 それは、どのような対話だったのでしょうか。
 ブルジョ そのエッセンスは、「すべてのものが宇宙存在の一部であり、起源は共通している」という認識でした。私には、きわめて強い説得力をもっているように感じられたのです。
 池田 「起源は共通」なのですね。透徹した科学者の洞察力を感じます。
 ブルジョ 生命は不可思議だとしか言いようがありません。それをどのように定義しようとしても、われわれの経験からして、どの定義も妥当とは思えないでしょう。
 池田 そうです。“生命”は宇宙そのものと同様に不可思議です。仏法では“妙”(不可思議)と表現しております。
 ブルジョ これまでにも異なる時代にいろいろな定義がなされ、生命の不思議さを説明するために、生命の起源を地球外に求めようとしたことも多々あったことは、先ほど会長が紹介されたとおりです。
 しかし、それらは生命の起源あるいは生命の出現が地球外にあったことを、十分納得できるような説明ではありません。今日、われわれは生物として、
 そして人間として地球に所属していることを知っていますし、また、地球が宇宙の一員であることをも知っています。このような知見は、「地球外生命起源説」とは相容れないように思えるのです。
4  “単純”から“複雑”へと進む分子活動
 池田 博士のお考えは、よくわかりました。それでは、地球上における“生命発生”と“進化”の問題に入りたいと思います。
 現在における一般的な進化論は、オパーリンにその端を発すると言われる「分子進化論」ですね。
 一九二四年、モスクワ大学のオパーリンは「生命は地球上で、単純な分子から『分子進化』の過程を経て誕生した」と論じました。“分子進化”とは、簡単にいえば、二酸化炭素や水などの無機分子からアミノ酸やブドウ糖などの有機分子がつくられ、それらがさらに高分子化することですね。とくに、そのプロセス――有機分子から「コアセルベート」(タンパク質や糖、脂肪などの粒子が集合し、溶液中で液筒となったもの)そして「単細胞生物」へ――を科学的に説明しております。オパーリンの説は、その後、実験的にも立証されてきていると言われますね。
 ブルジョ 口火を切ったのは、ミラーとユーリーによる実験です。
 池田 たしかユーリーは、ノーベル化学賞を受賞していますね。また、スタンレー・ミラーはシカゴ大学の大学院生で、その実験は彼の着想で行われたと理解しています。青年の独創性や柔軟性を感じますし、それを包容しながら的確にリードするユーリーの卓越した指導力も感じます。
 ブルジョ 彼らが一九五三年に行った実験は、少なくとも地球という惑星上に存在する生命の起源に関して、科学者の間にかなり広く受け入れられるような、説得力のあるものでした。風や雷雨が大海原に荒れ狂って吹きつけている、というような生命誕生の条件を実験室で再現しようと試みたわけです。
 実験は成功し、原始地球の大気を模した混合ガスに電気火花を通した結果、生命の素材となる分子を実際に合成しました。
 その後、他の科学者がこうした実験を繰り返し、ほぼ同様な結果を得ています。液体として水、それから大気中に最初から存在していたと思われるたんなるガス――この混合物に激しい放電を浴びせた結果、出てきたものは、あるいは彼らが作りだしたものは、アルコール類・糖類・脂肪類・アミノ酸でした。
 池田 一九六〇年には、アメリカ・メリーランド大学のシリル・ポナンペルマ教授が「核酸塩基」(DNAやRNAという核酸を構成しているアデニン、グアニンなど窒素を含む塩基性化合物のこと)を合成していますね。
 ブルジョ そうした有機物は、その時点では、生物だけが作りだすことができると考えられていたものです。したがって、一連の研究結果から、われわれは地球上に最初の有機分子が現れ、その分子は相互に結びついたり離れたりする「分子活動ゲーム」を始めたと考えたわけです。
 分子活動には、生命がかたちとして形成されていく過程も含まれ、その過程が、(ジャック・モノーの著作のタイトルを借用させてもらえば)「偶然と必然」の間を絶えず往復するかたちで急速に進み、単純性から複雑性へと進んでいった、と思われます。
 池田 ジャック・モノーの『偶然と必然』は、日本でもたいへんなセンセーションを引き起こしました。これほど、重厚な内容が一般の読者まで引きつけたのは久方ぶりのことでした。私も仏法者として、真剣に読み、思索しました。
 ブルジョ ジャック・モノーの著作が出版されてこのかた、いわゆる「自然法則」と言われてきたものについて、その考え方に大きな進歩が見られています。それを反映させて、わたしは今、「自然法則」を「ゲームのルール」と呼ぶのがふさわしいように思います。
 「偶然性と必然性」の問題も、このことに関係します。かねてから、大気中の“乱気流”と“株価”は不安定で科学的に解明できるものではない(笑い)、と言われてきました。
 池田 とくに株価については、科学的な解明を期待している人もいるとは思いますが。(笑い)
5  「混沌」と仏法の「縁起」の考え方
 ブルジョ また、「生物」および「生物の生態」について今日までわれわれが得た知識によれば、これらはデカルトの「機械論的生命論」(生物を物質からなる一種の機械と見なし、その仕組みは完全に物質法則のもとにあるとする考え方)の範疇におさまりません。生物自体が、ある意味で不安定な存在です。そうすると、科学では生物は解明できないのか、という疑問が出てくるのも当然です。
 池田 一方、最近の分子生物学によりますと、炭素を骨格としていることや遺伝子がDNAであることは、地球上のあらゆる生物に共通していると言われていますね。すると、「必然性」を志向しているとも思われますが。
 ブルジョ そうとも言えますし、そう考えやすいとも言えるのです。(笑い)
 二十年ほど前に、アメリカとヨーロッパ(とくにフランス)の科学者たちが、「混沌(カオス)」としか言いようがない概念にはどのような事例が入るのかを、いろいろな学問分野ごとに調べたことがあります。その結果、「混沌」がそれまでに科学的考察の対象になったことがまったくなかったことが判明しました。
 それをまとめたのが、「ニューヨーク・タイムズ」の科学記者であるジェイムズ・グリックによる『混沌』(一九八七年)で、アメリカでベストセラーになり、十七カ国語に翻訳されました。著者は、この本の結論部分で、一九七〇年代から八〇年代にかけて「混沌」について科学者が試みた作業は、“一見正当に見える定説をもう一度疑ってみよう”という、科学の原点への回帰につながったと書いています。
 池田 なるほど、それは興味深い結論ですが、具体的に話していただけませんか。
 ブルジョ たとえば、「単純な存在は明確な法則に従うから、単純な行動をする」という、一般的に疑う余地もなく受け入れられている、いわゆる定説があります。
 この法則は、いわば単純な存在は安定し恒常的であり、したがって予測できる行動が期待できるというものです。それとは対照的に、複雑な存在の行動は不安定で予見しにくく、だから、当てにならないというように分別されてしまうのです。ここでも、われわれは必然性を偶然性に優先させています。要するに、いわゆる定説では、異なる存在は当然の帰結として異なる行動をとる、としているわけで
 す。
 しかし、「混沌」について調査した結果では、単純な存在でも複雑な行動をすることがあり得るし、異なる存在の行動の関係にも奇妙な類似性が認められる、ということが判明しているようです。つまり、単純な存在であれ、複雑な存在であれ、いずれの行動も複雑であるというのが自然の法則のようです。
 池田 納得できる考え方です。
 中国の古典(『荘子』応帝王篇)に興味深い話があります。ある人が「混沌」にお世話になったので、そのお礼に、のっぺらぼうな顔に目鼻をつけてあげた。すると、「混沌」は死んでしまった、という話です。“自然”の扱い方を誤ると、“生ける自然”を殺してしまうという警告ですが、複雑な存在である“自然”を「必然性」の視座からのみ律しようとすると破壊してしまうことにもなりかねません。
 仏法では、すべての存在を“相資相依”の視点からとらえております。つまり、“縁起”です。すべての存在は、さまざまな“因”と“縁”が相互に関連しあって生起し、また消滅していくものであると見るのです。すなわち、多くの縁のなかの重要な因果の関連を「必然性」として取り出しておりますが、しかし、すべての存在は因果の「必然性」とともに、多くの縁との相互関連のなかに「偶然性」を包含しながら、流転していくととらえるのです。
 このような仏法の「縁起」の考え方からしても、生物や生命を考えるにあたって、どこまでが必然性でどこまでが偶然性というような二分法的な思考にとらわれるのではなく、博士が言われた「単純な存在であれ、複雑な存在であれ、いずれの行動も複雑である」という視座が肝要であることがよくわかります。
 ブルジョ そのために、今や研究分野の異なる科学者たちはそれぞれの専門分野の殻を打ち破り、学際交流を促進すべきだと考えるようになっています。
 池田 前に博士が話された、アルベール・ジャカールとユベール・レーヴェによる生物学と宇宙物理学の興味ある討論など、その典型であるわけですね。
 ブルジョ そうです。そうした学際交流はもっとひんぱんに行われるべきです。すべてのものが、ダイナミックで多重的な相互依存の複雑な網目のような相関性を保っており、われわれが慎重に見きわめようとすればするほど、思いもよらぬ複雑な様相を露呈するからです。
 ジョエル・ドゥロズネイは一九六六年に『生命の起源』を著し、生命の起源を探索する手段として望遠鏡と顕微鏡をあげ、その後、第三の方法として(望遠鏡という意味ではない)「マクロスコープ」(日本語では「巨視鏡」とでも訳せるか)を提案しました。それは、すべての存在を相互に結びつけている複雑な系のネットワークの相互作用や相互依存が正確に理解できる道具です。それはまだ実現されていませんが、彼は最近の著書『共生する人間』(一九九五年)の中で、「未来の人間は、他の惑星の有機体(地球外生命)と密接に共存していくことになるだろう」と述べています。
 池田 その「マクロスコープ」とは、きわめて興味深いアイデアです。科学の方法によっても、あらゆる存在の相互関連が理解されるようになることを強く期待しています。

1
1