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日蓮大聖人・池田大作

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7 生殖技術と生命  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

前後
1  生殖医療がかかえる課題
 池田 生命科学の台頭を基盤としたバイオテクノロジー(生物のもつ機能を生産、医療、品種改良などに応用する技術)の応用は、「人工授精」「体外受精」や「胚移植(受精卵〈胚〉を子宮内に移植すること)」などの生命操作の技術を実現してきました。
 ブルジョ これらの進展によって、私たちの夢と欲望が実現可能となっています。ジャン・フランソワ・マレールブは『出産のための医学的支援に伴う倫理上の諸問題』の中で、三つの夢が実現したと述べています。
 それは、①避妊法の開発によって、「いつでも避妊が可能」になった、②不妊症であっても、人工授精、体外受精、代理懐胎(他の夫婦の受精卵や提供された精子を使って代理妊娠すること)によって「いつでも子どもを得られる」ようになった、③出生前診断、人工妊娠中絶、さらに間もなく遺伝子治療によって「望みどおりの子どもをもつことができる」ないし「できるだろう」、という夢です。
 池田 生命倫理の観点から、このような「生」にかかわる生命操作の技術は、カナダでは、どのように評価されていますか。また、どのように適用することが人類に貢献すると考えられているのでしょうか。
 ブルジョ それらに関する法案が、カナダの国会に提出され成立を見るために、何年にもわたって公聴会が開かれています。これが採択されると、現在米国その他の国々、また時にはカナダでも行われていた次の行為が禁止されることになります。
 代理母(夫以外の精液を人工授精し、出産を請け負う“産み”の母)の依頼、医学上以外の理由に基づく子どもの性別の選択、受精卵や精子の売買、および胎児の売買です。
 さらにいずれ実現すると思われる人工子宮での懐胎、人間胎児のクローン化、(人間―動物の)ハイブリッド(複合)の創造、人間胎児の動物への移植、研究調査を目的とする人間胎児づくりと保存、死体からの受精卵や精液サンプルの摘出なども禁止されています。
 公表されたこれらの内容の一部は、一般的な賛同を得ています。しかし、あるものについては、いわれのない恐怖心の増幅につながるだけであるという理由で、「反対」ないし「諾否を保留する」といった意見も出ています。
 池田 “産ませる”医療のうち、人工授精は現在、多くの国において実施されるにいたっています。
 このうち、配偶者間による人工授精(AIH)は、生殖に医療技術が介入するとはいえ、生まれる子どもは遺伝的に夫婦の子どもですから問題は生じないものです。
 一方、提供精子による人工授精(AID)は、技術的には前者と同様ですが、社会的、倫理的にさまざまな問題を生じさせる可能性があります。
 たとえば特定の人間(ノーベル賞受賞者やオリンピック選手等)の精子を集めた精子銀行や代理母を斡旋する代理出産産業など、生殖機能を商品化したビジネスが、米国においてはすでに始まっております。さらに、受精卵自体を商品化することが検討中であるとも言われております。
 しかしながら、特定の精子を選び、人工授精に使用することには、私は反対です。人間生命の尊厳は、IQや特殊な能力などによって決まるものではなく、どのように人生を歩んでいくかによって決まるものであるからです。
 ブルジョ カナダでは、一九九〇年から九三年にかけ、「新しい出産技術」に関する議論、また公開討論が行われました。これらの議論は十五巻に達する研究資料として出版されています。カナダ政府はこの問題を審議した後、新しい出産技術についての規制に関する法律を制定する準備を開始しました。その後、ほぼ十年を経過した現在、まだ法律は制定されていませんが、先に話しあった倫理に関する問題やその他よく話題になる事柄についての討議は今も続いております。
 池田 生殖技術の商業化とともに、人権にかかわる事件も起こっています。
 たとえば、“凍結受精卵(凍結保存された受精卵)”をめぐって離婚した夫婦間でその帰属を争ったり、また代理母が、出産した子どもへの愛情から代理出産を依頼した夫婦と争ったケース、あるいは代理母の出産した子どもに先天的な障がいが発見され、依頼した母親が拒否したケースなど、生命操作の先走り
 は、基本的人権をも侵しかねない状況を引き起こしています。
2  確かな人生観と家族観に立って
 ブルジョ かつて出産は、性的交渉という男女間の行為の結果でありました。また、生まれた子どもはだれなのかは、法律や慣習によって明白でした。
 ところが今日では、そのような関係性は、少なくとも可能性としては、不必要になりました。そのため会長が指摘されたような問題が実際に生じております。
 とはいえ、それは必ずしも家族の崩壊につながるものであるとは断定はできません。そこから新しい関係性への可能性が開かれてくるかもしれないのです。むしろ人間社会における愛情、性的関係、結婚などの相互関係と社会的適合性についての見直しが、必要になってきたとも考えられるのではないでしょうか。
 たとえば、何世紀もの間存在してきたさまざまな文明のそれぞれに独自の家族形態がありますが、それらが見直されるようになってきたとも言えるかもしれません。
 池田 問題は、生殖医療技術を利用する場合にも、何のために子どもがほしいのか、また、その子に何をしてあげたいのかという根本問題を問い直すことを忘れてはならないということでしょう。
 親のエゴを克服し、あくまでも、この世に生を受ける胎児の人間らしい生存を援助できる喜びと感謝の念をもっているならば、家族の崩壊は防げると思われます。さらに、博士が言われるように、新しい関係性に基づいた家族の創造も可能でしょう。また、「体外受精」は一九七八年、イギリスで初めて成功して以来、世界中ですでに多く試みられ、もはや体外受精は日常的に用いられる技術となった印象がありますね。
 ブルジョ これら生殖技術に関する研究や実験は、大学の研究室を中心に進めてこられました。研究室では、研究員や開業医の間で定期的な交流が行われ、研究成果や応用の評価、管理についてさまざまな監視システムが実施されており、乱用の危険性を少なくしようと努力しております。そうすることが広く信頼を勝ち得ることにつながりました。ただしつねに民主的な討議に参画しながら、明晰な批判精神はつねにもち、警戒をおこたらないよう心がけなければなりません。
 池田 いかなる医療であれ、リスクがゼロということはなく、生殖医療もその例外ではありません。したがって倫理的な議論とともに、安全性をまず確保することで、発展する医療技術の「責任」を示すべきであると考えます。
 そのうえで、どう活用するかは、親の“生まれる子”に対する“責任”にかかっているでしょう。子どもをもつ親としてみずからがどう生き、また子にどのような人生を生きてほしいのか、確かな人生観を基盤としながら、慎重に生殖技術の利用を考えていくべきでしょう。

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