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日蓮大聖人・池田大作

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6 生命の誕生  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

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5  人工妊娠中絶は社会全体の問題
 池田 ところで、博士は、カナダでの人工妊娠中絶に関する生命倫理の審議にも加わってこられたそうですね。
 ブルジョ 一九七〇年代の初頭に、ケベック州で、人工妊娠中絶の合法化について激しい議論が交わされました。私も人権擁護同盟のためにリポート作成の作業に参画しました。
 池田 その過程では、どのような議論がなされたのでしょうか。
 ブルジョ 議論は二つの陣営間の対決となりました。一方は生命尊厳の擁護者、他方は自由や自主性、女性の責任性の促進者で、両陣営は一歩も譲らず、みずからの意見を主張しました。前者の陣営の大多数は男性で、後者は女性が大多数を占めていたことを付記しておきます。ケベック人権擁護同盟での討議は、相対する二つの立場の意見を考慮しながら、この問題の社会的な重要性を浮かび上がらせようとする試みでした。
 人間生命の守護はすべての人々にとっての責務であり、妊婦にのみ、出産とその後の幼児の世話の義務を押しつけるべきではありません。
 妊娠を持続するか、中断するかは、女性、あるいは、できればカップルが選択すべきことであります。しかし、社会全体が真実の選択ができるための条件を整えてあげるべきであります。責任は、第一義的にはその女性に、次にカップルに、そして社会にあるとのことで意見の一致をみました。
 このリポートは本として発刊され、広く出回りましたが、その表題『中絶の問題に直面するケベック社会』(一九七三年)は新たな協調点を明確に表しています。
 池田 これまで女性に押しつけられてきた出産、育児を社会全体の問題として考えていこうというわけですね。
 ブルジョ こうした観点から、社会全体が、出産する夫婦が生活できる施設をつくるなど、夫婦を援助していくだけの責任感と準備がなければならない。夫婦に一方的に出産の責任を負わせるということは許されないとの結論が出されました。
 また、そこでは、さまざまな議論がなされました。一方では「生命」を、他方では「自由」を主張しました。要するに“生命を重要視する側”と“自由・権利を重要視する側”で意見が交わされたのです。
 私個人としては、「自由」と「権利」を促進しない「生命尊厳」はありえないし、逆に「生命尊厳」を認めない「自由」だけが促進されることもありえないのですから、生命尊厳と自由や権利は不可分の問題であり、議論を尽くすことで両立できると思っています。
 池田 深い思索に立たれたご発言です。私も、「生命尊厳」の理念と「自由」「権利」を両立する道を開くことができると考えています。
 残念ながら、日本では、そうした議論もないままに人工妊娠中絶が人口抑制手段の一つとして行われてきました。そのために生殖技術全体がたんなる医療として受けとめられる傾向があるようです。倫理的な考察もほとんどなされず、法的規制も緩やかである状況です。
 ブルジョ 人工妊娠中絶について、さらにいくつかコメントさせていただいてよろしいでしょうか。
 池田 どうぞ、どうぞ。重要な問題ですから。
 ブルジョ まず申し上げたいことですが、人工妊娠中絶の決定は例外的なケースを除いて決して安易になされてはならないということです。
 たとえば奇形胎児の場合など、そのリスクは一定期間を経過してみないとわかりません。また妊娠継続がどのような結果につながるのかを予測できても、同じように一定期間を経てからでなければ確定できません。
 池田 胎児に発見された障がいそれ自体が、そのまま中絶に結びつくという考え方に対しては、私も反対です。
 ブルジョ 第二に、“出産”を取り巻く環境と、そこにかかわる社会の諸制度の法制化の問題です。
 人工妊娠中絶は社会の仕組みとも深く関与しています。たとえば出産によって失職を余儀なくされる状況、また妊娠から出産にいたる生活保障の不備等が、人工妊娠中絶の決定をせざるをえなくするケースもあるからです。
 第三に、人工妊娠中絶は、生命がだれびとも侵すことのできない神聖なものであるがゆえに許されないとするか、また、女性あるいは個人さらには人間集団としての責任でもあるととらえるかによって、その態度は変わるということです。
 しかし、私は、このようなコメントを述べることに迷いました。というのは、人工妊娠中絶について、それが不道徳であり、法律によって規制すべきであるという議論は、男性の側、すなわち、(究極的に望まれない)妊娠や出産の経験もなく、仕事のなかでそのことで悩んだことのない男性の側からよく出てくる意見だからです。
 池田 人工妊娠中絶による直接的な影響を受けるのはあくまで女性自身ですからね。反対に、男性は「生殖」にかかわることからは責任をのがれようとしています。
 ブルジョ 私の知る、とりわけ人生に積極的なかかわりをもつ女性は、人工妊娠中絶に対する法的な規制や一般的な判断を下すことに強い拒否の姿勢を示しています。彼女たちを見ておりますと、私は自分自身の人生、生命に対する態度、他人の生命とのかかわり方を考えざるをえません。
 さらに付け加えますと、人工妊娠中絶だけが問題を解決する唯一の方法ではないということです。あるケースでは遺伝子治療(細胞に遺伝子を導入することによって、生体に有利な現象を引き起こすこと)が効果を生むこともわかってきました。
 治療法は暗中模索的な側面もありますが、希望が出てきており、そのすべてが無駄になるとは考えられません。
 池田 人工妊娠中絶は女性の生き方に深くかかわる問題でもあり、母親、両親、家族、そして社会の「胎児への見方」が複雑にからみあった問題と言えます。それだけに今後も慎重な議論を積み重ねることが肝要でしょう。
 仏法の慈悲は胎児の生命尊厳にまでおよぶという根本精神からすれば、基調としては、人工妊娠中絶によらないで問題を乗り越えるほうが良いことはわかっています。
 しかし、これには中絶の時期の問題もからんできます。仏法は産児制限(調節)の方向をさし示しているように思えます。そのうえで、出産にともなう負担が母体の健康にいちじるしくかかわるケースや、暴行等による本人の意思と反した妊娠のケースなどについては、当事者である両親、とりわけ母親の意志を尊重して決定すべきではないでしょうか。また仏法的には、どうしても中絶をしなければならなかった人への宗教的なケアをなすべきでありましょう。
 また、「遺伝子治療」が今後、視野の中に入ってくるならば、賢明な利用を考えることも必要です。しかしながら“治療”から“操作”へと転落する歯止めはしっかりとかける手段を講じておく必要があるでしょう。
 キリスト教、とくにカトリックでは、生命は神からあたえられたものとして尊ぶゆえに、伝統的に堕胎を禁止しているようですね。
 ブルジョ それについては、いくつかコメントを付け加えさせてください。
 一つは、堕胎について聖書には、はっきりした記載がないということです。
 さらに、これは明らかな矛盾ですが、キリスト教を長く支配してきたのは十字軍、宗教的あるいは「正義」の戦争の論理、そして、宗教裁判、死刑等々の論理、すなわち、「排除の論理」、みずからの生きる権利に逆らうものを拒絶する論理であったのに対し、堕胎についてはキリスト教では一貫して生命尊厳の立場をとり、禁止してきたということです。
 池田 仏法は、もともと「寛容の論理」を基盤にしております。
 また、仏法の「殺生戒」は胎児の生命にまでおよぶと申し上げたように、この「寛容」の精神は、すべての生命に尊厳性を認めていくことを示しています。だれもが自己を輝かせ、自尊心をもち、将来に自信をもって生きていける社会を築く基盤となるのが、この「寛容の論理」です。
 「排除の論理」から、生命の「共生」を可能にする「寛容の論理」への転換こそ、現在の社会全体に求められている視点ではないでしょうか。

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