Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

6 生命の誕生  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

前後
1  「生命の始まり」をめぐって
 池田 次に、人間の“生”をめぐって博士と話しあいたいと思います。仏法でも“生死”と表現するように、“生”は“死”とともに人間にとって重大な課題です。
 ブルジョ 生まれるということは、死ぬということとともに、人間にとって決定的な瞬間であることは間違いありませんが、生命の誕生の時点については、時代によってさまざまな答えが出されてきた問題ではないでしょうか。
 池田 キリスト教では、どのように考えられてきましたか。
 ブルジョ キリスト教やユダヤの伝統を見ると、生命には流れがあると信じられ、生命を表す言葉として「魂(プシュケー=息)」とか「風(プネウマ)」という言葉が使われています。また生命は神の魂から生まれたものであるから、注意深く、また尊敬すべきであるとも言っております。
 しかし、ギリシャとローマの文明の影響を受け、独特なキリスト教文明が形成されると、そこで新しい議論が始まります。
 それは生命がいつ人間になるのか、いつ人間として認められるべきか、というものです。
 池田 生命の誕生よりも、人間の誕生に重点が置かれるようになったということですね。
 ブルジョ つまり、人間化する以前の胎児と人間を、分けて考えようとするものです。皮肉なことに、男子の胎児は受精後三カ月で人間になり、女子の胎児は受精後六カ月で人間になるという差別までありました。また、これらの結果として、伝統的に考え出されたのが、胎児が体外で一人で生きられる能力をもったときを人間として決めるべきであるというものです。
 しかし、実際に「この瞬間から人間の生命が始まる」とか「人間であると認める」という瞬間を特定することはむずかしいと私は考えます。むしろ少しずつ生命体が複雑になって、しだいに人間になっていくと考えます。
 池田 仏法の経典を見ると、受精・受胎の時点をもって生命の始まりとしていることがわかりますが、昔は、今日の胎内生理学等が示すようには、母親の胎内のようすは明確でなかったと思います。現在の体外受精(体の外で精子と卵子を出合わせて受精すること)、人工授精(人工的に精液を直接子宮内に送り込み受精させること)という問題に対処するには、科学的、医学的知見にも即しながら、「生」というものをあらためてとらえ直す必要がありましょう。
 そのうえで、仏法では人間の「生」については、人間の「死」と同様にプロセスとしてとらえております。
2  まず仏典を見ると、受精・受胎によって「生命」が宿ることを示されています。仏典によっては、「中有身」が宿るとも、「識」が入胎するとも示されています。
 この「識」は、人間の「死」のところで論じあったように「阿頼耶識」をさします。“輪廻”を認める立場から表現すれば、「中有身」とも言えましょう。この「阿頼耶識」から胎児の発育とともに、深層意識である末那識(七識)や意識的な心(六識)も顕現されていくと考えます。
 また、感覚器官が形成されるにつれて、それに即した識(五識)が顕現してきます。このように胎内での胎児の成長を、五識が徐々に形成されていくプロセスとしてとらえています。
 大脳生理学によれば、胎児の発生過程は、妊娠五―六カ月までの分裂・増殖・移動という時期と、その後のネットワークの形成期(神経突起の成長・シナプス形成)に分けられます。後者はまさに各種の機能の顕在化のプロセスともとらえられますから、ネットワークの形成につれて、末那識や意識、五識が関連しながらしだいに顕在化してくるという仏法の知見にも通ずるように思います。
 また、このような「生」のプロセスのとらえ方は、博士が今述べられた“少しずつ生命体が複雑になってしだいに人間になっていく”というとらえ方と、軌を一にしていると思われます。
 ブルジョ たしかに、そう言えます。
3  「出生前診断」の倫理的課題
 池田 ところで、近年の科学技術の急速な発展は、人間の「生」についても人為的な操作を加えることを可能にしました。現在、そうした医療における技術の進歩が、新たな重要な倫理的問題を生じさせることになっています。
 たとえば「出生前診断(出生する前に胎児の状態などを診断すること)」が可能になったことによって、「人工妊娠中絶」の問題が新たな様相を呈してきました。現在、超音波による画像診断や母体血清マーカー検査(妊婦の血清中の特殊な蛋白の量を測定し胎児の異常を算定する検査)、さらには羊水診断(子宮内の羊水を採取、診断し胎児の状態を知る方法)、絨毛採取法(妊娠初期の絨毛を採取し胎児の状態を知る方法)による診断によって、胎児の先天的な遺伝疾患等が早期に発見することができるようになったのです。
 ブルジョ 現在、私たちは「出生前診断」によって、胎児と、その成長の結果生まれ出る人間生命の「質」について知ることができます。「体外受精」の場合、さらに早く、着床前に知ることができるのです。その結果、考えもしなかった新しい選択が可能になりました。
 池田 たとえば、「母体血清マーカー検査」は、簡単に行うことができると言われていますね。そのために、出生前診断そのものがもつ倫理的な側面を十分に理解されないまま、妊婦の検査項目の一つとして拡大されていく危険性をはらんでいます。
 こうした問題を含め、日本では、一九九八年十月、厚生省(=現・厚生労働省)・厚生科学審議会に出生前診断に関する専門委員会が設置され、出生前診断における安全面、倫理面等の問題について検討されました。
 カナダでは出生前診断の実情はどのようになっているのでしょうか。
 ブルジョ 一九九〇年にカナダの二十二の施設で行われた調査によりますと、これらの施設では出生前診断がひんぱんに行われており、一年間で約二万二千人の女性が訪ねているということです。
 医師や遺伝カウンセラーらは、女性が三十五歳以上である場合、あるいは胎児が何らかの理由で異常をもって生まれてくる恐れがある場合、一般的に出生前診断を受けたほうがよいとしています。また妊婦自身が妊娠を継続するか中断するかを自由に決定し、その決定の責任を自身でとれるように、診断結果を妊婦に知らせるべきであるという合意がなされています。
 しかし、そこに本当の自由というものがあるのでしょうか。なぜなら、妊婦たちは「出生前診断」が有用であることを認識していますが、それを受けることには大きな心痛がともなうからです。
 池田 「出生前診断」の結果、望んで妊娠した胎児に障がいが見つけられることもあります。また、診断の後、妊娠を継続するかしないかの決定は女性に任されているとしていますが、これは、本来、社会全体が担うべき、障がい児等への責任を、一方的に女性個人に負わせることにもなりかねません。
 ブルジョ 九〇年の別な調査で質問を受けた女性たちは、全体的に彼女たちの自由は尊重されたと答えています。しかし、彼女たちのほとんどが微妙な圧力を受けたと感じているのです。
 出産という人生の崇高なドラマを享受できる権利を得ながら、彼女たちは一方で、健康で正常な子どもの出生を望む社会の中で、“完璧”な子どもを産む責任を負わされ、ほとんど強制に近いかたちで、出生前診断を義務づけられているのです。
 池田 博士が指摘されるような責任が、女性に強いられているとすれば、「出生前診断」は女性の出産に関する権利を強めるというよりも、逆に損なう危険性がありますね。
 いずれにしても、出産、育児に関しては、女性に対し、暗黙のうちにも、社会からさまざまな圧力が加えられているようです。「出生前診断」におけるさまざまな措置の整備とともに、こうした狭間に置かれている女性を支援、アドバイスする社会的システムがぜひ必要ですね。
 ブルジョ また、現在の生殖技術では、遺伝子の異常、欠陥を確認することができるだけで、それらを正常に戻す治療法は確立されておりません。
 実際には現在の「出生前診断」はほとんどの場合、胎児に関連する情報の提供と予測にとどまるものです。
 池田 それにもかかわらず、日本では、羊水診断等によって胎児に異常が見つかった場合、中絶を検討することが前提のようになっており、これが出生前診断における大きな問題になっています。
4  「生命の質」に境界線はあるか
 ブルジョ ある種の病気、異常、身体障がいになりやすいという「脆弱性」、あるいはその素質をもつ遺伝子が発見された場合、それはどういう意味をもつのでしょうか。またこのような「不幸」が人工妊娠中絶を実行するのに値するほど重大、深刻であると、いつの時点で判断したらよいのでしょうか。ここに基本的な生命倫理上の問題が提起されています。
 これに関して今、私がとくに興味を有する問題が二つあります。一つは正常と異常(または病気)であることの境界線をどこで引くのかであり、もう一つは“柔らかい優生学”ということです。
 池田 いずれも、本質的な問題です。
 ブルジョ 「クオリティ・オブ・ライフ(生命の質)」の定義は一般に、今、第一にあげた、正常と異常の二元的概念に立脚していますが、はたして病気や機能的欠陥をもつというだけで、「生命の質」が損なわれると言えるのでしょうか。その欠陥、病気が一般に深刻であると思われるような場合であっても、当人が、自分は幸せであるし、将来もまた価値ある人生を送れると考えているケースは多くあります。そうした実態は、私たちが表面的に判断、評価を下すものとは大きく食い違っています。
 要するに、欠陥や病気について言えば、問題は、そうした障がいをもつ人々に対する“社会の受けとめ方”であって、医学上の問題ではないとも言えます。
 ましてや、まだ生まれてきていない胎児の「生命の質」について、それを判断できる人がいるのでしょうか。どこまでが正常で、どこからが異常であるか、その境界線を引くことは容易ではないはずです。
 池田 私も博士のご意見に全面的に賛成です。
 一九九八年三月と六月に、日本産科婦人科学会が主催する「着床前診断」に関する公開討論会が行われました。そこでは障がい者団体の代表の方も意見を述べていましたが、第一に訴えられていたことは、「障がいのある人間がいるのは当然であり、障がい者に対する差別をなくし、社会的自立へ支援していくことこそが必要である」というものでした。
 「生命の質」という問題を考えるとき、どこかで境界線を引き、それより先を異常として切り捨てるという方向ではなく、障がいをハンディと感じない精神的に豊かな社会を築く方向へと、私たちの社会を向けていくことがより大切であると考えます。
 ブルジョ 第二の“柔らかい優生学”とは、出生以前から始まって、社会の人々の健康状態を向上させようというものです。しかしながら優生学に関する諸説を見ると、いかなる用い方であろうとも優生学の目的のために出生前診断を利用することに対しては、反対する意見が圧倒的に多いことがわかります。
 池田 優生学(子孫を優良にする目的で研究される学問。ナチズム下では障がい者排除や民族差別につながった)への批判の背景には、「ナチズム」や「人種主義」と結びついた優生学的な施策に対する、ぬぐいきれない懐疑の念もあるでしょう。
 ブルジョ 優生学について倫理的な議論を行う場合には、生殖技術の発展に即し、新しい思考基盤に立って議論する必要があると思います。
 仮に生命は私たちの責任にゆだねられたものであると考えるなら、優生学をその内容を吟味することなく非難するわけにはいきません。私たちの責任において、現在の生殖技術がもたらすあらゆる可能性を生かせるかどうかを考慮する必要があります。
 池田 だれしも健康な子どもの出生を願う気持ちに変わりはありません。そのために生殖技術が必要であるならば、その利用について考慮していくことは当然でしょう。しかし、それが、“生命”に対する不寛容な介入を招くことになるのではないかと、私は懸念しております。
 生殖技術の利用は、胎児の生命を対象としているとはいえ、社会や個人が“他者の生命”を規定し、枠にはめることに通ずるものです。
 仏法の生命尊厳の立場からすれば、生命の操作へ結びつきかねない生殖技術の応用には慎重であるべきだと考えます。
 そのうえで、現実には、母体との関係等も考慮に入れなければならないと思います。胎児にとってもっとも幸福な道を、両親は医療関係者の協力を得ながら、真剣に考え見定めていくことが肝要だと思います。
5  人工妊娠中絶は社会全体の問題
 池田 ところで、博士は、カナダでの人工妊娠中絶に関する生命倫理の審議にも加わってこられたそうですね。
 ブルジョ 一九七〇年代の初頭に、ケベック州で、人工妊娠中絶の合法化について激しい議論が交わされました。私も人権擁護同盟のためにリポート作成の作業に参画しました。
 池田 その過程では、どのような議論がなされたのでしょうか。
 ブルジョ 議論は二つの陣営間の対決となりました。一方は生命尊厳の擁護者、他方は自由や自主性、女性の責任性の促進者で、両陣営は一歩も譲らず、みずからの意見を主張しました。前者の陣営の大多数は男性で、後者は女性が大多数を占めていたことを付記しておきます。ケベック人権擁護同盟での討議は、相対する二つの立場の意見を考慮しながら、この問題の社会的な重要性を浮かび上がらせようとする試みでした。
 人間生命の守護はすべての人々にとっての責務であり、妊婦にのみ、出産とその後の幼児の世話の義務を押しつけるべきではありません。
 妊娠を持続するか、中断するかは、女性、あるいは、できればカップルが選択すべきことであります。しかし、社会全体が真実の選択ができるための条件を整えてあげるべきであります。責任は、第一義的にはその女性に、次にカップルに、そして社会にあるとのことで意見の一致をみました。
 このリポートは本として発刊され、広く出回りましたが、その表題『中絶の問題に直面するケベック社会』(一九七三年)は新たな協調点を明確に表しています。
 池田 これまで女性に押しつけられてきた出産、育児を社会全体の問題として考えていこうというわけですね。
 ブルジョ こうした観点から、社会全体が、出産する夫婦が生活できる施設をつくるなど、夫婦を援助していくだけの責任感と準備がなければならない。夫婦に一方的に出産の責任を負わせるということは許されないとの結論が出されました。
 また、そこでは、さまざまな議論がなされました。一方では「生命」を、他方では「自由」を主張しました。要するに“生命を重要視する側”と“自由・権利を重要視する側”で意見が交わされたのです。
 私個人としては、「自由」と「権利」を促進しない「生命尊厳」はありえないし、逆に「生命尊厳」を認めない「自由」だけが促進されることもありえないのですから、生命尊厳と自由や権利は不可分の問題であり、議論を尽くすことで両立できると思っています。
 池田 深い思索に立たれたご発言です。私も、「生命尊厳」の理念と「自由」「権利」を両立する道を開くことができると考えています。
 残念ながら、日本では、そうした議論もないままに人工妊娠中絶が人口抑制手段の一つとして行われてきました。そのために生殖技術全体がたんなる医療として受けとめられる傾向があるようです。倫理的な考察もほとんどなされず、法的規制も緩やかである状況です。
 ブルジョ 人工妊娠中絶について、さらにいくつかコメントさせていただいてよろしいでしょうか。
 池田 どうぞ、どうぞ。重要な問題ですから。
 ブルジョ まず申し上げたいことですが、人工妊娠中絶の決定は例外的なケースを除いて決して安易になされてはならないということです。
 たとえば奇形胎児の場合など、そのリスクは一定期間を経過してみないとわかりません。また妊娠継続がどのような結果につながるのかを予測できても、同じように一定期間を経てからでなければ確定できません。
 池田 胎児に発見された障がいそれ自体が、そのまま中絶に結びつくという考え方に対しては、私も反対です。
 ブルジョ 第二に、“出産”を取り巻く環境と、そこにかかわる社会の諸制度の法制化の問題です。
 人工妊娠中絶は社会の仕組みとも深く関与しています。たとえば出産によって失職を余儀なくされる状況、また妊娠から出産にいたる生活保障の不備等が、人工妊娠中絶の決定をせざるをえなくするケースもあるからです。
 第三に、人工妊娠中絶は、生命がだれびとも侵すことのできない神聖なものであるがゆえに許されないとするか、また、女性あるいは個人さらには人間集団としての責任でもあるととらえるかによって、その態度は変わるということです。
 しかし、私は、このようなコメントを述べることに迷いました。というのは、人工妊娠中絶について、それが不道徳であり、法律によって規制すべきであるという議論は、男性の側、すなわち、(究極的に望まれない)妊娠や出産の経験もなく、仕事のなかでそのことで悩んだことのない男性の側からよく出てくる意見だからです。
 池田 人工妊娠中絶による直接的な影響を受けるのはあくまで女性自身ですからね。反対に、男性は「生殖」にかかわることからは責任をのがれようとしています。
 ブルジョ 私の知る、とりわけ人生に積極的なかかわりをもつ女性は、人工妊娠中絶に対する法的な規制や一般的な判断を下すことに強い拒否の姿勢を示しています。彼女たちを見ておりますと、私は自分自身の人生、生命に対する態度、他人の生命とのかかわり方を考えざるをえません。
 さらに付け加えますと、人工妊娠中絶だけが問題を解決する唯一の方法ではないということです。あるケースでは遺伝子治療(細胞に遺伝子を導入することによって、生体に有利な現象を引き起こすこと)が効果を生むこともわかってきました。
 治療法は暗中模索的な側面もありますが、希望が出てきており、そのすべてが無駄になるとは考えられません。
 池田 人工妊娠中絶は女性の生き方に深くかかわる問題でもあり、母親、両親、家族、そして社会の「胎児への見方」が複雑にからみあった問題と言えます。それだけに今後も慎重な議論を積み重ねることが肝要でしょう。
 仏法の慈悲は胎児の生命尊厳にまでおよぶという根本精神からすれば、基調としては、人工妊娠中絶によらないで問題を乗り越えるほうが良いことはわかっています。
 しかし、これには中絶の時期の問題もからんできます。仏法は産児制限(調節)の方向をさし示しているように思えます。そのうえで、出産にともなう負担が母体の健康にいちじるしくかかわるケースや、暴行等による本人の意思と反した妊娠のケースなどについては、当事者である両親、とりわけ母親の意志を尊重して決定すべきではないでしょうか。また仏法的には、どうしても中絶をしなければならなかった人への宗教的なケアをなすべきでありましょう。
 また、「遺伝子治療」が今後、視野の中に入ってくるならば、賢明な利用を考えることも必要です。しかしながら“治療”から“操作”へと転落する歯止めはしっかりとかける手段を講じておく必要があるでしょう。
 キリスト教、とくにカトリックでは、生命は神からあたえられたものとして尊ぶゆえに、伝統的に堕胎を禁止しているようですね。
 ブルジョ それについては、いくつかコメントを付け加えさせてください。
 一つは、堕胎について聖書には、はっきりした記載がないということです。
 さらに、これは明らかな矛盾ですが、キリスト教を長く支配してきたのは十字軍、宗教的あるいは「正義」の戦争の論理、そして、宗教裁判、死刑等々の論理、すなわち、「排除の論理」、みずからの生きる権利に逆らうものを拒絶する論理であったのに対し、堕胎についてはキリスト教では一貫して生命尊厳の立場をとり、禁止してきたということです。
 池田 仏法は、もともと「寛容の論理」を基盤にしております。
 また、仏法の「殺生戒」は胎児の生命にまでおよぶと申し上げたように、この「寛容」の精神は、すべての生命に尊厳性を認めていくことを示しています。だれもが自己を輝かせ、自尊心をもち、将来に自信をもって生きていける社会を築く基盤となるのが、この「寛容の論理」です。
 「排除の論理」から、生命の「共生」を可能にする「寛容の論理」への転換こそ、現在の社会全体に求められている視点ではないでしょうか。

1
1