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日蓮大聖人・池田大作

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5 死とどう向きあうか  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

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4  「死」に学び、豊かな「生」を生きる
 池田 「哲学を究めるとは死ぬことを学ぶこと」――これは、モンテーニュの有名な言葉ですが、仏法でも「臨終の事を習うて後に他事を習うべし」と教えています。「死」について学ぶことは、この人生をより豊かなものにしていくうえで、必要不可欠な課題と言えます。
 “臨死体験”への解釈は別にして、私が注目したいのは、臨死体験した人の“生き方の変革”です。文字どおり“死”に直面することによって、これまでの生き方を反省し、いつ“死”が訪れてもよいように“生”を充実させるという報告です。これに関して、次の点では、博士と合意できると思います。
 まず第一に、臨死体験をした人は“死”を恐れなくなる。第二に、生き続ける限り“知識”を学ぼうとする。第三に、名誉や権力や金銭にとらわれたエゴイズムではなく、他者のために尽くそう、慈愛に生きようと決意するということです。このような生き方ができるだけでも、“死”と向かいあった体験の意義があると思います。
 先ほども申しましたように、ハーバード大学での講演の中で、私は、近代社会は、この死という問題から目をそらし、生がプラスイメージであるのに対して、死をことごとくマイナスイメージにふり分けてきたことを論じました。そして、真っ正面から“死”に向かいあうべきであることを主張しました。
 ブルジョ おっしゃるように、現代社会では、生に対する意識と死に対する認識には、はっきりとした違いがありますね。西洋の伝統的な考え方では、どうしても生命のネガティブな進化の側面を受け入れることがむずかしいのです。
 これは生命が死を迎えると、もはやその生命はそれ以上の成長を遂げることはできない、消滅という最終的な状態にたどり着くと考えることに起因しています。
 池田 東洋の仏法では、「法性の起滅」という法理を説きます。
 ここで言う「法性」とは、現象の奥にある生命のありのままの姿を言います。生死など一切の事象は、その「法性」が縁にふれて顕在化(「起」)し、また潜在化(「滅」)しながら、創造的進化を遂げていくと示しています。
 ブルジョ 西洋の哲学者や思想家の間では、つねに生命には終わりがあると信じられてきました。そのなかで、ジャン=ポール・サルトルもシモーヌ・ド・ボーボワールも、信仰をもたぬ無神論者ですが、その全思想遍歴を、死とその無意味さの謎を解かんとし、その桎梏から人生を解放することにささげました。
 池田 そのとおりですね。サルトルもボーボワールも、その著書の中で、死への深い洞察を試みています。
 ブルジョ 各個人の生は最終的に死のなかに飲み込まれてしまうように思われますが、たとえば、サルトルの著作は、彼の情熱と友情、さらに後継者を通じて、彼の遺産として広く受け継がれています。ある意味で、彼は死を超越したのかもしれません。
 実際、サルトルは、死を超えて「他者のために存在すること」と呼ぶものが残る、と言っております。さらにこうも言っています。
 「死んだ生命」とは「記憶し、継承したもの」「引き継がれたもの」のなかで、他者が保護者である生命である、と。
 また哲学者ヤンケロヴィッチは、「存在したということ」「経験したということ」「愛したということ」が残ると言っています。
 このように考えると、はたして、すべてが死のなかに飲み込まれてしまっていいのか、という疑問もわいてくるのです。
 池田 私も、この点に関しては、サルトルやヤンケロヴィッチと同意見です。たしかに一人の人間の生涯は短く、その一生のなかでできることは限られているかもしれません。しかし、一人の人間の足跡、業績は、後継者や、影響を受けた他の人々に引き継がれていくことによって、じつは、その人の生命は永遠に続くことになると言えます。
 創価学会が進めている反戦、平和、人類の幸福をめざしたさまざまな運動も、戸田第二代会長が提言した「原水爆禁止宣言」や「地球民族主義」などの思想・哲学を、師匠の遺志を受け継いで、私たちが世界に広げているものです。ゆえに、現在のSGIメンバーの運動のなかに、牧口会長、戸田会長の“生命”が生き続けていると私たちは確信しています。

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