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日蓮大聖人・池田大作

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3 脳死をめぐって  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

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2  「脳死」問題についての道徳的確信
 ブルジョ 生命の始まりと終わりについての臨床医学の探究は、今後、修正をみることはあっても、合理的・有効的な軌道を進んでいると思われます。その成果として、“回復不能”な昏睡状態は、「脳死」の兆候の一つであり、したがって、人間の終わりであり、その時点から治療を終了することが許され、臓器移植のための条件がととのったとされています。
 池田 現在の医療状況は、たしかにおっしゃるとおりです。
 ブルジョ しかし、このような死の兆候が、はたして合理的に、本当の死、ないしは少なくともそれに近いものと言えるのか――という疑念は消し去ることができません。
 現代において、少なくとも病院では「自然死」というものは考えられなくなりました。患者は「生命維持装置」を“取り外され”、死を迎えます。しかし、この装置をいつ外すのか、だれがそれを決めるのか、また何を理由にして、その死を正当化しようとするのか、どのような判定基準によって死の兆候を認めるべきか、さらにその判断基準、誤謬の許容値をどこに求めるべきか。多くの未解決の問題が残っております。
 池田 一般の人々の「脳死」問題への疑念の一つも、まさにそこにあります。
 ブルジョ そこで、この数百年の間に欧米の哲学者の間で共通に使われるようになった“道徳的確信”ということについて述べてみたいと思います。それは、「当面する問題について、知りうるかぎりの要素をすべて解明しようと誠実な努力を尽くし、十分な配慮もした結果、得られた信念」と言えましょう。つまり、最善を尽くしたことに基づく信念であって、必ずしも「絶対的な確信」ではありません。
 “死とは何か”“いつの時点で「死んだ」とするのか”。この二つは相関する重要な問題です。しかし一方で死との闘いをいつ中止すべきか、さらには、いつ臓器摘出を行うかの決断を、医療関係者は日常的に迫られているのです。つまり、私たちは前者の問いに確信をもって答えられないまま、後者に対する回答として医療現場で便宜上、死の判定基準を決定しているのです。
 池田 「脳死」の判定、ならびにその時点での臓器移植を受け入れるかどうかは、先ほど私たちが論じたみずからの「責任」で決定すべきことではないでしょうか。
 そのために、日本でも、ドナーカード(死後の臓器提供に対する意思表示を記した携帯カード)がつくられております。家族の関与のしかたについては、まだ議論が行われています。
 そこで、私たちや家族が「脳死」判定を受け入れるかどうか、また、臓器摘出を受け入れるかどうかという点で、“道徳的確信”が要請されるわけですね。マイナス面を未然に防ぐために――。
 ブルジョ そうです。カナダでは、「脳死」の定義が医学界および法曹界で受け入れられ、その時点での医療の中止が容認されています。また、この時点で家族の同意があれば、臓器摘出が可能になります。ただし、それ以前に、脳活動は脳幹(脊髄と大脳とを連絡する生命維持に重要な自律機能を調節する部分)を含めて、すべて停止していなければなりません。
 池田 日本の場合とは、“判定”基準に若干の違いはあるかもしれませんが、「脳幹」を含めて、全脳の機能の停止によって、「脳死」であると判定する
 点は、同じです。
 ブルジョ しかし、ここで言われる「脳死」の定義には、不確実な要素もあります。私たちはもっと、“確実な”定義を追究する必要があることは、否めません。しかし、私たちには行動をとらなくてはならない必要性もあり、私は「脳死」による死の判定は合理的であり、有用でもあると考えます。
 池田 私も「脳死論」の中で、「判定」基準のさらなる精密化を求めました。そのうえで、「全脳」の機能が「回復不能」――つまり「不可逆である」と判定されたならば、社会的な制度として「脳死」による判定を容認してもいいのではないかと論じました。
 つまり、博士の示された「生命の段階」で言いますと、「第一段階」の状態をも、現代医学の力では保つことができない、つまり、「不可逆である」という状態におちいっているということです。
 先ほどの「九識論」で言えば、「五識」「意識」はおろか、「末那識」、また、身体の統合力も、「不可逆」的に消失している状態をさします。
 ともあれ、今後とも、種々の観点からの論議を積み重ねていき、人々が納得できる“道徳的確信”の形成が期待されます。
 そうした努力を続けることを前提として、「脳死」問題へのかかわり方は、「生命の段階」説や仏法の考え方などから学び、熟慮しながら、あくまで自己の「責任」と「連帯」という倫理規範にのっとって、決定すべき事柄でしょう。
 また、脳死者からの臓器移植についても、同様に熟慮を重ねていくべきではないかと考えます。
 ところで、カナダでは実際に移植医療は進んでいるのでしょうか。
 ブルジョ 移植のための臓器提供は、カナダでは広く受け入れられるようになり、一九九一年の統計によれば、腎臓移植が八百件以上、腎膵臓移植が五件以上あり、心臓移植百四十四件、肺移植五十八件、心肺移植十件、また肝臓移植百七十四件が記録されています。
 池田 欧米では、すでに二十年以上の歴史をもつ脳死移植は、かなり技術的にも向上しているようです。移植における最大の難点である「拒絶反応(免疫系が移植された臓器を異物とみなし攻撃すること)」を抑える新しい免疫抑制剤(免疫系の拒絶反応を抑える薬)も開発され、現在では移植を受けた人の多くが健康を取り戻し、社会生活を営むことができるようになっています。
 しかし、日本では臓器移植法の施行後も、一年半近く、脳死者からの臓器移植は行われませんでした。脳死が広く社会的合意にいたっていなかった点や、死体を生きた身体と同一視する日本人の独特な身体観によるものだったと思われます。
 また、本人が生前、臓器提供の意思をもっていたことが確認された場合でも、家族の反対によって実施が取りやめになったケースもあります。
 ブルジョ カナダでも、臓器提供者は生前、臓器提供の希望があることを自分の意思として明言するか、文書にし、その上で家族等がこれに同意することが明確にされなくてはなりません。
 しかし、個人の尊厳と友愛主義との観点から、キリスト教では臓器移植を大幅に容認しており、この立場をとる人々は、死に直面してもなお、だれかの「役に立とう」とした故人の遺志を受け継ぐことで、「死」の悲しみを乗り越え、慰めを得るのです。
 池田 脳死や臓器移植の問題については、日ごろから、各人が自分自身の問題として考え、家族もまた当人の意思を尊重する配慮について話しあうことが大切ですね。
 欧米のような移植医療の先進国も、社会的合意にいたるまでには年月をかけ、多方面の議論を重ねて、今日の医療を実現してきたことを考えると、日本ではまだまだそうした議論が深まっていないようです。
 ブルジョ 現在、移植医療について、国際的な情報のネットワークもできあがり、移植を待つ人々への臓器提供が始まろうとしています。
 しかし、こうした一方で、臓器移植の否定的な側面を私は忘れてはならないと思います。
 たとえば貧しい人から臓器を摘出し、商業目的のために利用する可能性も考えられます。少なくともカナダにおいては現在までのところ、そのような事態の発生や兆候は現れていませんが。人間の身体に対する危険な行為、臓器や細胞の商業的利用は法律で禁じられています。臓器移植は実施する上で複雑な要素をはらんでおり、関係者は多数におよびます。したがって、これらは制度上の問題として徹底的な議論が必要です。

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