Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

2 死の定義  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

前後
3  生命を連続的プロセスとみる生命観
 池田 先ほどの九識論には、動物と人間の間に差別をつける指向性はありません。仏法では、人間の「死」を、意識のある「第三段階」、無意識ではあるが、外界に反応する「第二段階」、そして深い昏睡におちいり、すでに外界との対応がなくなった「第一段階」へと、しだいに移っていくプロセスとして、連続的にとらえています。
 したがって、「第三段階」から、「第二段階」へと移った「時点」で、すでに人間でなくなったとはとらえません。この点が、仏法と博士の紹介された西洋思想との違いですね。
 ブルジョ 現在、欧米でも「生命の段階」には、“連続性がある”という見方が浸透してきています。つまり、“生命がいかなる段階におちいっていようと、その生命は守られるべきだ”という考え方が重視されるようになってきました。
 池田 仏法の考え方と一致する方向です。仏法では、心が「末那識」(深層意識)の状態になっても、その人は生きており、外部からわからなくても、外界の情報を受け、喜んだり、悲しんだりしていると考えています。
 親しい看護師さんからよく聞く話ですが、昏睡状態にあった患者さんでも、やさしく声をかけたり、また、幼いころに好きだった音楽をかけてあげると、「意識」を回復してから、お礼を言われて、驚くことがあると言っていました。
 反対に、もう“死”の領域に入ったのだからと機械的になったり、冷たくしたりして――そんな人はいないと思いますが――、その後、「意識」が回復して、指摘されたりすると、身の置き場に困ることになりかねません。(笑い)
 ともあれ、こうした体験なども、「生命の段階」を連続的にとらえる方向を示唆しています。
 ブルジョ 「生命の段階」には“連続性がある”とする考え方は、西洋と東洋の伝統的な思想を結びつける接点となる新しい考え方と言えますね。
 池田 未来の「生命論」の方向性を示す卓見です。二十一世紀を目前にして、生命を「連続的プロセス」としてとらえるという共通する見方が出てきたことは、非常に興味深いことです。
 ところで、西洋でこのようなとらえ方が生まれてきた理由は、どこにあると思われますか。
 ブルジョ 私たちが、なぜこのような考え方にかたむいてきたかというと、それは人間が置かれている生態的状況や環境から受ける影響に対する認識が高まってきたからにほかなりません。
 池田 なるほど。仏法では、「人間」と「環境」は一体であるととらえています。
 ブルジョ 換言すれば、人間だけが特別の存在なのではない。この地球上の動物や植物と同じく、人間も地球生態系の一部であるという認識が強まってきたのです。
 ですから、先ほど述べた人間における「生命の段階」は、たんに生の状態を識別するための線引きの方法であって、それぞれを切り離すべきではないと考えるようになったのです。
 池田 地球上におけるすべての生命への視野の拡大が、これまでよりもいちだんと深い生命観を生んだと言えますね。
 仏法では、人間の「死」とは、博士が言われた生命の「三つの段階」を通って、やがて、生命の深層領域である「阿頼耶識」が宇宙生命そのものへと融合していくととらえています。その死へのプロセスのなかに、「脳死」も位置づけられると言えましょう。

1
3