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日蓮大聖人・池田大作

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1 宗教と医療倫理  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

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1  西洋医学は「外敵の克服」をめざした
 池田 この章では、いよいよ生命倫理の課題に入ります。生命倫理はブルジョ博士のご専門ですから、豊富な知識と深い洞察を期待しております。しかし、読者のためにできるだけわかりやすくお願いします。(笑い)
 ブルジョ よくわかりました。(笑い)
 池田 仏教の誕生は、人間存在と切り離せない「生老病死」の問題との格闘から始まっています。このことは、「四門出遊・四門遊観」として知られています。釈尊は、この人間の根源的問題である“四苦”を乗り越える「法」を求め、出家したのです。
 こうした釈尊の試みは、今もなお、人類の重要な課題です。仏教は、釈尊滅後も、「生老病死」に関心をもち続けました。「倶舎論」に代表される「アビダルマ」と呼ばれる精緻な仏法哲学においても、「生老病死」について、当時の医学的知識(アーユル・ヴェーダ医学)も豊富に援用しつつ、種々の観点から詳細な検討を加えています。
 博士は、「生死」「病気」の問題と宗教のかかわりを、どのように考えておられますか。
 ブルジョ 私は、聖書やキリスト教神学は勉強しましたが、宗教者でもありませんし、いかなるキリスト教会を代表するものでも、また、キリスト教信者でもないことを、最初にお断りしておきます。「生と死」「健康と病気」についてのユダヤ教、キリスト教の伝統的な考え方は、現在でも欧米で受け継がれ、広まっています。
 たとえば、現代の多くの社会政策は、アメリカの独立戦争やフランス革命の理念であった「自由・平等・博愛」がその基盤になっていますが、こうした理念は、キリスト教の伝統に深く根づいています。イエスは、既成の律法や身分制度に反対して、貧者に対する連帯責任と慈愛を説き、全員が神の子として自由であり、相互理解と互助の平等関係に立つことこそ社会の理想であると説きました。パウロも同様に、女性差別、奴隷差別、ユダヤ人差別に反対しています。
 現代の健康保険制度や医療政策も、こうした宗教を基盤にした人間の尊厳、個人の権利、自由の思想の上に成り立っています。個人が健康に生きることを「権利」として主張し、社会がそれに応えるために奉仕することが、こうした政策の究極の目的であるとも言えます。
 池田 つまり、医療倫理は、人間の尊厳観と深くかかわっているということですね。
 ブルジョ 福音書には、貧者や病人、また社会から疎外された者を守ることをイエスは強く命じた、とあります。彼らもまた、すべて“神の子”である以上、人間としての尊敬と尊厳に値するからです。さらにイエス自身も、それを実践に移しました。イエスが行った奇蹟的な治癒の話が聖書に述べられていますが、それは、このことを具体的な例を用いて告げているのです。
 病人の治療や専門家の支援も、イエスの奇蹟的な治癒とその精神において同じ軌跡の上に立っています。
 池田 西欧では、今、博士が述べられたユダヤ・キリスト教の精神とギリシャの精神が出あっていますね。
 ブルジョ そうです。今日の医療倫理の綱領は依然として、紀元前四世紀のギリシャ時代の「ヒポクラテスの誓い」をその精神としています。ユダヤ・キリスト的遺産とギリシャ・ローマ的遺産の出あいによって、私たちは、こう考えるようになりました。天地創造のさいの「過ち」を正すことでその苦痛から解放させ、世界を創造し直すのだと。すなわち、私たちは、そうした役目をもつ創造者の協力者なのだと。
 そこから、西洋医学は、ガンやエイズなどという外敵の克服を明らかに指向して戦うようになっていったのは、むしろ当然の帰結であると言えます。それに比べて仏法では、私の理解が間違っていなければ、病を内部的な調和、あるいは英知のなかに包容されるものとして受けとめていますね。
2  仏法は、生命と環境の調和をめざす
3  池田 病気を外敵として、それを克服するという発想が、キリスト教に求められることはよくわかりました。
 仏法では、博士が指摘されたように、病気の問題を身体と心、生命と環境の不調和としてとらえました。そして、生命に内包された、“ダイナミックな調和”への律動を強化し高めることによって、健康の増進をめざしたのです。今日の言葉でいうと、生命倫理の問題で大きな焦点となっている“クオリティ・オブ・ライフ(生命の質)”への飽くなき探求でした。
 ブルジョ 仏法が説く「生命の質」とは、どのようなものですか。
 池田 仏法において、“生命の質”を高めるものとして提示しているものは、大きく三つあると私は考えます。
 一つは、自律です。これは「戒」と呼ばれます。飽くなき欲望を制御し、正しい方向へと向かわしめる力です。
 次に、つねに真理を見つめ求める姿勢です。これは「定」と呼ばれます。生きている限り、さまざまな周囲のできごとに遭遇しても、把握し守るべき真理、みずから進むべき道をしっかりと見据えて、行動しゆく姿勢です。
 そして、普遍的な真理に基づく実践的知恵です。これは「慧」と呼ばれます。すべての人は、みずからに内在している無限大の可能性に満ちた自己を実現する力を秘めております。その可能性を相互に啓発しあうことが求められているのです。
 仏法では、この「戒・定・慧」の三学を修し、行っていくところに、“生命の質”を見いだしていくのです。
 ブルジョ 会長は、仏法の思想を特徴づけるものとして「戒・定・慧」をキーワードとしてかかげられました。私は、「人間の尊厳」「権利」「友愛」を、キーワードに加えたいと考えます。「友愛」は、キリスト教の伝統的な言い方では「隣人愛」とも言えましょうが、こうしたもののために、人々が連帯し、支援し、世界の変革のために、私たちが積極的に行動することが大切です。
 池田 仏法においても「戒・定・慧」の三学の修行が、他者との相互関連に向かうとき、“慈悲”として表れます。他者の尊厳性に立脚して、ともに“人生苦”を超克しゆく行為が“慈悲”です。
4  医学をリードする倫理の構築が急務
 ブルジョ よくわかりました。
 一方、近代医学は飛躍的進歩を遂げてきました。生体臨床医学ではそれがとくに顕著であると言えます。その結果、既成の職業的道徳はすでに旧式化してしまい、それに代わる新しい規範としての生命倫理が求められています。倫理の道標を変えなければならないのに、それよりはるか以前に専門分野の研究や実践のほうが変わってしまったのです。複雑で高度な技術が次々と利用できるようになり、専門家たちが斬新で大胆な行動をとれるようになっていったのが、その主な原因です。
 池田 医療倫理の変革が、医学の革命的進歩に追いついていかなかったのですね。
 ブルジョ 人智は新分野の開発を続けます。生命倫理は、過去の延長ではなく、過去との断絶のときにこそ出現が待たれるものです。私たちは、今、かつて進んできた道とはまったく異なる道程を開拓しようとしています。それを律するには、古い道徳は不十分で力不足です。
 池田 そのとおりです。医療革命に見あう倫理、さらには医学をリードしゆく倫理の構築が急務です。
 ブルジョ 医師や関係者たちが倫理綱領を時代に合わせようとするだけでは、だめです。生命倫理学は、複雑で、相互に関連するこの問題に対して、多様な価値観を認めながら、体系的な提案を示そうとする努力でもあります。
 多元的社会にあっては、往々にして人間存在とは何かという見解が定まっていないために、意見の一致が得にくかったり、対応する確実な基準が見当たらないという状況下にあります。そこでは、当面する問題をケースバイケースで取り上げ、議論と討論を重ねていくしか、糸口が見つけられない分野もあります。
 池田 価値の多様化する現代社会では、すべて同じ問題をかかえていますね。
 ブルジョ 人間は、もはや「変えようのない存在」ではなくて、「変えていかなくてはならない存在」です。事実、われわれは今、絶え間のない、早いテンポの大胆な介入に合わせて、人間を変革してきています。
 したがって、私がすでに述べてきた、あらゆる人々に関係してくる問題、すなわち、「明日、われわれはどのような人間になっていたいのか、どのような人間社会、人類をめざすのか」という問題について、広く開かれた討論が必要になってきているのです。ある問題については過去にコンセンサス(意見の一致)があったとしても、それはもう今の時代には通用しなくなっています。
 池田 「どのような人間になっていたいのか」――これこそ、新しい生命倫理のポイントです。新たなる人間像をめざしての“対話”ですね。
 ブルジョ 生命倫理について、開かれた討論で、生命やそれに関係する諸問題の基本的な相互関係性を
 議論することは、今や民主主義にとって欠かすことのできない重要なステップです。なぜなら、それは自分自身の生命にかかわることだからです。
5  医師、看護人、患者の協力の大切さ
 池田 生命倫理の問題の一つは、医療の現場における人間関係をどのようなものにするかという点にあります。とくに医師と患者のあり方が、「上下」の関係から「平等」の存在へと変化してきました。患者も個人として、医師と「対等」であり、「パートナー」であり、責任を分担すべき存在であるという関係がめざされています。最近では、自己決定権やインフォームド・コンセント(知らされた上での同意)の重要性が指摘されるにいたっています。
 博士は、医療倫理の立場から、医療の現場における人間関係をどのように考えておられますか。
 ブルジョ 医師と患者の間の関係性は年代とともに変化してきました。ヒポクラテスの時代から、一九六四年、世界医師総会で採択されたヘルシンキ宣言、一九七五年の東京での宣言、さらに最近では国連のWHO(世界保健機関)の宣言にいたるまでの諸宣言を見ると、両者の関係のあり方には、いくつかの「典型」があることが容易にわかります。
 まず、医師を「父親的存在」のように見る関係です。これは、医師が聖職者や魔術師のような神秘的な力をもっていると考えられ、患者は医師の権威に疑いをもたず、盲目的に従うというものです。
 次に、医師を「専門家」「技術者」と見る関係があります。これは、人間をあたかも機械のようにとらえ、細分化された専門知識をもった医師が、冷徹に患者と対応する関係です。
 もう一つは、医師と患者が「パートナー」としてかかわる関係です。
 池田 前の二つの見方が「上下」の関係であるのに対して、これは「平等」の関係ですね。
 ブルジョ そうです。前にあげた二つの例で指摘した点を、あたかも写真のネガで見るように裏返したのがこの例です。これは新しい典型とも言えるもので、「相互合意的」モデルと言われるときもあります。私としては、相互の合意の上に成り立って、しかも生命のレベルで「相互に生かしあう」という意味合いを含めて、「パートナーシップ」モデルと呼ぶのが適切であろうかと考えます。「相互合意的」という以上、両者が平等な立場にあることが前提です。
 また、「相互に生かしあう」という言葉は、おたがいが根本的な問題にともにかかわりあう行為において、密接に力を合わせることを表現します。なぜかと言えば、生命を扱う医療は人類に共通の問題で、責任は両者にまたがっているという自覚に立つものでなくてはならないからです。
 池田 私も、医師と患者は、パートナーであり、病気の克服をめざして、責任を分担し、連帯していくべき存在であると考えています。
 ブルジョ この関係を別の言葉で言えば、会長が使われている「慈悲」に相当すると言えるかもしれません。
 専門的な医師としての立場とともに、パートナーとしての多角的で相互補完的で、意識的で配慮に満ちた行為が求められるのです。
 池田 私は、ここで、医師と看護人と患者のそれぞれの倫理として、仏法医学が説く「三者戒」を思い起こします。
 ブルジョ それは、どのようなものですか。
 池田 仏法医学では、医師と看護人と患者が、ともに協力しあい、学びあいながら、病気と闘うことによって、それぞれの人生を充実させることをめざしています。そのゆえに、三者それぞれに対して倫理性を要求するのです。
 まず、「医戒」ですが、仏法で理想とする医師像について、『大智度論』には、次のように記されています。「薬を服するは、病を除くを以て主と為し、貴賎大小を択ばざるが如し」(大正二十五巻)と。「大医」は、医術に熟達するのみならず、慈悲心に満ちて、決して病者の貧富、貴賎にとらわれてはいけないことが示されています。
 次に「看護人戒」ですが、「摩訶僧祇律」には「能く時々に病人の為に随順説法し、希望心なく、自業を惜まざる」(大正二十二巻)とあります。つまり、これは、慈悲の看護のあり方を示すものです。ここにいう「希望心」とは利得の心であり、利益を得るための看護には、慈悲心がなくなってしまうことを戒めているのです。
 さらに「患者戒」としては、「能く苦痛を忍び、精進にして慧ある」(同前)と、医師の知識、智慧とは次元を異にしますが、病人にも、“自身の病状をみずから察知する智慧”を求めるものです。
 これら三者の倫理を「和合」して説くところに、仏法医学の医療に対する倫理観が表れています。
 ブルジョ 医師と患者がパートナーの関係であるケースでは、患者が自身の生命に関して主体性をもちます。自分の生命の方向性を決め、そのために必要な選択をし、適切な手段を講じるのも、その患者自身ということになります。
 もちろん、相談相手はいます。医療専門家たちもその対象になりますが、病状の診断から治療方法の選択にいたるまでの全過程において、第三者の意見も大切になります。しかし、最終的に決定を下すのは、本人自身であることは当然です。

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