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日蓮大聖人・池田大作

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6 “心の病”とどう向きあうか  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

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2  “人への接し方”を説いた“四摂法”
 池田 一九九七年の秋、東京で、ライナス・ポーリング・ジュニア博士と対談する機会がありました。博士は、ハワイで開業し、精神カウンセリングを行っている精神科医です。
 対談の折、博士は、重度の病気(精神疾患)は、増加しているとは思わないが、社会生活にうまく適応できないケースがふえていると話していました。
 ブルジョ 少なくとも、精神疾患にかかっている人が、ますます社会環境に適応しにくくなっていることはたしかです。その一方で、適応して生活していける環境は減っています。
 現代社会において、仕事をしていくためには、私たちはいろいろな抽象概念を扱わなければなりません。抽象的に考える能力を発達させなければなりません。
 本当は、社会には、抽象化する能力以外にも、さまざまな人間としての能力、特性が必要とされます。ところが、そういう能力は、現代社会では認められていないのです。
 池田 社会が健全に発展していくためには、人間のさまざまな個性をすべて生かしきっていくことが必要ですね。
 ブルジョ そうです。私が知っているだけでも、精神疾患にかかっている人で、きわめて優れた才能をもった人や、私がたいへんすばらしいと思った人は何人もいます。
 愛する能力、悲しむ能力、笑う能力、慈悲をもてる能力。そうした能力、特質は、現代社会においてはあまり尊重されなくなってしまいました。現代のような競争社会においては、そうした特質は、ほとんど用のないものと判断されてしまっているのではないでしょうか。
 池田 まったく博士の言われるとおりです。
 ポーリング・ジュニア博士とも、親と子、教師と学生の間の人間関係のあり方について話しあいました。そのときにも話したのですが、仏法に“四摂法”という“人への接し方”が説かれているのです。
 ブルジョ どういうことが説かれているのですか。
 池田 四つあります。
 第一に「布施」。これは物質的な援助もありますが、思想的、精神的にも応援し、相手の不安を取り除き、勇気をあたえる行為です。
 第二に「愛語」。思いやり、慈悲のある言葉で、対話をすることです。
 第三に「利行」。どうすれば、相手の立場に立てるかを考えて、行動することです。
 第四に「同事」。相手と一緒になって行うことです。
 “四摂法”を行う能力が、現代社会において、ますます大切になってきているのではないでしょうか。
 ブルジョ たしかに、そのとおりです。
 池田 この“四摂法”に対して、ポーリング・ジュニア博士は、精神医学の世界でも、一人一人の患者に対処することが大事である、と前置きされて、第一の「布施」については、“患者の不安を取り除くことが重要である。そして、患者が自己実現のために、新しい価値観、生き方を発見し、身につけることを援助するために、「愛語」や「利行」「同事」が要請されてくる”と言われていました。
 愛情をもって対話するなかから、患者は、よりよい価値観を身につけていくことができる。対話のさいに、患者に自分が相手の立場だったらどうするかを考えて判断してもらうことが「利行」だと言うのです。「同事」では、集団療法(グループ・セラピー)があげられると言っていました。同じような問題をかかえる人をグループにして、体験や問題を語りあってもらう。そのなかから、自分にあった解決法を見いだしてもらうことができると話していました。
 ブルジョ たしかにそうだと思いますね。現実に、集団治療で救われる人はいます。
 私は多くの場合、一時期、集団で生活することが大きな助けになると考えています。
 もっとも、仲間や集団が必要なのは、“心の病”の人々だけではありません。私たちは、みんなそういう支えあいを必要としているのです。
 私は二十年前から、自発的に集まった一つのグループに参加しています。そのグループは、月二回集まって一緒に食事をするのですが、二つだけルールがあります。
 一つは、食事を持参する。全員の食事を用意する人はいません。みんなが持ちあわせたものを分けあって食べる。
 そして、二つ目のルールは、そこで自分の関心事を発表し、議論する。でも、その議論では、いつもメンバーの意見が一致するとはかぎりません。ある人が他の人の意見を批判することもあります。私は、これは精神衛生上よいことだと思います。また、いろいろな面で、メンバーはおたがいに助けあっています。
 池田 忙しい現代人は、健康な人も心のふれあいが大切ですね。じつは、創価学会にも、同じような場があるんです。“座談会”と呼んでいます。身近な地域の人、友人が集まってきて、対話をする。そこで、議論したり、仏法を学びあったり、体験を発表したりします。多くの人々との“心の癒し”の場となっております。ただ、食事は持参しませんが。(笑い)
3  “心の病”に苦しむ人の人権をどう守るか
 ブルジョ あと若干、精神疾患について、考えていることを話していいでしょうか。
 池田 どうぞ、読者のためにも、十分に論を展開してください。
 ブルジョ 要するに、この数年間、医師や研究者がよく指摘していることなのですが、他の病気が社会的な地位を認められているのに対して、私たちは、精神疾患に、病気としてまだ十分な社会的地位をあたえていないということです。
 日本の状況はどうですか。
 池田 日本でも、まだ、“身体の病気”と比較して、“心の病気”についての認識は低いようです。
 ブルジョ たとえば、企業のトップが心臓を患ったときは、その人が懸命に働いたからそうなったんだというふうに人々は思います。むしろ、敬意を払われるのです。(笑い)
 池田 日本でも同じです。なにしろ、“エコノミック・アニマル”ですから。(笑い)
 ブルジョ 逆に、心の病にかかると、これは屈辱的な状態であるととらえられています。
 池田 残念ながら、日本人のなかにも、同じような風潮があります。
 ブルジョ 心の病に苦しむ人たちの権利を代弁する声もほとんどないのです。それに対する研究も割り当てられません。
 心臓病に対する奇跡的な治療方法のために莫大な金を注ぐのに対して、精神疾患に関しては、ほとんどの患者は社会的に犠牲になってしまうのです。
 池田 そもそも何によって、その人が精神疾患であると決められるのか、その基準は曖昧なように思えてなりませんが。
 ブルジョ おっしゃるとおりです。教育に関心をもつ者として、述べておきたいことがあります。それは「カメレオン効果」と言われる原理のことです。
 たとえば、ある学生のことを「頭がいい」と思う。そうすると、その学生は本当に優秀になる。教師の期待に応えるのです。
 池田 きわめて重要な教育心理学です。人間は決めつけてはいけません。仏法でも「一念三千」と説きます。すべて、こちらの一念で決まります。
 ブルジョ また、「健常な人」のイメージは、その社会、文明ごとに異なります。健康も、肉体的健康、精神的健康と両面ありますが、その社会における通常の状態、理想の状態の概念に合わない人が、「病気」とされるわけです。
 池田 そのとおりでしょう。正常と異常の基準は、あるようで明確でないと言えるかもしれません。
 ブルジョ 正常・異常について申し上げると、人間の通常の安定した状態が狂ってしまった場合、これまでは遺伝子工学によって、もとに戻せるとされてきました。しかし、それは不可能であるとする強力な議論が、近年、起こっています。つまり、これまで「異常」とされた状態も、本当は「正常」かもしれないと考えるのです。
 「正常」と「異常」の定義は、科学的にも、社会的にも、変わってきました。これは北米の場合ですが、ヨーロッパ諸国も同じだと思います。
 池田 仏法でも、十界互具と言って、善の生命にも悪が、悪の生命にも善がそなわる実相を説いています。
 ブルジョ 人間の精神は、まだ科学的に解明されていません。研究が進めば、心の病を治す手だても見つかるでしょう。
 池田 多くの人に希望をあたえる言葉です。
 ともあれ、病気による社会的差別、経済的差別をなくしていかねばなりません。高齢者や障がい者、ハンディキャップをもった人、あるいは人種的少数者や社会的弱者、女性や子どもたち、そして、“身体の病”とともに“心の病”に苦しむ人々の人権が、公正に守られる社会をつくっていかなければなりません。
 そのような人権社会の創出こそ、現代社会の方向性でなければなりません。
 ブルジョ 今後、心の病気をもった人々の権利やそれらの人々が社会でどう扱われていくかの問題は、おそらく生命倫理のきわめて重要な分野になっていくことは間違いないと思います。

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