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日蓮大聖人・池田大作

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5 ストレスを超える法  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

前後
1  “母子一体”でガンと闘った女子学生
 ブルジョ 会長とシマー博士との対話の中に「ガン告知」をめぐる課題がありましたが、私も発言させていただいてよろしいでしょうか。(笑い)
 池田 どうぞ、どうぞ。生命倫理の権威のご意見も聞かないと、不公平ですから。(笑い)
 ブルジョ じつは、私が、修士課程を担当した女子学生の体験です。当時、その女子学生は二十七歳で、五歳ぐらいの子どもがいました。
 ある日、彼女が私のオフィスにやってきました。そして、「私はたいへんなことを言わなければならないのです」と、みずからがガンにかかっていることを告白し始めたのです。
 池田 教え子がガンであることを聞かれて、博士もたいへんに心を痛められたことでしょう。
 ブルジョ 私も、真剣に彼女の話に耳をかたむけました。数カ月前から胸に腫瘍があって、診察を受けるとガンであることが判り、医師から「すぐに入院して、手術をしなければならない」と言われたそうです。ところが、彼女は、入院する前に、どうしてもしておかなければならないことがある、と医師に頼んだのです。
 池田 まだ若いし、ショックもあったでしょうが、彼女が、手術前にしておきたいこととは何だったのでしょうか。
 ブルジョ 以前からその週末、両親を訪ねる予定があり、そこで、父親のコンピューターを借りて、修士論文のアウトラインを仕上げるつもりでした。
 実際、その翌週の月曜に、彼女は、そのアウトラインを、私に提出してくれました。そして、私に向かって、「今日の午後から入院します」と言ったのです。
 池田 その女性は、医師から“告知”を受けて、自分がガンであることを知り、自分のなすべきことを理性的に判断していますね。彼女の場合は、ガン“告知”のいい面が働いたということでしょうか。
 ブルジョ そのとおりです。入院前に若干の時間が必要だったのです。以前からの予定どおりに行動することで、いったんガン宣告に対する拒絶反応を示し、そのうえで、この新しい事態にどう対処するか、その結末はどうかを考える時間が、その週末だったのです。その後、彼女と再会する機会があり、さまざまな話を聞きました。
 母(彼女)が入院することを聞かされた小さな娘は、悲しみにおちいったそうです。
 池田 当然のことでしょう。一時的にしても、母親と別れなければならないのですから。病気の内容の説明も、話し方もむずかしかったでしょうね。
 ブルジョ ええ、しかし、しばらく経つと、その娘は、「お母さんは、私に本当にすべてのことを話してくれたの」と聞いたそうです。彼女は「全部話したよ」と答えました。
 彼女が、娘を入浴させているときだったそうです。自分が悪い病気に侵されていることも話して、「もしかしたら、お母さんは死ぬかもしれない」とまで言ってしまったそうです。ところが、不思議なことに、正直に真実を話すことによって、子どもが逆に安心したというのです。
 池田 五歳ぐらいですと、お母さんの悩みはわかっても、死ということについて、まだ、その意味がわからなかったかもしれませんね。とはいえ、娘さんは、母が自分を一人の人格として対応してくれたことに心から安心したのでしょう。
 母の子への深い愛情が、確かな“信頼の絆”を結ぶ証ですね。
 ブルジョ 彼女は、その後、二、三年の間、いろいろな治療を受けて、再発もあったりしながら、ガンと闘い続けました。
 そうしたなかで、彼女はデッサンが得意だったこともあって、絵を使い、物語ふうに描くことで、子どもにみずからの病気の状況を説明していったそうです。
 池田 すばらしい発想です。母の愛情が、知恵となって発揮されています。
 むずかしい言葉や理屈で病状を説明しても、子どもにはわからないし、自分の気持ちも伝えられませんから……。
 ブルジョ 彼女は、亡くなる二、三カ月前に子どもにどのようにガンを説明したかを、絵本にして出版し、私にも一冊、贈呈してくれました。本の題名は、『心の中の竜(ドラゴン)』です。要するに、ガンを、自分の中に巣くう「モンスター(怪獣)」にたとえ、それと戦う内なる力として竜が登場するのです。
 子どもの夢の中に恐ろしい怪獣が出てきて、子どもは泣きながら、お母さんを呼ぶのです。ある夜、カッコいい竜が現れて、その怪獣と戦い、勝つのです。そして、子どもに、「君の心の中に入ってあげよう。もう怖がらなくていいよ。怪獣がまた現れても、私が一緒にいれば、奴を打ち負かす力があるのだから」と言うのです。そうした内容でした。
 池田 みごとな“母子一体”の闘いです。彼女は、その絵を描くことによって、みずからも“ガン”と闘う生命力をわき起こしたことでしょう。同時に、闘病の姿を通し、人生の苦難を乗り越える道を、娘さんに身をもって示したのではないでしょうか。
 仏典(「ダンマパダ」)に「つとめ励むのは不死の境地である。(中略)つとめ励む人々は死ぬことが無い」(前掲『ブッダの真理のことば 感興のことば』)とあります。母が子とともに体験する「病苦」「死苦」との闘い――そこにこそ、「不死の境地」が輝いています。
 その母子一体の闘いは、娘の生命に“因”として刻印され、いかなる苦難にあっても、断じて乗り越えゆく、生涯にわたる“果報”を生んでいきます。
 ブルジョ じつは、彼女は発病する二、三年前に仏法に帰依するようになっていたのです。
 本の出版記念パーティーが開かれたとき、彼女に続いて、その子どもがマイクをとり、参加者の方々に、「皆さん、母の本の出版パーティーのために参加してくださって、ありがとう」と立派なあいさつをしました。
 この当時は、七歳か八歳にはなっていたと思います。
2  日常生活のストレス度と健康の関係
 池田 一幅の名画のごとき、母と娘の勝利の宣言です。その年齢になると、「死」の意味をはっきりと自覚すると言われていますね。その娘さんの場合は、母とともに「死」と直面したわけですから、同年齢の子どものだれよりも死の深い意味を体得し、肉化したことでしょう。小さい子どもにとって、母の死は、人生でもっとも大きな“ストレス”となります。その“ストレス”をどのように乗り越えるかによって、人生がまったく違ったものになってくると思われます。
 そこで、ストレスと言えば、モントリオール大学に、有名なハンス・セリエ博士が在籍されていましたね。セリエ博士は実験医学研究所所長として活躍され、医学の分野に初めて“ストレス”の概念を打ち立てた人ですね。
 ブルジョ セリエとその助手たちが行ったストレスの研究は、たいへんに興味深いものです。またセリエがストレスの概念を明確にしたことで、ストレス病は、心因性による現代病として考えられるようになりました。
 池田 人間にストレスをあたえるものとしては、暑さや寒さなどの自然環境や、不安や恐怖など心理的なもの、また、社会生活上のトラブルもあります。現代においては心理的、社会的ストレスが重要になってきています。
 アメリカのホームズ博士らによって、興味深いデータが発表されています。
 日常生活のストレス度を点数化しているのですが、大人にとって、配偶者の死を一〇〇とすると、
 離婚が七三、別れが六五、自分の怪我や病気が五三となっています。結婚もストレスになるようで、五〇がつけられています(笑い)。また、職場関係では、失業が四七、職業上の方針の変更が三六、責任の変化が二九などです。
 ちなみに過去一年間に三〇〇以上のストレスを受けた人の七九パーセントが、何らかの病気を訴えたようです。
 ブルジョ 心因性の病気と診断された場合、そこには、二重性が認められます。つまり、人間の身体が心に影響をおよぼすとともに、心の状態も身体に影響をおよぼすということです。
 池田 仏法でも、“身体”と“心”は相互に作用しあうととらえています。
 ブルジョ たとえば、ストレスが長く続きますと、ガン発生の引き金になります。一方、ガンは、患者にストレスをあたえ、不安やうつ状態を引き起こすのです。
 池田 ストレスで、糖尿病や高血圧が悪化したとか、喘息発作が起きたとかも、よく聞きますが。
 ブルジョ 人間は生きていくうえでいつもリスクにつきまとわれていて、つねに挑戦を強いられています。生きていくこと自体、「ストレスがいっぱい」なのです。
 池田 そのことはすでに仏典にも説かれています。
 法華経の中には、「三界は安きこと無し 猶お火宅の如し 衆苦は充満して 甚だ怖畏す可し 常に生老 病死の憂患有り」(法華経一九一㌻)とあります。
 つまり、この世は、ちょうど焼けている家のような状態であり、生老病死の苦が充満しているところであると言うのです。ここで言う「火」とは、怒り
 や不安、畏怖、貪欲などの煩悩をさします。
 ブルジョ 私は、現代は、とくに、人間は新しい種類の「災厄」を背負うようになったと考えています。
 たとえば、現代的なストレスの原因として、世界的な不況があります。
 世界的に見て雇用水準が低下しており、若者たちが社会人として人生を生きる機会が失われてきつつあるように思えます。企業側はリストラと称して、五十歳を超える社員を労働人口から外し、「心の健康」にどういう悪影響をもたらすかなど一切考慮することなく、彼らに退職を迫るのです。
 経済改革を進める多くの国々で、自殺、暴力行為の発生率が高い理由の一つが、ここにあるのではないでしょうか。私が住むカナダ・ケベック州もその例にもれず、そのような事実を私は数多く知っています。
3  ストレスは“人生のスパイス”
 池田 博士もよくご存じのように、現在、日本を含めて、アジアの経済が危機に直面しています。また不安定な社会状況にあって、日本でも、中高年の自殺、青少年の暴力行為が目立ってきています。
 ブルジョ そのような社会状況のなかで、たとえば、“すべての病からあなたを救います”というようなふれ込みの治療法が繁盛しているのです。ストレスに満ちた現実を生きぬく力をあたえるのではなくて、逆にそのなかに閉じ込めてしまうような、あるいはいまだ客観的に証明されていないようなタイプの心理療法の流行は、絶対に許すわけにはいきません。
 むろん、ストレスをコントロールするのに役立ち、建設的な方向へと導く心理療法があることは、はっきりと認めたうえで言っていることですが……。
 池田 私もまったく同感です。
 “本物”と“にせ物”を見抜く知恵をもたなければなりません。断じて、“にせ物”にひっかかってはなりません。言葉巧みな宣伝に乗せられては、不幸におちいってしまいます。
 博士が警告されているとおり、みずからストレスと闘う力を強化するのではなく、怪しげな療法などによって、苦しみから安易にのがれようとさせるからです。苦悩は逃げようとすればするほど、ますます増していくものです。
 ブルジョ そのとおりです。セリエの重要な業績は、ストレスのプラス面を指摘したことです。彼は、「ストレスはそれ自体、病気でもないし、必ずしも病気の原因になるというわけでもない」と言っています。
 ストレスのプラス面は、自分自身を外部の脅威から守るために必要な活力を結集し、創造力を発揮する点にあります。
 池田 セリエ博士は、ストレスを“人生のスパイス”とも言っておりますね。ストレスを楽しむ悠々たる境涯というか……。
 たしかに、一時的には、酒を飲んだり、カラオケに行ったり、さまざまなレクリエーションも効果的でしょう。しかし、根本的にはストレスをスパイスにできるように生命力を強化し、創造力を発揮しゆく人生を開拓することです。
 ブルジョ 人間は、公正と平和がいきわたったユートピアに住んでいるわけではありません。現実社会は不正と不和、争いに満ちています。その厳しい現実を生きぬくことを学ぶ必要があるのです。
 池田 私が対談した著名な生物学者のルネ・デュボス博士は、「心配のない世界でストレスもひずみもない生活を想像するのは心楽しいことかもしれないが、これは怠けものの夢にすぎない」と述べています。
 さらに、「危険のまっただなかで伸びていくことこそ、魂の法則であるから、それが人類の宿命なのである」(『健康という幻想』田多井吉之介訳、紀伊國屋書店)と続けています。博士の考えとも一致します。
 危険のまっただなかで、魂を鍛え、人格の陶冶のために戦いぬくことこそ、ストレスへの最大の対処法ですね。
 ブルジョ われわれの状態が不条理であっても、戦争を平和に変えていくための努力を重ねていくことはできるし、むしろ、そうすべきです。公正と平和は、自由、平等、友愛と同じように、決して完全なかたちで達成されることはありませんが、その理想に近づくために少しずつでも、毎日、歩みを進めることに人生の意義はあると思います。
 池田 セリエ博士は、みずからのガンと闘った経験をもとに、次のようなことを勧めています。
 第一に、恨みや怒りはストレス耐性を低下させるから、尊重、思いやりに変えること、第二に、人生の目標をもつこと、第三に、他者に尽くすことが、そのまま自分にもプラスになるような生き方をすることをあげています。
 このような生き方こそ、仏法で説く菩薩道です。菩薩は、人類の平和と公正な社会建設のために、人生の目標を定めて、生きぬきます。他者への怒りを慈愛に変え、貪欲を公正な知恵でコントロールし、ストレスを生命力強化のスパイスとして、この人生を“遊楽”していくのです。仏法では、このような境涯を“衆生所遊楽”と説いています。
 ブルジョ 公正と平和の実現のための日々の建設作業には、活力、自己コントロール、創造力、英知、忍耐力が欠かせません。
 繰り返しになりますが、戦争と不公正を完全に避けることはおそらく不可能でしょう。しかし、現状を変えることはできるし、われわれにはそうする責任があります。少なくとも、それを変えようとする努力を続ける責任があります。
 池田 全面的に賛同します。
 ブルジョ SGIの皆さんおよび会長ご自身、長年にわたって国連の諸機関と密接に協力されてきましたが、SGIのリーダーとして会長は、ユネスコ憲章の前文に述べられた、「戦争は人間の心の中に生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かねばならない」との言葉に賛同され、支持されているとうかがっております。
 池田 そのとおりです。いかなる悪条件にもゆるがない確たる内面世界――心の中に“平和の砦”が築かれてこそ、“恒久平和”の道を開きうるのです。
 それが現今、国連で主張されている「人間の安全保障」を可能にする王道である、と私は考えています。

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