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日蓮大聖人・池田大作

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3 環境との調和  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

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1  病気の起こる六つの原因
 池田 さて、仏法では、食生活や小児マヒなどのウイルスや心の病、遺伝の問題まで含めて、中国の天台大師が、人間の病気の起こる原因を六つの角度から総合的に述べています。
2  第一に、「四大が不順で、調和しないゆえに病む」。仏法では、「地・水・火・風」の「四大」が仮に和合し、人間の身体を構成していると考えます。“四大仮和合”と言います。四大とは、性質の異なる四種類の要素をさします。
 この四大の調和が乱れることによって、病気を引き起こすというのです。たとえば、気候の不順などの外界の変化に適応できず、四大で構成されている身体の調和が乱れることです。
 第二に、「飲食の不節制のゆえに病む」。食生活の乱れのことです。
 第三に、「座禅が調わないゆえに病む」。つまり、生活のリズムの乱れ。睡眠不足、運動不足も入るで
 しょう。
 第四に、「鬼が便りを得るゆえに病む」。「鬼」とは、現代的に言えば、外界から侵入してくる細菌やウイルス、さらに精神的なストレスも含まれます。
 第五に、「魔の所為」。生命に内在する衝動や、欲望などが心身の正常な働きを混乱させることです。仏法では、「心の病」の主因を瞋恚(怒り)や貪欲(貪り)などの煩悩に求めております。
 第六に「業の起こるがゆえに病む」。仏法やインドの宗教では、生命は、過去・現在・未来へと「輪廻」していくととらえています。その「輪廻」の主体が「業」のエネルギーです。これは、“潜在的生命エネルギー”と言えましょう。
 したがって、肉体的にも精神的にも、遺伝的なものは、過去からの業の反映であるととらえるのです。
 その“生命エネルギー”の歪みのなかに、病気を引き起こす要因があるという視点です。この視点は、仏法独自のものと言えましょう。
 ブルジョ 私は仏法について、本当にわずかな知識しかもっていません。教えていただいて感謝します。
3  「依正不二」と、環境との調和・共存
 池田 偉大な人は謙虚です。博士が仏法についても、深い見識をお持ちであることはよく存じております。
 さて天台の立てた病気の要因の分析のうちで、ここでは「四大不順」として表されている生体と環境との関連性について、論を深めたいと思います。
 日蓮大聖人は環境と人間生命との関係性について、「夫十方は依報なり・衆生は正報なり譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし・身なくば影なし正報なくば依報なし・又正報をば依報をもつて此れをつく」と述べています。つまり、環境(依報)と生命主体(正報)は相互に影響しあいつつも、その基底においては、一体であることを示されているのです。仏法では「依正不二」の法理と呼んでいます。
 ブルジョ なるほど。
 池田 人間の身体は、長い進化のプロセスのなかで、環境への適応を繰り返しながら、「内部環境」を調節する機能を獲得してきました。ところが、今や、現代科学文明で問題化している「環境破壊」は、まさに人間が適応機能をもっていない物質状況にさらされているところに本質があるように思うのです。今や人類は、「依正不二」の法理にのっとって、地球生態系としての環境との調和、共存を創出しなければ、人類のみならず地球上の生物の危機をもたらすと思います。
 このような時にあたり、博士は、地球環境とのダイナミックな調和を維持し、人類が健全な生を享受するためにはどうすべきであるとお考えですか。
 ブルジョ この問題は、将来も、われわれ子孫にとって重要なテーマであり続けるでしょう。環境の悪化は、生態学的にも、また社会、文化、政治的にいっても、人間にとってストレスの原因となり、健康の悪化にもつながります。逆に、環境の改善は、人間生活の質と健康の向上につながると思います。
 私自身、この問題については、自己満足的な楽観論や暗い見通しの悲観論に与するものではありません。むしろ現実的な選択は、その中間にあるのではないかと思います。
 「人間による自然への介入」を可能にした新たな科学技術の進歩は、そのこと自体に脅威が感じられるものの、人々の健康を脅かす自然の「質」の改善に希望をつなぐという意味で、人類にとって新しい経験であり、現代の特徴といえます。「人間による自然への介入」は、希望と脅威の両面をあわせもっていると私は思います。
4  開発には「責任」の意識が不可欠
 池田 科学技術の進歩の一つの究極に、核エネルギーの解放があります。その平和利用の側面においても、多くの深刻な環境汚染が起きております。なかでも、一九八六年に起きた旧ソ連におけるチェルノブイリ原発事故は、直接的な放射能以外にも、水質汚染、農作物の汚染など、周辺各国を巻き込む大事故となりました。
 世界的に大型原子力発電所や核エネルギー施設の建設が行われていますが、環境汚染の可能性は、国家、地球レベルでの危機意識を起こし、多彩な議論が繰り広げられてきました。
 当局や専門家は、根拠のない恐怖心を捨てて、理性的な判断にゆだねるように主張してきたものの、チェルノブイリのような事故が発生しました。この悲劇を最小限度のものにしようと努力はされていますが、広範囲で環境汚染があったことは明白になっています。
 カナダでは、核エネルギーの開発はどのように扱われていますか。
 ブルジョ わが国では、水力発電の資源が豊富で、原子力発電所の建設はごくわずかにとどまっています。が、それでも、事故がまったくないわけではあ
 りません。幸いに、今までのところ、いずれも小さな事故ですんでいますが。
 私は、原子エネルギーに関するさまざまな議論を聞く機会をもちました。しかし目下のところ、それぞれに百パーセントの信頼がおけません。
 核エネルギーの利用には、利点もあるが、リスクも避けられないのは否定できない事実です。
 池田 日本の原発事故では、最近では、動燃の爆発事故が大問題となりました。とくに、事故を組織ぐるみで隠したことは、市民に不信をいだかせ、各方面で批判されました。こうした無責任体質は絶対に許されないことです。大切なのは、エネルギーを運用する責任の明確化と、運営の透明化ではないでしょうか。
 ブルジョ どのような目的で利用するのであれ、厳格な枠組みを設定して、その範囲で利用することを“絶対条件”とすべきです。そうでなければやめるべきです。
 池田 私も、全面的に賛成です。
 ブルジョ 行為に責任をもつということは、危険性が存在することを明確に認識し、それを完全に抑制することが不可能であれば、最小限度に抑えるための適切な手段を講じることです。
 池田 環境問題においては、「責任」の意識こそが非常に大切になってきます。
 ブルジョ そうです。「責任の倫理」については、「世代間の関係」も、その重要な主題の一つであることを付け加えておきます。
 池田 つまり、今の世代の利益のために、将来の世代が苦しむ環境破壊を進めてはならないということですね。
 世代間の関係が話題にあがりましたが、地域間の対立も問題になっています。一九九二年、「国連環境開発会議」がブラジルで開催されましたが、南北間の対立が環境保全に大きな障害となっていますね。
 ブルジョ 原子力発電だけにとどまらず、この数年間の産業開発の進め方には疑念をいだかせるものが目立ってきています。それらを中止したり変更したりするどころか、途上国へ輸出し、相手国の発展のためにという名目で正当化する国際的企業もあります。
 “北”の先進国では厳格化する規制のもとでは、とうてい許可されないような生産方法や技術が、世界経済の論理や企業のリストラのために、“南”へ輸出されて、環境汚染が広がっています。
 池田 たとえば、フィリピン、タイ、マレーシアといった東南アジアの木材輸出国では熱帯雨林の荒廃が問題となっていますが、この原因の一つとして、一九六〇年代に始まったわが国の木材自由化による行き過ぎた森林伐採が大きくかかわっています。
 さらに、今日の汚染は、もはや一国にとどまらず、国境を越えて、地球全体にまで拡大しています。
 たとえば、カナダが接している北極圏では、オゾン層の破壊が問題になっていますね。北極圏のオゾン層の破壊は、地球全体の紫外線の増加につながり、人体や農作物への大きな被害をおよぼします。そのため、オゾン層破壊の原因となっているフロンガスを発する主要な器材を、世界各国が共同歩調をとって製造中止へ向かうようになりました。このことは、限られた国々の対応だけでは、もはや“地球的問題群”を解決しえないことを示しています。
 ブルジョ カナダでは今、オゾン層の破壊による皮膚ガンが問題化してきて、市民の恐怖は高まっています。地球の温暖化とその影響に対する関心も高まっています。だからといって、一般の行動様式はそれほど変わったとは思えません。
 池田 美しい湖と雄大な森林をもち、世界的にすばらしい自然環境でカナダは知られていますが、貴国が“地球的問題群”で果たす国際的な役割については、どのようにお考えですか。
 ブルジョ メディアがこの問題を取り上げ、環境問題を訴える数々の催しによって、環境汚染に関する一般意識はかつてない水準まで高まっています。現状を変えることができるかもしれない可能性が芽生えてきたことはたしかです。
 事実、一九八九年の世論調査によれば、カナダ人にとって、「環境条件の相互作用」が、他の問題をぬいて最大の関心事であるという結果が出ました。
5  「持続的開発」のための“環境倫理”
 池田 日本でも、環境問題への意識は少しずつですが高まってきています。とくに、ゴミ処理から排出される化学物質による人体の影響については、深く興味がもたれており、ある調査によると、「環境ホルモン」という言葉を八割の人が知っているという結果が出ました。このほかにも、一九九七年、京都で「『気候変動枠組み条約』第三回締約国会議」が開かれたこともあって、二酸化炭素の排出規制の問題などグローバルな話題にも、意識が高まりつつあります。これなども、メディアが取り上げた影響が大きいのでしょう。
 ところで、現今、国連をはじめ、多くの環境関係者の間でのキーワードとして“持続的開発”があげられておりますね。
 ブルジョ 一九八七年、ノルウェーのブルントラント首相が主宰する「環境と開発に関する世界委員会」が、国連総会に対して『われら共有の未来』という、まさに当を得た題名の報告書を提出しました。開発の支援者と環境保護を支援する人たちとの間の調停を試みた報告者は、総体的な、全地球的な視野に立った“妥協案”として「持続的開発」という概念を提案しました。これは、一九七二年のストックホルムで開かれた国連人間環境会議で出された『たった一つの地球(WeOnly*Have*Earth)』(バーバラ・ウォードとルネ・デュボスの共著、一九七二年)に出てくるもので、とくに目新しいものではありませんでした。地球の有限な資源を使いきってしまわないように、つねに再生が可能なように用いていくべきであるという指摘です。いずれにせよ、ブルントラント委員会は、このような指向性を広める役割を担うことになったわけです。
 その役割には現世代と次世代の人たちが連帯して公平に等しくその義務を果たしていく必要があることをはっきりと訴えること、現在、武器に投資されている金額(年間十億ドル以上)を「持続的開発」のために転用することを提案することで、固い決意でそれを実行すれば、目的の実現が可能であることを明示することが含まれていて、さらに開発の要望と環境の質の保護を「持続的に」調和させる以外に、未来は開けないことを強く訴えて、それが国々と次世代間の連帯によってのみ可能であることを強調することでした。
 池田 「持続的開発」のための人間自身の変革の機軸となる“環境倫理”について、私は次のように考えております。
 まず第一に、“環境倫理”の大前提として、“生命の尊厳”の理念から、非暴力・平和の倫理を実践することです。非暴力の世界を創出する努力のなかから、戦争や武器に投入している巨大な資金を環境保全にまわすことが可能になります。
 そのうえで第二に、あくまでも地球環境とは「有限」なもので、その「有限」な環境のもとで生きていくための倫理が必要になると思います。先進諸国に見られるような貪欲に突き動かされた「浪費型」のライフスタイルを、欲望をコントロールする生き方へと転換していくことです。
 第三には、現在生きている人間のことだけではなく、将来の世代を含めた行動を考える倫理でなくてはならないことです。たとえば、経済そのもののあり方も、「循環型経済」へと組み替えなければ、将来の世代までも含めた環境保全とはなりません。
 ブルジョ 「持続可能な開発」の実践は、どのような倫理に基づくべきでしょうか。
 まず、われわれの視点と行動様式の大転換が要求されます。現実の一時点だけの断面や傾向性をとらえるこれまでの思考形式をやめて、ものごとを体系的にとらえるようにすべきです。それぞれの仕事や責任の差異を尊重しつつ、その上で連帯的行動をとることを学ばなくてはなりません。
 池田 どのような立場の異なる人たちとも、グローバルな視点で連帯するというのは、私たちSGIのめざすべき姿でもあります。
 ブルジョ 断面的な切り口で思考することで、科学は進歩してきましたが、これから先は、現実の複雑な様相を把握する思考方法が要求されます。そうしてこそ、将来の科学の進歩も約束されます。
 先ほど、会長が指摘されたように、資源の限界をわきまえる必要があります。生態系を損なわないように、資源の利用を限ることです。そのためには、熟慮熟考を重ねたうえで、利用できる資源の限度を明確に定めることです。
 われわれの選択は、他の生物や環境や自然との「共生」しかありません。各自が異なる責任を分担し、協力して相乗効果を実現できるのがわれわれの世界です。
 池田 他の生物との“共生”から四番目の環境倫理として、人間だけではなく、動植物などの生き物の“生存権”を認めるような倫理が大切になってきます。
 そして、人間と環境との「共生」を説く哲学・思想を自己自身のものとする環境教育が、必要となってくるのではないかと思います。
 ブルジョ 「環境教育」はわれわれにとって共通の関心事であります。責任感を倫理の次元に昇華させるのは教育の仕事であり、それを実現しなければ「責任をもって」現代を次代へと橋渡しすることはできません。
 この点については、会長にも、ご同意いただけるものと確信しています。技術開発の抑制は、短期的にも長期的にも、倫理を別にして考えることはできませんし、教育から切り離して論じることもできません。

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