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日蓮大聖人・池田大作

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1 健康の本質について  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

前後
2  環境に働きかける能動性
 ブルジョ 私が接した難病患者にも、その人自身は
 決して病気であることを認めず、病気の現実にみごとに“適応”した例があります。これは、彼らにとって“病気”ではないのです。
 池田 『健康という幻想』の著者でもあり、私も以前に対談したことのあるルネ・デュボス氏も、健康においては、“環境への適応性”が重要であると述べています。
 その環境への適応性ということに関して言えば、仏法では、生命活動を支え、創造していく力のことを「妙」と表現しています。その「妙」の力には、「蘇生」「具足(円満)」「開」の三つの意義があるとしています。
 「蘇生」は、身体がつねに新しい局面に対する発動性ないし創造性をそなえていることに通じます。「具足」「円満」は、身体全体をダイナミックに調和させるホメオスタシス(恒常性)の働きを示す全体性、統一性をさしています。「開」は、環境に対して開かれているという意味で、生命体は、環境に働きかける能動性をもっているというのです。
 ブルジョ 仏法が人間生命の環境への働きかけを「蘇生」「具足」「開」ととらえていることは、大いにすぐれた表現であると同感します。生命の進化や社会的な変化など、これに類似した表現は見られます。
 安定と動乱がたえず繰り返されて社会と人間の歴史がつくられていくように、健康もいささか似たところがあるように思えます。病気にかかって熱が出るのも、病気を通じて新たな均衡を構築するための闘病の証とも言えます。しかしながら、こうした類似点も、仏法の知見の深さにはとうていおよばないでしょう。
 池田 環境との関連性を論じあってきたわけです
 が、一方、遺伝学では、健康と病気をどのようにとらえているのでしょうか。
 ブルジョ 遺伝学では、病気は個々の生物の「中枢」にあるという、きわめて「内部的な」原因論を主張します。そこに遺伝的な「欠陥」「変異」「障害」があるから病気になるという見方です。
 ここに述べた言葉を裏返せば、そこには「完全なもの」「何かの基準」といった観念を言外に示唆していることがわかります。しかし、ではその「正常」な状態はどのようなものかというと、明確な定義がされたこともありませんし、そうしようとしてもできないことは明らかです。あったとしても統計的なもので、特定の実在する個人を考慮に入れているわけではありません。
 また、理想的な「正常」状態という考え方もありますが、それは非現実的です。そのような説明があるかないかとは関係なく、「正常」状態とは「正しい状態」としか言いようがありません。
 池田 そうした漠然とした「正常」という基準が、悪用されると、人間への差別が助長されることにもなりかねませんね。
 ブルジョ そうです。
 私は現在、変異、身体障がい、遺伝性の病気といった概念の用い方に焦点を当てた研究を行っているところです。遺伝学そのものについての理解不足や、病気と遺伝子、あるいは遺伝子と個人との関連性についての理解不足から、特定住民に対する非難や差別的振る舞いなどを生む危険性があります。
 健康と病気、身体障がいと無力、変則と異常、さらにその中間にあるさまざまな状態についての理解を深めることが、きわめて重要となります。

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