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日蓮大聖人・池田大作

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1 健康の本質について  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

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1  健康は“均衡状態”の連鎖活動
 池田 ここからは、生死論、心の病、生命倫理の問題に入っていきたいと思います。
 ブルジョ 現代の諸問題を考えるうえで、人間の「生と死」は中心的課題の一つだと考えます。この問題について、東西の文明は、それぞれの意見をもっていますが、合意できる面があると思います。
 池田 仏法とは「生命の法」であり、ゆえに「健康」「長寿」という生命の課題は、そのまま仏法の根本課題なのです。
 現に釈尊は、医学的観点を大切にしております。仏典には、当時の世界の最先端であったインド医学(アーユル・ヴェーダ医学)のエッセンスが取り入れられています。後には、仏法のそうした英知が結集されて、仏法医学という分野も生まれました。仏典では釈尊のことを「大医王」と呼んでいます。
 ブルジョ 興味深いですね。
 池田 まず、一般的な健康の定義とは、どのようなものかということについて博士にお聞きしたいのですが。
 ブルジョ “病気をした後では、健康であることがなんとすばらしいことかと思えてくる”と、モンテーニュが書いています。
 池田 健康を失って初めて健康のすばらしさを実感する――だれでも経験することですね。
 ブルジョ 医学的な生命観からすれば、「健康とは病状がないこと」と定義されています。われわれは生命が脅威にさらされて初めて生命の価値を自覚するように、健康が害されそうになって初めて健康のありがたさを知ります。それは、あたかも、日ごろは呼吸という動作を意識しないのに、周囲の空気が希薄になったり、呼吸器官に障害が生じると呼吸できていることが意識にのぼるようなものです。
 カントが次のように言っています。「自分が今健康であると感じることはできる。つまり、生命状態が健全であるという気分を、自分が今味わっていると自分が判断することはできる。ところが、果たして本当に自分が健康であるかどうかについては自分で知ることはできない」と。医師の科学的立場からの客観的診断と、患者の実感と隔たりがあるのも、このあたりに大きな原因があるようです。
 生命の定義がむずかしいのと同じように、健康の定義もまたむずかしいのです。
 池田 そのとおりです。それゆえに、自覚がないままに病状が進んで手遅れになる場合もありますね。それでは、博士ご自身の健康観をお聞かせください。
 ブルジョ 本質的には、どこにも病気がないのが健康である、とは断定できません。むしろ、健康とは、崩れやすい均衡状態と、その均衡状態をいつも
 確立しておこうとする恒常的なダイナミズムとの間の緊張状態であるといえます。
 人間の歩行を例にとれば、一方の足を前に出すときは身体のバランスを崩すという危険性があるわけですが、もう一方の足が同様な危険性を経験する前に、前方の足が均衡状態を再度確立するように働くのです。このようにして、均衡が崩れそうになるとそれをもち直そうとする連鎖活動が、健康なのではないでしょうか。
 池田 なるほど。健康を決して静的な状態ではなく、動的にとらえていることに共感します。インドの古典医学書(「チャラカ・サンヒター」)には「無病はこれ善業、利達、愛欲、解脱の根本なり」とあり、無病であることが人生にとって根本であると述べています。しかし、ここでいう「無病」とはたんに病気がないという意味ではありません。つまり、人間の健康は生理的検査の異常のみで判断されるべきものではなく、人間生命の全体観に立つもの、すなわち、身体だけではなく、精神を含めた概念であると思われます。
 WHO(世界保健機関)の憲章にも“健康とは、完全な肉体的、精神的および社会的に良い状態であって、たんに病気あるいは病弱でないことだけではない”とうたわれ、健康の概念が身体に限られるものではなく、精神的ないし社会的なあり方にまでおよんでいることを示しています。
 このように、健康の概念を人間存在の全体にまで拡大することについては、どうでしょうか。
 ブルジョ 健康を、生命力の充実や、幸福の実現という理想に結びつける立場があることは理解できます。WHOに見られるような定義はあらゆるところで受け入れられるようになりましたが、私にとっては、ややナイーブと言わざるをえません。その点、『ブリタニカ小百科事典』の中で、ジョルジョ・カンギレムが示した定義は現実的です。「人間においては、健康とは、肉体的に、情緒的に、精神的に、社会的に、環境に対応していく持続能力である」と。この定義は、私が述べた、努力と緊張のダイナミズムを織り込んでいます。また、健康は、たんに安定した状態を言うのではないことも暗示しています。
 池田 日蓮大聖人は「三界之相とは生老病死なり」と示されています。つまり、この現象界の生き物はことごとく生老病死を変転しゆくもので、疾病も人生のなかの一つの相であることを意味しています。したがって、病気そのものは必ずしも人生の敗北を意味するものではなく、むしろ、それとの対決を通して、新たな生命の充実を招来し、人生勝利の凱歌をあげることも可能なのです。ここには、生命のダイナミズムが示されています。博士の言われる“均衡状態”をつねにつくり出していこうとするダイナミズムです。
 また、日蓮大聖人は「病によりて道心はをこり候なり」とも述べられています。病気を患うことによって、人間は人生の意味を洞察し、生命の尊厳性を学び、いちだんと充実した人生を開拓できるという意味です。病気を克服するプロセスそのものが、心身を鍛え、より幅の広い“均衡状態”をつくり出していくのであり、そこに健康が輝いているのではないでしょうか。
2  環境に働きかける能動性
 ブルジョ 私が接した難病患者にも、その人自身は
 決して病気であることを認めず、病気の現実にみごとに“適応”した例があります。これは、彼らにとって“病気”ではないのです。
 池田 『健康という幻想』の著者でもあり、私も以前に対談したことのあるルネ・デュボス氏も、健康においては、“環境への適応性”が重要であると述べています。
 その環境への適応性ということに関して言えば、仏法では、生命活動を支え、創造していく力のことを「妙」と表現しています。その「妙」の力には、「蘇生」「具足(円満)」「開」の三つの意義があるとしています。
 「蘇生」は、身体がつねに新しい局面に対する発動性ないし創造性をそなえていることに通じます。「具足」「円満」は、身体全体をダイナミックに調和させるホメオスタシス(恒常性)の働きを示す全体性、統一性をさしています。「開」は、環境に対して開かれているという意味で、生命体は、環境に働きかける能動性をもっているというのです。
 ブルジョ 仏法が人間生命の環境への働きかけを「蘇生」「具足」「開」ととらえていることは、大いにすぐれた表現であると同感します。生命の進化や社会的な変化など、これに類似した表現は見られます。
 安定と動乱がたえず繰り返されて社会と人間の歴史がつくられていくように、健康もいささか似たところがあるように思えます。病気にかかって熱が出るのも、病気を通じて新たな均衡を構築するための闘病の証とも言えます。しかしながら、こうした類似点も、仏法の知見の深さにはとうていおよばないでしょう。
 池田 環境との関連性を論じあってきたわけです
 が、一方、遺伝学では、健康と病気をどのようにとらえているのでしょうか。
 ブルジョ 遺伝学では、病気は個々の生物の「中枢」にあるという、きわめて「内部的な」原因論を主張します。そこに遺伝的な「欠陥」「変異」「障害」があるから病気になるという見方です。
 ここに述べた言葉を裏返せば、そこには「完全なもの」「何かの基準」といった観念を言外に示唆していることがわかります。しかし、ではその「正常」な状態はどのようなものかというと、明確な定義がされたこともありませんし、そうしようとしてもできないことは明らかです。あったとしても統計的なもので、特定の実在する個人を考慮に入れているわけではありません。
 また、理想的な「正常」状態という考え方もありますが、それは非現実的です。そのような説明があるかないかとは関係なく、「正常」状態とは「正しい状態」としか言いようがありません。
 池田 そうした漠然とした「正常」という基準が、悪用されると、人間への差別が助長されることにもなりかねませんね。
 ブルジョ そうです。
 私は現在、変異、身体障がい、遺伝性の病気といった概念の用い方に焦点を当てた研究を行っているところです。遺伝学そのものについての理解不足や、病気と遺伝子、あるいは遺伝子と個人との関連性についての理解不足から、特定住民に対する非難や差別的振る舞いなどを生む危険性があります。
 健康と病気、身体障がいと無力、変則と異常、さらにその中間にあるさまざまな状態についての理解を深めることが、きわめて重要となります。

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