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日蓮大聖人・池田大作

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5 エイズと人権  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

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1  意図的につくられたイメージによる偏見
 池田 エイズがあたえる“脅威”は、その病理学的な性質もさることながら、人間の倫理観や人権とも深くかかわってくるものです。
 そこで、生命倫理の専門家であるブルジョ博士にも加わっていただいて、エイズと「人権問題」一般について語りあいたいと思います。
 ブルジョ よろしくお願いします。おっしゃるとおり、エイズは重大な人権や倫理の問題を提起し、現代世界における普遍的な討議課題となっております。
 池田 エイズ問題には、感染者を支援していく社会、すなわち「人権社会」を築くことが不可欠です。知識の普及、有効な治療法の研究、開発とともに、HIV感染者の人権を確立しなければなりません。そして、人権の問題とは、根本的には、「人間の尊厳」の確立にあると、私は考えている一人です。
 そのためには、まず、HIV感染者に対する「偏見」や「差別」の壁を打ち破る必要がありますね。
 ブルジョ エイズをもつ人たちが非難や差別の犠牲になるのは、この病そのものの性質にもよりますが、それよりも、この病についての根拠のない伝聞やつくられたイメージが原因である場合が多いようです。
 今、この病そのものの性質、と言ったのは、それが必然的に「死にいたる病」であり、「生への逆行は不可能である」と考えられていたからです。現在もなお同じ状況だと言えます。病と死を避け、あるいは少なくともそれを遅らせようと、さまざまな国で、いろいろな方法で努力し、それが不可能であるとわかったとき、その現実を隠します。しかしエイズ患者は、感染者より病気の兆候が目に見えて表面化しているという点で、“集団的非難”(と私は名づける)の対象にされます。その意味で彼らは犠牲者です。
 また、HIV感染が偶然の機会による場合が多く、潜伏期間も長く、無症状であるという特異性のため、知らずに感染していたというケースが多いのもエイズの性質であり、これが人々に恐怖感を植えつけるものとなっています。
 しかし、近年のエイズ治療の進歩のおかげで、エイズと闘う人たちも希望をもてるようになりました。最近、モントリオールで出版された本は、『まだ死の宣告を受けたわけではない』と題されています。
 池田 治療法が進展してきたとはいえ、まだまだ、エイズは、きわめて大きな「病苦」「死苦」をもたらす病気と言わざるをえません。だからこそ、患者に希望をあたえる光明を見いだそうとする努力は崇高です。
 ブルジョ この病への偏見は、意図的につくられたイメージによるところが大きいと思います。
 感染者たちは、エイズという病のうえに、「社会的差別」によって二重にわたって、犠牲者となっているのです。
 池田 正確な知識の普及が急務ですね。このことは、病気の問題だけでなく、宗教や思想、人権に対する「偏見」においても同様です。その意味でも、お二人の世界的権威との、この対談は重要です。
 ブルジョ エイズへの「差別」は、もともと社会に潜在している「偏見」や「差別」が別の形をもって現れたものであるとも言えます。たとえば、この病気は移民、とくに黒人の移民によって伝搬されたとするものや、一部の人にとっては不自然で忌むべき性行為の結果であるといった“否定的なイメージ”は、もともと社会にあった「人種差別」「同性愛に対する偏見」が噴き出たものです。
 われわれがエイズウイルスに感染した人に対して、一般の病人に対して共通にいだく同情心がもてない一部の理由がここにあります。嫌悪感をいだく一部の理由も、これで説明できますが、それですべてが説明できるわけではありません。
 池田 日本では、医療関係者までが、「差別」意識からHIV感染者の“治療拒否”を行うところが多いのではないかという報道もあります。
 シマー HIVに感染した人たちとエイズ患者に対する態度は、嫌悪、恐怖から、同情、連帯感とかなりの差があります。同じことが患者を治療しなければならない、あるいは患者と接触しなければならない医療関係の専門家、医師、歯科医、外科医についてもいえます。医師も人の子ですから、みずからの感情や利害を優先する人もいるでしょう。
 なかには、自分自身や家族が感染しないかという不安をいだいたり、患者のなかにHIV感染者がいると他の患者が減ってしまう、と恐れる人もいます。同性愛者や薬物常用者と接することを恐れ、嫌悪する人もいます。ですから、そのようなケースが日本であったとしても、驚くことではありません。カナダでも米国でも状況は似ています。
 ブルジョ 私がそこに見るのは、冷淡、計算ずく、感情の入る余地のない、費用効果をねらう意図です。保険会社や雇用者がよくやる“儲からない投資をしたくない”といった例もあります。これらは、カナダのケベック州でやっているような法律的手段(とくに「人権憲章」に基づいて採択された法律)によって、完全阻止とまではいかなくても、保険や雇用対象の差別化をある程度、防ぐことができます。
 池田 患者への「差別」や「利害」への執着は、医の倫理に反するばかりではなく、「人間の尊厳」を踏みにじる行為です。
 感情的な好ききらいを超えて、他人の「苦」を理解しようとする慈愛の心こそ「人権感覚」ではないでしょうか。
 先ごろカナダ・バンクーバーで、「国際エイズ会議」が開催されました。これには、わが国からも血友病でその治療薬が原因でHIVに感染した患者さんの代表が参加し、「薬害エイズ」の問題を訴えました。日本の血友病患者の死因の第一位はこの薬害によるエイズであり、血友病そのもので亡くなるのではなく、その病気の治療薬が原因で亡くなってしまうわけですから、問題は深刻です。
 カナダには「世界血友病連盟」の本部が置かれていると聞きますが、こうした問題にどのように対応すればよいのでしょうか。
 シマー 考えてみると、血友病や大手術をうける患者のように輸血や血液製剤を必要とする人たちは、献血者が感染していれば汚染されるリスクが高いわけです。しかも、性的行為や嗜好に基づく感染と比較すれば、こちらのほうはむしろ状況が把握しやすいので、このリスクに対しては早くからもっと効果的な予防方法で対応できていたはずです。
 しかしながら、HIVの存在を発見するために開発された血液検査によって、状況は根本的に変わりました。多くの国々で国民の健康について厳格な対策が講じられるようになったこともあり、このような汚染のリスクはこれからはほとんど皆無になるでしょう。しかしながら、このような血液検査が開発される前に、すなわち一九八五年以前に汚染された人たちは、たいへんな困難を経験しつつ生きることになります。
 池田 そうした苦しみは、二度と繰り返されてはなりません。
2  人権社会の確立に必要な「人間教育」
 池田 ところで、HIV感染者の「人権」を守る方法として、今、カナダでは、どのようなことが行われていますか。
 シマー 米国などでは、エイズ患者やHIV感染に関連する諸症状をもつ人たちを十分な技術と人道的なマナーで治療することを拒むことは非倫理的であると考えられています。カナダでは、性的嗜好に基づいた差別をすでに多くの州で禁止しています。ケベック州とオンタリオ州は、身体障がい者である
 と決めてその人を差別することを禁止する、人権擁護に基づく法律を成立させました。エイズ患者もこの身体障がい者のうちに入る確率が高いと思います。同様な趣旨で「ロイヤル・ソサエティー・オブ・カナダ」は、HIV感染の認知に基づく差別を禁じるべく、人権擁護の法律を修正することを提案しています。
 また、わがモントリオール大学はじめ多くの高等教育機関が、HIV感染者を含め、あらゆる弱者に対する「差別行為」を非難する政策を作成しています。
 池田 なるほど。貴大学のように医療政策の指導的立場にある機関が、「差別撤廃」に動くことは、一般の医療施設への影響も絶大だと思います。
 さらに、私は、政府や行政による公の取り組みとともに、社会において、差別や偏見のない「人間観」を確立することこそが、もっとも必要であると考えています。
 ブルジョ 今、会長が指摘されたように、エイズへの差別を防ぐには、一般市民への教育が不可欠です。
 たとえばHIV感染者を含む歌手や演奏家を招き、エイズについての正しい情報を広め、HIV感染者との連帯・共感を訴える、さまざまなイベントを行うことが、これまでの事例で、非常に効果がありました。
 ケベック州とカナダ全土で毎年、このような観点に立って大規模な集会が開かれ、人気を集めています。大都市で人気を集めている大行進、コンサート、イベント、政治家や医師あるいはエイズ問題についての関心を高めようとする男女による市民活動が展開されています。
 池田 日本では、無断でエイズ検査をされ、その結果が本人に通知されることもなく、就職や受験の選抜に利用されるという差別が起こっています。
 ブルジョ カナダでは、HIV感染発見のための具体的実施計画は制度化されていませんが、献血者に対しては、その血液をテストして結果を知らせることになっています。エイズに関する情報宣伝活動は、いくつかのグループ(集団)に的を絞り、自発的にテストを受けるように呼びかけています。一部の診療所、たとえばモントリオール中南部にある診療所では、きわめて大きな効果をあげています。しかし、特定の対象者を目標としたエイズ発見のためのプログラムを制度的に導入することは賢明なことではないとする考え方もあります。
 その理由としては、かなり多くの専門家も忠告している点ではありますが、そのようなプログラムを実施することで、かえってエイズに対する嫌悪と差別観を助長することになる可能性があるということ。また、対象にされることで逆に恐怖感をいだき、自発的にそのようなテストを受けるのをいやがり、その結果、エイズ発見プログラムや専門的なテストへの参加を避けたり拒否したりするようになることも考えられます。さらにまた、対象グループに属さない人たちの警戒心を弱める恐れもありえます。
 一般市民の健康を考えるうえでそのような結果は望ましいとは言えません。そうなった場合、疫病阻止のためのエイズ発見プログラムがたんなる宣伝の道具になってしまいます。
 池田 「集団検査」については、患者、感染者の人権が決して侵害されないという条件が前提になければならないでしょう。また検査の結果の「告知」や
 カウンセリング、その後の治療法についての「インフォームド・コンセント(知らされた上での同意)」を欠かすことはできませんね。
 ところで、「人権」と言えば、貴国のハンフリー博士を思い出します。
 ブルジョ 「世界人権宣言」の起草者ですね。
 池田 そうです。ハンフリー博士とは、一九九三年にお会いしたことがあります。
 博士は、「世界人権宣言」の起草者であるとともに、国連の「初代人権部長」として、二十年間にわたり活躍されました。
 博士は、人権社会を築くために大切なことは、制度的な強制力よりも、「教育」が大切だと言われていました。
 ブルジョ 「人権教育」ですね。
 池田 そのとおりです。世界的にも、今や制度的な人権保障に加えて、「人権教育」の重要性が叫ばれていますね。
 ハンフリー博士は、「人権蹂躙が“恥”であることを自覚させること」「教育によって、人権への世論を強め、人権を抑圧する者に“恥ずかしい”と思わせるようにもっていくことが大切です」と語っておられました。
 人権と言うと、むずかしく聞こえるかもしれませんが、しかし、その根本は、「人間の尊厳」を守る、すなわち「一人の人を大切にする」ということではないでしょうか。
 仏法では“恥”を「慙」といい、非をみずから反省することをさしています。また、その非を他者に対して恥じる心を、「愧」と言います。
 「慙」と「愧」――つまり、「差別」や「偏見」を、自分にも、他人にも恥じ、反省する心を養うことこそ、「人権教育」の要です。「慙」も「愧」ももたない人を「無慙」「無愧」と言います。
 ブルジョ 会長の言わんとしているところは、私も賛同いたします。私はさらに、その積極的な側面であり、未来志向的な観点である「責任」ということを付け加えたいと思います。これについては後で話題にしたいと思います。
 池田 エイズの問題についても、鋭い「人権感覚」を研ぎ澄まして、いわれなき「偏見」や「イメージ」と戦わなければなりません。「人間の尊厳」とは、病気や社会的差別に苦しむ人々と「同苦」し、ともに戦うことです。
3  一人の女性外科医の人道活動
 ブルジョ 「生命の尊厳」については後でふれたいと思いますが、会長のおっしゃった「同苦」し、ともに戦うということに関して、カナダの女性外科医ルシル・ティースデール博士のことを、ぜひ述べさせてください。
 彼女は、一九九七年、エイズで亡くなりました。彼女は、他の人々の生命を救うためにその生涯を、中央アフリカのウガンダに近代的な病院をつくることにささげました。
 ウガンダで起きた八〇年代の内戦で、彼女は多くの負傷兵を厳しい環境のなかで治療したのです。そのために、八五年、イギリスで定期検査を受けたさい、HIVに感染していることがわかりました。明らかに、負傷したウガンダ兵の治療中に感染したのです。
 自身がHIV感染者であることを知った彼女は敢然と勇気を奮い起こし、死ぬまで中央アフリカにおいて人道活動に努め、資金調達に奔走しました。彼女は、モントリオール大学で最初に学位を受けた女性の一人です。
 池田 貴大学の崇高なる“教育精神”のみごとな「開花」ですね。民衆への奉仕――それこそ、「人間の尊厳」を守る「人権闘争」です。
 生命を賭して人々を救った彼女の“殉教の精神”は、ウガンダの人々のみならず、人類の心に深く刻まれ、永遠に称賛されることでしょう。
 仏典には、勝鬘夫人という「人権擁護の誓願」を立てた女性が登場します。
 彼女は、釈尊の前で凛然と宣言しています。
 「私は孤独な人、不当に拘禁され自由を奪われている人、病気に悩む人、災難に苦しむ人、貧困の人を見たならば、決して見捨てません。必ず、その人々を安穏にし、豊かにしていきます」(「勝鬘経」大正十二巻)と。
 「苦悩」の人を決して見捨てない――無関心を装うのではなく、みずからの生命を賭してでも、その人を救おうとする実践を、仏法では菩薩道と呼びます。これが、エイズ患者や家族の方々に対する仏法者の姿勢でもあります。
 ブルジョ ティースデール博士は、HIVに感染したときでさえ、自分よりもはるかに困難な現実を生きている人々のこと、また彼女の援助と慈愛を必要としている何百、何千もの人々のことだけを考えていたのです。彼女は最期まで哀れみを受けることを拒否し、自己の使命に忠実な生き方を貫きました。
 池田 仏法の菩薩道にも通じる、崇高な人生です。ティースデール博士は、“使命に殉ずる”ことによって、「病苦」に勝利し、人生に勝利したと言えるのではないでしょうか。
 エイズの問題は、これまで宗教がもっていた倫理性や性への視点を大きく揺さぶる性質をもっていると思います。またそれは、エイズの問題やHIV感染者に対し、宗教は何をなすべきか、という宗教の“社会的使命”への深刻な問いかけでもあります。
 このようにエイズの問題はさまざまな側面をはらんでいますが、HIVの感染に、麻薬、道徳・倫理の衰退、家庭の崩壊、貧困等の、まさに現代文明のマイナス面が深くかかわっていることからすれば、宗教は、これらの問題に、積極的にかかわる役割を担うべきでしょう。とくに、道徳・倫理の衰退や麻薬等による“精神の荒廃”に真正面から取り組むべきだと考えます。
 ブルジョ ご指摘のとおりであると思います。カナダとケベック州ではキリスト教系の宗教、とくにローマカトリック教会がもっとも有力ですが、これらの宗教は広く行われている性的行為のあるものを厳しく非難しています。たとえば、同性愛、婚外交渉など、です。たしかにそのなかには、エイズの拡散を促進させるリスクにつながるものがないとは言えません。
 また、さまざまなグループが、時に宗教的関心や社会的問題意識から、あるいはまた倫理的な良心に導かれて、エイズ患者の援助に積極的に参加しています。収容センターが設けられたり、医療機関も利用されています。しかしそれでも、まだ十分とは言いきれませんが、今日、カナダとケベックでは連帯感と同情はもはや断片的なものではなく、宗派や信仰の差異および自分たちの習慣と他の人々の習慣といった垣根を超えたものとなっていることはたしかです。
4  5  6 クローン技術と生命観
6  「クローン人間」の技術的な可能性
 池田 さて、ここで、「クローン」の問題に入りたいと思います。
 シマー 「クローン」は将来、生命科学の重要な課題となるでしょう。
 池田 そこで、まずシマー博士におうかがいしたいのですが、「クローン」とはどういう意味でしょうか。
 シマー 「クローン」とは「挿し木」という意味で、同じ遺伝子をもつ個体の仲間をさす言葉です。このクローンをたくさんつくる、いわゆる「クローン技術」は、畜産・水産の分野、また植物・果物栽培の分野などでは、その有用性がよく知られているところです。
 池田 その技術が人間に応用されようとしているわけですが、人間への応用を含めて、クローン技術は、どこまで進んでいるのでしょうか。
 一九九七年二月、イギリスのウィルムット博士らが、成長した羊から取り出した細胞を使って、「クローン羊」を世界で初めてつくることに成功していたことが発表され、大きな話題となりました。
 シマー ウィルムット博士が発表した実験結果を見ますと、博士がとった手法で得られた胚が正常に成長する可能性は、きわめて少ないのです。「ドリー」と名づけられたクローン羊は成長しましたが、この雌羊が何歳まで生きられるか、現在のところ明らかではありません。
 ドリーは、最近出産したようですから、生殖能力があることはわかりましたが、その仔羊が正常に育つかどうかはこれからの問題です。
 しかし、純粋に科学的見地から言えば、やはりたいへんな事件です。この実験を行ったチームは、技術的には「クローン人間」をつくることができると言っています。
 池田 しかし、「クローン人間」が技術的に可能であるとしても、その必要性はあるのでしょうか。
 シマー 以前には、臓器移植で拒否反応が起きないように、自分の「クローン人間」をつくっておいて、ちょうどスペアタイヤのように、そこから新しい臓器を取ってきて、移植すればいいと言う主張もありました。
 池田 人間を手段視する恐ろしい考え方ですね。
 シマー そうです。これではまるで、ハクスリーの書いた『すばらしい新世界』になってしまいます。
 ハクスリーは、その書名とは反対に、この本のなかで、「クローン人間」を国家プロジェクトとして大量生産し、社会に一糸乱れぬ秩序をもつ「人間疎外」の地獄を描いたのです。
 池田 「自由」も「人権」もない悪夢の世界が想像されます。
7  人間は手段化を許されない存在
 シマー アメリカでもカナダでも、人間のクローンは禁止されています。
 ブルジョ 私も「クローン人間」に反対したクリントン大統領やユネスコの宣言に、大筋において賛同します。
 池田 ユネスコで採択された「ヒトゲノムと人権に関する世界宣言」(一九九七年十一月十一日)の「第十一条」では「ヒトのクローン個体作製のような人間の尊厳に反する行為は、許されてはならない」と禁止していますね。
 ブルジョ ユネスコの宣言は、科学者、法律家、政策担当者などの多くの人々が論じあった総意として発表されたことに、意義があります。
 池田 私も、仏法者として「人間の尊厳」を踏みにじる行為である「クローン人間」には反対です。
 仏法において「人間の尊厳」は、次の二つの観点から基礎づけられております。
 第一には、「縁起」の思想です。人間は他の人々と、相互に依存しあい、助けあいながら、生きていく存在です。したがって、他者を犠牲にして、自分の欲望を満たしてはならないのです。この観点からも、「クローン人間」の根底にある、自分のために人間を手段化する発想そのものに反対です。
 ブルジョ 私も会長の意見に深く同意します。西欧の伝統的倫理では、カントの定言命法のように、行っていい行為とは、どこでも、だれにでも、自分にも行っていいものに限られるのです。
 また、ユダヤ・キリスト教の伝統のなかに「自分がなされたくないものを、他の人に行ってはならない」という律法もあります。
 池田 みずからを顧みることによって他者を慈愛する発想は、仏法の黄金律でもありました。「己の欲せざるところを、人に施すことなかれ」(『論語』)とは、仏法を含めて東洋の普遍的倫理です。
 ブルジョ ひとたびどこかで人間の手段化が行われれば、あらゆるところで、すべての人間を手段化する危険性が生じてきます。
 池田 第二に仏法では、人間は、それ自身として尊厳であり、手段化を許さない存在であるととらえます。
 仏法では、すべての人間は「仏性」を内在するゆえに「尊厳」であると主張するのです。この「仏性」という無限の可能性は、その内発する自律性によって、多様な姿を現します。これを「自体顕照」と表現しております。
 「クローン人間」は、この人間の自律性と多様性を否定するゆえに、「人間の尊厳」に反するのです。
 ブルジョ その点でも、会長に賛成です。生物学的に言えば、人間は、生殖によって遺伝子が多様に組み合わされて、一人一人が、ユニークな存在となるのです。
 しかし、為政者や大国が、クローニング(クローン個体作製)を用いて、「望ましい人間像」を国民や他国に押しつけることもできます。「クローン人間」は多様な人間性に反します。
 もう一点、「クローン人間」に反対する理由をあげていいでしょうか。
 池田 どうぞ、続けてください。

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