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日蓮大聖人・池田大作

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3 ガン告知――医師と患者の絆  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

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2  そこで、告知のためには、次のことを考慮すべきではないかと思うのです。
 第一に、医療関係者や医師と患者の信頼関係が必要です。
 第二に、医療チームのケアがととのっていること。
 第三に、病気と闘う希望をもたせること。
 第四に、家族や友人の支えがあること。
 第五に、本人が血肉とする人生観、死生観をもっていること、または真剣に求めていること。
 一方、告知のデメリットについては、不用意に宣告すると、強い不安や抑うつをともない、場合によっては自殺するケースも見られることです。また、患者自身が意欲を消失し、治療の中止を余儀なくされ、衰弱することもありえましょう。さらに社会的活動を停止せざるをえなくなることもあります。
3  「希望」こそ病苦に挑戦する原動力
 シマー 患者に“情報を知る権利”があり、医師には“知らせる義務”があるとすれば、病気の性質と、それがどのくらい深刻なのかを伝えるコミュニケーションのしかたが重要になります。
 たとえば、ただ患者に診断結果を告げるだけでなく、家族や親しい人にも知らせることが大切です。
 池田 現実的なきわめて重要なアドバイスです。ガン告知の問題の焦点には、人間の最終章におそいかかる種々の「苦」、仏法でいう「死苦」を克服し、安穏なる境涯を開拓できるかどうかにあります。メリットがデメリットを大きく上回り、「苦」を除き「楽」に転ずることができるように努力すべきでしょう。患者ごとに病状や状況が違うので、あくまでケースバイケースで判断することが基本です。
 シマー もう一つ忘れてはならないことは、患者にどのような情報を伝えるにせよ、患者の年齢や教育、文化的背景に合わせたコミュニケーションを大切にすること。医学的専門用語の羅列ではなく(笑い)、平易な言葉で伝えることです。根拠のない恐怖心をいだいていないか、誤解はないか、などを確かめるためにも、患者と家族にみずからが理解していることを言ってもらうのもいいでしょう。
 池田 患者がよくわかるように話すことこそ、告知の核心です。
 仏典では、好ましい言葉のことを「愛語」と言います。ここでの愛とは、利他博愛の慈愛です。こんな問答があります。(「阿毘達磨集異門足論」)
 「何が愛語の態度であろうか」として「愛語とは、相手が喜ぶ言葉、味わいのある言葉、柔和な顔とやさしい目で話す言葉」であると。また、「ひんしゅくを買わない言葉」というのもあります。
 「愛語」でコミュニケーションをしてこそ、その内容が患者の心に素直に入っていくのではないでしょうか。
 シマー そのとおりですね。もう一言(笑い)、いいですか。
 池田 どうぞ、どうぞ。
 シマー 先ほど、会長が言われていましたが、医師と患者の間のコミュニケーションでは、あらゆる機会をとらえて、患者に希望をもたせるように心がけるべきです。患者が医師と治療の結果を信じ、苦しみを克服し、不安や苦痛に耐えていけるのは、ひとえに、この希望があるからです。
 池田 至言です。希望こそ、「病苦」をはじめとす
 る人生のさまざまな苦難に挑戦する原動力です。
 私が対談したアメリカ心理学会会長のセリグマン博士も、「希望」こそ、苦しみを乗り越え、楽観主義に生きる「キーワード」だと語っていました。
 また、実存心理学のフランクル博士は、『夜と霧』の中で、ナチスの強制収容所で、自分が生き延びたのは、身体が健康であったためではなく、ひたすら未来を信じ、希望をもち続けたからだと述べています。希望を捨てた人は、早く内的に崩壊し、死んでいったとも。希望は身体を強化し、寿命を延ばす力があると述べています。
 仏典(「倶舎論」)にも、「希望は身体を長養し、寿命を延ばす力がある」と述べられています。
 シマー まさにそのとおりです。
 池田 ガンのことを知らせるにしても、また、種々の検査や治療を行うにしても、やはり、医師や看護師などの医療関係者と患者、家族との間の強い絆が、ぜひ必要ですね。
4  “人間的な絆”の回復が急務
 シマー 現代医療において、問題なのは、医師と患者の間に「侵入者」が入ってきたことです。それは、機械や器具、ますますふえる検査です。
 現在、人々は病院へ行くと、医師の顔を見る前に、機械の顔を見る。(笑い)
 池田 そうかもしれません。(笑い)
 シマー 検査室で、血液検査やレントゲン、化学検査などを受けるのです。もちろん検査自体は、データが医師の診断のよりどころとなるのですから、重要です。しかし、検査だけでは、医師と患者を結ぶものを壊してしまうのです。
 池田 検査を受けることを考えて、病院から遠ざかる人も少なくないでしょうから。(笑い)
 シマー これらの「侵入者」は、間違いなく、つい昨日までは、治療不可能とされた患者を癒すことのできる“技術の発達”そのものでした。
 しかし、それは同時に、患者と医師とをつなぐ特別な絆を壊すおそれもあります。その絆が不確かになってきている今、ますます、“人間的要素”が大切になっているのです。
 池田 これは、じつに重要なご指摘です。医学が発達すればするほど、“より機械的に”なるのではなく、“より人間的に”なる努力が必要です。医学は、どこまでも“人間のため”なのですから……。
 シマー おっしゃるとおりです。
 たしかに、医師にも苦労があることは事実です。「新技術の導入に対応する」といった社会的圧力を受けながら生計をたてなければならない。
 しかし、だからと言って、患者との間の強い信頼関係を築く努力を怠ってもいいということにはなりません。機械や器具といった科学技術の“侵入”が、人間的な要素を排除することになってはいけません。
 その意味で、医学系の大学では、「医師と患者の関係をつちかう訓練」を強化するためにカリキュラムを全面的に見直さなければならないと思います。
 池田 ヒポクラテスは、示唆に富んだ医師のあるべき姿を示していますね。
 たとえば、「医師はある生き生きとした雰囲気といったものを身につける必要がある。しかつめらしい固さは、健康な人にも病人にも拒絶的な感じをあたえるからだ」と。
 たしかに、医師が冷たい感じで、もったいぶった
 堅苦しい雰囲気だと、会っただけで、緊張から調子の悪くなる人もいるかもしれません。(笑い)
 また、「椅子は医師と患者の高さが同じになるよう、できるだけ高さを等しくする」ようにとも指摘しています。苦悩の人を見下してはいけない。平等のまなざしをもつべきであるという意味ですね。
 シマー 医師と患者のつながりを再構築する必要があります。これは医師の全体が痛感していることです。
 池田 よく理解できます。“人間的な絆”の回復こそ急務です。
 釈尊も、ヒポクラテスと同じように、ヒューマニティーにあふれる医師の姿を要請しています。
 たとえば、「いつの場合でも慈悲の心をもって病人に接し、いやしくも利財をむさぼるごとき心をもってはならない」(「金光明最勝王経」大正十六巻)と。
 もう一点、仏法医学で興味深いのは、患者にも「知恵」を要請していることです。「精進して慧ある」(「摩訶僧祇律」大正二十二巻)ことが必要である、と。情報を努力して学び、みずから考え、知恵を発揮すべきであるということです。
 シマー 一般の人々に情報を与え啓蒙する努力について、深く考え続けるべきです。すべての国で、“知識のある人”と“知識のない人”、つまり、毎日のように発表される科学の発見を批判的に分析・評価できる人と、そうしたことを理解したり評価する知識をまったくもちあわせていない人との間のギャップが拡大しています。
 このため、人々は無知のゆえに医学の効用を無批判に受け入れるように追い込まれてしまう。あるいは、ある治療がみずからの健康に対して利益になる
 にもかかわらず、それを与えられない場合も出てきます。その結果、多くの人々が不徳なにせ医師の犠牲になってしまうのです。
 池田 貪欲な“にせもの”の犠牲になってはなりません。知識を吸収し、だまされない知恵が必要です。
 シマー 多くの人々が、科学と社会の問題に関して議論できる能力をもつことが、人間であり続けるために必要な要素です。
 池田 たしかに現代は、人間らしさが失われつつある時代です。カナダの詩人ルクレールは謳っています。
 「何かを奪わんとする手の多きなか、何かを与えんと差しのべらるる一つの手の、なんと美しきことよ!」と。
 現代には、“奪う手”があまりにも多い。しかし、このような時代こそ、他者のために尽くす“与える手”の美しさが輝くのではないでしょうか。
 この対談を通して、“与える手”――人生と健康についての情報を学びとって、医療を議論する能力をつちかっていきたい。そこにこそ、みずからの健康を築く「カギ」があると思うからです。

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